主日礼拝

命の言葉を保って

「命の言葉を保って」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 96:1-13
・ 新約聖書; フィリピの信徒への手紙 2:12-18

 
新しい歌を

 今年は1月1日、元日を主の日として迎えました。一年の最初の日を、主の日の礼拝を守ることによって歩み出すことができるのは大変幸いなことだと思います。「一年の計は元旦にあり」などと言いますが、私たちは、この元旦に、礼拝において神様のみ前に出て、そのみ言葉をいただくことによって、自分の計画ではなく、神様のご計画の中で新しい年を歩み出すのです。本日は旧約聖書の箇所として、詩編の第96編を選びました。「新しい歌を主に向かって歌え」と呼びかける詩です。新しい年を迎え、新たな思いで歩み出そうとする時に読まれるのに相応しい詩であると言えるでしょう。この詩は7~9節でこのように呼びかけます。「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ」。主なる神様のみ前に出てひれ伏し、栄光と力を主に帰して礼拝することへの呼びかけ、勧めです。そのことによってこそ、私たちは本当に新しい歌を歌うことができるのです。日付けが12月31日から1月1日になったからといって、何かが新しくなるわけではありません。私たち人間の営み、生活、またこの世界の有り様に目を向けているだけでは、私たちは本当に新しくなり、新しさに生きることはできないのです。主のみ前にひれ伏す礼拝の場こそが、私たちが本当に新しくされ、新しい歌を歌うことができる場です。その新しい歌は、10節にあるように、主なる神様こそこの世界全体の王であられ、その王によって、世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない、ということを喜び歌う歌です。私たちは毎年新しい年を迎えるごとに、今年こそ平和な年になりますように、と願います。しかし現実には毎年、様々な災害や、戦い、争い、また事件や事故が起こり、私たちの人生は揺さぶられます。この世界は決して安泰ではない、私たちの人生もいつも平穏無事というわけにはいかない、ということを感じずにはおれないのです。しかしまことの王であられる主なる神様がこの世界を創り、支配しておられることを信じ、その神様をほめたたえる礼拝を生活の中心に置くことができる者は、様々な悲惨な出来事や人間の罪の現実にもかかわらず、この世界が固く据えられており、決して揺らぐことがないと確信することができるのです。それは単なる希望的観測ではありません。この世の現実に目を塞いで信仰の世界に逃げ込むことでもありません。最後の13節に語られていることが大切です。「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる」。主なる神様の王としてのご支配を信じるとは、このことを信じることです。主なる神様が、地を裁くために、この世界を正しく裁くために来られる、そのことを信じるがゆえに、世界は固く据えられ、揺らぐことがない、と歌うことができるのです。礼拝は、この主なる神様のみ前に出て、主が来られて正しい裁きをなさることを待ち望む希望を新たにする時です。それゆえに私たちは、この世の現実がどんなに暗く、様々な出来事によって人生が揺り動かされようとも、「世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない」という新しい歌を、私たちの経験や考えからは決して生まれて来ない喜びの歌を歌うことができるのです。主の日の礼拝において、神様からこの新しい歌を常に与えられながら、この新しい年、主の2006年を歩んでいきたいと思います。

主イエスのへりくだり

 ところで先週の主の日はクリスマスの礼拝を守りました。いつもですとその後に年末の主の日があり、それから新年になるのですが、今年は、クリスマスの次の週が元日です。これは、クリスマスの恵みの中で新しい年を迎える、ということが最もはっきり実感できる曜日の巡り合わせであると言えるでしょう。そこで本日の説教の箇所として、先週読んだフィリピの信徒への手紙第2章の続きのところを選びました。先週聞いたクリスマスのみ言葉を受けて、その流れの中で新しい年を迎えたいと思ったのです。先週のクリスマス礼拝において読んだ箇所と、本日の箇所とは密接に結びあっています。そのことは、冒頭の「だから」という言葉からも分かります。本日のところは、先週の箇所に語られていた教えを受けて、そこから生じる信仰生活の有り様を語っていくところなのです。先週のクリスマス礼拝において私たちが聞いたのは、主イエス・キリストが、まことの神であられるのに、徹底的にへりくだって人間となって下さった、それがクリスマスの出来事の意味だ、ということでした。主イエスは、父なる神様のみ心に従って、人間となっただけでなく、十字架の死に至るまで父のみ心に従順であられました。そのように徹底的な謙遜の道を歩み通された主イエスを、父なる神様は復活させ、天に高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです。私たちは今、天において父なる神の右の座に着いておられる栄光の主イエス・キリストを礼拝しています。その主イエスは、私たちのためにへりくだって人間となり、十字架にかかって死んで下さるまで、神様に従順に従われた方なのです。この主イエスのへりくだりと従順の歩みによって、私たちは罪を赦され、救いにあずかることができたのです。

