主日礼拝

主の栄光を見る

「主の栄光を見る」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第6章1-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第9章1-8節  
・ 讃美歌:10、351、353

8章38節をも共に  
 本日はマルコによる福音書第9章1節以下よりみ言葉に聞くのですが、新共同訳聖書においては9章1節と2節の間が区切られていて、そこに新たな小見出しがつけられています。1節は8章と結びつけられているのです。そういう区切り方がなされるのは、2節の始めに「六日の後」とあって、そこで場面の転換がなされているからでしょう。しかしそれだけではなく、1節の内容も確かに8章の最後の38節と結びついています。1節で主イエスは「はっきり言っておく」と前置きされて、一つの宣言をなさいました。「はっきり言っておく」は直訳すると「アーメン、私はあなたがたに言う」となります。「アーメン」は「まことに、真実に」という意味で、主イエスは大切なことを厳かに宣言なさる時にこの言い方をなさったのです。そのようにしてここで厳かに宣言されたのは「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」ということでした。「ここに一緒にいる人々」とは弟子たちのことでしょう。その中には神の国が力に溢れて現れるのを見るまで死なない者がいる、と主イエスは宣言なさったのです。この「神に国が力に溢れて現れる」ということが8章38節と結びつきます。8章38節で主イエスは、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」とおっしゃいました。その中の「人の子が父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る」ということと、「神の国が力に溢れて現れる」とは同じことです。「神の国が現れる」とは、神の国即ち神様のご支配が確立し、それによって私たちの救いが完成することです。そのことは、人の子つまり主イエスが神の子として、「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に」もう一度この世に来られる時、いわゆる主イエスの再臨の時に実現します。この世の誰もがそのご支配を認めずにはおれないような栄光の姿で主イエスがもう一度来られ、それによって神の国が力に溢れて現れるのです。8章38節と9章1節はそのように共通することを見つめています。先週の説教においてはこの38節には触れませんでした。9章1節とのつながりの中で、本日この38節についても考えたいと思います。

わたしとわたしの言葉を恥じることなく  
 さてこのようにここには、人の子主イエスが栄光に輝いてもう一度来られ、それによって神の国が力に溢れて現れることが語られているわけですが、それは将来のことです。このみ言葉が語られた時点では、力に溢れた神の国はまだ実現していません。これをお語りになった主イエスは今、「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に」おられるのではなくて、むしろ貧しい一人の人間として生きておられるのです。そして主イエスがこれから進んで行こうとしておられるのは、8章31節以下でご自身が語り始められたように「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」るという受難への道なのです。一番弟子であったペトロさえも、「まさか、そんなことがあるはずはない」と思ってイエスを諌めたほどに、およそ神の子、救い主らしからぬ、惨めな敗北、失敗と思われる歩みへと主イエスは踏み出そうとしておられるのです。実はそれは私たちの救いのためでした。主イエスは私たちの罪を背負って、その赦しを実現して下さるために、十字架の苦しみと死への道を歩んで下さり、そして復活して新しい命を得て下さったのです。そして私たちをもその新しい命へと招いて下さっています。それが34、35節の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というみ言葉です。新しい命、復活の命へと至りたい者は、人間の感覚からすれば惨めな失敗、敗北と思われるような十字架を背負って私の後に続きなさいと主イエスは勧めておられるのです。38節もそのことを勧めています。今のこの時代は「神に背いた、罪深い時代」です。主イエスの時代が特にそうだったということではなくて、私たち人間が根本的に神様に背く罪に陥っているのですから、この世はいつも神に背いた罪深い時代なのです。神様のご支配は隠されていて、むしろ人間の力、罪の力の方が支配しているように見えます。だから主イエスの後に従っていく者はこの世の生活で苦しみを受けたり損をするようなことがあるのです。それゆえに私たちはともすれば、「わたしとわたしの言葉を恥じる」、つまり主イエスを信じ従っていくことを恥ずかしく思い、やめてしまいそうになるのです。主イエスはそういうこの世の現実の中にいる信仰者に、「人の子が、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る」時がやがて来る、その時には、今は隠されている主イエスの栄光が誰の目にも明らかになり、神の国が完成するのだから、わたしとわたしの言葉を恥じることなく、信じて歩みなさい、と励ましておられる、それが38節なのです。

