「恵みを分かち合うために」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第19章16-25節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第15章22-33節
・ 讃美歌:3、136、390
み心によって妨げられた
ローマの信徒への手紙の締めくくりの部分に入っています。本日の箇所、15章22節以下は、パウロが自分のこれからの計画について語っており、その中で、ローマの教会を訪れようとしていることを語っているところです。最初の22節にこのようにあります。「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました」。パウロはこれまでに何度も、ローマへ行きたいと願ってきたのです。しかしその願いは実現しませんでした。このことを彼はこの手紙の最初の部分、1章13節においてもこのように語っていました。「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」。ローマを訪ねようと願い、何度もその計画を立てたけれども、その計画は妨げられ、願った通りにならなかった、初代の教会の最大の伝道者であるパウロもこのように、自分の思い通りにならない、願いや希望が叶わない、ということを一度ならず何度も体験してきたのです。いや願った通りにならなかっただけではありません。彼は捕らえられて牢獄につながれたり、殺されそうになったりしてきました。主イエスから与えられた伝道の使命を熱心に行っていく中で、祈り願いつつ立てた計画がうまく行かずにかえって苦しみを負うということが何度もあったのです。しかし彼はそれでやけになったり、絶望して気力を失ったりはしませんでした。なぜか。その秘密は本日の箇所にも、1章13節にも語られている「妨げられてきた」という言葉にあります。パウロがこの言葉において見つめているのは、敵対する者たちによって妨げられたということではなくて、神によって妨げられた、ということです。自分の計画が実現せず、願った通りにならない現実を彼は、神がそれを妨げておられる、つまりそれは神のみ心であると受け止めているのです。そして、その神のみ心を受け入れて、その中で全力を尽くそうとしているのです。自分の思い、計画、願いとは違ったことであっても、神が示し与えて下さった道を歩むことが、自分にとって最も良いことなのだと信じているのです。神を信じて生きるとはそういうことでしょう。神を信じるとは、自分の願いを叶えるために神がいると思うことではありません。自分の願いとは違っていても、神のみ心に従って生きることが最善であり、そこにこそ本当の幸いがあると信じること、それが神を信じることなのです。
神の時を信じて待つ
パウロはそのように神のみ心に従ってこれまで歩んできました。そして今、その神のみ心によって、ようやくローマを訪れる道が開かれそうだ、と言っています。それが23、24節です。「しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」。神のみ心によって、あなたがたのところへ行く道がいよいよ開かれてきた。彼はこの時を待っていたのです。神のみ心に従って生きるというのは、神がみ心によって自分の願いをかなえて下さることを信じて、祈りつつその時を待つ、ということでもあります。私たちは、とかくせっかちに自分の願いの実現を求め、それがすぐにかなえられないと、神は聞いて下さらないのだとあきらめたり、神を恨んだりします。しかし神のみ心は私たちの思いをはるかに超えているし、神の時は私たちの思う時とは違います。神の時を信じて待つことも、神を信じて生きる上で大切なのです。
パウロの伝道の志
さてパウロは、いよいよ神の時が満ちて、み心によってローマを訪ねることができそうだ、と言っています。しかしパウロがここで見つめているこれからの計画は、ローマへ行くという計画ではありません。24節に語られていたように、彼はイスパニアに行こうとしているのです。その途中にローマを訪ねたいと言っているのです。イスパニアとは今のスペインです。パウロは、ヨーロッパの西の果てであるスペインにまで伝道に行こうと計画しているのです。そのスペイン伝道の途中にローマに立ち寄り、ローマの教会の人々から送り出されてスパインへ向かいたいと言っています。つまりパウロはここでローマの教会の人々に、自分のスペイン伝道を支えてくれるように、そのために援助してくれるように願っているのです。ここに、伝道者パウロの真骨頂があると言えるでしょう。ローマを訪れるのも、さらなる伝道の進展のためであって、ローマ帝国の首都であるローマを見てみたいとか、ローマの豊かさにあずかりたいとか、ローマの教会に自分の足跡を記すことで、伝道者としてのキャリアを飾りたいなどということではありません。彼の目は常に、まだキリストの福音が伝えられていない地を見つめています。ローマには既に有力な教会がある。その教会が、まだ福音が届いていない地への伝道を支え、そのための拠点となるために、彼はローマを訪問しようとしているのです。このパウロの、常に新たな地に福音の種を蒔いていこうという志、それは横浜開港の年に、禁教下の日本に伝道に来た、私たちの教会の創立者ヘボンの志に通じるものです。この志を私たちも受け継いでいきたいと思います。