信仰の従順

 本日の12節以下には、主イエスのこのへりくだりと従順による救いにあずかった者たちが当然歩むはずの信仰の姿が語られています。12節にはこのように教えられています。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。「従順であること」それこそが信仰者のあるべき姿です。主イエス・キリストが父なる神様に徹底的に従順であられたことによって救われた私たちは、主イエスの従順に倣い、神様のみ心に従順に歩むのです。しかもそこには、「わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら」とあります。フィリピの教会は、この手紙を書いたパウロの伝道によって生まれました。しかしパウロは今そこにはいません。しかもパウロは今、捕えられて獄中にいます。もしかしたらこのまま殺されてしまうかもしれないのです。そのことは、17節の言葉から伺えます。「わたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」とあります。それは殉教の死を意識した言葉でしょう。そのようにパウロは今、フィリピの教会から引き離されており、訪ねたくても訪ねることができない状態にあるのです。そのような中で、「わたしがいない今はなおさら」従順であれ、と教えているのです。それは、私が共にいない今こそ、あなたがたの信仰が本物かどうかが試される、ということです。信仰が本物である、それは、指導者であるパウロがいなくても、神様に従順であることができるということです。パウロという特定の指導者がいる、いないに左右されない信仰です。信仰に生きるとは、神様との交わりに生きることであり、神様に従順であることです。信仰の指導者、伝道者の務めとは、神様との交わりに生きること、神様に従順であることを教えることなのであって、自分の弟子や子分を作ることではありません。ですから、伝道者の働きが成功であったか失敗であったかは、その人がその教会を去った後で、その人の指導を受けた人々が、神様に対してなおさら従順であることができるかどうかによって分かるのです。フィリピの教会の人々が、パウロのいない今、なおさら信仰の従順に生きることができるならば、それによってパウロは、16節後半にあるように、「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」のです。しかしもしもフィリピの人々が、パウロの不在によって信仰の従順を失ってしまうならば、たとえ彼らがパウロを懐かしみ、「パウロ先生のおられた頃はよかった」と言っていたとしても、彼の働き、労苦は無駄であったことになるのです。