神の国が力にあふれて現れるのを見る  
 しかし、主イエスの栄光が現されるのは主イエスの再臨によってこの世が終る時であるならば、この世の終わりまでそれは隠されているわけで、この世の現実においてはそれはないのと同じではないか。いつかは現れるのだから信じて待ちなさいと言われても、それでは本当の力にはならない、そのように感じている弟子たちに対して、主イエスは9章1節の宣言を語られたのです。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」。「ここに一緒にいる人々の中に」つまり今主イエスに従い、共に歩んでいる弟子たちの中に、神の国が力に溢れて現れるのを見ることができる者がいる、神の国、主イエスの栄光は、何千年もしなければ現されないのではない、あなたがたの中には、生きてそれを見ることができる者がいるのだ、という約束を主は与えて下さったのです。これは私たちにとって謎のような言葉です。神の国が力に溢れて現れるのは、主イエスの再臨によってこの世が終わる時ですが、その時まで生きている者が弟子たちの中にいる、というのです。このお言葉は、聖書が書かれた初代の教会においては、主イエスの再臨がすぐにも起る、自分たちが生きている間にこの世の終りが来る、と考えられていた、その意識の現れだと説明されることがあります。そうだとすれば、このお言葉は、主イエスが厳かに宣言なさったにもかかわらず実現しなかった、ということになります。もうそれからおよそ二千年が経とうとしている今もなお、主イエスはまだ再臨しておられないのです。しかしこの主イエスのお言葉を、そのように実現しなかった、間違いだった、と簡単に片付けてしまってよいのでしょうか。言い換えると、弟子たちは、神の国の力、主イエスの栄光を結局見ることができなかったのでしょうか。生きている内にそれを見ることができる者がいる、と主イエスが約束して下さったのに、誰もそれを見せてはもらえなかった、約束が違う、という思いをもって彼らは死んでいったのでしょうか。そのような理解は、初代の教会における弟子たちの姿、その力強い伝道の有様、そして殉教の死をとげていった姿とは合いません。主イエスのご支配や神の子としての栄光を待ち望んでいただけだったとしたら、弟子たちはあのように力強く歩むことはできなかったと思うのです。いや彼らは、神の国の力を、主イエスの栄光を、確かに見たのです。その体験を与えられたからこそ、あのように力強く歩むことができたのです。弟子たちが主イエスの栄光を確かに見た、その最初の体験が、本日の箇所の2節以下に語られている出来事だったのではないでしょうか。

主イエスの栄光の姿  
 2節以下には、主イエスが1節のあの力強い宣言、約束を与えて下さってから六日の後に起ったことが語られています。六日の後というのは、六日を経た七日目、つまり一週間後のことだと説明されることが多いのですが、その日に主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登られたのです。その時、主イエスのお姿が彼らの目の前で変わり、3節にあるように「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」のです。これは栄光に輝くお姿です。主イエスの栄光のお姿を、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちは見たのです。この出来事によって、一週間前の主イエスの宣言、約束は実現した、正確に言うと実現し始めたのです。弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。

エリヤとモーセと主イエス  
 彼らが主イエスの栄光のお姿を見た時、そこに、エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていたと4節にあります。エリヤとモーセは旧約聖書を代表する人物です。エリヤは預言者の代表ですし、モーセはシナイ山で主なる神様から十戒を授かった人であり、律法の書、創世記から申命記までを書いたとされる、律法の代表者です。その二人が現れて、栄光の姿の主イエスと語り合っていたのです。このことは、第一には、旧約聖書の全体が主イエスとつながっていること、あるいは主イエスに流れ込んでいることを示しています。律法と預言者、つまり神の民であるイスラエルの歴史の全体が、主イエスに流れ込んでおり、そして主イエスから、新しいイスラエル、新しい神の民の歴史が始まるのです。この出来事はそのことを教え示していると言えるでしょう。  
 しかしそれだけではありません。モーセとエリヤと主イエスが何を語り合っていたのかが問題です。マルコはそれを語っていませんが、ルカによる福音書にはそのことが語られています。ルカ9章31節です。「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。彼らが語り合っていたのは、主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期、つまり十字架の死についてだった、ルカのその理解は正しいと思います。エリヤとモーセが旧約聖書を代表し、主イエスが新約聖書を代表しているとすれば、その三者が語り合っていることは旧新約聖書の中心主題です。それは主イエス・キリストの十字架の死によって成就し、実現する救いなのです。そこに、旧新約聖書全体の焦点があると言うことができます。そして、そのことを語り合っていた主イエスのお姿が栄光に輝いていたことに意味があります。主イエスの神の子、救い主としての栄光は、十字架の苦しみと死と関係なしに現れることはないのです。主イエスの栄光は十字架の死における栄光なのです。主イエスがご自分の受難をはっきりと予告なさった、その一週間後にこの山の上での栄光のお姿の話が語られていることも、そのことを示していると言えるでしょう。

