主日礼拝

恵みに値しない者だけれども

「恵みに値しない者だけれども」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:列王記下 第5章1-14節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第7章24-30節  
・ 讃美歌:8、122、432

 人々から身を隠すように  
 私たちは今礼拝において、マルコによる福音書を読みつつ主イエスのご生涯をたどっておりますが、この福音書を読んでいて気付かされることの一つは、主イエスが人々の前に姿を現して教えたり奇跡を行なわれたことが一方で語られていると同時に、人々から身を隠し、ご自分だけで、あるいは弟子たちとのみで行動しておられることもしばしば語られているということです。できるだけ多くの人々をいつも自分の元に集め、大群衆を引き連れて行動しようとする新興宗教の教祖のようなところは主イエスには全く見られません。主イエスは多くの人々に神の国の福音を宣べ伝えましたが、同時に大切にしておられたのは、ご自分と父なる神様との、そして弟子たちとの交わりを深めることだったのです。本日の箇所、第7章24節以下にも、主イエスが人々から身を隠すように、「ティルスの地方」に行かれたことが語られています。聖書の後ろの付録の地図の中の「新約時代のパレスチナ」というのを見ていただきますと、地中海沿岸を北にずっと上って行った所にティルスという町があります。ここはもうユダヤ人の国ではなくて異邦人の地です。主イエスはそこに伝道のために行かれたのではありません。24節に「だれにも知られたくないと思っておられたが」とあるように、ユダヤ人たちの目を避けて、ゆっくり弟子たちと語り合い、彼らとの交わりを深めるためにこの外国に暫く逃れたのです。しかしそう願っていたのに、「人々に気づかれてしまった」とあります。この頃には既に主イエスの評判がこのティルスの町にまで伝わっており、一人の女性が訪ねて来たのです。

 大胆に救いを求めた女  
 この女性は26節によれば「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあります。ユダヤ人ではなくてギリシア人、つまり異邦人です。「シリア・フェニキア」というのは、この地方の呼び方で、先程の地図にもこのあたりは「フェニキア」という地名であることが書かれていました。フェニキアという地名、民族名は高校の世界史の教科書に必ず出てきます。「アルファベット」を発明したのはこの人々であると言われています。そしてこのフェニキア人は航海術にも長けており、地中海を渡ってアフリカの北の岸、現在のチュニジアあたりに、カルタゴという植民地を築きました。このカルタゴは非常に栄えて、ローマ帝国が地中海世界への支配を確立していくに際して最大の敵となりました。ローマは三回に渡る「ポエニ戦争」と呼ばれる戦いに勝利してカルタゴを滅ぼし、地中海の覇権を握ったのです。その戦いにおけるカルタゴの有名な将軍がハンニバルです。このカルタゴはアフリカにおけるフェニキアだったわけですが、それと区別するために「シリア・フェニキア」という呼び方が生まれたようです。この女性はこのシリア・フェニキア地方のティルスに住むギリシア人だったのです。  彼女には「汚れた霊に取りつかれた幼い娘」がいました。汚れた霊によってどのような症状が出ていたのかは分かりませんが、この女性とその娘、そして家族全体が、このことによって大きな苦しみを負っていたことは確かです。おそらくこれまでにも、娘を救うためにありとあらゆる手を尽くしてきたのでしょう。しかし何の効果もなかった。そういう苦しみ悲しみをかかえていたからこそ彼女は、ユダヤ人たちの間で病気を癒し、悪霊を追い出しておられる力ある方であるイエスがこの町に来ていることを「すぐに聞きつけ」やって来たのです。そこに、彼女のかかえていた苦しみの大きさを見ることができます。  彼女は主イエスのもとに来るとその足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みました。これは随分大胆なことです。主イエスの足もとにひれ伏して願うことが大胆なのではなくて、異邦人である彼女が、ユダヤ人である主イエスにこのように救いを願うことがまことに大胆なことなのです。ユダヤ人と異邦人の間には、現在の私たちにはちょっと想像できないような深い隔たり、溝がありました。それは主にユダヤ人の側が、異邦人を汚れた者として付き合おうとしなかったためですが、そのことから両者の間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人である主イエスに救いを願うことは普通はあり得ないし、そもそも願ったとしても聞き入れられるはずはない、というのが常識だったのです。彼女はそのことをよく知りながら、それでも主イエスに救いを求めました。その大胆さが、彼女と娘の救いをもたらしたのです。私たちはこの話から先ず、この女性の大胆さを学びたいと思います。神様による救い、主イエス・キリストによる救いは、大胆にそれを求めていくところにこそ与えられるのです。私たちは今よりもっと大胆に、主イエスの救いを求めていくべきなのです。私たちの求め方はまだまだ大胆さが足りないのではないでしょうか。大胆に求めないから、与えられるものも十分でない、ということがあるのです。主イエスは、「求めなさい、そうすれば与えられる」とおっしゃいました。その教えを私たちに合わせて言い換えるならば、「もっと大胆に求めなさい、そうすればもっと大きな恵みが与えられる」となるのではないでしょうか。

