夕礼拝

神に栄光、地に平和

12月24日 夕礼拝
説教 「神に栄光、地に平和」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第85編9-14節
新約聖書 ルカによる福音書第2章8-20節

いと高きところには栄光、神にあれ
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、主の天使が救い主の誕生を告げると、突然、この天使に天の大軍が加わって、神をこのように賛美しました。羊飼いたちは真っ暗闇の中にいました。その暗闇が神の栄光によって照らされ、天の大軍の賛美が響き渡ったのです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは天のことです。天におられる神に栄光あれ、と賛美しているのです。天におられる神が栄光を受けるのは当り前と言えば当り前です。当り前でないのは、天におられる神が受ける栄光によって羊飼いたちが照らされていたことでしょう。神の栄光で照らされるとは神が現にそこにいてくださる、臨んでくださることですから、神は羊飼いたちに臨んでくださり、出会ってくださったのです。私たちは、今、12月24日のクリスマスイブに主イエスのご降誕を祝いつつ夕礼拝を守っています。神は羊飼いたちに臨んでくださったように、この礼拝にも臨んでくださっています。私たちのこの目には神の栄光がこの礼拝堂を照らし、私たちを照らしているのを見ることはできませんし、この耳では天の大軍の賛美を聞くこともできません。しかし確かに今、天におられる神はこの礼拝に臨んでくださり、神の栄光に照らされる中で、私たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天の大軍の賛美を聞いているのです。

地には平和
 神がおられる天と、私たち人間が生きている地との間には大きな隔たりがあります。それにもかかわらず主の天使が救い主の誕生を告げた夜、天におられる神が地に臨んでくださり、神の栄光によって地が照らされる中で、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美が響き渡りました。それは、救い主の誕生によって、神がおられる天と、私たちが生きている地との間にある大きな隔たりに橋が掛けられた、ということではないでしょうか。別の言い方をすれば、救い主の誕生において、天におられる神が、地に生きている私たちのところに来てくださったということです。天と地の大きな隔たりに橋が掛けられ、神が私たちのところに来てくださり、救い主が誕生することにおいて、天の大軍が賛美するように「地に平和」が実現したのです。
 しかしそのように言われても、私たちはこの地上のどこに平和が実現しているのだろうかと思わずにはいられません。とりわけ今、私たちは、平和とはほど遠いように思える世界の現実に直面して、そのように思わずにはいられないのです。すでに昨年、私たちはロシアとウクライナが戦争をする中でクリスマスを迎えました。一日も早くこの戦争が終結することを願いつつクリスマスを過ごしました。しかし残念ながら、今年のクリスマスを迎えてもなお戦争は続いていて、さらなる兵力増強の報道もあり、まったく終わりが見えません。さらに今年は、イスラエルとハマスの間にも激しい武力衝突が起こりました。イスラエルの攻撃によってガザ地区に暮らす多くの市民が命を失っています。先日、ガザ地区当局から、ガザ地区での死者が2万人に達したという発表がありました。ウクライナでもパレスチナでも、本当に多くの命が奪われ、街が破壊され、人々の生活が脅かされています。どちらも歴史的にも政治的にも複雑な背景があり、私たちは安易にどちらが悪いとか、これが原因だとか言えないと思います。ただ私たちは、ほぼリアルタイムで報道される悲惨な出来事を目の当たりにして、深い痛みと悲しみを覚えているのです。この地上のどこに平和があるのか、この地上のどこにも平和がないではないか、と思わずにはいられない、嘆かずにはいられないのです。
 しかしこの悲惨な出来事で溢れている地上にあって、悲しみ嘆いている私たちのただ中で、天の大軍は「地には平和」と歌います。いつかこの地上に平和が来るだろう、という願いや慰めを歌っているのではありません。確信を持って「地には平和」と歌っているのです。なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。それは、救い主がお生まれになったからです。この天の大軍の賛美に先んじて、主の天使は羊飼いたちに救い主の誕生を告げました。このことが8-12節に語られています。8-12節に目を向けることによって、救い主の誕生によって地に平和が実現した、となぜ確信を持って言えるのか、そのことを示されていきたいのです。

