夕礼拝

神の僕

「神の僕」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 歴代誌上 第29章10-20節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第2章11-17節
・ 讃美歌 : 355、401

旅人である
キリスト教会の墓地にはしばしば「わたしたちの本国は天にあります。」とフィリピの信徒への手紙の第3章20節の御言葉が刻まれております。他の訳では「われらの国籍は天にあり」という言葉です。キリスト者は自分の国籍、いわば戸籍が天にあると信じているのです。本日与えられました新約聖書のペトロの手紙一の第二章11節には「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」とあります。この「旅人であり、仮住まいの身である」というのは、と同じことを言い表しています。キリスト者はこの地上では旅人であり、仮住まいである。旅人とは、そこを通り過ぎていく者であり、そこには永住しない者であります。だから住んでいても「仮住まい」なわけで、そこが故郷ではないのです。それは、この世の事柄に埋没しない、それを絶対視しない、それらが相対的であることを知っている、ということです。この世を通り過ぎていく旅人だからこそ、この世の事柄に束縛されない自由に生きることができるのです。主イエス・キリストの救いにあずかった者はそういう旅人、仮住まいの者とされているのです。キリスト者はこの世のものに支配されることなく、それにしがみつくこともなく、自由に生きるのです。そのようなキリスト者の集まりが教会です。教会は、神様の支配、つまり天の国、神様の国という本当の故郷に到着する希望をもってこの世を旅していく旅人の群れなのです。

肉の欲
ペトロの手紙一第2章11節~17節は、主イエス・キリストを信じる信仰者とそうではない者達との違いを語っております。つまり、この世を旅人として生きる人々と、この世を自分の故郷として生きる者の違いを語る中でキリスト者の生きる姿を示しております。旅人、仮住まいの者であるキリスト者が、この世、この社会でどのように生きていくのか、どのように振舞うべきかが示されており、勧められています。ペトロは11節で信仰者たちに「愛する者たち」と呼びかけ、勧めをしております。先ず勧めているのは、「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」また「異教徒の間で立派に生活をしなさい。」ということです。キリスト者はこの地上を旅する者、仮住まいの者です。ペトロはそのようなキリスト者に「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧めています。それは、異教徒の間で立派に生活をすることであると言うのです。キリスト者が目標として目指すべき「立派に生活すること」とは、「魂に戦いを挑む肉の欲」を避けることであると言うのです。この「肉の欲」を避けるということは、肉体の欲望を抑えて、禁欲的な生活を勧めているのではありません。のこの世における欲望を全て抑えて、欲望を捨てて、清い生活に励むということではないでしょう。この「肉」というのは、人間が持つあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の性質のことを指しています。すなわち、魂に戦いを挑む肉とは、人間の中にある罪そのものです。その罪によって人間は様々な欲望を持つのです。そのような罪の支配を避けることこそが「立派な生活をすること」であります。ですから、ここでの「立派な生活」という意味はこの世の生活の中で社会的な成功を治めるとか、経済的に裕福になるとか、健康である、ということではないのです。もちろんそれらは神様が与えて下さる恵みではありますが、そのようなこの世の事柄が満たされることが「立派な生活」ではないのです。むしろそのようなこの世の価値に支配されない自由を知っているのがキリスト者でありましょう。この世の中で生きている私たちには、魂に戦いを挑む肉の欲が次から次へと襲ってきます。そのような中で「魂に戦いを挑む肉の欲」を避け、「立派に生活する」のは大変なことです。欲望に負けることなく清い生活に励むことを目指すならこの世の生活から遠ざかって、自分たちと同じような考えを持つ人たちだけで閉鎖的な集団を形成する方が楽かもしれません。けれどもペトロは、そうではなくて、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と勧めています。それは、努力して自分の力で倫理的な、清い「立派な生活を行うこと」ではありません。主イエス・キリストによって旅人、仮住まいの者とされたキリスト者は、目に見える事柄やこの世における幸福よりももっと大事なことがあることを知っているのです。だから、この世の「肉の欲」を避けることができるのです。

自由である
 キリスト者がこの世でそのような証しをしていくならば「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」とあります。キリスト者がこの世において証の生活をするというのは本当に大変なことです。様々な場面で、社会で、職場で、家庭で難しい場面があるでしょう。自分の信仰がなかなか理解されない、愛するものに自分の大切にしていることを大切にしてもらえない、ということがあります。歴史を振り返っても、主なる神を信じるがゆえに厳しい状況を歩んだ信仰の先達たちは私たちの国にも沢山おりました。おそらく、この手紙の送り先であった人たち、教会もそのような迫害の中にいた人々です。時に「悪人」呼ばわりされるということが起こったのでしょう。当時の人々はキリスト者であると言うことだけで、随分人々に悪口を言われたり、悪人呼ばわりされていたのです。しかしそのような者たちも「あなた方の立派な行いを良く見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」と言っております。キリスト者を悪人呼ばわりする者、迫害をする者も、キリスト者の「立派な行い」を良く見て、訪れの日に神をあがめるようになるのです。それは、キリスト者が主イエス・キリストによって旅人、仮住まいの者とされていることを見るからです。この世の事柄から自由であるキリスト者の姿を見るからです。

