夕礼拝

主のご支配の確立のために

「主のご支配の確立のために」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第16章18節-17章20節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一第4章1-5節
・ 讃美歌:141、457

裁判の制度
 本日は、旧約聖書申命記第16章18節から17章の終りまでを読み、み言葉に聞きたいと思います。この箇所には、いろいろな教えがあまり脈絡なく並べられているように感じられます。小見出しを見てみても、16章18節からのところは「正しい裁判」、21節からのところは「正しい礼拝」、17章8節以下は「上告について」、14節以下は「王に関する規定」となっています。個々の教えには、例えば「賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである」のように、現在の政治家にも聞かせたいような言葉がありますし、他の神を拝む者がいたら石打ちの死刑にしなければならないという教えには、それは余りにも残酷ではないか、と疑問を感じたりもするわけですが、全体としてまとまりがあるようには思えないわけです。私も最初そう思っていましたが、しかしよく読んでみるとここには、次の18章にまで続く一つながりの流れがあることに気づかされます。それはこういうことです。
 16章18節以下の正しい裁判に関する教えですが、ここは正確に言うと18節にあるように「全ての町に裁判人と役人を置きなさい」という教えです。「役人」というのは、裁判人を補佐する裁判所の書記官のようなものでしょう。そういう人々がそれぞれの町に置かれることによって、イスラエルの民の中に正しい裁判が行われるようにすることがこの教えの目的なのです。その裁判人は「裁きを曲げず、偏り見ず」、正しい裁きをしなければならないと語られており、その中に先程の「賄賂を受け取ってはならない」という教えもあるのです。つまりこれは、イスラエルにおいて裁判の制度を適切に整えるための教えです。その続きとして17章8節以下には、それぞれの町の裁判人の下では裁き切れない難しい問題が生じた時に、それを持ち込み裁いてもらうために、「主が選ばれる場所」、それは具体的にはエルサレムですが、そこに「レビ人である祭司およびその時、任に就いている裁判人」が立てられるべきことが語られています。つまりより上位の裁判所を設置せよということです。申命記においてイスラエルの民はこれから約束の地に入って行こうとしているわけで、そこに定住した時には、このような裁判制度を整え、正しい裁きがなされるようにすることを主が命じておられるのです。

政治の制度
 17章14節以下の「王に関する規定」は、裁判制度と並んで今度は政治の制度をどのように整えるべきかを語っています。王は国を統治する者です。古代の国々においては、王によって国が統治されることが当たり前だったわけですが、イスラエルの民は、約束の地に入ってからも長い間、王を立てずに歩みました。それは、主なる神こそがイスラエルの王なのであって人間の王はいらない、という感覚が強かったからです。それこそが神の民イスラエルの本来のあり方だ、ということがここでも前提とされています。しかし周囲の国々との緊張関係が高まる中で、強力な指導者の下に国が統治されることを求める声が高まる、その時にはどのように王を立てるべきか、そして立てられた王はどのように民を治めるべきか、がここに語られているのです。このように16章18節以下には、イスラエルの民が約束の地において国を築いていくに際して、裁判の制度や政治の制度をどのように整えていくべきかが語られています。そのような関心が次の18章にも続いているのです。18章には、先ずレビ人である祭司のことが語られ、15節以下には預言者のことが語られていきます。ですから17章14節から18章にかけて、イスラエルの民の中に「王、祭司、預言者」という三つの指導的な務めを担う人々が立てられ、この人々の指導の下にイスラエルが神の民として整えられ、導かれていくべきことが教えられているのです。つまり16章18節から18章に至るところには、イスラエルの民において整えられるべき、裁判の制度、政治の制度、そして宗教的な制度についての教えが語られている、そういう流れがあるのです。