暗闇の中に生きる羊飼い
 冒頭8節に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」とあります。文字通り真っ暗闇の中で羊飼いたちは、夜通し羊の群れの番をしていました。直前の箇所では、時の皇帝アウグストゥスが全領土の住民に住民登録をするよう勅令を出したことが語られ、人々が皆、そのために慌ただしく自分の先祖の町へ旅をしたことが語られています。しかしそのような中にあっても、羊飼いたちはいつもと変わらず夜通し羊の群れの番をしていたのです。それは、羊飼いたちが住民登録の対象ではなかった、つまり帝国の住民としてカウントされない存在であったということだと思います。ですから暗闇の中で夜通し羊の群れの番をする羊飼いたちの姿は、社会の外に生きる、社会に自分の居場所を持たない者たちの姿なのです。しかし暗闇の中に生きる羊飼いたちの姿は、それだけを表しているのではありません。それ以上に、この羊飼いたちの姿は私たち罪人の姿を表しています。私たちが罪人であるとは、私たちが何か法律に反することをしたということではなく、私たちが神に背き、神に敵対して生きているということです。もしかしたら羊飼いの姿に罪人の姿を見ることに違和感を覚えられる方もいらっしゃるかもしれません。その感覚もよく分かります。昨日、四年ぶりに行われた教会学校クリスマス祝会の中で、子どもたちによる降誕劇(ページェント)がありました。その降誕劇にはもちろん羊飼いたちが登場し、小学校低学年の子どもたちがほのぼのとした、可愛らしい羊飼いを演じました。そのようなほのぼのとした、可愛らしい羊飼いというイメージがあるので、私たちは羊飼いの姿に、神に背き、神に敵対して生きている罪人の姿を見ることに違和感を覚えるのではないかと思うのです。

大きな恐れ
 しかし9節でこのように言われているのを見過ごすことはできません。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。主の天使が近づいて、主の栄光が周りを照らしたとき、羊飼いたちは「非常に恐れた」のです。「非常に恐れた」は、直訳すれば、「大きな恐れを恐れる」となります。真っ暗だったのに急に明るくなったからびっくりして恐れたのではありません。そうではなくこの大きな恐れは、神の栄光に照らされることによって引き起こされたのです。最初にお話ししたように神の栄光に照らされるとは、神がそこに臨んでくださるということです。しかし羊飼いたちは神が自分たちに臨んでくださることを、神が自分たちに出会ってくださることを非常に恐れました。神の栄光に照らされ、神と出会うことによって、神に背き、神に敵対して生きている自分たちの罪が露わになり、神によって自分たちが滅ぼされてしまうからです。羊飼いたちはこのことを非常に恐れたのです。私たちはこの羊飼いたちの大きな恐れをしっかりと受けとめなくてはなりません。羊飼いたちの「大きな恐れ」を小さく見積もってしまうと、私たちは救い主の誕生の「大きな喜び」をも小さく見積もってしまうことになります。救い主の誕生によって「地に平和」が実現したことの意味も分からなくなってしまうのです。羊飼いと同じように、神の栄光に照らされ、神と出会うとき、私たちの罪がすべて露わになります。隠しておきたかった罪。忘れてしまった罪。それらのすべての罪が私たちに突きつけられ、私たちは自分の罪の重さに耐えることができないのです。私たちは神の御前に滅ぼされるしかない罪人です。神に背き、神に敵対して生きている私たちは、羊飼いと同じように罪の支配する暗闇に生きる者であり、神の栄光に照らされて「大きな恐れを恐れる」しかない者なのです。

