夕礼拝

闇に来た光

「闇に来た光」  伝道師 矢澤美佐子

・ 旧約聖書; 創世記、第1章 1節-3節
・ 新約聖書; マタイによる福音書 、第2章 1節-12節

 
この物語は、クリスマスになりますと教会学校や例えばミッションスクールなどでも、よくページェントがなされまして、子供たちにも語られ、子供たちも大好きな物語です。  指路教会でも、先日の教会学校クリスマスでは、子供たちが、これまで一生懸命練習してきた劇を披露してくれました。その中には、羊飼い達も出てきます。この羊飼いというのは、数を増やすことが出来ます。私が前にいた教会では、聞くところによると、今年は、羊飼いが人気で、羊より、羊飼いの方が多くいたようです。そんな風にして、羊飼い達というのは、何人でも大丈夫です。
ところが、今日の物語には、占星術師が出て参ります。この人達は長い間、口語訳では「博士」と言う言い方で慣れ親しんで来ていますが、この博士は、3人と決まっているんですね。「きちんと衣装を着て、堂々と胸を張って、捧げ物を高く持って歩きなさい」なんて言われて、役に当たった子は、晴れがましい思いで、緊張しながら演じています。  この3人の博士は、3人の賢者と言われたり、3人の王様と言われたりもしています。つまり、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの3大陸を代表して、白人、黒人、黄色人種だったと、そんな風に言われたりする事があります。更には、3人の博士達は、アラビアの人たちで、カスパーラ、メルヒオール、バルタザールと名前まで付いており、その人たちのお墓もきちんとあるとまで言われているようです。
 けれども、よく読んでみますと、3人であったとは実はどこにも記されていないのです。黄金、乳香、没薬の3種類の貴重な贈り物をささげた事から、3人になってしまったようです。一体、この人たちはどう言う人たちだったのか、色んな思いを、色んなイメージを膨らませる事が出来るような、不思議な物語、そういう風に言えるのではないかと思います。

 それから、果たして、この物語は本当の物語なんだろうか、と言う疑問もあります。星が博士たちを導くなんて、そんな星、聞いた事が無いと言うわけです。けれども、これは、歴史的事実に違いないという考えがありました。これは、794年に1度起こる天体の現象で、魚座の中に、木星と土星が重なり合って輝く時、最も明るく輝くと言うのです。しかも、きちんと計算しますと、紀元前7年に起こっていまして、イエス・キリストの御降誕、紀元前7年説というのがあるようです。
 しかも、土星というのは、イスラエルを表す星で、木星というのは、支配者を表す星と言われていまして、この2つが重なり合った時、ユダヤの王が誕生したんだと言われております。
 ですから、東方の博士達が、ベツレヘムにその星を見てやって来るという事があってもおかしくない、歴史的事実なんだと言う事になるわけです。
 いずれに致しましても、そんな風にいくら説明されても、やはり、これは謎に満ちています。一体この人達は誰だったんだろう。そういう風に思えてなりません。

 そこで旧約聖書を見ますと、こんな言葉が出て参ります。申命記ですが、「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。」(申18:10)  占いをする者などは、神の憎まれる者であるとされていました。ですから、本当のところは、この占星術師は、良いイメージで描かれていないはずなのです。人々から、憎むべき者、忌むべき者、呪われるべき者とされていた人達なのです。
 この占星術師達が住んでいた東方はおそらく、バビロンであったと言われていますが、東方で彼らは「博士」と呼ばれ、異邦の宗教の祭司であったようです。
 しかし、ユダヤ人にとって、占星術師とは、偶像礼拝者であり、異教徒の中でも憎むべき者だったのです。
 ところが、この人達が、当時のユダヤの王ヘロデ、また祭司長、律法学者達を差し置いて、異教徒の占い師が、主イエスを最初に礼拝したと言うのです。これは、本当に不思議な事と言わざるを得ません。神の救いから、最も遠くにいる人々が、最初に主イエスを礼拝した事が告げられているのです。救いの福音が広く異邦人に及ぶのです。
 この博士達は言います。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」
 さあ、この言葉をユダヤ人達は、どう聞いたでしょうか。ユダヤ人にとって、忌み嫌うべき占星術師が「私たちはその方の星を見たので、拝みに来ました」などと言い出したなら、きっと、この占星術師たちが言っている事は、本当なのだろうか。ただのまやかしでしかないのではないか、と疑心暗鬼が生じたはずです。
 そして、これから起ころうとする事に、ヘロデ王だけでなく、エルサレムの人々も皆、疑いながらも恐れと胸騒ぎで、不安を抱いたのです。そうしてみますと、この場面は晴れがましい明るいページェントの雰囲気とは、違ってきます。人々は不安を抱いたのです。

