夕礼拝

主はわが旗

「主はわが旗」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第17章8-15節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
・ 讃美歌 : 337、450

荒れ野の旅において
 通常私は第三主日に夕礼拝の説教を担当するのですが、今月は第三週である来週が特別伝道礼拝となりましたので、本日、旧約聖書出エジプト記を読み進めていきたいと思います。先月、第17章の1~7節を読みました。エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、神様の約束の地を目指して今荒れ野を旅しています。その荒れ野の旅において飲み水がなくなってしまった、というのが先月の箇所の話です。荒れ野において水がなくなるのは即生命の危機です。その危機において、神様がモーセに杖で岩を打つようにお命じになりました。するとその岩から水が出て、民は渇きから救われたのです。そのような神様による救いの奇跡が語られていたわけですが、その話の中心はむしろ、イスラエルの民がこの危機の中で、7節後半にあるように、「『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試した」ということでした。荒れ野の旅の苦しみ、危機の中で彼らは、「わたしは必ずあなたと共にいる」という主なる神様の約束を疑い、神様が遣わした指導者モーセに文句を言ったのです。このイスラエルの民の姿はそのまま、神様を信じて生きる私たち信仰者の姿と重なる、ということを先月お話ししました。神様の約束の地を目指して荒れ野を旅していくイスラエルの姿は、主イエス・キリストによる救いを信じて、世の終わりに約束されている救いの完成、神の国を目指して生きる私たちの姿そのままなのです。イスラエルの民は、乳と蜜の流れる地へとあなたがたを導く、という神様の約束を与えられていました。しかし現実に歩んでいるのは不毛の地である荒れ野でした。同じように私たちも、主イエス・キリストによる救いを示され、世の終わりにそれが完成するという約束を与えられていますが、日々生きているこの世の目に見える現実においては、それらのことは隠されていて、誰の目にも明らかではありません。主イエスによる救いも、父なる神様のご支配も、信じるしかない事柄なのです。そのような中で私たちも、人生における様々な苦しみ、危機に直面する時に、主の約束は真実だろうか、主が共にいて下さるとは本当だろうか、という疑いにしばしば陥るのです。 敵との戦いの試練  さて本日の8節以下には、イスラエルの民が荒れ野で体験したもう一つの危機、苦しみのことが語られています。それはアマレクとの戦いです。アマレクというのは、シナイ半島からアラビアにかけて活動していた一つの民族の名です。イスラエルにとってアマレクは、この後も常に脅かされ続けた敵でした。イスラエルの最初の王となったサウルも、その後を継いだダビデも、アマレクと戦いました。本日の箇所の最後の16節に「主は代々アマレクと戦われる」とあるのは、後の時代にまで至るイスラエルとアマレクとの敵対関係を反映しています。このアマレクが最初にイスラエルに襲いかかって来たのが本日の箇所なのです。このことは、飲み水がなくなってしまったという7節までと並ぶもう一つの重大な危機です。これもまた、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」という疑いを生じさせるような試練なのです。主なる神様はイスラエルの民がこの敵との戦いという試練に直面することをできるだけ遅らせようとして下さっていました。そのことは13章17節に語られていました。エジプトを出て約束の地カナンへと向かうのに、地中海に沿ったペリシテ街道を行くのが最も近道でしたが、「民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われた」ので、神様はわざと彼らを違う方向である荒れ野へと導かれたのです。長年奴隷として生きてきたイスラエルの民は、奴隷根性がしみついてしまっていて、勇敢に敵と戦って道を切り開いていくことができなくなっています。主はそういう民に荒れ野の苦しい旅を経験させ、それによって訓練して下さっているのです。天からのパンであるマナによって腹を満たし、岩から出た水によって乾きを癒されるという体験によって彼らは、神様に守られ支えられている民としての自覚を次第に深められていったのです。そのような主による準備、訓練を経て、いよいよ本日の箇所で、敵との戦いという試練と直面することになったのです。