神への信頼に支えられた柔軟さ
けれども既に述べたように、このようなパウロの願い、計画が実現するかどうかは、神のみ心次第です。実際、パウロのスペイン伝道は実現しませんでした。パウロのローマ訪問は実現しましたが、それもパウロがこの時思い描いていたのとは全く違う仕方ででした。パウロは、スペインへの伝道旅行の途中でローマに立ち寄ったのではなくて、ローマ帝国の囚人として護送されてローマに行ったのです。そのことは使徒言行録の終りの方に記されています。そして言い伝えによれば、パウロはこのローマで、皇帝ネロによる迫害の時に殉教の死を遂げたのです。彼のこの後の歩みもやはり、彼が計画したのとは違ったものとなったのです。パウロ自身の思い、願い、計画ということで言えば、それは実現せず、志半ばにして死んだのです。しかしそれでよい、というのが彼の信仰です。願いや計画は、自分の信じるところに従って大きく持つけれども、それが実現するかどうかは神のみ心次第であって、神がお示しになるみ心を最善のものとして受け入れ、そこで力を尽くしていく、というのが彼の信仰です。全ては神の導きであることを信じ受け入れつつ、それが成り行き任せの無責任、無計画な歩みになるのではなくて、志を高く立ててそれに向かって全力を尽くして努力していく。そしてそこで神がお与えになる結果、お示し下さるみ心を最善のものとして受け入れる、という柔軟さを彼は持っています。神への確かな信頼に支えられたこの柔軟さを、私たちはパウロの歩みから学び取りたいのです。
先ず、エルサレムへ
さてパウロはみ心に聞き従いつつ自分のこれからの歩みを計画しているわけですが、それゆえに、ローマを訪ねようとしているこれからの歩みは大きな回り道を経ることになる、ということが25節に語られています。「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」とあります。ローマを訪れる前に、先ずエルサレムに行かなければならない、と言っているのです。パウロがこの手紙を書いているのはコリントにおいてだと考えられています。コリントは、今のギリシアの南の方の町です。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の最後の「パウロのローマへの旅」を見ていただきたいと思います。今いるコリントからはエルサレムよりもローマの方がまだ近いのです。コリントから一旦エルサレムへ行って、それからローマへというのは、一旦正反対の方向に千キロ以上行って、そして数千キロを戻る、ということであって、今飛行機に乗って行ってもけっこう大変な旅です。当時の旅の事情からしたら、生きてたどり着ける保証は全くありません。そういう旅の大変さだけでなく、パウロがエルサレムに行くことは別の意味で大変危険なことでした。31節で彼は、自分がユダヤにいる不信の者たちから守られるように祈って欲しいと言っています。ユダヤ、そしてその中心であるエルサレムには、パウロの命をねらっている者たちがいたのです。パウロは元々はユダヤ教ファリサイ派の熱心な指導者であり、その熱心さのゆえにキリスト教会を迫害していました。そのパウロが突然回心してキリスト信者になり、今はイエス・キリストの福音を各地で力強く伝道しているのです。それはユダヤ人たちにとっては赦し難い裏切り行為でした。パウロを生かしてはおけないと思っている人が大勢いました。使徒言行録23章には、エルサレムに来たパウロを暗殺するために四十人以上の人々が、パウロを殺すまでは飲み食いをしないと誓いを立てたと書かれています。エルサレムに行くことは、このような危険の中に飛び込んで行くことだったのです。パウロ自身もそのことを意識していました。使徒言行録20章には、エルサレムへと向かう途中のミレトという港町で、エフェソの教会の長老たちと別れを告げる場面があります。そこでパウロは、エルサレムへ行けば、投獄と苦難が自分を待ち受けていることは分かっている、と語っています。このような危険を知りつつ彼はエルサレムへ行こうとしているのです。
何のために彼はエルサレムに行くのでしょうか。その理由が26節です。「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです」とあります。マケドニア州とアカイア州、それは今彼がいるギリシアの北部と南部です。アカイア州の州都がコリントです。この地域の教会の人々が、エルサレムの聖なる者たち、つまりキリスト信者たちの中の貧しい人々への援助に同意したのです。この援助は、28節に「募金の成果を確実に手渡した後」とあるように、お金です。ギリシアの教会の人々からエルサレムの教会の人々への援助の献金を届けるためにパウロはエルサレムに行くのです。
