主日礼拝

へりくだる神

「へりくだる神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第9章1-6節
・ 新約聖書; フィリピの信徒への手紙、第2章1節-11節
 

へりくだる神

 主イエス・キリストが、ベツレヘムの馬小屋で、一人の赤ん坊としてこの世にお生まれになった、そのクリスマスの出来事は、マタイやルカの福音書に語られています。聖誕劇、ページェントの台本となるのはそれら福音書の記事であるわけですが、聖書の中にはそれ以外にも、この出来事の持つ深い意味を語っている箇所がいくつかあります。本日ご一緒に読む、フィリピの信徒への手紙第2章はその代表的な所です。6、7節にこうあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ」。これがクリスマスの出来事の深い意味なのです。イエス・キリストが人間としてこの世にお生まれになったのは、「自分を無にして、僕の身分になり」ということだった、次の8節の言葉を用いれば「へりくだって」人間になられたのだ、というのです。そのことは、キリストがもともと神であられたのに、ということを前提としています。神の身分であった方が自分を無にし、へりくだって僕の身分になられたのです。神と等しい者であられた方が、そのことに固執せず、人間と同じ者となられたのです。神であられる方が、人間となって地上に生まれて下さった、それがクリスマスの意味なのです。それゆえにそこには、神様のへりくだりがあります。私たち人間と同じ姿になるところまで、神様がへりくだって下さった、それがクリスマスの出来事なのです。

信仰のベクトル

 これは驚くべきことだと言わなければならないでしょう。私たち人間が神様のことを考える時には、普通、神様は高いところにおられる力ある方、人間やこの世界を超越し、支配しておられる方として思い描きます。そして人間はその神様を崇め、尊び、その神様に少しでも近付いていけるように努力していくのだ、と考えるのです。それが、世間の人々が普通に思っている宗教とか信仰というものです。信仰とは、神様を信じることによって、自分を高めていく努力をすることだ、という考え方はある意味私たちの常識となっているのではないでしょうか。その信仰においては、私たちは、下から上へと努力して昇っていくのです。自分を高めていくのです。信仰における基本的な矢印、ベクトルは、下から上へ向かっています。だから、信仰と、倫理や道徳の教えとの区別があいまいになるのです。倫理的、道徳的に立派な生活をしていくことが信仰であるかのような錯覚が生じるのです。けれども、聖書が教える神様は、高い所から人間を見下ろし、「お前たちがんばってここまで昇って来い」と言っている方ではありません。むしろ、自分を無にして僕の身分になり、へりくだって私たちの所にまで降りてきて下さる方です。聖書の信仰の基本的な矢印、ベクトルは、上から下へと向かっているのです。人間が神様の所へと昇っていくのではなくて、神様が人間のところまで降りてきて下さるのです。そのような神のへりくだりこそ、聖書の教える信仰の驚くべき特色なのです。

十字架の死に至るまで

 しかもこの神様のへりくだりは、人間となられただけではありません。8節には「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。神様のへりくだりは、人間としての死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでの、徹底的なへりくだりだったのです。十字架の死、それは、死刑になる、ということです。最悪の罪人として処刑されてしまうのです。十字架刑は、人類の歴史の中で最も残酷な処刑方法だと言われます。これはローマの死刑のやり方ですが、奴隷など、最も身分の低い者に対してのみこのやり方が用いられたのです。主イエス・キリストは、ご自身何の罪もない方であられるのに、そのような残酷な死刑に処せられたのです。捕まえられて不本意ながら処刑されてしまったのではありません。主イエスはむしろご自分から、十字架の死に至る道を歩まれたのです。それがご自分をこの世に遣わされた父なる神様のみ心だったからです。主イエスは父なる神様のみ心に忠実に従ったのです。「十字架の死に至るまで従順でした」とあるのはそのことです。神様の独り子であられ、ご自身何の罪も犯してはいない主イエスは、父なる神様のみ心に従って、人間の手で捕えられ、裁かれ、十字架の死刑に処せられてしまうところまで、徹底的なへりくだりに生きて下さったのです。クリスマスの出来事は神様のへりくだりの現れだと申しましたが、そのへりくだりはゴルゴタの丘の十字架へとまっすぐにつながっているのです。