恐れおののきつつ

 さらにここでは、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と語られています。これこそが、神様のみ心に従順であろうとする者の姿です。「恐れおののきつつ」とはどういうことでしょうか。パウロはこの言葉をいつくかの箇所で用いています。コリントの信徒への手紙一の第2章3節にはこうあります。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。この「恐れと不安」が「恐れおののき」と同じ言葉です。パウロはコリントの町で伝道を始めた時、自らの弱さを覚え、ひどく不安だったのです。「恐れおののき」とは、そのように、自分の無力を思い知らされることです。また、コリントの信徒への手紙二の第7章15節にはこうあります。「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています」。パウロが遣わした使者テトスをコリント教会の人々は恐れおののいて歓迎し、その教えに従ったのです。「恐れおののき」はここでは、謙遜に教えを受ける姿勢を表しています。また、エフェソの信徒への手紙の第6章5節にはこうあります。「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」。ここでは「恐れおののき」は、主人に心から仕える姿勢を表しているのです。このように、「恐れおののき」は、パウロにおいて、自分の無力を思い知らされつつ、謙遜に教えを受け、心から仕える、という姿勢を意味しているのです。 しかもこれらの箇所はどれも、神様に対する信仰を土台としつつ、具体的には人間との関係におけるあり方を語っています。パウロはコリントの人々を前にして「恐れおののき」を覚えたのだし、コリント教会の人々はテトスを「恐れおののき」つつ歓迎したのだし、奴隷たちに、肉による主人に「恐れおののき」つつ仕えることが勧められているのです。本日の箇所で勧められている「恐れおののきつつ」も、これらの箇所と同じように、神様への信仰を前提としつつ、人に対するあり方を教えていると言えるでしょう。つまり、「恐れおののきつつ」というのは、人との交わりにおいて、自分の無力さを自覚し、人の言葉を謙遜に聞く姿勢を持ち、人に仕えていくことです。ですからそれは、先週の箇所の3節にあった、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」というのと同じことなのです。「恐れおののきつつ」とは、怖がってビクビクしているということではなくて、本当にへりくだり、自分の思いや主張に固執せず、むしろ人の言葉によって自分が変えられていく柔軟さを常に失わない、ということなのです。そしてそのような姿勢によって、「自分の救いを達成するように努めなさい」と語られています。私たちの救いは、恐れおののきによってこそ達成されるのです。何故なら私たちの救いは私たちが自分の力で獲得するものではなくて、神様から与えられるものだからです。私たちはへりくだって、従順になってそれを受けなければなりません。自分の思いや主張に固執することをやめて、み言葉を受け入れ、自分が変えられることを、恐れおののきつつ受け入れるのです。洗礼を受けるとはそういうことです。自分の思いに固執することをやめて、神様の前に謙遜、従順にならなければ洗礼を受ける決断などできません。そして神様の前に謙遜、従順になることは、人との交わりにおいてへりくだり、自分の思いや主張にあくまでも固執するのでなく、人の言葉を聞き、変えられていくことを受け入れることなしにはできないのです。神様に対して恐れおののきつつへりくだりに生きることと、人に対して謙遜に生きることとは、分ち難く結びついているのです。そしてそれらの全てが、主イエス・キリストにおける神様のへりくだりによって支えられています。神様の独り子が人間となり、この世に来て下さった、さらには私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、その徹底的なへりくだりと従順によって私たちは救いを与えられたのです。その救いにあずかって生きる私たちは、主イエスのへりくだりと従順に倣い、神様に対しても人に対しても、恐れおののきつつへりくだりと従順に生きるのです。

神のみ業によって

 13節には、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」とあります。主イエス・キリストのへりくだりに倣い、従順に、恐れおののきつつ救いの達成に努める、その信仰の歩みは、私たちの内に働いて下さる神様のみ業によって始まり、実現していくのです。私たちは、主イエスが示して下さった本当のへりくだり、従順を自分から望んだり求めたりはしません。そのように生きようという願いは私たちの内に自然に起ってくるものではないのです。私たちも、へりくだって謙遜に生きる者でありたいと思うことはあります。しかし私たちの謙遜は実にしばしば誇りの裏返しです。つまり、どこまでも自分の主張を押し通すわがままな姿は褒められた生き方ではない、謙遜な、へりくだった人の方がスマートで、人にも受け入れられ、むしろあの人は腰の低い立派な人だと褒められる、そういう計算は誰にでも働くのです。しかしそれは本当のへりくだりではなくて、むしろ裏返しの誇りです。自分の謙遜さを誇る、ということが私たちには実にしばしばあるのです。本当のへりくだりは、主イエス・キリストのへりくだりです。それは、神としての誉れや栄光を放棄して人間となり、罪人の罪を引き受けて十字架にかかって死んで下さるというへりくだりです。このようなへりくだりは、私たちがもともと持っているものでも、願っているものでもありません。神様の働きかけによって初めて、そのようなへりくだりに生きようという願いが与えられるのです。神様の働きかけはどこにあるのでしょうか。主イエス・キリストの徹底的なへりくだりのご生涯こそ、神様の働きかけです。ベツレヘムの馬小屋での誕生からゴルゴタの丘の十字架に至る主イエスの徹底的なへりくだりの歩みによって、神様は私たちに働きかけ、自らの誉れを求め、謙遜さえも誇りの手段にしてしまう本質的に傲慢な私たちの心に、主イエスのへりくだりに倣って生きようという新しい志を起して下さるのです。