主イエスの栄光を見る喜び  
 このように、主イエスの栄光は十字架の死においてこそ輝き出るのですが、それは後から振り返って初めて分かることで、この時のペトロ、ヤコブ、ヨハネには、主イエスの真っ白い栄光のお姿しか目に入りませんでした。この栄光のお姿を見て、ペトロは思わずこう叫んだのです。5節「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。このペトロの言葉の意味はよく分かりません。分からないのは当然です。語っているペトロさえ、「どう言えばよいのか、分からなかった」と6節にあります。思わず知らず、あまり意味のないことを口走ってしまったのです。しかしペトロの気持ちは分かります。彼は主イエスの栄光のお姿を見て、有頂天になっているのです。これはすばらしいことだ、と思っているのです。「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」というのはそういうことでしょう。その気持ちはよく分かります。自分が信じて従って来た主イエスが今、栄光に輝く姿で目の前におられるのです。それはこの上ない喜び、感激です。主イエスはつい一週間前に、「あなたがたの中のある者は、神の国が力に溢れて現れるのを見ることができる」と約束して下さいました。その約束が今実現した、自分たち三人が、それを見ることのできる選ばれた者となったのだ、と思ったでしょう。またペトロは、「やっぱり主イエスは栄光に満ちた力ある神の子であられるのだ」という安心をも覚えたのではないでしょうか。やはり一週間前に、主イエスは、自分はこれから苦しみを受け、捨てられ、殺されるとおっしゃったのです。ペトロは、そんなことがあるはずはないと思い、「そんなことを言ってはいけません」と主イエスをお諌めしたのです。そしたら「サタン、引き下がれ」と厳しく叱られてしまいました。でもこの栄光に輝く主イエスのお姿を見て彼は、やっぱり自分の思った通りだった、主イエスは勝利し、栄光をお受けになる方なのだ、と安心したのではないでしょうか。このように、いろいろな思いが重なる大きな喜び、感激の中で彼は、主イエスの栄光のお姿をいつまでもここに留めておきたいと思ったのです。それが「主イエスとモーセとエリヤのために小屋を三つ建てましょう」という叫びの意味です。小屋を建てて、主イエスとモーセとエリヤにそこに滞在してもらう、留まってもらう、そのようにして、栄光の主イエスにいつまでも共にいてもらいたい、と彼は思ったのです。