丘の頂と麓
 この危機においてモーセはヨシュアに「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい」と命じました。つまり、アマレクを迎え撃つためにイスラエルの男子の中から精鋭部隊を選び出してその指揮をヨシュアに任せたのです。ヨシュアは後にモーセの後継者となってイスラエルの民を約束の地カナンへと導き入れる人です。そのヨシュアが最初に登場するのが本日の箇所です。ヨシュアはモーセの命令により、精鋭部隊を率いてアマレクとの戦いに出陣しました。しかしモーセがヨシュアに語ったのはそのことだけではありませんでした。9節の後半に、「明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ」とあります。そして10節にあるように、モーセはアロンとフルを連れて丘の頂に登ったのです。それは、イスラエルとアマレクとの戦いの様子を見下ろすことができる丘の頂、ということです。こうして、モーセらは丘の頂におり、彼らに見守られながらヨシュアに率いられた精鋭部隊が麓の平地でアマレクと戦う、という構図が出来上がりました。本日の話は、丘の頂と麓という二つの場面において展開していくのです。そしてこの二つの場面の間には密接な関係があったことが11節に語られています。つまり、丘の頂でモーセが手を上げている間は麓の戦いにおいてイスラエルが優勢となり、モーセが手を下ろすと反対にアマレクが優勢となったのです。戦いは一日続きました。モーセが次第に疲れて手を上げていられなくなったので、彼は腰を下し、アロンとフルが両側に立ってモーセの手を支え続けました。そのようにしてモーセが丘の頂で一日中手を上げ続けたために、ヨシュアに率いられた精鋭部隊はアマレクを打ち破ることができたのです。
 この出来事はいったい何を意味しているのでしょうか。第一に言えることは、イスラエルがアマレクとの戦いに勝利することができたのは、ヨシュアの指揮官としての能力によることでも、選ばれた精鋭部隊の強さによることでもない、ということです。この勝利は人間の力によるものではなくて、イスラエルの民と共にいて下さる主なる神様の力によるものだった、ということをこの話は示しています。この勝利はヨシュアが自分の手柄として誇ることができるようなものではないのです。しかしこの話の最も重要なポイントはむしろ、神様の力が、丘の頂にいるモーセの姿勢、その手の位置によって発揮されたりされなかったりして、それが麓における戦いの結果を左右した、ということにあります。このことを私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。教会は伝統的にこのモーセの姿を祈りの姿と理解してきました。両手を高く上げるというのは、イスラエルの人々の祈りの姿勢です。つまりモーセが丘の頂でしていたことは祈りだったのです。麓でのヨシュアたちの戦いのためのとりなしの祈りです。アロンとフルはこのモーセの祈りに加わり、それを支えたのです。このモーセらのとりなしの祈りによって、共にいて下さる神様の力がヨシュアたちに注がれ、それによって彼らはアマレクを打ち破ることができたのです。これこそが、本日の話が私たちに語っている最大のメッセージなのです。 丘の頂における祈りに支えられて  このことを念頭に置いて改めて読んでみると、この話は私たちにいろいろなことを語りかけていることが分かってきます。先ず、丘の頂での祈りと麓での戦いという二つの場面が設定されていることに注目したいと思います。それは、私たちが神様を信じてこの世を生きていく中で体験する二つの場面と重なります。麓での戦いというのは、私たちが置かれている日々の現実です。この世における日々の歩みを、主イエスを信じる信仰者として、その救いにあずかり、世の終わりの救いの完成を信じて生きていこうとする時、その歩みには様々な敵が現れ、戦いが生じます。私たちを信仰から引き離そうとする敵が襲いかかって来るのです。その敵の力は侮り難く大きくて、私たちは自分の力でその戦いに勝利することはできません。良くて一進一退、たいていは敗色濃厚になってしまうのです。しかし、信仰者である私たちは、麓での戦いの場面と共に、丘の頂の祈りの場面をも生きています。それは神様のみ前に出て礼拝をし、祈るという場面です。信仰者は、生活の中にそういう時と場所を持って生きているのです。そしてそのことが実は、私たちの麓での戦いの勝敗の鍵を握っているのです。丘の頂における礼拝、祈りにおいてこそ私たちは、共にいて下さる神様の力を受け、それによって麓での戦い、日々の具体的な歩みが支えられ、勝利へと導かれるのです。ですから私たちは、日々の具体的な生活、つまり麓での戦いの中で、丘の頂における祈りの時を大切にし、その時をしっかりと確保しなければなりません。丘の頂における祈りの時とは、具体的には主の日の礼拝であり、日々の生活の中での祈りの時です。私たちの生活の日々の具体的な戦いとは一見関係がないように思える主の日の礼拝や祈りが、実はその戦いの勝敗を握っているのです。