「律法の書」の構造
 申命記の中心部分は、12章から26章にかけての「律法の書」と呼ばれる部分であることを以前に申しました。12章1節に「これから述べる掟と法は、あなたの先祖の神、主があなたに与えて得させられる土地で、あなたたちが地上に生きている限り忠実に守るべきものである」とありました。これが「律法の書」の導入の言葉です。そして26章16節には「今日、あなたの神、主はあなたに、これらの掟と法を行うように命じられる。あなたは心を尽くし、魂を尽くして、それを忠実に守りなさい」とあります。これが締めくくりの言葉です。この導入と締めくくりの間の部分が「律法の書」であり、それが申命記の中心部分です。この「律法の書」は前半と後半に分けることができます。前半は、前回までに読んできた16章17節までです。そこには、礼拝について、神への献げ物について、祭りについてなど、信仰に関する掟、つまり神との関係についての掟が主に語られていました。後半は19章以下です。そこには、主に人と人との関係のこと、そこで起る様々な問題、殺人事件が起ったらとか、結婚の問題、家督相続の問題というようなことが語れています。この前半と後半の間、つまり神との関係についての掟と人間関係についての掟の間に16章18節から18章が置かれているのです。この中間の部分には、今見てきたように、イスラエルの社会にどのような制度が整えられ、どのような指導者が立てられるべきかが語られています。この部分が前半と後半の間にあることの意味は、主なる神の民であるイスラエルにおいて、人々が神との関係を正しく保ち、隣人との関係をも正しく保って生きるためには、そのように人々を指導し、導き、あるいは裁くための制度が必要だということです。裁判や政治の制度が整えられ、あるいは信仰に基づいて民を導く指導者が立てられることによってこそ、イスラエルは神との関係をも隣人との関係をも正しく保って、神の民として歩むことができるのです。その制度や指導者を主のみ心に従ってどのように立てるべきかが前半と後半の間に語られているのです。

新しい神の民においても
 このことは、イエス・キリストの救いによる新しい神の民として歩んでいる私たちキリスト教会にとっても大切な示唆を与えています。私たちが神の民として、信仰の共同体として歩む時に、そこには、その群れに相応しい制度が必要だということです。制度が整えられるとは、務めを担う者が立てられ、その人々による指導体制が築かれることです。それによって、神の民の群れである教会が、神との関係においても人間関係においても、整えられて歩むことができるのです。しかしそのように制度が整えられ、指導者が立てられることにおいては、よくよく気をつけなければならないことがあります。それはこんことが、主なる神のご支配ではなくて人間の支配をもたらすものとなってしまうということです。最初は神のご支配のために整えられたものが形骸化して人間の支配に変化していってしまう、ということも起ります。そのようなことにならないために、制度は主のみ心に従って整えられなければなりませんし、立てられた指導者たちは主のみ言葉に従ってその務めを果たさなければなりません。そういうことをこの箇所は教えているのです。

正しい裁判と正しい礼拝
 さて、16章18節以下の、裁判人についての箇所を詳しく見ていきます。裁判人の務めにおいて最も大事なことは、「裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない」ことです。裁きは公平に、えこひいきなしになされなければならないのです。賄賂を送ることができるのは豊かな者です。豊かな者、力のある者におもねる裁きがなされてはならないのです。それは当然のことではあるが、とても難しいことでもあります。裁きとは、起った出来事を解釈し、判断することです。解釈や判断にはどうしても人間の主観が入ります。それを出来るだけ排除して、公平に判断するために裁判人が立てられるわけですが、そのためには、その人が、富や社会的地位や政治的権力などによって左右されず、要するに自分にとって有利かどうかということに動かされずに判断が出来なければなりません。それが出来るためには、その人が真実に神を見上げ、神のまなざしの前で裁判人としての職務を行うことが必要です。神を見つめ、神を正しく畏れかしこむことによってこそ、人の顔色を伺ったり、この世の富や権力におもねったりすることから解放されるのです。つまり正しい裁きは、人間の正義感によって実現するのではなくて、神のみ前に立ち、神を真実に礼拝していることによってこそ実現していくのです。「正しい裁判」についての20節までの所に続く21節からには「正しい礼拝」について語られています。このつながりは、正しい礼拝こそが、正しい裁判を可能にする土台なのだということを示していると言えるでしょう。
 裁判についての教えと礼拝についての教えのつながりをさらに見つめたいと思います。21節から17章7節に至る礼拝についての教えには、主なる神以外の他の神々に仕え、礼拝する者がいたら死刑にしなければならない、と語られています。何も死刑にしなくても、と私たちは思います。今日私たちは信教の自由を基本とする社会を生きており、どの神を礼拝するかは個人の自由だ、ということを常識として持っているわけですが、神の民イスラエルにおいては、信仰は個人の自由ではありませんでした。イスラエルの民は、主なる神様との契約によって成り立っている民です。神が彼らをエジプトにおける奴隷の苦しみから救い出し、彼らと契約を結んでご自分の民として下さったのです。イスラエルはこの主なる神を信じ、従っていくことを約束した信仰者の群れなのです。その契約の民において、他の神々を拝むことは、2節の後半にあるように「主が悪と見なされることを行って、契約を破」ることです。そのことを放置しておくならば、イスラエルの民全体の、神との契約の関係が破壊され、民はその存在の根拠を失ってしまうのです。それは個人の問題ではなくて、民全体を危機に陥れることです。だから、その者は死刑に処せられなければならないのです。そしてその判決を下すのがあの「裁判人」です。イスラエルに裁判人が立てられるのは、いわゆる民事刑事の様々な事件を裁くためと言うよりも、より根本的には、イスラエルが主なる神と契約を結んだ神の民として、主なる神をこそ礼拝し、そのみ心に従って歩んでいくためなのです。
 その裁きについて、4節には「その知らせを受け、それを聞いたときには、よく調べなさい。もし、それが確かな事実であり、イスラエルの中でこうした、いとうべきことが行われたのであれば」と語られています。事実をよく調べて、真実に基づく裁きをすること、それが裁判人の責任です。先程の、「賄賂を受け取ってはならない」もそれと関係しています。賄賂によって真実を曲げてはならないのです。また6節には「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証言で死刑に処せられてはならない」とあります。この裁判が慎重に、正しく行われ、いわゆる冤罪に陥ることがないようにするために、判決は複数の証言に基づいて下されなければならないのです。裁判をこのように適切に行う責任が裁判人にはあるのです。また7節には「死刑の執行に当たっては、まず証人が手を下し、次に民が全員手を下す」とあります。これは、この裁判において証人となる者は、これだけの覚悟と責任をもって証言しなければならない、ということです。このように「正しい礼拝」についての教えは同時に「正しい裁判」についての教えでもあるのです。正しい礼拝がなされることによってこそ正しい裁判がなされるし、正しい裁判によって正しい礼拝が守られていくのです。