大きな喜び
 そのような「大きな恐れ」を抱かずにはいられない羊飼いたちと私たちに、天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と告げます。この天使の言葉こそが、「大きな恐れ」から「大きな喜び」への大転換を告げる言葉です。神に滅ぼされるしかないという大きな恐れにとらわれていた罪人である私たちに、「恐れなくて良い」と、「あなたがたには恐れではなく大きな喜びが与えられる」と告げられているのです。この大きな喜びについて、天使はこのように告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことこそが、羊飼いたちのために、そして私たちのために救い主がお生まれになったことこそが、私たちに与えられている大きな喜びです。「今日ダビデの町で」と言われている「今日」とは、羊飼いたちにとっての「今日」であるだけでなく、私たちにとっての「今日」でもあります。救い主がお生まれになったのは、羊飼いたちやその時代に生きていた者たちのためだけではなく、今を生きている私たちのためでもあるのです。今を生きる私たちのために救い主がお生まれになった。このことがクリスマスに私たちに与えられている本当の喜びであり、まことに大きな喜びなのです。

私たちを罪から救う救い主
 私たちの救い主としてお生まれになった主イエスは、何から私たちを救ってくださるのでしょうか。それは、罪からです。お生まれになった主イエスは私たちを罪から救ってくださるのです。私たちのために救い主が生まれてくださったとは、私たちを罪から救うために救い主が生まれてくださった、ということにほかなりません。しかし間違えてはならないのは、私たちが罪から救われるとは、神に背き、神に敵対している私たちの罪が見逃されるということでは決してない、ということです。神は私たちの罪を見逃したり、大目に見たりする方ではありません。私たちが罪から救われるとは、クリスマスにお生まれになった主イエスが、私たちの罪をすべて担って、私たちの代わりに裁かれてくださる、ということです。このことが主イエスの十字架の死において実現しました。布にくるまって飼い葉桶に寝かされ、私たちと同じ人となって地上の生涯を歩まれた主イエスが十字架で死んでくださることによって、私たちは罪から救われたのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉には、お生まれになった救い主が十字架で死なれることによって、その救いを私たちに与えてくださることが見つめられています。私たちは主イエスの誕生に、主イエスの十字架の死を見ないわけにはいかないのです。救い主イエスの誕生によって私たちに与えられる大きな喜びとは、その十字架の死によって私たちの救いが実現するという大きな喜びなのです。

本当の平和の実現
 救い主イエスの誕生によって地に平和が実現した、と確信を持って言えるのも、主イエスの十字架の死によって地に平和が実現したからです。天の大軍が告げる「平和」とは、争いや戦争がない状態のことではありません。主イエスがお生まれになったのは皇帝アウグストゥスの時代であり、ローマの平和(パックス・ロマーナ)と呼ばれる繁栄の時代でした。しかし主イエスの誕生によって実現したのは、ローマの平和とはまったく異なる本当の平和です。神に背き、神と敵対することによって神との関係を破壊し、神と共に生きられなくなっていた私たちが、神と共に生きられるようになるという本当の平和が実現したのです。主イエスが十字架で死んでくださることによって、壊れてしまっていた神と私たちの関係が回復されたからです。神がおられる天と、私たちが生きている地との間にある大きな隔たりに橋が掛けられたからです。天の大軍は、主イエスの誕生によって、この本当の平和が確かに実現したと歌っているのです。

御心に適う人
 「地には平和、御心に適う人にあれ」と天の大軍は歌います。「御心に適う人」とは、神を満足させることのできる人ということでは決してありません。善い行いを積み重ねて神を満足させることのできる人、清く、正しく、立派に生きることで神を満足させることのできる人ではないのです。そうではなく「御心に適う人」とは、主イエス・キリストを信じる人です。クリスマスにお生まれになった主イエスが、自分の救い主であると信じる人です。神に背いてばかりいる私たちを救うために御子が人となって生まれてくださり、十字架で死んでくださったと信じる人なのです。確かに私たちは平和とはほど遠いように思える世界の現実に直面しています。この地上のどこに平和があるのか、この地上のどこにも平和がないではないか、と思わずにはいられません。嘆かずにはいられません。しかし主イエス・キリストを信じる私たちは、この地上のどこに平和が実現しているのだろうかと思える現実のただ中で、救い主の誕生によって、地に平和が実現したと信じて生きるのです。救い主の誕生によって、神と共に生きることができるという本当の平和が実現したと信じて生きるのです。共に読まれた旧約聖書詩編85編9-10節にはこのようにありました。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう」。主なる神は、主イエスの誕生において平和が実現した、と宣言されます。地に平和が実現し、神の栄光が地にとどまる、と宣言されるのです。主イエス・キリストを信じる私たちは、悲惨な出来事に覆われている世界にあって、この宣言を信じて生きていきます。救い主の誕生によって本当の平和が、まことに大きな喜びが私たちに与えられていると信じて生きていくのです。

