夕礼拝

愛の道を歩む

「愛の道を歩む」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書: 詩編 第25編1-11節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第12章31b-13章7節  
・ 讃美歌:18、536

 パウロは心配をしていました。パウロの伝道で生まれたコリント教会は、パウロがコリントの教会を去った後、教会の中に混乱が起き、分裂が起きてしまいました。互いに、互いを認め合うことができず、愛しあうことができない。教会はそのような事態に陥っていました。パウロは混乱したコリント教会を再び立ち上がらせるために、このコリントの信徒への手紙を送ったのでした。

今日与えられました13章は、この手紙でもっともパウロがコリントの人々に伝えたかったことが書かれています。それは、愛についてでした。コリントの人たちは、愛を見失しなっていたのです。そこでパウロは自分が受け、与えられた、その愛をコリントの人々に伝えようとしました。そこで、パウロは「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」といって愛を語り始めます。

13章1~3節「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」

1節に出てきます、異言とは、神様と話すことができる言葉です。しかしこの異言は、語っている本人以外は、誰が聞いても何を言っているかわからない言葉です。当時のコリント教会で、この異言も神様から与えられた賜物として、認められておりました。当時はこの異言は天使の語る言葉ともいわれていて、この異言を語る人は一つのすごい賜物を持っている人として認められていました。
2節の「預言」、これは神様から与えられた御言葉を、人々がわかるように伝える力のことです。教会の礼拝の中で語られる説教もまた、神様から与えられた言葉ですので、預言だといってもよいでしょう。「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じている」こと、これは、神様の御心を良く知っているということです。「山を動かすほどの完全な信仰」とは、山を動けと命じれば動かすことのできる、そのような奇跡を起こすほどの完全な信仰のことです。この信仰のことを、イエス様がマタイによる福音書17章20節でこのように語っておられます。
「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
わたしたちは実際、山を動かすことができるほどの信仰をもっていない。動かしたこともないし、そのような信仰を見たこともない。しかし、イエス様がそのようなからし種一粒ほどの信仰を、わたしたちが持った場合のことを話されています。「あなたがたにできないことはなにもない」とイエス様がおっしゃるように、そのような信仰を持てる可能性はわたしたちに開かれています。しかしパウロが語るようにそれは完全な信仰です。この山を動かすことのできる信仰は、わたしたちにとっては、とても高い、わたしたちが考えうる最高の信仰のことです。
そして3節「全財産を貧しい人のために捧げること」これは文字通り貧しい人に自分のすべてを与えて施すことです。ここではあの金持ちの青年の話が思い出されます。彼は、どんな律法もしっかり守っていて、神を愛し隣人を愛すという一番重要な掟のことも、知っていて、その掟を生まれた時から守っているとイエス様の前で自信満々でいうことができた。その彼が「完全なものになるためには」どうすればいいですかとイエス様に尋ね、イエス様が「では、持っているものを全部売って、貧しい人に分け与えなさい」とおっしゃると、青年は自分の財産をすてることができず、イエス様の前から立ち去ってしまいました。「全財産を貧しい人のために捧げること」、これは、この青年ができなかったほどの、すごい、信仰的な行いのことです。
「我が身を死に引き渡す」こと、これは殉教です。これも聖書が語っています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とヨハネによる福音書で語られているように、友のために自分の命を捨てるということは、誰もが出来ることではない、信仰による最大の愛の行いなのです。
この1~3節に書かれていることは、わたしたちにとって、いわば「理想の信仰」、「信仰の理想的姿」といえるでしょう。しかし、パウロはこれらの「信仰の理想像」または「理想的な信仰的な行い」に「愛がなければ」という条件を付け加えます。

「愛がなければ」神様からの賜物である「異言」も、やかましいドラやシンバルのように、ただうるさいだけだということであり、「愛がなければ」、「あらゆる神秘」や「あらゆる知識」、神様の御心、それを知っていて、また人に伝えることも、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、「愛がなければ」意味をなさない。そして、貧しい人のために施しても、殉教をしても「愛がなければ」、何の益にもならないのです。わたしたちが理想とする信仰、理想とする信仰的な行い、どれも愛が無ければ、意味が無いし、価値もないと聖書は語っています。
私たちの歩みの中で、3節の中で出てくる「誇ろうとして」という言葉がどうしても、わたしたちにつきまとってきます。何をいいたいかといいますと、「私たち、救いを受けた者」が、本当に求めるべきは、ただ愛を求める道を歩く、これだけであるということです。わたしたちは時に信心を深めたり、自分を磨いたりして、立派な信仰者になろうとすること、それが、救われた者の生活の目的だと思ってしまいます。信心を深め、自分を磨くこと、立派な信仰者になること、これは「愛すること」からではなく、むしろ「自分を誇ろうとする」心から起こっています。そうではなくて、愛を求め、その愛の道を歩む、その唯一のことが、それが、救われたものの生活であると、パウロはこの手紙を通して、読み手に訴えています。

13章4~7節「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

パウロは、4節で「愛」という言葉を語った直後、自分の中にある「愛」への思いが、まるで堰を切ったように、溢れ出しました。パウロは最初、世間一般の「愛」を語ろうとしたかもしれません。しかし、そうではなくて、「私が」どういう愛によっていかされたか、実際に、主イエス・キリストを通して、神様がこの自分をどれほど愛してくださったか。その「実感」が、この4~7節で溢れでたのだと思います。