神のエネルギーを受けて

 「あなたがたの内に働いて」の「働く」は、「力づける」という意味の言葉です。また、「行わせておられる」も、「力を与える」という言葉です。どちらも、「エネルギー」という言葉の元の言葉が用いられています。つまり、私たちの内に、神様のエネルギーが働くことによって、へりくだりに生きようという願いが起こされ、またそれを実現していくエネルギーも神様から与えられるのです。ですから何よりも大切なのは、神様からのエネルギーを受けることです。パウロがここで繰り返し、へりくだりに生きよ、従順であれ、と勧めているのは、自分の力でへりくだった心を持ち、従順な人間になれ、ということではありません。神様の働きかけ、力づけを真剣に求め、そのエネルギーを受けなさい、ということなのです。それは言い換えれば、神様のエネルギーに自分を開け渡しなさい、ということです。自分の力、自分が持っているエネルギーによって生きるのではなく、神様のエネルギーが自分の中で自由に力を発揮できるようにするのです。それが、「自分の救いを達成するように努める」ことです。救いは自分の力で獲得するものではない、と先ほども申しました。自分の力で救いを達成しようと思っている限り、私たちは、へりくだりに生きることはできません。自分の力で獲得する救いは、自分の誉れ、栄光なのです。救いは、私たちの力によって私たちの栄光として達成されるのではなく、神様の力が私たちの内に自由に働き、私たちの思いを支配して下さることによって、神様の栄光として達成されるのです。

不平や理屈を言わず

 神様のエネルギーに自分を開け渡すことによって、私たちは、14節にあるように、「何事も、不平や理屈を言わずに行う」者となります。へりくだりに生きるとは、不平や理屈を言わずに神様と人とに仕えることです。不平や理屈を言う時、私たちはお互いが自分の言い分を主張し、虚しい議論、言い争いの泥沼にはまりこむのです。それは、自分の力によって何かを達成しようとしているから、神様の栄光ではなく自分の栄光を求めているから起ることです。主イエス・キリストのへりくだりの歩みによって私たちに働きかけておられる神様のエネルギーは、私たちを、不平や理屈を言わずに互いに仕え合っていく者とするのです。15節には「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」とあります。主イエスのへりくだりと従順に倣い、恐れおののきつつ救いの達成に努め、神様のエネルギーによって不平や理屈を言わずに互いに仕え合っていくならば、私たちは、「とがめられることのない清い者」「非のうちどころのない神の子」となるのです。それは私たちが何の罪も汚れもない完全な人間になる、ということではありません。パウロがここで語ろうとしているのはそういうことではなくて、神様のエネルギーに自分を本当に開け渡すならば、私たちは「よこしまな曲がった時代の中で」「星のように輝く」者となるのだ、ということです。自分たちの間で、とがめられることがあるのではないか、どこかにまだ非のうちどころがあるのではないか、とお互いを見比べ合っていくのは無意味です。そんなことよりも、神様のエネルギーを受けて、その光を世に輝かすことが大事です。神様はそのことをこそ私たちに求めておられるのだし、また私たちが信仰を与えられたのは、その使命へと選ばれ、召され、遣わされたということなのです。

命の言葉をしっかり保って

 世にあって星のように輝く、それは16節では、「命の言葉をしっかり保つ」と言い換えられています。私たちが世の光となることができるのは、命の言葉をしっかり保つことによってです。命の言葉、それは神様のみ言葉です。み言葉は、クリスマスからゴルゴタに至る神様の独り子イエス・キリストの徹底的なへりくだりの歩みを語っています。そして父なる神様が主イエスを復活させ、天に高く引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったこと、私たちは今やこの栄光の主イエス・キリストを礼拝することができ、罪の赦しと復活の命の約束を与えられて、祝福の内に生きることができることを、命の言葉は語るのです。この命の言葉をしっかり保つことによって、私たちは神様の驚くべき光に照らされ、その光によって、私たちも世の光として輝くのです。ですから私たちが信仰の生活においてなすべきことは、神様からの命の言葉を、その光を、全身で、あますところなく受け止めることです。自分を神様に開け渡し、私たちを新しくして下さる神様のエネルギーをしっかり受けることです。自分の力で何かを達成するのだという思いが私たちの中で打ち砕かれ、神様が達成して下さる救いを受ける者となることです。そこに、本当のへりくだりに生きる歩みが与えられていきます。互いに相手を自分よりも優れた者と考え、不平や理屈を言わずに仕え合う、神の子らの交わり、主イエス・キリストのからだである教会がそこに生まれます。その一員として、私たちは世にあって星のように輝くのです。この新しい年、主の2006年の私たちの歩みがそのようなものとなることを心から望み、願います。私たちの内に働いて、このことを御心のままに望ませ、行わせて下さるのは神様です。神様が私たちの内に働いて、この願いを実現して下さることを信じて、希望をもって新しい年を歩み出すことができる私たちはなんと幸せなことでしょうか。

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