 子供たちと小犬  
 この女性は大胆に主イエスの救いを求めました。しかしそれによって直ちに願った救いが与えられたのではありませんでした。主イエスは彼女にこうおっしゃったのです。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。これは、彼女の願いを拒む言葉です。「子供たち」というのは、主なる神様の民であるユダヤ人のことです。「小犬」というのは異邦人のことです。主イエスは、「私の救いは子供たちであるユダヤ人、イスラエルの民のためのものであって、お前たち小犬、つまり異邦人に与える分はない」とおっしゃったのです。随分ひどいことを言うものだと思います。主イエスともあろう方が、人間を小犬呼ばわりするなんて、とも思います。当時のユダヤ人たちの間では、異邦人を軽蔑して犬と呼ぶことが確かにありました。人を犬と呼ぶのは昔も今もひどい軽蔑、差別です。私たちの社会にも「犬畜生」などという言葉があって、人のことをそのように呼ぶのはまことにひどい人格否定、侮辱です。この女性は主イエスからそういう言葉をかけられたのです。そんなことを言われたら、「人を犬呼ばわりするとは何だ」と怒り、「もうあんたなんかには頼まない」と言って席を蹴って立ち去るのが普通ではないでしょうか。主イエスの救いをもっと大胆に求める者でありたいと先程申しましたが、大胆に求めた結果こんなことを言われるのでは目も当てられないではないか、という抗議の声も聞こえそうです。

 食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます  
 けれども当のこの女性はどうしたのでしょうか。憤然として主イエスのもとを去ったのでしょうか。そうではなかった。彼女はこう言ったのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。これは驚くべき言葉です。彼女は主イエスの、「お前は犬だ、犬にやるものはない」というお言葉をそのままに受け入れたのです。マタイによる福音書の第15章にこれと同じ話が語られていて、そこでは彼女の言葉は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」となっています。彼女は、「あなたのおっしゃる通り、私は犬です。あなたの恵みに値しない者です。でも、犬は犬として、恵みのおこぼれにあずかりたいのです」と言ったのです。  
 この言葉を私たちはどのように受け止めるべきなのでしょうか。「これでは余りにも卑屈過ぎる。彼女は自分の人間としての尊厳を否定してしまっている。いくら苦しみから救って欲しいとはいえ、こんな卑屈なことを言うべきではない」と考える人もいるでしょう。そういう思いの前提となっているのは、彼女も、そして自分も、犬なんかではない、ということです。犬というのは勿論ここでは生物学上のことではありません。先程も申しましたが、「恵みに値しない者」ということです。ですから「自分は犬なんかではない」と思うということは、自分は神様の恵みに値しない者ではないと思っているということです。彼女の言葉を卑屈な奴隷根性だと批判する人は、彼女も、そして自分自身も、神様の恵みに値しない者ではない、それ相応の価値を持っており尊重されるべき者だ、と思っているのです。それは裏返せば、もし自分が神の恵みに本当に値しない者であるならば、主イエスの言葉は差別でも人格の否定でもなくてまさに真実であり、それを認めた彼女の言葉も卑屈でも何でもない、事実を事実として認めただけだということです。さて、真実はいったいどちらなのでしょうか。私たちは、主イエスに犬呼ばわりされるいわれなどない、つまり神様も私たちのことをそれ相応の尊敬をもって扱い、尊重することを当然の権利として要求することができる者なのでしょうか。それとも、神様の恵みを当然の権利として要求することなどできない、恵みを受けるに値しない、そういう意味で犬と呼ばれるのも当然な者なのでしょうか。このことをどう考えているかによって、この箇所の読み方は全く変わってくるし、もっと大事なことは、神様と私たちの関係が決定的に変わって来るのです。たとえ神からであっても犬などと呼ばれることは受け入れられない、と思っているなら、私たちは自分が神の恵みを当然の権利として要求できる者だと思っているのです。それは言い換えれば、人間に恵みを与えることが神の義務だと思っているということです。「神が本当にいるなら、この世にどうしてこんな悲惨なことが起るのか」とか「苦しみの中で神に祈り求めても何も答えてくれないではないか」という思いはそこから生じてきます。自分たちに恵みを与え、守り、苦しみから救うことが神の義務であって、その義務をちゃんと果たすなら神を信じてやる、しかし神がその義務を果たさないならば、非難されるべきは神の方であって、そんな神は信じるに値しない、という思いが私たちの中にはあるのです。私たちは自分の力でどうにもならない苦しみに陥る時に神に救いを求めます。しかし救いを求めていながら、その私たちの中には、せっかく救いを求めているのだから神も自分を尊重してその願いを聞くべきだ、という思いが根深くあるのです。それは私たちのプライドから生じている思いです。私たちは、神様に救いを求めて行く中でも、自分のプライドを捨てることができず、それを傷つけられることには我慢ならないのです。