 主イエス・キリストがお生まれになった所は、ベツレヘムです。博士達は、しかし、まず最初に、ユダヤの都エルサレムを目指しています。ベツレヘムでなく、エルサレムを目指したのです。このエルサレムこそが、ユダヤ人の王としてお生まれになる方の誕生の地として相応しく思えたのです。
 彼らは、確かに星を見ました。占星術によって、星の意味を探り、今までにして来たように、今度の星も、自分達の能力によって見い出し、自分達の判断の結果、エルサレムのヘロデの所へ行ってしまったのです。
 彼らは、星を見失っていたのです。彼らは、神が示して下さった道筋に頼るのではなく、占星術で分かるのだと言って、エルサレムへ行ってしまうのです。ヘロデの所へ行ってしまうのです。
 しかし、彼らの予測は外れます。博士達は、ユダヤのベツレヘムがメシアの生まれる場所であると、旧約聖書、ミカ書を通して教えられます。
 「ユダの地、ベツレヘムよ。お前はユダの指導者達の中で、決して一番小さい者ではない」
 聖書は、エルサレムのヘロデの所ではない。ベツレヘムだと示しています。

 イエス・キリストは、神であります。イエス・キリストが人となって世に来て下さったというのは、神がなさっておられる救いの御業です。この神の御業を、占いなどで分かるはずがありません。
 では、何故、この占星術師達は、神の御子イエス・キリストの御降誕を知ったのでしょうか。
 それは、占星術が知らせたのではありません。神が知らせられたとしか言いようがありません。すなわち、真の救い主、イエス・キリストのお生まれになった場所に彼らが至る為には、神の御言葉がなければならなかったのです。
 「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さい者ではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである」神の御言葉によって示されたので、その事を知り、神によって示されたので、礼拝する。

 けれども、ここで、博士達は、取り返しのつかない事をしてしまうことにもなるのです。自分達の判断でエルサレムのヘロデの所へ行ってしまったのです。そこで、博士達は、新しくお生まれになる神の子ユダヤの王の事を、ヘロデに語ってしまうのです。当然、ヘロデの思いは逆撫でされます。博士達は、わざわざ、エルサレムに来て、ヘロデの心を逆撫でする様な事を言ってしまったのです。
 この後、ヘロデは不安のあまり「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺してしまいます。」
 聖書は、私たちの為に救い主がお生まれになった時は、夜であった、暗い夜であったと告げます。しかし、ここには、単に夜の暗さだけではない、人間の闇というものが深く閉じ込められています。
 この主イエスの誕生を廻って、様々な人間が登場して参ります。しかも、この人たちは皆、闇を背負っていると言わざるを得ません。主イエスの誕生物語を通して、人間の存在の底知れない闇を知らされるのです。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」
ヘロデは、この爆弾的な質問に不安を抱きます。そして、それと同時に、強烈な憎しみと敵意を抱きます。これが人間の罪、闇と言うものの姿です。
 このヘロデが抱いた不安は、私たちの中にも潜んでいる闇ではないでしょうか。ヘロデ自身、出来れば自分がメシアになりたかったでしょう。それに、権力の虜になったヘロデは、権力を守り通すために、人間を人間扱いしない、虐殺すると言う悲劇を引き起こしてしまうまでに、闇に捉えられてしまっていたのです。
 この闇は、祭司長、律法学者達にも及びます。神を畏れ、神の御旨に従い、神の御言葉を取り次ぐはずの者が、神の御心ではなく、時の権力者に利用されるままに、聖書を取り次ぐ者となってしまっているのです。これは、ほんとうに深い闇です。

 そして、東方の博士達もです。異教の闇の中にいたのです。異教の闇の中で、何とかして真の王を、何とかして真の救い主を、見出そうと、東方から長い旅をして来たのです。
 けれども、博士達は道を誤り、ヘロデの所へ行ってしまう。そして、その後、ヘロデによって幼児虐殺が起こってしまう。ヘロデ王、祭司長、律法学者、東方の博士達。彼らは一体何によって慰められるのでしょうか。何によって、真の命を確かに生きる事が出来るのでしょうか。
 人は誰しも闇というものを背負っています。そして、救い主を求めているのです。私たちの闇の只中に来て下さる救い主を求めているのです。
 私たちは、それぞれに私達を取り巻くこの世の闇の力の中で、どの様にして、主と出会う事が出来るのでしょうか。
 宗教改革者ジャンカルヴァンという人があります。16世紀の宗教改革の担い手の一人でありますが、この人が記しました、ジュネーブ教会信仰問答というのがあります。このジュネーブ教会信仰問答の一番最初は、「人生の主な目的は何ですか」と言う問いで始まります。それに対する答えは「神を知ることです」
 この目的という言葉は「おしまい」「終わり」と言う意味と同じ言葉が使われております。この人生の目的、人生が目指すべき、その終着点、これは何か。目的は何か。それは、神を知ること。しかも、神を礼拝し、神に栄光を帰する。そのような仕方で知る事だと言うのです。

