夕礼拝

主よ、憐れんでください

「主よ、憐れんでください」  伝道師 矢澤美佐子

・ 旧約聖書; 詩編 116:1-19
・ 新約聖書; マタイによる福音書 20:29-34

 
二人の盲人が癒され、目が開かれる奇跡が記されています。見えなかった目が、見えるようになる。このような癒しの奇跡は、これまで何度も繰り返し記されていました。同じような話が、また、ここに登場しているのです。

これを、私達は、すでに読んだ話が、ここでまた繰り返されていると、飛ばして読んでしまうかもしれません。
けれども、果たして、そうなのでしょうか。主イエスは、今日のこの箇所で、盲人の目が見えるようになる奇跡をなさったのです。ここで、この場面で、それをなさった。ここに、実は、深い意味が込められているのです。
一体、どのような意味が、ここに込められているのでしょうか?

 今、主イエスと弟子達は、エリコの町を出ました。この先は、いよいよエルサレムです。エリコの町を出ると、もうすぐエルサレムです。そこは、主イエスが、十字架につけられ、殺される場所です。
つまり、この先は、主イエスの本当に苦しい、受難の一週間が始まっていくのです。主イエスの受難の始まりを、すぐ目の前にした、この時に、目が見えるようになると言う奇跡を、主は、なさったのです。受難週が始まろうとする前に、このことをなさる。実は、ここに、非常に深い繋がりがあるのです。
 私たちは、今、レントの後半に入り、少しずつ受難週が近づこうとしている時期を過ごしています。私たちも、この物語とほぼ同じ時期を歩んでいると言ってよいでしょう。ですから、私達は、今日の御言葉に耳を傾け、そして、この目が見えるようになった盲人。彼らに与えられた癒しを、私たちも共に頂き、同じ救いに与りたいと思うのです。  
今、主イエスと弟子達一行は、エリコの町を出ました。エリコという町は、エルサレムに向かって巡礼をする人たちは、エルサレムに入る前に訪ねる場所でした。これからエルサレムの神殿に礼拝をしに行く、その身支度を整えたり、あるいは、様々な買い物をする場所であったのです。
この非常に大きな町、エリコで、この町のにぎやかさや、豊かさ、そこから外れて、道端に座って物乞いをしている人がいました。物乞いをしている二人の人。この二人は目が見えなかったのです。

この盲人の物語は、マルコやルカにも記されていますが、マルコやルカは、一人の盲人として記されています。しかし、マタイだけが二人の盲人として記しているのです。何故マタイだけが二人の盲人として描いているのでしょうか?それは、この盲人の癒しの物語は、教会の物語なんだ。私たち教会に与えられている救いの物語なんだと、マタイは信じ、ここに記しているからなのです。
目が見えなかった私たち、教会が、主イエスの憐れみによって、目が見えるようになり、主イエスに従っていく。そういう救いの出来事が、私達にも、教会にも、起こるのです。
二人の盲人は、二人そろって、道端に座っていました。二人は仲間であったのです。二人は、一緒に叫び声をあげて、「わたしたちを憐れんで下さい」と言ったのです。「わたしたちを」と言っているのです。決して、「わたしを」「わたしを」と言っているのではないのです。「わたしたちを」と言っているのです。
この事からも、この二人の盲人は、お互いが分かり合える友として、助け合い、励まし合いながら、この物乞いの生活をしていたのです。
 これは、私達教会の姿でもあるのです。助け合い、励まし合いながら生きる教会の姿がここにあるのです。

しかし、二人は、目が見えなかったのです。そこで、どうでしょうか?目が見える人たち、私達は、目が見えないという経験をしたことがあるでしょうか? そのような経験をした事のある人は少ないのではないかと思うのです。
ですから、私達は、目の見えない方がどのような生活をされているのかと言う事を、本当は、ほんのわずか想像する程度でしか、分からないのではないでしょうか。 私達が、もし、目の見えない人が、どのような苦労をしているのか、体験しようとするなら、例えば、目隠しして外を歩いてみたりして、体験することは出来るでしょう。目隠ししてみて、それによって少しでもその人々の苦しみを味わおう、それに近づこうとする事が、出来るかもしれません。
けれども、私達は少し体験しただけで、それで全てがわかった気になってしまう事があるかもしれません。少しの経験だけで、目の見えない人の生活が分かったような気になってしまいます。
この事は、もしかすると、受難週に、キリストの受難を覚えて、という事で、長く祈祷をしたり、あるいは、断食をしたりする方もおられるかもしれません。けれども、それによって、私達は、キリストの苦しみを自分で味わったという気持ちになってしまっているとしたら、それは誤りなのでしょう。そのような間違いを私達は時々犯すのではないでしょうか。

