夕礼拝

これはわたしの愛する子

「これはわたしの愛する子」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 申命記 第18章15-22節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第9章1-13節
・ 讃美歌 ; 360、441

 
受難予告に続いて
本日朗読された最初の節、9章の1節は、内容的には、先週お読みした、直前の箇所に含めた方が良い箇所です。直前の箇所で主イエスは初めて弟子たちにご自身の死と復活を予告されました。8章の31節には次のようにあります。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。ここで主イエスは「十字架」という言葉は用いませんでしたが、ご自身の十字架の死を予告されたのです。この時、主イエスを救い主と告白していた弟子のペトロは、苦しまれる救い主の姿を受け入れることが出来ず、主イエスをわきへお連れしていさめ始めました。それが、自分が思い描いていて救い主とは異なっていたからです。彼は、ローマ帝国の支配から自分たちを屈辱的な支配から解放し栄光をもたらしてくれる力強い救い主を求めていたのです。主イエスはこの時、ご自身の死についてだけでなく、「三日の後に復活することになっている」とも語られていました。十字架の苦しみと共に、復活という栄光も受けると言われていたのです。しかし、ペトロはそれには真剣に耳を貸しませんでした。続けて主イエスは、34節で、弟子たちと共に人々を呼び寄せて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。主イエスに従いたいなら、自分の思い描く救いではなく、十字架の主イエスによって示される救いのみを追い求め、主イエスに倣って、それぞれの苦しみを担うようにと言われたのです。更に、38節には次のようにあります。「神に背いたこの時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。たとえ、神の御心に従って歩む主イエスの姿や、そのような主イエスに従って歩むことが、人間的な思いからすれば、恥となるようなものであったとしても、それを恥としないようにと言われているのです。キリストによる救いの御業を恥とせず、そこにのみ、救いを求めることによって、「父が栄光に輝いて」来る時、すなわち、終わりの時に、救いに与る者とされるからです。

主イエスの栄光のお姿
それでは、主イエスに従って歩む者は、この世で、何の希望も見いだせないまま苦しみだけを担うのでしょうか。そうではありません。9章の1節で、主イエスは、次のように語られるのです。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」。主イエスは、ただご自身が受ける苦しみを語り、従うものたちに苦しみを担うことを命じているだけではないのです。神の国が力にあふれて現れるのを見る者がいるというのです。この箇所は、少々わかりにくい箇所です。神の国とは、神の支配を意味していますが、それは、世の終わりに完成するものです。もしも、ここを、神様の支配の完成、終末が来るまで死なない人がいると言われているとするのであれば、ここでの主イエスの御言葉は実現しなかったということになります。実際にそのように読む人々もいるのです。しかし、ここで見つめられていることは、神様の支配の完成ではなく、現れです。主イエスは、人間的には恥としか思えないような苦しみを予告すると共に、力強い神の支配も現されると言うのです。そして、この主イエスの言葉通り、神の国が力にあふれて現されたのが、9章の2節以下の出来事です。主イエスは弟子の内、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られます。聖書において山の上というのは、しばしば神がご自身を現される場所です。モーセに神が現れ、十戒を授けたのも山の上でした。この山の上で、弟子たちの目の前で、主イエス姿が「栄光に輝く姿」に変えられたのです。2節には、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります。更に、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」とあります。ここで、栄光に輝く主イエスの姿が弟子たちにはっきりと示されたのです。モーセとはエジプトで奴隷の状態にあったのをイスラエルの民をエジプトから導きだし、神様から律法を授かった人です。エリヤは、預言者を代表する人です。そのような人々と輝いている主イエスと話し合っているのです。ここで示されているのは、旧約聖書の律法と預言を成就する方として主イエスがいるということです。イスラエルの歴史を通して神様がなさって来た救いの御業が主イエスによって成し遂げられるのです。

六日の後
この出来事は、受難予告の直後に起こったのではありません。2節の最初には、「六日の後」とあります。マルコによる福音書には、このように具体的日数が記されることはほとんどありません。この福音書は、日数や経過した時間を明確に記さないのです。そのようなことには注目しないのです。たいてい物語が進められていく時には、「それから」という言葉が用いられます。主イエスの十字架まで続く苦しみに向けた道が進んでいく様を淡々と、出来事を連ねていくことによって記して行くのです。しかし、ここで、マルコは「六日の後」と記します。ここでは特に、この日数を強調したかったのです。いつから六日の後なのかと言えば、当然、直前に記された、主イエスの受難予告から六日の後です。ルカによる福音書はここを「八日ほどたったとき」としています。つまり、主イエスの受難予告の日から中六日おいて八日、つまり七日目のことなのです。七日目というのは聖書において、完成を意味します。創世記には、神は天地万物を六日で創造し、七日目に休まれたことが記されています。ですから、主イエスの受難予告によって始められた救いの業の告知が、今日の箇所で、締めくくられていると見ることも出来ます。主イエスの救いの御業は、主イエスが苦しまれ殺されることによってではなく、栄光に満ちた神の支配によって終わるのです。ここでは、神の国、神様の御支配の完成が、先取りされて現されているのです。1節において、「ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」と言われたことがここに成就されているのです。