 聖書は、イエス・キリストの到来を、まことの光、すべての人を照らす、まことの光として語ります。その光が世に来る。そして、「光は闇の中で輝いている」 これがクリスマスです。
 光が来る。この事を、聖書は一番最初にあります、創世記。ここには、天地創造の物語が記されているのですが、この天地創造の冒頭に、このような言葉で記されております。
 「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』こうして光があった」 
 ここには、神が天地を創造される物語を語りながら、同時に神の救いの物語を語っております。どの様にでしょうか。地は、私たちのこの世界は、混沌で、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。この私達の世界は、闇の世界である。そこに神は「光あれ」と言われて、この闇の支配の世界を、光の支配の世界に捉え移して下さる。この闇の支配の中に、光を投じて下さる。そういう救いを語っているのです。  私達は、この闇の中に、神によって投じられた光に出会うのです。私達の闇の為に、人となって世に来て下さった。主イエス・キリストと出会うのです。

 博士達がヘロデの所を出た時、見失っていた星が再び彼らの前に現れます。再び現れたその星は、博士達を幼子のいる所へと案内します。
「博士達は、その星を見て喜びにあふれます」
 ここで聖書は、この博士達の「喜び」を強調して語ります。この「喜び」は、聖書の元の意味では、「大きな喜びを大いに喜ぶ」という風に、非常に強い「喜び」なんだと語ります。他に無いくらいの強い強い喜びなんだと言うのです。
 実は、これはマタイ28章で、復活の朝、主イエス・キリストの墓に出かけて行った女達が、天使に会い、主イエス・キリストが甦られた事を知った、その時の「恐れながらも、喜びにあふれた」この喜びと同じ喜びなんです。マタイは、復活の主に出会った時の喜びをここに持って来ているのです。
 博士達は、何に出会ったのか?星を見失った彼らがもう一度空を見上げた時、何を見たのでしょうか。誰に礼拝をしたのでしょうか。
 それは、ちょうど、あの復活の知らせを受けた人たちが、本当に喜んで、弟子達に伝え、主イエス・キリストにまみえて、礼拝したように、この時、博士達は、私達の罪の為に死に、私達を贖い取って下さり、甦って下さる。その為にこの世に人となって来て下さった、主イエス・キリストと出会ったのです。自分達の罪を贖い、自分達をご自分のものとして、聖なる者として、再び立て、新しい命にあずからせて下さる。この御子イエス・キリストを博士達は、仰いだのです。
 博士達は、異邦人です。異教徒でした。ここで異教徒の神々に仕え、偶像を礼拝していた人が、真の神に出会い、そして、真の神を礼拝する。その喜びに捉えられたのです。  今、主イエス・キリストによって、もう一度、聖い新しい命へと生かされてゆく、新しい出発が始まったのです。「大きな喜びを大いに喜んだ」のです。

 博士達は、御子イエス・キリストを拝み終わると、もう占星術師ではありません。聖書は、こう記します。
「『ヘロデの所へ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分達の国へ帰って行った」
 博士達は、もう星を占ってではなく、夢で告げられた神の御言葉によって、自分達の国へ帰って行くのです。
この事実は、自分達は昔から神を知っていると思っている者達には、衝撃的な出来事です。自分こそ神を信じている、そう思っていた。しかし、そうではなく「神が」この方こそ、あなたが礼拝すべき方だ、と、その様にして、教えて下さるのでなければ私達は、イエス・キリストを知る事も、真の神を知る事も出来ないのです。
 そして、私達も、異邦人と同じように、偶像礼拝をしていた者だった。けれども、全くの恵みによって、ただ恵みによって、この主を礼拝するということが許された。ここに真のイスラエルがある。主イエス・キリストとの出会いを、大きな喜びを大いに喜ぶ事が出来るようにされた者達こそ、イスラエルなのです。
 確かに、この世では、闇はあります。しかし、神は「光あれ」と光を投じて下さった。この闇の中に、この世界の私達全ての者の為に、光は投じられたのです。
 この世では、人間の決断、人間の思惑、計画、全てが打ち破られながら、しかし、そこにこそ、私達が願ってもない私達の為に備えられる確かな光を持って、神が私達に命を下さる。これが、御子イエス・キリストなのです。
 この光として世に来て下さったイエス・キリストを信じるなら、このイエス・キリストに信頼するなら、安心して、この地上の命を生きる事が出来る。この命を私達の光として世に与えて下さった。これがクリスマスです。
 そして、このクリスマスの物語に登場する、様々な人々、羊飼い達、博士達、ヨセフやマリア、イエス・キリストの御降誕を聞いて恐れたヘロデ。イエス・キリストがお生まれになったベツレヘム一帯の男の子をことごとく殺すという、ほんとうに残酷な、このヘロデも、全ての人々も、この神によって与えられた真の光、イエス・キリスト、この方によって、闇に追いかけられる事が無い、虚しくも、また儚くも無い、新しい命を生きる事が出来るのです。 そのために御子イエス・キリストは人となって、生まれて下さった。このクリスマスを、全ての人々と共に、感謝して祝って参りたいと思います。

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