とりなしの祈りの交わり
 次に、丘の頂で祈るモーセとそれを支えるアロンとフル、そして麓で戦うヨシュアとその率いる精鋭部隊という二種類の人々が描かれていることに注目したいと思います。信仰を持って生きる時に、私たちは決して一人で生きるのではありません。信仰者は、教会という神の民の群れの一員として生きているのです。一人々々の日々の戦いも決して孤軍奮闘ではなくて、教会の群れ全体の戦いの中に置かれているのです。そしてその戦いには二種類の働きがあります。実際に体を動かして様々な活動をし、あるいは敵の攻撃の矢面に立って戦う働きと、その背後にあってそれらの活動や戦いのためにとりなしの祈りをする働きです。神様の民である教会はこの二種類の働きによってこそその力を発揮していくのです。そしてこれは、ある人には麓で戦う働きが、ある人には丘の頂で祈る働きが与えられている、という役割分担のようなことではありません。信仰者は常にこの二つの働きを両方担っているのです。私たちの日々の生活は常に信仰の戦いの戦場です。麓の戦いの場にいない信仰者などはいません。また、丘の頂における祈りの時と場所を持っていないならば、その人は信仰者とは言えません。私たちの信仰の生活とは、ある時は麓で実際に戦う者であり、またある時は丘の頂で祈る者でもある、という歩みなのです。そして私たちが知っておくべき何よりも大事なことは、自分の歩みの中にその両方の時があるというだけでなく、私たちが麓で戦っている時に、その戦いは、丘の頂で祈っている信仰の仲間たちのとりなしの祈りによって支えられているということです。そのとりなしの祈りによってこそ、私たちは麓での戦いを戦い抜くことができるのです。私たちが日々の生活において、信仰をもって生きていくための戦いを戦い続けることができるのは、また教会がこの世にあって主イエス・キリストを宣べ伝える伝道の働きをなし続けることができるのは、そのために祈っている仲間たちのとりなしによるのです。自分のために祈ってくれている人々がいる、そして自分も仲間たちのために祈っている、教会における交わりとはこのとりなしの祈りの交わりであり、それによって、丘の頂における祈りと麓での戦いとが響き合い、呼応し合っていくのです。そのような中でこそ私たちは、主が共にいて下さることを体験し、その主の力を受けて戦い続け、勝利することができるのです。

神の杖
 このように、丘の頂における祈りと、麓での戦いとが分ち難く結び合っていることが本日の箇所のメッセージの中心です。しかしさらに付随的にいくつかのことをここから読み取ることができると思います。9節でモーセは「明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ」と言っています。「神の杖を手に持って」に注目したいのです。この「神の杖」とは、モーセが持っていた杖ですが、それはこれまで様々な力を発揮してきました。4章には、この杖が、イスラエルの人々に、モーセが主なる神様から遣わされた者であることを信じさせるためのしるしとして用いられたことが語られていました。モーセがこの杖を地面に投げるとそれは蛇に変わり、彼がその尾をつかむと元の杖に戻ったのです。またこの杖は、イスラエルの民を去らせようとしないエジプトに対して神様が下された災いをもたらすために用いられました。また、ようやくエジプトを脱出したイスラエルの民が、前には海、後ろからは心変わりしたエジプト王が派遣した戦車部隊が迫るという絶対絶命の危機に陥った時、モーセがこの杖を海に向かって差し伸べると、海は二つに分かれ、水は壁のようにそそり立ち、イスラエルの民はその間の道を通って向こう岸へ渡ることができた、という奇跡においても用いられました。そして前回の箇所、17章前半においては、モーセがこの杖で岩を打つとそこから水が出て民は渇きから救われたのです。このようにこの杖はこれまで様々な重要な場面で奇跡を起すために用いられてきました。それゆえにそれは「神の杖」と呼ばれるようになったのです。モーセはその杖を手に持って丘の頂きに立つ、と言っています。このたびも、この杖によって不思議な奇跡が行われることが期待されるような言い方です。