4節のはじめに、「愛は忍耐強い、愛は情け深い」とパウロは語ります。パウロにはその実感があります。彼は元々キリスト者を迫害する人でした。ただ律法に従うだけであり、自分は正しいのだと思い、神様の御心に真っ向から反対していました。ですが神様は、パウロに対して、彼がキリスト者を迫害している最中も、その前からも、彼を赦しておられたのです。彼を「既に」赦しておられたのです。その間、長い間、ずーっと神様は忍耐をして、時を持っておられました。そして、最もふさわしい時に、御自分の御心を知らせ、主イエス・キリストと出会わせ、彼を主イエス・キリストを宣べ伝える伝道者になさいました。
ですから、パウロは真っ先に「愛は忍耐強い、愛は情け深い」という言葉が出てきたのです。
私たちもまた、パウロとは実際の道筋は違っていましたが、振りかえってみれば、同じ忍耐と情けの中で、導かれてきました。神様に背くことしか知らずに生きてきた私たちを、神様は、その現実をすべてご存知の上で、そのまま受け入れてくださいました。そのために、愛する独り子主イエス・キリストに、わたしたちの罪のすべてを担わせて、犠牲にして、十字架にかけられました。神様の方から、御手を伸ばして頂き、赦していただきました。それは、私たちが自分の罪に気づいて、悔い改めようしたところに、与えられたのではないのです。神様に逆らう罪人という自覚が全くないときにも、神様は、一方的に主イエス・キリストを、私たちのために差し出されました。先にそういう手をうってくださっていて、その真実の前に私たちが立たせられたのです。そのために、神様は長い時間かけて、わたしたちが、立ち返る、最も良い時まで、忍耐して、情け深く、待っていてくださったのです。ですから、私たちも、愛を語るときには「忍耐強い、情け深い」と、言わざるを得ないでしょう。
続けて、パウロは、この神様の愛と、自身の至らぬ経験とを照らし合わせて語っています。「ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」。そう語っています。わたしたちといえば、ねたみ、自慢し、高ぶり、甘えによって礼儀を忘れ、自分の利益ばかり求めてしまい、いらだち、恨みを持ちます。これが、わたしたちの生まれた時からの姿です。この思いは、私たちに向けてくださった主イエス・キリストの愛に比べるとなんと、浅はかで、自分中心でしょうか。しかし、それでも、神様はそれとは正反対の意思で、私たちに向かってこられました。ですから「不義を喜ばす、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。私たちは、まさに、このような愛に、愛し抜かれているのです。救われたということは、本当に、愛されたということです。
私たちは、それなりに愛を持ち合わせていると思って生きて参りましたが、本当は、この愛に愛されるまでは、愛を知らなかったのです。

愛が与えられ、私たちの前に、最高の道である愛の道が敷かれました。しかし、私たちは何も知りませんでした。そのわたしたちが、神様に実際に愛されて、初めて、愛を知ったのです。愛を知った今、パウロが「世間一般の愛」を語れなくなったように、愛を表現する選択肢は一つになりました。言い換えるならば、愛を知った今、「他にこういう愛し方がある」などとは言えなくなったのです。愛の道は一本です。私たちが隣人を愛しながら生きる道は、神様がわたしたちを愛してくださって、歩まれたその道です。その愛の道を自分の足で歩いて、目の前にいる一人の隣人を愛そうとする。これがわたしたちの道なのです。
この道は、ただ好きな人と歩む道ではありません。なんなんだこの人は、と思う人と歩むことのほうが、実際は多いのです。そうすると、わたしたちは、その人を上から見て、何もかもわかったように、その人について評価し、結論を出し始めます。まさにコリントの人たちも同じような現状でした。
しかし私たちは、それとはまったく正反対の意思で、神様から愛されています。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と7節で既に語られています。
神様がこの私を愛してくださった故に、こんな自分ですら愛する者へと変えられている。同じように、隣にいる彼も、彼女も、神様が愛してくださっている。彼らはそのことをまだ知らなくても、神様はすでに彼らを愛しておられる。これを「信じること」、これが「すべてを信じること」です。そして「すべてを望む」とは、神様がその隣にいる彼を、彼女を、どのように導いてくださるだろうか、神様は彼に彼女に御心を実現なさることで、「一緒に歩む私にも」なにを見せてくださるのだろうかと期待すること。このような神の御業を待ち望むこと。これが「すべてを望む」ことです。そうすると、「すべてに忍び耐える」ことも、ただ苦しいことにひたすら耐えることとは違ってきます。共に歩む隣人と、神様はこれから先に一体なにを見せて、またなにを与えてくださるのだろうかと期待し、待ち望む、そのような、「喜び」の「忍耐」になるのです。この新しい忍耐によって、信じ、望み、隣人と一歩一歩共に歩むこと。それが、隣人を愛するということなのです。
わたしたちは、今日も、この愛に愛しぬかれて、この愛の道を歩みます。その愛の道を独りで歩きはしません。愛して下さるイエス様と、愛したい隣人とともに、歩みます。神様を信じ、喜びの忍耐を持って、愛の道を歩みます。その道の先に何があるのか、その道の途上で神様はわたしたちにどんな恵みをみせてくださるかと思い巡らし、希望をもって、弛みなく、今週も前へ進みましょう。

祈ります

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