 ナアマンの話  
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記下の第5章には、アラム人の軍司令官ナアマンが、イスラエルの預言者エリシャのもとに、重い皮膚病を治してもらいに着たという話が語られています。エリシャは訪ねて来たナアマンに会うことなく、使いの者をやって「ヨルダン川に行って七回身を洗え。そうすれば治る」と言わせたのです。それを聞いたナアマンは怒ってこう言いました。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」。ナアマンは、プライドを傷付けられて怒っているのです。有名な将軍である自分が礼を尽くし、数々の贈り物を携えてやって来たのに、会うこともせず、そこらの川で身を洗えとは何だ、俺を馬鹿にしているのか、ということです。彼は自分が犬のように軽く扱われたと感じているのです。家来たちは彼をなだめてこのように言いました。「あの預言者がもっと大変なことを命じたとしたら、あなたはその通りになさったでしょう。それを思えは、川で七回身を洗うなんて、どうってことないではないですか。だからここは騙されたと思ってやってみたらいかがですか」。それでその通りにしてみたら、彼の病気はきれいに治ってしまったのです。「もっと大変なことを命じたとしたら」というのは、エリシャが彼のプライドを満足させるような大げさな治療法を示したなら、ということです。つまり人間は、苦しみからの救いを求める中ですら、なお自分のプライドに固執しようとするのです。しかしもしも彼がそのプライドにどこまでも固執したなら、癒しの機会は失われたのです。神様の救いにあずかるためには、プライドを捨てなければならないということをこのナアマンの話は教えているのです。

 恵みへの招きを聞き取る  
 このティルスの女性はそういうプライドに固執していません。「私のことを犬呼ばわりするなんて何よ」と怒るのでなく、「主よ、そうです。私は犬です。あなたの恵みをいただく資格のない者です」と認めているのです。私たちも、口ではよく、「私など神様の恵みに相応しくない罪人です」などと言います。しかしそう言っていながら、恵みが見えなくなるとつまずき、神様に文句を言います。それは、心の中では、「せっかく求めてやっているんだから、神が自分に恵みを与えるのは当然だ」と思っているからです。つまり私たちもやはりプライドの虜になっているのです。しかしこの女性はそうではありませんでした。自分が恵みに値しない、犬のような者であることを心から認めたのです。しかし彼女は、主イエスの恵みにあずかることを諦めてはいません。全く値しない者だけれども、それでも神様の恵みのおこぼれにあずかりたい、子供の食卓から落ちるパン屑を小犬が食べるように、全く相応しくない自分がなおあずかることができる恵みがあるはずだ、神様はそのことを許して下さるはずだ、と彼女は信じていたのです。  
 主イエスは「子供たちのパンを小犬にやるわけにはいかない」とおっしゃいました。それは表面的には彼女に恵みを与えることを拒む言葉です。しかし彼女は主イエスのお言葉の中に、なお恵みへの招きを見たのです。その手がかりとなったのは、主イエスが語られた「小犬」という言葉です。これは、ユダヤ人が異邦人を軽蔑して「犬」と呼ぶ言葉とは違っており、まさに「小犬」「小さい犬」という言葉です。それは「犬畜生」という意味で用いられるのではなくて、家のペットとしてかわいがられる小犬を思わせる言葉なのです。主イエスはそういう言葉をお使いになりました。彼女はそこに、恵みに値しない者にもなお注がれる恵みへの招きを見たのです。家に飼われている小犬は、主人からちゃんと餌をもらって養われるのです。子供のパン屑というのも、むしろその家の子供たちが、自分のパンの一部をかわいい小犬に投げてやる、ということでしょう。そのようにして、小犬もその家の家族の一員として恵みにあずかっていくのです。彼女はそのことを主イエスに訴えました。「家に飼われている小犬も子供たちのパン屑をいただいて養われるのです。そうでしょう、イエス様。そのように、恵みのおこぼれを私に与えて下さい」。大胆に恵みを求めるとはこういうことです。それは、自分には恵みを求める権利があるのだから、それを獲得するまで断固要求を貫徹する、などということではありません。そもそも、権利として要求するとしたらそれは恵みではありません。恵みは恵みとして与えられるものです。つまり自分はそれを要求できるような相応しさの全くない、恵みに値しない者だけれども、神様がそのような自分をただ憐れみによって恵みのはしに加えて下さる、そのことを信じてその恵みによりすがっていくところにこそ与えられるのが、神様の救いの恵みなのです。