仮小屋を建てようとする
この栄光の主の姿を見たペトロは、口をはさみます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。ここは、ペトロらしさが現れている箇所です。ペトロは栄光に輝く救い主とモーセやエリヤが話し合っている所に、割り込んでいったのです。そして、訳も分からず、すばらしいことだと語った後、仮小屋を建てようと言いだしたのです。ペトロは、とっさに、この栄光に輝く救い主が地上に住まうための、場所を用意しようとしたのです。輝かしい、救い主の姿が現されたので、それを留めておこうとしたのです。この時のペトロの態度は、時に信仰者が陥りがちな態度です。一方で、自分の望まない、救い主の姿に直面すると、それをいさめ始め、キリストを自分の思いに従わせようとする。しかし、もう一方で、自分に都合の良い、輝かしい救い主の姿や、自分が理解しやすい救い主の姿に出会うと、それをとどめておこうとするのです。例えば、聖書の中に記されている、自分の好きな言葉にだけ耳を傾け、自分が感動した主イエスの姿だけに心を向ける。又、自分の納得しやすいことが示されると、そのことだけを喜んで聞く。そのような中で、私の主イエス・キリストはこういう方だと決めつけてしまうのです。その時、ペトロのように仮小屋を建てようとしているのです。

栄光の姿が分からない弟子たち
この時、ペトロは、ここで起こっていることが良く分かっていませんでした。6節には、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」とあります。ペトロはそもそも栄光に輝く救い主を求めていました。それは、ローマ帝国の支配を打ち倒す、力強い神の支配の実現です。結局ペトロは、地上において自分たちが与る栄光だけを求めていたのです。しかし、そのようなペトロの態度では、主イエスの苦しみも栄光も理解することは出来ません。ペトロの主イエスが栄光を受けたことに対する無理解と、救い主が苦しみを受けることに対する無理解とは密接に結びついています。主の苦難と栄光は不可分だからです。主の栄光、神の支配は、主イエスの苦しみがあるからこそもたらされるものです。主イエスのもたらす救いは、十字架で苦しみつつ死なれることによって、人間の罪を贖い、復活によってその罪の力に勝利することによってもたらされる救いです。それ故、苦しみを経て栄光の姿が示されるのです。主イエスの受難について理解しなかったペトロは、主イエスが受ける栄光も分からないのです。救い主の苦しみが受け入れられなかったペトロには、主イエスの栄光に輝く姿も分からなかったのです。ですから、苦難を知らされた時、主イエスをいさめたように、ペトロは、ここでも相応しくない態度を取ってしまうのです。

主イエスに聞く
 ペトロが、仮小屋を建てようと提案した時、雲が彼らを覆い、雲の中から声がします。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。ここで、父なる神が、主イエスこそ、自分の愛する御子であることを示し、これに聞くようにと語られたのです。神様の栄光は、主イエスに聞くことによってのみ示されるのです。ペトロを始めとした弟子たちは、この時、主イエスに聞けなくなっていたのです。ペトロは、苦しまれる救い主が予告された時、主イエスをわきへお連れしました。自分の願う方向へと導こうとしたのです。又、栄光の主のお姿が現された時、訳も分からないまま、自分の下に留めておこうとしました。これらはどちらも、主イエスに聞くことではありません。語られることを、自分の理解や願望に合わせようとすることも、良く分からないまま、自分の望む救いをもたらしてくれそうな救い主の姿に留まろうとすることもキリストに聞くことにはならないのです。ペトロは、自分の思いに従って、一方でいさめ、一方で仮小屋を建てようとしたのです。そのようなペトロや弟子たちに、主イエスの御言葉に聞くようにとの声だけが語られるのです。この方の御言葉に聞くことにおいてのみ、私たちは主の栄光に触れることが出来るのです。キリストに聞くとは、常に、自分の思い描くキリストが崩され、新たな御言葉を受け続けることなのです。そして、主イエスが34節で語られた「わたしの後に従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との御言葉に常に立ち返るのです。