賛美の溢れる生活へ
 神を賛美した天使たちが離れて天に去ると、羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。17節には「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあります。天使が羊飼いたちに知らせた救い主の誕生を、羊飼いたちは人々に知らせました。私たちのために救い主がお生まれになり、地に平和が実現したと人々に知らせたのです。20節ではこのように言われています。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。天の大軍が歌ったのと同じ賛美を、羊飼いたちは歌いつつ、自分たちの生活へと戻って行ったのではないでしょうか。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌って、神をあがめ、神を賛美しながら自分たちの生活へと戻って行ったのです。救い主がお生まれになる前と、お生まれになった後で、彼らの生活そのものが一変したわけではないでしょう。周囲から見れば、彼らはこれまでと何ら変わらない生活へと戻って行ったのです。夜通し羊の群れの番をする生活へ、帝国の住民として数えられない、社会の中に自分の居場所を持たない生活へと戻って行ったのです。けれども根本的なところで、彼らの生活は救い主がお生まれになる前とは決定的に変わりました。もはや恐れに覆われてはいません。自分たちのために救い主がお生まれになったというクリスマスの大きな喜びで満たされているからです。たとえ真っ暗な夜に、羊の群れの番をするとしても、彼らはもはや暗闇の中に生きる者ではありません。救い主によって罪を赦され、罪の支配する暗闇から救われているからです。たとえ社会の中に自分の居場所がなかったとしても、救い主によって与えられた、神と共に生きるという本当の居場所が、神に身を委ねて生きるという本当の居場所が与えられているからです。救い主の誕生によって、彼らの生活は、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美の溢れる生活へと変わったのです。
 この夕べ、私たちもこの世へと遣わされ、自分たちの生活へと戻って行きます。だからと言って、羊飼いがそうであったように、クリスマスの前と後で、私たちの生活そのものが劇的に変わるわけではありません。私たちはそれぞれ一人ひとり異なる重荷を、苦しみや悲しみや葛藤を抱えている自分の生活へと戻って行くのです。また、私たちが直面しているこの世界の悲惨な現実も一変するわけではありません。私たちは悲惨な出来事が溢れている世界へと遣わされていくのです。しかしそうであったとしても、私たちは遣わされた先で、自分たちの生活の中で、天使が私たちに知らせたことを人々に知らせていきます。私たちのために救い主イエス・キリストがお生まれになり、地に平和が実現したと人々に知らせていくのです。それは必ずしも、私たちがそのことを人々に言葉で伝えることを意味しません。むしろ苦しみや悲しみや葛藤を抱えている日々の生活の中にあって、主イエス・キリストの誕生によって与えられた本当の喜びに生きている私たちの姿が、人々にクリスマスの大きな喜びを伝えていくのです。平和とはほど遠いように思える世界にあって、私たちが本当の平和に生きることによって、つまり神と共に生きることによって、主イエス・キリストの誕生によって地に平和が実現したと伝えていくのです。神と共に生き、神を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛することを通して、私たち一人ひとりが本当の平和に生きるのです。この夕べ、主イエス・キリストがお生まれになった大きな恵みと喜びを与えられた私たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美に溢れて、それぞれ自分の生活へと遣わされていきます。恐れではなく喜びに満たされている生活に、罪の支配する暗闇から救われている生活に、神と共に生きるという本当の平和と本当の居場所が与えられている生活へと遣わされていくのです。

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