人間の弱さを弁えた裁判制度
 8節以下には、それぞれの町の裁判人の手に余るような事件を裁くための、上位の裁判人が立てられるべきことが教えられています。後に、控訴、上告といった制度が生まれる萌芽がここにあります。このような教えの根本にあるのは、人間は弱いものであり、その行う裁きには限界があり、誤りがあり得るということです。その誤りを避けあるいは正すために上級の裁判人が立てられるのです。そこには、人間の弱さ、限界を弁えた裁判制度が示されています。このような裁判制度を生み出したのはイスラエルの信仰です。主なる神の前で人間はとるに足りない被造物であるという謙遜な感覚、そのような弱い者が裁判人として民を裁く務めを与えられることへの畏れと、その務めを主のみ心に従って忠実に果たそうとする責任感が、このような制度の根底に流れているのです。

神の民の王のあり方
 それと同じ思いが、14節以下の王に関する教えにも現れています。イスラエルの周囲の国々は皆、王に統治されており、中央集権的な国の体制が整っているように見えるのです。そういう中でイスラエルの人々は、このままでは国をちゃんと守れない、安全保障上問題があると思い、「周囲のすべての国々と同様、わたしを治める王を立てよう」と言い出すのです。その時に、どのようにして王を立てるか、そこで先ず語られているのは、「あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい」ということです。人々が、自分たちの気に入った者を、つまり政治的、軍事的な手腕があり、人々の心を掴むことができ、強いリーダーシップをもって国を守ってくれそうな人を、人間の思いで選び出して王にしてはならないのです。王を立てることにおいても、イスラエルは、主のみ心に従い、主がお選びなる者をこそ立てなければならないのです。そして主に選ばれ立てられた王は、「馬を増やしてはならない、馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない」と言われています。馬を増やすとは、軍備を増強することです。軍事力を強めることによって安全保障ができると考えることです。そのように人間の力によって国を守り、平和を維持しようとすることがあってはならないのです。そのために「民をエジプトへ送り返すことがあってはならない」とも言われています。エジプトは、かつて彼らを奴隷として苦しめた国です。そのエジプトに頼り、その後ろ立てによって平和を維持し、他国の侵略から国を守ろうとする、神の民であるイスラエルの王は、そのような人間の工夫や策略によって民を導く者であってはならないのです。17節には「王は大勢の妻をめとって心を迷わしてはならない」とあります。これは、女性にうつつを抜かして政治を疎かにしてはならない、ということではありません。大勢の妻をめとるのは政略結婚のためです。いろいろな国の王女を妻にめとり、その国の王と親戚になることは即ちその国と同盟関係を結ぶということです。ですからこれも、同盟関係という知恵や策略によって国を守ろうとすることです。「銀や金を大量に蓄えてはならない」ともあります。これも、私腹を肥やしてはならないというよりも、経済的な豊かさによって国を安泰にしようとすることだと言えるでしょう。イスラエルの王として立てられる者は、人間の力、策略、富に依り頼んではならないのです。それでは王はどのように国と統治したらよいのか。それが18、19節です。「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」。主なる神がお与えになった律法を傍らに置いて、それを常に読み返し、忠実に守ること、それこそが、イスラエルの王がその務めを果たすためになすべきことです。王に求められているのは、政治的経済的軍事的な手腕ではなくて、主なる神への信頼であり、主の教えに従う信仰の姿勢です。彼はイスラエルの民が、どのような危機の時にも主への信頼と服従に生き続けるために民の信仰の先頭に立ち、その信仰によって民を治め、導かなければならないのです。王がそのように国を統治することによって、イスラエルに、まことの王である主なる神のご支配が確立するのです。そのことこそ、どんなに手腕のある王をいただくことよりもはるかに確かな、国の支えとなるのです。
 20節には「そうすれば王は同胞を見下して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれることなく、王もその子らもイスラエルの中に王位を長く保つことができる」とあります。神の民イスラエルにおける王は、同胞を見下して、上から目線で支配するような者であってはならないのです。イスラエルの真実の王は主なる神です。人間の王は、その神によって立てられ、民が主なる神を信じて従っていくように指導する務めを与えられているのです。王がそのように主なる神と人々との前に謙遜に歩むなら、その王位は主の祝福の内に長く保たれるのです。