倫理、道徳の限界

 イエス・キリストのこのへりくだりは何のためだったのでしょうか。それは他でもない、私たちのためです。私たちの救いのためです。そうしなければ私たちは救われないからです。私たちは、自分で自分を高め、神様に近付いていくことの出来ない者です。倫理や道徳の教えによって救いに至ることは出来ないのです。何故なら私たちはもともと、神様に背き逆らい、自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとする傾向を持っているからです。つまり私たちの心の矢印、ベクトルは、基本的に神様へと向かっておらず、自分自身の方に向いているのです。それが私たちの罪です。そして私たちは、自分でそのベクトルを、矢印を、神様の方に向け変えることができません。それができるくらいなら、この世界はとっくの昔に今よりよほどましになっていたでしょう。倫理、道徳の教えによって、争いや戦いのない、平和でみんなが喜んで生きることができる社会を築くことが出来ていたはずです。しかし現実は、倫理や道徳がいくら教えられても、それで世の中がよくなってはいかないのです。むしろ今日の社会では、伝統的な倫理や道徳がもはや通用しなくなってきています。私たちが自分で自分を高め、清くなっていく道は閉ざされている、いや、もはやその道を見いだすことすら出来なくなってきているのです。

罪の赦し

 そのような私たちを救うために神様は、全く別の方法をとって下さいました。それが、イエス・キリストにおける神様ご自身のへりくだりです。人間がご自分のもとに昇って来るように励ますのではなくて、神様ご自身が私たちのところに降りてきて下さったのです。そして私たちと同じ人間になるばかりでなく、私たちが神様に対して、また隣人に対して常に犯している罪の全てを引き受けて、私たちの身代わりとなって十字架の苦しみと死を受けて下さったのです。私たちの罪を赦し、神様の祝福の下に回復して下さるためです。主イエス・キリストにおける神様のこのへりくだりによって、私たちは救いを与えられたのです。

復活と昇天

 けれども本日の箇所には、主イエスにおける神様のへりくだりのみが語られていたのではありません。9節にはこのようにあるのです。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。自分を無にして、天から地上に降り、さらに十字架の死に至るまでへりくだられた主イエスを、神様は今度は高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです。それは主イエスの復活と、復活された主イエスが40日目に天に昇られ、今は全能の父なる神様の右に座っておられることを言っています。徹底的にへりくだられた主イエスを、父なる神様は天の高みに引き上げ、世界を支配する立場に着かせられたのです。そのこともまた、私たちの救いのためです。主イエスのへりくだりは、神様が罪人である私たちのところまで降りてきて下さり、私たちと共に歩んで下さり、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによる罪の赦しをもたらしました。けれども、もしもそれだけだったならば、それはまだ本当の救いとは言えないのです。何故ならばそれは、神様が、自分で自分を高め、救いを得ることのできない私たちに同情して、見捨てることなく共にいて下さるということに過ぎないからです。勿論そのことは、それだけで私たちの大きな慰めであり、喜びです。神様の独り子キリストがベツレヘムの馬小屋で、弱く貧しく誰にも相手にされないような姿で生まれて下さったことは、苦しみや悲しみの中にある私たちを慰め、支えてくれます。クリスマスはその意味で喜び、慰め、救いの時です。そしてその慰め、救いは、主イエスの十字架の死によって私たちの罪の赦しにまで深まり、広がっていくのです。しかしそれだけならば、神様が同情して下さり、罪は赦されたけれども、私たちは相変わらず罪と悲惨に満ちたこの世の現実の中におり、それに打ち勝つことはできないのです。神様の同情による慰めはあっても、新しく生きる力は得られないのです。