訪れの日
この「訪れの日」というのには二つの意味があると言えます。一つにはその字の通り「訪れ」とは「訪問する」「訪ねる」という意味があります。神様が私たち人間を訪ねて下さるのです。その時に起こることは神様の裁きであります。神様の再度の訪問の時というのは、神様が再びこの世に来られる日、世の終わりの裁きの日、キリストが再び来られる日と考えることができます。もう一つの意味は、私たち一人一人がこの世における歩みの中で神様に訪ねられる時があるということです。キリスト者に対して迫害をし、悪人呼ばわりする者がいても、いつの日にか、その人たち一人一人に必ず神様が訪ねて下さる時が来るということです。それがいつなのかは私たちには分かりません。けれども、キリスト者の証しは決して無駄にはならないのです。神様がそれを見ていて下さるのです。神様がそのようにキリスト者一人ひとりを用いて下さっているのです。神様が私たちキリスト者を用いて下さることによって、迫害し、悪人呼ばわりしている人々をも、神様が訪ねて下さるのです。一人一人がその生活の中で神様に訪ねられる、そういう日が来るのです。この二つの意味のどちらが正しいということでもありません。いずれにせよ、この世を生きている私たち一人一人のところに神が訪ねて下さるのです。

勧め
13節からは、異教徒の間でのあるべき生活の姿を具体的に展開しております。13-17節まではこの世の政治的権威に対しての服従が求められております。このペトロの手紙は信仰者が、この世、この社会でどのように生きていくのか、どのように振舞うべきかを大変具体的に語っております。キリスト者はこの世では旅人であり、仮住まいの者たちです。しかし同時になお紛れなく、地上の国を生きているものであります。私たちは本日もこの礼拝堂を出て、それぞれの場所へと出て行きます。なお毎日、与えられている場所での働きをするのです。キリスト者の家庭の方もおられると思いますが、またキリスト教学校、キリスト教諸団体の方々もおられると思いますが、私たちの周辺、私たちの国はキリスト者の数がまことに少ない、そのような場所であります。違う信念や信仰を持っている人々との交わりやお付き合いの中に、私たちの日常生活があります。信仰者の中には熱狂的な人々も現われました。キリスト者は神様のご支配の中で生きているのだから、この世の秩序、法、市民生活のルールなどを重んじなくてよい、と思う人も出てきたのです。しかしペトロはそのような考えに対して言います。13節から、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。」王、あるいは王から遣わされた、政治的な支配者に対する態度が語られます。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と勧めます。主イエス・キリストが再び来られる時、神の国の到来する時まで、この世の市民生活を忠実に続ける事こそ、キリスト者の良き証し、立派な行いになるからです。このような証しができるのは、キリスト者はこの世界を造られた方は、イエス・キリストの父であるまことの神であり、この神が最終的にすべてを完全に治めて下さる、ということを確信しているからです。人間は神の国を造り出すことはできません。ユートピアの夢を抱くことはできますが、それを人間が造り出すことはできません。革命によって新しい社会を造り出すということは歴史において繰り返されております。時代が大きく変わり、社会が大きく変動することはあります。しかしそれで神の国が実現することはありません。「神の国」は神様が支配を確立することであります。人間の手で造られるのではありません。神様によって上から到来するものであります。その時は、父なる神のみが知り給うのです。その時までは、「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」とあります。この時代は、ローマ帝国の時代です、自分を神とし、礼拝をして敬うことを要求するような皇帝の支配の時代です、キリスト者の群れ、教会がそのような中に置かれた時代です。キリスト教会はそのような皇帝の支配に置かれた状況でした。主イエス・キリスト十字架の出来事を通して、キリスト者はこの世の事柄を絶対することない、旅人のような者となりました。旅人として、仮住まいの身として、この世の事柄に縛られないと確信しております。

自由な立場として
キリスト者が置かれている場所から、思いから自由にされるということでしょう。「自由な人として生活しなさい」「自由人にふさわしく生活しなさい」16節では「神の僕として」と語りかけるのです。僕というのは奴隷という意味であり、主人に支配され、繋がれているということです。キリスト者という旅人であり、仮住まいでありながらも、この世で生きる人々に対して、ペトロの手紙は「自由な人」と呼びかけるのです。この世に生きる私たちは依然として、地上の秩序や法の中を歩む者です。また限られた時間の中で、限られた肉体を持ち、仕事、生活、様々なしがらみに追われる者、奴隷のような者であります。それは神の国の支配に生きながら、なお地上の生きる者であるということです。けれども、ペトロは言うのです「神の僕」として行動しなさい。神様に従う者となりなさいと語ります。キリスト者はまことの支配者を知っているのです。私たちを本当に支配されている方、真の王を知っているのです。主イエス・キリストこそ私たちの支配者である。その方の支配に生きること、その方を信じるということです。キリスト者はただ、主イエス・キリストにのみ仕える者たち、イエスに捕えられ、それゆえに、他の何人にも対しても自由に振舞える、自由にされている人間であります。主イエスは私たちの解放者として来られた、政治的支配の抑圧から解放して下さると人々は期待していたでありましょう。しかし、主イエスはそれ以上にすべての、歴史の支配者として、真の神の僕として、この世界を救われる方として来られた。十字架と復活の出来事を通して、私たちを支配する真の支配者となれらました。

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