 目をつぶって私達も、様々な事を試してみますけれども、しかし、本当にその人の悩みや苦しみや願いの深さや辛さの深さ。それは、本人にしか分からないものがあるのです。
 特に、この物語が記された当時、社会で障害を負っている事自体が、神の恵みから外されているものであるという扱いを受けておりました。神から呪われている。親の罪か、あるいは、自分の罪か、何かの因果関係があって、この人は、この障害を負わされているのだ。ですから、人々の生活の中で、同じように生きて行けない。それを社会が許さない。救いの中にある者として認められない。そのような苦しみもあったのです。ですから、肉体的にも、精神的にも非常に大きな苦しみを背負っていたという事が言えるのです。 この盲人も、どのような事を考えていたか、ここに細かく示されておりませんけれど、しかし、そのような惨めで辛く、また孤独で希望無く、そんな気持ちが多くあったことは間違いないのです。

しかし、その中で、強く二人が思い続けて、願っていた事がありました。それが、この主イエスに出会うという事です。今日の言葉では、主イエスに「憐れんでいただく」という事だったのです。
道端に座って、色んな物音を聞いていると、特に、目の見えない二人は、色んな音が聞こえたと思うのです。そして、人々の噂話や足音などが聞こえるのです。危ない話や、色んなことが二人の耳に流れてきたかもしれません。主イエス・キリスト以外にも、あの人が頼りになるぞという情報。あるいは、この人が神の人かもしれないと言う噂。色々な話を聞いたでしょう。
しかし、その中で二人が、一つだけ望みを置いて、切に願っていたのが、主イエスと出会うという事だったのです。
これは、私たちも同じなのではないでしょうか?もし、私たちの罪のために御自分の命も惜しまない主イエスに本当に出会い、もはや、疑う余地もなく、おぼろげでもなく、迷う事も無いほどに、はっきりと主イエスを見ることが出来たらどんなに幸せなことかと思うのではないでしょうか? この二人の盲人も、主イエスにお会いし、できれば、その姿を見ることができるのなら見てみたかったのです。

そこへ、主イエスがこのエリコの町へ来たという噂を聞きます。待ち焦がれていた救い主。その方が来たのです。主イエスの足音が、二人の前に、どんどん近づいて来たのです。そして、ついに、二人のすぐ前を、まさに今、通り過ぎようとしているのです。
二人は、必死の思いで叫んだのです。「主よ、憐れんで下さい」
群集に止められても、この時しかないと言う思いで、必死に叫び続けたのです。
「主よ、憐れんで下さい」と二人は叫んだのです。それは、言葉を換えて言えば、「世に相手にされていない私たちを、憐れんで下さい」と叫んでいるのです。そして、さげすまされている自分達の姿を、人々の前にさらけ出して叫び声をあげ続けているのです。二人は、大勢の人が主イエスを取り囲んでいる中で、落ちぶれた姿をさらけ出し、憐れみを求めて叫び続けているのです。それは非常に恥ずかしい事であったはずなのです。けれども、二人にとっては、そんなことよりも、ただ主イエスにお会いしたい、という、神を求める思いを抑えきれなかったのです。それ程までに、主イエスを求めていたのです。
さらに、ここで二人は、「主よ、ダビデの子よ」と、主イエスを呼んだのです。そして、ダビデ王の血筋の中から、メシアが誕生して、そして人々を救うと言う事を、彼らは聞いていたのです。目が見えないですから、聖書を読めません。けれども、人々の話が聞こえるのです。そして、人々の待望していた当時のメシア救い主というのは、このダビデの子孫から現れるという事。その事を信じていたのです。だから、この方が王の中の王。私達を救って下さると信じていたのです。
 ここで注目したいことは、目の見えない二人は、自分を救ってほしいとか、あるいは、助けてほしいとは言っていないのです。もし、私たちなら、この状態から救ってほしい。あるいは、他の人がくれない特別な物を頂きたいとか、助けてほしいという事を口にするかもしれません。
けれども、二人は、「憐れんで下さい」と言ったのです。しかも、2度繰り返し言っているのです。ここには、2度しか書かれていませんけれども、おそらく何度も叫んだと思うのです。憐れみを二人は期待しておりました。二人にとって憐れみは、目が見える私たち以上に大切な事であったのです。
何故なら、普段から二人は、物乞いでしか自分の生計を立てられなかった。歩いていく人、見も知らない人。しかし、その人々の憐れみにすがって生きて行くしかなかった。食べる物を頂き、あるいは、細かいお金を頂戴しながら、二人は世の中の憐れみ、人々の憐れみにすがって生きていたのです。しかし、自分を本当に自由にし、救って下さるもの、これは人間の憐れみではない、と言う事を二人は知っていたのだと思うのです。
 ですから、主イエスに向かって「憐れんで下さい」と叫んだのです。「憐れんで下さい」と言う言葉に込められている意味は、「内臓を打ちふるわせるほどの憐れみ」「はらわたを痛めるほどの憐れみ」です。主の憐れみは、内臓を打ち振るわせるほどの、はらわたを痛めるほどの憐れみなのです。二人は、「主よ、あなたの憐れみだけが、私たちには必要なんです」と、叫び続けていたのです。
すると、主イエスは、二人の叫びに応えて、立ち止まられたのです。そして、主イエスは、近くに来るようにと二人を呼び寄せたのです。