死の支配か命の支配か

 そのことを私たちが最もはっきりと思い知らされるのが、死の力に直面する時です。人間誰でもいつか必ず死ぬということはみんな知っています。しかしそのことはなるべく考えないようにして、人並みに天寿を全うする年まで生きて、もう思い残すことはない状態になって、気が付いたら死んでいた、ということになりたいと願っているのです。けれどもそううまくは行きません。人生まだまだこれから、あるいはいよいよこれから、と思っている時に、死が目前に迫ってくるようなことがあるのです。あるいは、たとえ百歳まで生きたとしても、「もう思い残すことはない」などという状態にはなかなかならない、というのも事実でしょう。死の恐れに直面する時、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスが共にいて下さるのは慰めであり支えです。しかしそうではあっても、それだけなら、やはり死の力が私たちを最終的に支配することに変わりはありません。人生の最後の支配者は死である、ということは動かし難い事実であり、信仰は、その事実をあきらめて受け入れるための慰めや支えを与えるものでしかない、ということになるのです。けれども、聖書はそれとは違うことを教えています。十字架の死に至るまでへりくだられた主イエスを、父なる神様は、復活させ、天に高く引き上げられたのです。それは、主イエスにおいて死の力が打ち破られたということです。神様の恵みの力が、死を滅ぼして新しい命を主イエスにお与えになったのです。そしてその主イエスが今や天に昇って父の右の座に着いておられる。それは、死の力の支配ではなく、神様の恵みによって与えられる新しい命こそが、この世界の、そして私たちの人生の、最終的な現実なのだ、ということを教え示しているのです。主イエスにおいて神様がへりくだって人間となり、しかも十字架の死に至る道を歩み通して下さったのは、この復活の命を私たちにも与えて下さるためです。つまり主イエスは私たちのところにまで降りてきて下さり、罪の赦しを与えて下さっただけではなく、言わば私たちを伴って天の高みに昇って下さるのです。主イエスにおいて、神様は私たちへの同情を示して下さっただけではなくて、私たちを支配している罪と死の現実を打ち破り、神様の恵みのご支配を確立して下さるのです。クリスマスに私たちは、神様の独り子イエス・キリストのへりくだりを覚えます。しかしそれと同時に、その徹底的なへりくだりを通して神様の恵みが罪と死の力を打ち滅ぼし、主イエスが天の栄光の座に着かれたことを覚えるのです。そこにこそ、クリスマスを祝う本当の意味があるのです。

洗礼を受ける

 主イエス・キリストを信じてその救いにあずかるとは、このへりくだりと栄光とに共にあずかることです。そのことを表しているのが洗礼です。洗礼を受けるとは、主イエス・キリストの十字架の死にあずかり、罪に支配された旧い自分が死ぬことです。洗礼において私たちは、クリスマスの出来事に始まる主イエスのへりくだりにあずかるのです。そしてそれと同時に、主イエス・キリストの復活にもあずかり、新しい自分に生まれ変わり、主イエスの復活の命によって生かされる者となるのです。主イエスが私たちを伴って天の高みにまで昇って下さると申しましたが、そのことは、洗礼を受けることにおいて私たちに起るのです。この礼拝で何人かの方々が洗礼をお受けになります。クリスマスが、主イエスのへりくだりと、それを通しての栄光の始まりであったように、洗礼を受けることも、主イエスのへりくだりと栄光にあずかることの始まりです。私たちは洗礼を受けて信仰者としてこの地上を歩みます。そこには、様々な苦しみ悲しみが、病いが、老いが、そして最後には肉体の死があります。それらのことを通して私たちは、主イエスの、十字架の死に至る徹底的なへりくだりの歩みに自らを重ね合わせていくのです。いやむしろ、主イエスが既に歩んで下さったへりくだりの道を、主イエスに支えられ、手を引かれて歩んでいくのです。しかし洗礼を受けた信仰者は、その道が、死の支配で終わってしまうのではないことを知っています。主イエスを復活させ、天に引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった父なる神様が、私たちにも、新しい命、復活の体を与え、天に引き上げて恵みの内に新しく生かして下さるのです。主イエスのへりくだりの歩みに自らを重ね合わせて歩むその道は、主イエスの栄光にあずかることにつながっているのです。洗礼を受けたクリスチャンは、そのことを信じて待ち望みつつ歩むことができるのです。

イエス・キリストは主である

 10、11節には、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあります。洗礼を受けて生きる信仰者の歩みは、このように、主イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と信仰を告白し、神様をほめたたえる、礼拝の歩みです。本日洗礼を受ける方々は、「イエス・キリストは主である」という信仰の告白に基づいて洗礼を授けられ、神様を礼拝しつつ生きる新しい人生を歩み出します。それは、主イエス・キリストのへりくだりにあずかり、そのことを通して天に上げられた主イエスの栄光にあずかっていく喜ばしい歩みです。その方々と共に、ここに集う全ての者が、今新たな思いで、イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と告白し、父である神をたたえる礼拝の生活を始めたいのです。クリスマスに独り子イエス・キリストを遣わして下さった神様は、このクリスマスに教会に初めて来られた方々をも含めて私たち全ての者を、神様を礼拝しつつ生きる幸いへと招いておられるのです。

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