主のご支配の確立のために
 本日の箇所にはこのように、裁判人や王が正しく立てられ、その務めが正しく行われることによって、イスラエルは主なる神の民として、神との関係をも人間関係をも正しく保って歩むことができる、ということが語られています。その「正しさ」とは一言で言えば、人間の支配ではなく主なる神のご支配のために、ということです。神の民における様々な制度やそこで立てられるいろいろな務めは全て、主なる神のご支配の確立を目指しています。主のご支配が確立することによってこそ、その民は本当に神の民として歩むことができるのです。

新しい契約の民である教会のあり方
 私たちはここに語られていること、特に王による政治のあり方についての教えを、日本の国の政治、特に安全保障のあり方に当てはめて考えがちです。確かにここには、本当に国を守り、平和を維持するために必要なことは何かを考えるための大事なヒントとなることが語られています。しかしこれらの教えは、国の政治のあり方を直接教えているのではありません。この箇所はむしろ、主イエス・キリストによって新しい神の民とされている教会のあり方を語っているものとして読むべきなのです。主のご支配が確立すべき神の契約の民とは教会なのです。教会がどのような制度を整え、またどのような指導者が立てられるべきか、を私たちはここから教えられるのです。本日は、コリントの信徒への手紙一の第4章1?5節を共に読まれる新約聖書の箇所として選びました。ここでパウロは自分たちを、キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者、と呼んでいます。パウロは、教会という新しい神の民の指導者、使徒として立てられた者です。そのパウロの務めは管理者としての務めなのです。管理者に要求されるのは忠実であることだと彼は言っています。預けられた恵みを、預けて下さった神のみ心に従って忠実に管理し、用いていくことが彼に与えられた使命なのです。彼は自分の人一倍優れた能力や、指導者としての力によって使徒としての務めを果たしたのではありません。忠実な管理者として、教会の主であるイエス・キリストに仕えていくことによって、教会にキリストのご支配が確立することを彼は目指したのです。私たちに求められているのもそのことです。教会においていろいろな務めに立てられている者は勿論のこと、全ての人が共に、主イエス・キリストこそが私たちの真実な王であられることを覚え、そのご支配が自分の上に、そしてこの群れに確立することを目指して、与えられた務め、持ち場で忠実に、ということは謙遜に自分の限界をわきまえつつ、しかも与えられている働きを精一杯力を尽くして行って行く誠実さをもって主に仕えていく、そのことによって私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が結んで下さった新しい契約にあずかる新しい神の民として歩むことが出来るのです。その新しい神の民がこの社会において地の塩としての働きをしていくことを通して、この国の政治においても、平和を造り出していくための本当に知恵ある道が見出されていくでしょう。

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