主イエスの栄光を示された弟子たちの歩み
ここで、主イエスの栄光に輝く姿が示されたペトロを含めた弟子たちの行動が9節以下に記されています。一同が山を下りた時、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられます。山から降りるとは、栄光が現された場所を去って、人間の罪が支配する世に戻って行くことです。そこでは、主の栄光は隠されたままです。ここで、だれにも話すなと言われているのは、まだ主イエスの復活を見ていない弟子たちが、分からないままこの出来事を語ったとしても、それが、キリストの栄光を現すものとはならないからです。ここで大切なことは、10節です。「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」とあります。ここで、弟子たちはまだ、復活の主にお会いしていません。主イエスの栄光の姿は完全には現されていないのです。ですから「どういうことか」と論じ合ったのです。しかし、この時、弟子たちは、確かに、復活について語られる言葉を心に留めたのです。はっきりとは分からない中であっても、山の上で主イエスの栄光の姿が現されたからこそ、復活を語る主イエスの言葉に留まり続けることが出来たのです。そして、復活の主と出会った後、主を讃美したのです。
ここには、この世でキリストに従って生きる者の姿勢が示されています。私たちは、主イエスの復活の出来事を、聖書を通して知ることが出来ます。私たちは、十字架につけられた主が復活された出来事を通して、主イエスの栄光の姿を知らされているのです。そして、終わりの日に主が再び来られ、神の支配が完成するのを待ち望んで歩んでいます。その時がどのように来るのか、そこでの栄光はどのようなものなのか、いくら論じても分かることではありません。しかし、確かにその時が来ることを信じて、主イエスの御言葉を心に留めて歩むのです。主イエスの復活によって、終わりの神の支配の完成が先取りされて示されているからです。

人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける
私たちが歩む世は、主イエスの御言葉に対抗する力、主イエスがキリストであることを否定しようとする力で満ちています。11節には、弟子の問いかけが記されています。「なぜ律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねるのです。この時、律法学者達は、救い主が来る前には、必ず預言者エリヤが再び来ると言っていたのです。エリヤはまだ来ていないのだから、主イエスは救い主ではないと主張していたのです。そのような主張に対して、主イエスは「確かにまずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。」と答え、その主張を肯定します。その上で、次のように語ります。「それなら、人の子は辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」。ここで先ず、主イエスは、旧約聖書において、救い主が、辱めを受けると記されていることを指摘します。その上で、エリヤはもう来たというのです。ここで主イエスが言う、エリヤとは洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネとは主イエスに先立って悔い改めの洗礼を宣べ伝えて、主イエスの道を備えた人ですが、主イエスはこの洗礼者ヨハネを再び来たエリヤとして見ているのです。ヨハネは、結局ヘロデによって殺されてしまいます。殺された理由は、ヨハネが神の言葉に従って、ヘロデの罪を指摘したからです。罪に支配された世の抵抗にあっても、神の言葉に留まり、それを持ち続けたのです。神の言葉に留まることによって人々から苦しみを受けたのです。神の言葉に従う時、それを受け入れずに、御心に逆らいつつ、自らの思いに従って生きる人間の罪によって苦しめられるのです。ですから、この世で、神の言葉に留まろうとする時に、そこには受けなくてはならない苦しみがあるのです。それは、何よりも先ず、主イエスが受けられた苦しみですが、主イエスだけでなく、預言者たちや、又、ここでエリヤの再来とされているヨハネも受けたものなのです。そこで皆、十字架を背負ったのです。そして、今、キリストに従って、御言葉に留まる者も又、自分を捨て十字架を背負って主イエスに従うのです。

栄光を待ち望みつつ
 御言葉に聞き、御言葉に留まる歩みは、ペトロがしたように、自分の思いと異なる主イエスをいさめるのでも、主イエスによって示される栄光を、小屋を建てて自分の下に留めておこうとするのでもありません。繰り返し、主の御言葉に心を留め、そこで示される苦しみと復活の栄光に包まれた主のお姿を新たに示されつつ歩むのです。私たちにとってこの時弟子たちが神の栄光に触れた高い山とは、一週間ごとに集められ、守られる礼拝の場です。この場において、主の苦しみのお姿と共に、栄光に満ちた復活のお姿が示されるのです。そして、復活によって示された主の栄光を示されつつ山を下りるのです。そこから始まる歩みは、決して、全てが分かってしまうような歩みではありません。そこでは、疑いや、迷いを経験します。神の言葉を否定しようとする神に背いた時代を歩む中で、主イエス・キリストの救いの御業が弱く惨めなものに思われることがあります。そのような時には、キリストは恥となります。しかし、主イエスの復活によって示された神の救いの支配の完成を目指して、主イエスに従って、自分の十字架を背負いつつ、終わりの日に栄光に与ることをまちつつ歩むのです。今日も、この礼拝においても聖書の御言葉を通して、十字架と復活の主がご自身を現して下さっています。そして、私たちに「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語って下さっているのです。神様の支配の完成がはっきりとは分からない中にあっても、主イエスによって確かに示されている神様の支配の到来を告げる御言葉に留まりつつ歩む者でありたいと思います。

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