 けれども、私たちは、様々な主イエスの癒しの場面で印象深いのは、主イエス御自身から、ご自分から近づいて行かれるという姿ではないかと思います。主イエス・キリストがご自分から近づかれ、手を置かれ、あるいは、つばを目に塗り、指を耳に入れ癒しをなさる。
けれども、ここでは、近くに来るように呼ばれ、立ち止まっておられるのです。ここでは、待つ主イエスが示されています。主イエスは待っておられる。自分の足で歩いてやって来ること、自分の信仰で歩くこと、そして足もとまで来て、キリストに出会うこと、神に出会うことを求めておられるのです。
ですから、この後でも、主イエスは二人に、「何をしてほしいのか」と、自分の希望、願いをはっきりと自分の口で出して言うように、促すのです。これも、主イエスとの出会いを求める、神を求める、行いなのです。その神を求める事を期待し、主イエスは、立ち止まって待っておられるのです。

一方、周囲の人々は、二人を叱りつけ黙らせようとします。人々は、二人を相手にせず、無視していたのです。けれども、主イエスだけは、二人を呼ぶのです。
「何をしてほしいのか」

二人は、見えない目は、もう治らないと、諦めてはいませんでした。主イエス・キリストなら、きっと目を開けて下さる。そう信じて、「主よ、目を開けていただきたいのです」と、はっきり言ったのです。全ての信頼をおいて諦めや絶望ではなく、願いを率直にキリストに打ち明けたのです。
ここに、主イエスは、二人の強い信仰を見られたのです。そして、主は「深く憐れんで」彼らの目に触れられたのです。「内臓を打ちふるわせる憐れみ」で、「はらわたを痛めるほどの憐れみ」で目に触れられたのです。そこには、十字架の死によって、私たちを贖って下さる御心が込められた、深い憐れみがあるのです。
そして、二人は癒されて見えるようになったのです。

 こののち、見えるようになった二人は、なお道を進まれる主イエスに従ったのです。それは、十字架への道です。最後の十字架の場面では、弟子達はみな、恐れて逃げてしまったのです。しかし、目を開けて頂いた二人は、その癒された目をもって、主の十字架をしっかりと仰ぎ見たことでしょう。
つまり、受難の前に、主イエスが、この二人の見えなかった目を開けられたのは、ご自分の十字架を見せるためであった、と想像しても、想像しすぎではないと思うのです。 二人は、開かれた目で、主イエスを見たのです。

ここで、私達もまた、肉体の目で、はっきりと、主イエスを見ることが出来たら、どんなに幸せだろうかと思うかもしれません。もう決して、迷う事のないくらいに、疑うことが出来ないくらいに、主イエスをしっかりと見たいと思うかもしれません。
しかし、ここで本当に主イエスが願っておられるのは、肉体の目が開かれ、直接、主イエスを見る事を、主は願っておられるわけではないのです。
確かに、二人は、見えるようになった肉体の目で、主イエスの十字架を仰ぎ見ることが出来たでしょう。しかし、きっと、殺されていく、十字架の上の主イエスの御姿を受け止めきれなかったでしょう。つまずいたことでしょう。
しかし、その後、主イエスの十字架と、復活が、この私自身の罪の為だった。その事に気づき、信仰の目が開かれた時、自分たちの肉体の目が開かれた時と、比べ物にならないくらいの、大きな喜びに満たされたのです。
だから、ここで、主イエスが求めておられるのは、本当に必要な、信仰の目が開かれるということなのです。その事を願って、二人の肉体の目を開かれ、それによって、信仰の目が開かれるように導かれたのです。

 そして、この二人の盲人の目が開かれる救いは、私達教会の救いの出来事であるのです。二人の盲人が、共に心を一つにして、一つの願いを主イエスに求めました。私達の教会もまた、みな一つの祈りを、主イエスに願い続けるのです。
その一つの願いは、「主よ、私達の目を開けてください」です。
「主の十字架を、仰ぎ見ることのできる、私達の信仰の目を開けて下さい」という祈りです。
 そして、その祈りを共に、祈っていくとき、二人の盲人に起こった奇跡の御業は、私達の上にも起こっていくのです。私達の信仰の目は、確かに開かれていくのです。
 今、レントの時を生きる私たちです。私達は、開かれた信仰の目で、共に、主イエスの十字架を仰ぎ見、罪を悔い改める、レントの時を、過ごして行きたいと思うのです。

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