 柔らかな心で  
主イエスは彼女のこの言葉を聞いて、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」とおっしゃいました。彼女が願った、娘の癒しの恵みを主イエスが与えて下さったのです。「それほど言うなら、よろしい」という所は以前の口語訳聖書では「その言葉でじゅうぶんである」となっていました。さらに昔の文語訳聖書では「なんぢ此の言によりて安んじ往け」でした。直訳すると「これらの言葉によって、行きなさい」となります。主イエスは、「あなたの語ったこの言葉に示されている信仰によって、あなたはこの先歩んでいくことができる」と言って下さったのです。彼女の言葉に示されている信仰、それは先ず第一に、自分は神様の恵みにあずかるのに全く相応しくない、恵みに値しない者だ、と認めるへりくだりです。しかも口先だけの、建前としてのへりくだりではなくて、主イエスが自分のことを「小犬」と呼んだことを受け入れる、心からのへりくだりです。つまり彼女は自分の一切のプライドを捨てて、主イエスの前に、恵みに値しない者としてひれ伏したのです。そのように主イエスの前に真実にへりくだった時に彼女は、表面的には自分を冷たく拒んでいるように見える主イエスのお言葉の背後に、恵みへの招きが隠されていることを感じ取ることができたのです。恵みに値しない者だけれども、なお恵みのはしくれにあずかることができる、主イエスはそれを拒んだりなさらない、と信じることができる柔らかな心を与えられたのです。別の言い方をすれば、自分のことを小犬と言った主イエスの言葉をユーモアをもって受け止めることができる心を与えられたのです。大胆に恵みを求めることは、このような柔らかな心によってこそできるのです。私たちはしばしば、苦しみ悲しみの中で自分のプライドに固執することによって、心の柔らかさを失ってしまいます。それが失われると、主イエスのお言葉を表面的にしか聞くことができなくなり、「小犬」という言葉に込められた恵みへの招きを聞き取る心のゆとり、ユーモアを失って、「自分を犬呼ばわりした、侮辱された」と怒り、つまずいていくようになるのです。そのように心が堅くなってしまうと私たちは、大胆に恵みを求めていくことができなくなり、自分の頑なな心の中に閉じこもっていってしまいます。そしてそのような頑なな心は、隣人に対しても堅く閉ざされていきます。ユーモアをもって人と接することができず、プライドばかり高くて、自分が少しでもないがしろにされたと思うと怒り、常に人を裁いてばかりいるような生き方がそこに生まれるのです。

 主イエスの十字架と復活によって  
 私たちは、このティルスの女性のような柔らかな心で神様の恵みを大胆に求めていきたいと思います。それは私たちが自分で心の持ちようを変えれば実現することではありません。私たちの頑な心が柔らかくなるのは、主イエス・キリストによって与えられている神様の恵みを本当に知ることによってです。神様の独り子であられる主イエスは、私たちのために人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。父なる神様が私たちのために独り子の命を犠牲にして、救いを与えて下さったのです。そして神様は主イエスを復活させて、私たちにも新しい命、永遠の命を約束して下さいました。主イエスの十字架と復活によって神様が、恵みに値しない罪人である私たちを招き、罪の赦しと新しい命を与えて下さるのです。復活して今も生きておられる主イエスとの出会いと交わりの中でこの恵みを示されることによってこそ、私たちの心は柔らかく耕されていくのです。  
 私たちはこれから聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかることによって、私たちのために肉を裂き、血を流して苦しみを受け、死んで下さった主イエス・キリストの恵みを信仰によって味わいます。恵みに値しない者である私たちが、主の恵みの食卓からこぼれ落ちるパン屑にあずかり、それによって養われていくのです。あのティルスの女性と共に、本当にへりくだった柔らかな心で、主イエスの恵みにあずかり、またそれを大胆に求めていきたいのです。

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