異邦人にも与えられる救い
しかし献金を届けるために何故命の危険を犯してまでエルサレムに行くのでしょうか。献金は誰か別の人に託して、彼自身はローマを訪ねたい、スペインにまで伝道に生きたいと願っているのですからそちらに向かったらよいのではないでしょうか。パウロがそう考えなかったのは、この献金が、ただ援助のためのお金を届けるということ以上の重大な意味のあるものだったからです。そのことが27節に語られています。「彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」。「異邦人」とはここではギリシアの教会の人々のことであり、ローマの教会も異邦人の信者を中心とする群れでした。「その人たち」とあるのはエルサレムの教会の人々、つまりユダヤ人のことです。異邦人はユダヤ人の霊的なものにあずかった、だからそのお返しとして、肉のもので彼らを助ける義務がある、とパウロは言っているのです。「霊的なもの」とは、神のもの、つまり独り子イエス・キリストによって実現した神の救いのことです。福音と言い替えてもよいでしょう。それは神の民であるユダヤ人に先ず与えられたものでした。主イエスはユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人の間で救いのみ業をなさったのです。そしてこのキリストによる救いは、旧約聖書に語られている神の民ユダヤ人の歩み、彼らのために神がして下さった救いのみ業の歴史を受け継ぎ、それを完成させるものでした。「霊的なもの」、つまり神の救いの恵みは先ずユダヤ人たちに与えられたのです。しかしユダヤ人の多くは、神が遣わして下さった独り子であり救い主である主イエスを受け入れず、キリストによる福音を拒みました。その結果、福音は、霊的な救いの恵みは、異邦人に分け与えられていったのです。パウロはそのことをこの手紙の9-11章で語りました。異邦人は、元々は神の民ではなかったのに、ユダヤ人の頑なさのゆえに、救いの恵みにあずかり、神の民とされたのです。そしてそれは、イスラエルの民を通して全ての人々に祝福を与え、救いにあずからせて下さろうとしておられる神のご計画によることだった、とパウロは語っています。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書19章16節以下も、そのような神のみ心が世の終わりに実現することを告げています。エジプトとアッシリアがイスラエルと共に、神の祝福を受けるのです。神のこのようなみ心、ご計画によって、ユダヤ人に与えられていた神の救いの恵み、霊的なものが異邦人にも分け与えられて、今や新しい神の民である教会に加えられているのです。パウロは神のこのご計画のために用いられて、異邦人にキリストの福音を宣べ伝えているのです。
恵みを分かち合うために
27節に「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかった」とありますが、その「あずかった」という言葉は原語で「コイノーネオー」です。これは「共にあずかる」、「分かち合う」という意味の言葉です。つまり異邦人が、元々はユダヤ人のものであった神の恵み、霊的なものに共にあずかる、ユダヤ人と異邦人がそれを分かち合う、そのようにして神の救いにあずかった異邦人が、そのことへの感謝を表すために、肉のもの、つまり献金によって、ユダヤ人の貧しい信仰者たちを支え、助けるのです。26節において「援助」と訳されている言葉も、「コイノーネオー」の名詞形である「コイノーニア」です。つまりこれも、ただ「援助する、助ける」ということではなくて、与えられている財産を分かち合い、それに共にあずかる、そのようにして共に生きることです。つまりパウロがここで見つめているのは、ユダヤ人と異邦人とが、神の霊的な恵みに共にあずかると同時に、肉的な恵みにも共にあずかる、そのように恵みを分かち合う交わりを築くことです。コイノーニアは「交わり」とも訳されます。異邦人とユダヤ人の間にこのコイノーニア、分かち合う交わりを築くために、パウロは命の危険を冒しても、エルサレムに行こうとしているのです。