祈りの手段
 しかし私たちはここで、この「神の杖」の持つ意味を正しく理解しなければなりません。この杖は、今見たように数々の奇跡において用いられてきました。しかしそれらのどの奇跡においても、モーセがそれをかざして呪文を唱えると奇跡が起った、というふうには語られていません。つまりモーセのこの杖は、いわゆる「魔法の杖」とは違います。ハリー・ポッターの杖とは根本的に違うのです。いずれの場面においても、奇跡をもたらしたのは杖そのものの力ではなくて、主なる神様ご自身の力です。神様が杖をこのようにせよ、とモーセにお命じになり、その通りにすると奇跡が起ったのです。ですからこの杖は、奇跡を起す力を持った杖ではなく、神様による奇跡のために用いられた杖であり、さらに言えば、モーセはその杖を神様のご命令に従って用いたことによって奇跡による恵みを与えられたのです。主なる神様のみ言葉の中で、その中でのみ、この杖は「神の杖」としての働きをしたのです。本日の箇所には、この杖をどうせよという主なる神様のご命令はありません。それゆえにモーセは、その杖を手に持って丘の頂に立ちますが、その杖を麓の戦場の上にかざしたとか、その杖でアマレクの陣営を打つしぐさをした、などということは語られていません。彼がしたのはそういうことではなくて「祈り」なのです。つまりモーセはここで、神の杖の奇跡的な力を用いてイスラエルを勝利へと導こうとしたのではなくて、主なる神様の支えと助けを祈り求めたのです。杖を手にしているのは、これまで神様が再三この杖を用いて奇跡を起こし、イスラエルの民を救って下さった、その恵みを思い起こし、その恵みを求めて祈るためです。つまりこの杖は主なる神様への祈りの手段として用いられているのです。主なる神様による救いの恵みは、魔法の杖によってではなく、このような祈りによってのみ与えられるのです。荒れ野のようなこの世を信仰を持って生きていく私たちは、様々な苦しみ、悲しみ、試練に直面し、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」という疑いに陥りそうになります。その時私たちは、丘の頂に立って、つまり神様のみ前に出て、祈る者でありたいのです。そこにおいてこそ、人間の力を超えた神様による支え、守り、導きが与えられていくのです。

支え合いつつ共に祈る
 もう一つ、アロンとフルがモーセの手を支えたということに注目したいと思います。両手を上げているのは祈りの姿勢だと申しました。モーセは麓で戦っている民のためのとりなしの祈りをささげていたのです。しかしずっと上げ続けていた彼の手は重くなった、と12節は語っています。つまりモーセ一人では、手を上げ続けていることができないのです。祈り続けることができないのです。だからその祈りの手を支える助け手が必要なのです。このことも、私たちがここから読み取るべき大事なメッセージだと思います。麓での戦いを支え、その勝敗を左右するとりなしの祈りは、モーセほどの人でも、一人ではできないのです。まして私たちが、信仰の仲間たちのために、あるいは家族、親しい人々、さらには社会や国の歩み、世界の平和などのためにとりなし祈りつつ歩もうとする時、それは一人で出来ることではありません。祈りにおいても私たちは、お互いに支え合っていく必要があるのです。自分一人で、いわゆる「密室の祈り」を祈ることだけでなく、信仰の仲間たちが集まり、互いに支え合いつつ共に祈ることの大切さ、その素晴らしさをこの話は教えているとも言えるでしょう。丘の頂での祈りの時とは、兄弟姉妹と共に集まって共同の祈りを祈る時でもあります。そういう時間を大切にし、それぞれの信仰の歩みの中にそれを位置づけ、確保していきたいのです。そうすることによって、お互いの祈りの手を支え合い、神様の民の群れである教会に、とりなしの祈りが絶えないようにしていきたいのです。そのことによってこそ、私たちの麓での戦い、日々の生活における信仰の歩みは、共にいて下さる主に支えられていくのです。

主イエスのとりなしに支えられて
 本日は新約聖書の箇所として、ローマの信徒への手紙第8章31節以下を選びました。31節に「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とあります。これは裏を返せば、私たちのこの世における信仰の歩みは、敵対する力に囲まれており、常に戦いの中にある、ということです。その戦いのことが35節では「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」と語られています。そして37節には、「しかし、これらすべてのことにおいて(つまりこれらの戦いにおいて)、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」とあります。麓の戦いにおいて勝利を収めつつ歩むことができるのだ、と言っているのです。それは何故か。32節には「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。神様がその独り子イエス・キリストを、私たちの罪の赦しのために十字架の死に渡して下さったのです。さらに34節には、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」とあります。十字架にかかって死んで下さった主イエスは、復活して天に昇り、今や父なる神様の右に座っていて、私たちのためにとりなしをして下さっているのです。つまり私たちのために十字架にかかって死んで下さった救い主イエス・キリストご自身が、今や父なる神様のみもとという丘の頂で、私たちのためにとりなして下さっているのです。この主イエスのとりなしに支えられて私たちは、麓での戦いを戦い抜き、約束の地への旅を続けていくことができます。またこの主イエスのとりなしに支えられて私たちも、お互いのためにとりなし祈りつつ、お互いの戦いを支え合いつつ歩むことができるのです。

主はわが旗
 モーセはそこに祭壇を築き、「主はわが旗」と名付けたと15節にあります。旗は戦いにおいて掲げるものであり、旗が高く掲げられていることは勝利の印です。私たちは、主キリスト・イエスの十字架と復活によって示され与えられた神の愛の勝利の旗の下で、互いにとりなし祈りつつ、なお続く荒れ野の旅路における戦いを戦い抜いていくのです。

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