十字架を背負って従う中で  
 すると7節、「雲が現れて彼らを覆」った。雲が主イエスとモーセとエリヤの姿を見えなくしたのです。つまり、弟子たちが主イエスの栄光のお姿を見ることができたのはほんの一時だったのです。そのお姿は隠され、その雲の中から主なる神様の声が響きました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。主イエスこそが、神様の愛する独り子であられることが、神様ご自身によって宣言され、同時に「これに聞け」という命令が与えられました。雲が消えて弟子たちは急いで辺りを見回しましたが、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。そのお姿はもはや栄光に輝いてはいなかったのです。  
 主イエスの栄光のお姿が示されたが、すぐに雲によって隠され、「これはわたしの愛する子。これに聞け」というみ声が響き、気がつくともとのお姿の主イエスが共におられた、このことは、主イエスが神の子として栄光を受けるお方であることを示していると同時に、その栄光のお姿はいつまでも自分の側に留めておくことができるものではないこと、むしろ普段の主イエスのお姿、貧しく、みすぼらしく、苦しみを受け、十字架にかけられて殺されていく、そのお姿を見つめつつ、その主イエスに聞き、その後について行くことが大切であることを教えています。主イエスの栄光を見つめて喜ぶよりも、十字架につけられる主イエスをこそ神の子と信じ、その主イエスのみ言葉を聞き、その後に従うことこそが、弟子たちに、信仰者に求められているのです。自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていく者は、主イエスの栄光を喜び楽しんでいることはできません。むしろ主イエスの後に従って、十字架の苦しみを背負って歩むことになるのです。しかしその十字架を背負って主イエスに聞き従う歩みの中で、私たちは、この三人の弟子たちと同じように、主イエスの栄光のお姿を垣間見ることを許されるのです。主イエスの栄光は、神の国の力は、世の終わりにはっきりと現れますが、それまでの間は全く見ることができないのではありません。主イエスの弟子たちも、またその弟子たちの信仰を受け継いで二千年の教会の歴史を担ってきた無数の信仰者たちも、その都度その都度、主イエスの栄光のお姿を示されてきたのです。その体験によって支えられ、強められて、彼らは力強く伝道をし、教会を生み出し、築き上げてきたのです。

主の日の礼拝こそ私たちの高い山  
 主は私たちにも、その栄光のお姿を垣間見させて下さいます。そのことが起る中心的な場は、この主の日の礼拝です。礼拝において、聖霊の働きによって神様のみ言葉が語られ、私たちがそれを聖霊の導きの下で聞く時、それまでは歴史上の人物の一人、あるいは宗教的偉人の一人だったイエス・キリストが、神様の独り子であり、この自分の救い主である方として光り輝くことを私たちは体験するのです。そしてその主イエスによる救いを信じて洗礼を受け、主イエスと共に歩んで行く中で、私たちは本日も行なわれる聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかる時、そこにも聖霊が働いて下さって、復活して今も生きておられる神の子主イエスが共にいて下さることを私たちは体で感じ取っていくのです。そのようにしてこの礼拝において私たちは主イエスの栄光のお姿を一時垣間見る体験を与えられつつ、十字架につけられた主イエスに従ってこの世を生きるのです。この礼拝こそ、私たちが毎週登ってくる高い山であると言うことができます。そしてその礼拝における恵みの体験に支えられて歩む中で、私たちはそれぞれの人生の様々な場面において、主イエスの救い主としての恵みを、その栄光を示され、それを垣間見ることを許されるのです。しかしその栄光は、どこかに確保しておけるようなものではありません。栄光の主イエスを私たちが小屋の中に閉じ込めておくようなことはできないのです。主は自由な方として、恵みによってご自身の栄光を示して下さいます。私たちは主がそれを示して下さることを願い求めつつ毎週の礼拝に集うのです。

十字架の主が共にいて下さる  
 その栄光はいつでも見ることができるわけではありません。しかしそれが隠されているとしても、私たちと同じ人間になって下さり、苦しみを受け、十字架の死への道を歩んで下さった主イエスが、いつも一緒にいて下さいます。8節の最後の、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」という言葉は印象的です。先程も申しましたように、この主イエスは、栄光に輝いている主イエスではありません。普段通りの、特段に後光が指しているわけではない、貧しく、多くの苦しみを身に負って、十字架の死へと歩んでおられる主イエスです。その主イエスが私たちと一緒にいて下さるのです。その主イエスに聞き、その後に従っていくことが私たちの信仰です。それは決して栄光に満ちた歩みではないし、むしろ自分の十字架を背負っていく苦しみの歩みです。けれども私たちは、その主イエス・キリストが、復活して永遠の命を生きておられる救い主であり、世の終わりに父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共にもう一度来られる方であることを知っています。願わくは主が、その栄光を垣間見る恵みを、今日のこの礼拝においても、これからあずかる聖餐においても与えて下さいますように。そして私たちの人生の歩みのここぞという大事な時に、その栄光と力とを示して下さり、支え導いて下さるように、祈りましょう。

関連記事

TOP