ユダヤ人と異邦人の間にこのような、恵みを共に分かち合う交わりを築くことはまことに困難なことでした。ユダヤ人は、自分たちこそ神に選ばれた民であり救いにあずかるべき者だという強い自負を持っていて、異邦人を軽蔑していました。その思いは主イエス・キリストを信じる教会にも入り込んでおり、パウロが異邦人に伝道し、異邦人を主たるメンバーとする教会が生まれ、そこでは、ユダヤ人であることの印である割礼を受けなくてもよい、律法を守ることによってではなく、イエス・キリストを信じることによってこそ救われると教えられている、そのことをよく思っていない人々がいたのです。その人たちも勿論イエス・キリストを救い主と信じているのですが、神の民として生きるためには、それと共に、律法を守り、ユダヤ人として生活することが必要だと考えていたのです。そういうことが、この手紙の14章、15章における、「強い者と弱い者」「肉を食べる者と食べない者」という対立の背景にありました。教会の中にも、ユダヤ人と異邦人の関係をめぐってこのような軋轢があったのです。その両者の間に、共に恵みを分かち合う良い関係を築くために、パウロは命がけで、異邦人からの献金をエルサレムの教会に届けようとしているのです。先程、31節においてパウロが自分のために祈ってほしいと言っていることに触れましたが、そこには「ユダヤにいる不信の者たちから守られるように」ということと共に、「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」祈ってほしい、とも語られています。異邦人の教会からの援助の献金を、エルサレムの、ユダヤ人たちの教会は歓迎してくれるだろうか、つまりユダヤ人のキリスト信者たちは異邦人のキリスト信者たちを、神の救いの恵みを共に分かち合う仲間として認め、恵みを分かち合う交わりに入ってくれるだろうか、そのことをパウロは不安に思いながら、エルサレムへ向かおうとしているのです。ユダヤ人にとってそれがいかに困難な、抵抗のあることであるかをパウロは自分自身の体験によって知っています。しかしまたそのことが、全ての人々を救おうとしておられる神の恵みのご計画の進展のためには是非とも必要であることも彼ははっきりと意識しているのです。それゆえに、この献金を届けて異邦人とユダヤ人のキリスト信者どうしの交わりを築くことを人任せにすることはできない。自分自身が、命の危険を冒しても、今は先ずエルサレムに行かなければならないのです。
このようにパウロが大きな回り道をしようとしているのは、主イエス・キリストによる救いの恵みという霊的なものを分かち合い、共にそれにあずかり、同時に肉的なもの、お金をも共に分かち合って互いに支え合う良い交わりを、人間の思いにおけるいろいろな妨げの中で築くためでした。思えば彼の伝道は常にそのことを目指していました。主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いの恵みを宣べ伝えることによって、その恵みを共に分かち合う交わりが生まれ、その恵みに共にあずかる者の群れである教会の土台が据えられることがパウロの伝道の目的でした。彼があちこちの教会に宛てて書送った手紙も、教会が、人間的な様々な違いや対立を乗り越えて、キリストによる救いの恵みに共にあずかる群れとして成長していくことを目指していたのです。このパウロの思いを私たちも受け継ぎたいと思います。私たちは大伝道者パウロと比較できるような者ではありませんが、私たちも、自分が関わっているこの群れにおいて、さらには諸教会の交わりにおいて、キリストの霊的な恵みに共にあずかり、与えられている肉のものをも分かち合う良い交わりを築いていきたいのです。しかもそのことは、私たち自身の願いや計画を一旦脇へ置いて、それらの二の次のこととしてでも、先ず第一に取り組むべきことなのです。
神への信頼の中で
私たちが二の次とすべき願いとは、教会において、仲の良い、気の合った者どうしの交わりを築こうとすることだと言うことができます。教会は、私たちが自分の思いで集まっている群れではなくて、神が召し集めておられる群れなのです。ですから教会において私たちが主イエス・キリストによる救いの恵みを分かち合うべき相手は、自分の気に入った人、共感できる人だけではありません。恵みを分かち合う交わりを築くために私たちは、自分の中に根強くある、自分の気に入る人とだけ交わり、それ以外の人をそこから排除しようとする罪と戦わなければなりません。その戦いを支えるのは、自分の思いの実現よりも、神のみ心に従うことにこそ本当の幸いがあるという信仰です。神のご支配と導きへの信頼と言ってもよいでしょう。神にどれだけ信頼しているか、それによって私たちの交わりのあり方も決まるのだし、神に信頼しているならば、挫折や思い通りにならないことの多いこの人生を、しかし絶望せずに、やけにならずに生きていくことができるのです。
そして最後に、パウロがここでローマの教会の人々に、自分のために祈ってくれるように願っていることに注目したいと思います。パウロの働きは、教会の人々の祈りによって支えられていたのです。祈りによる支えなしには、パウロといえども、恵みを分かち合う交わりを築く働きを全うすることはできません。ですから私たちも、お互いのために執り成し祈り合うことをもっともっと大事にしたいのです。お互いに祈って支え合う中でこそ私たちは、神に信頼して生きることができるようになります。その神への信頼の中で、人間の弱さや罪を乗り越えて、主イエス・キリストによる救いの恵みを分かち合う良い交わりを築いていくことができるのです。