主日礼拝

恵みの権威

「恵みの権威」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第23章33-40節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第11章27-33節  
・ 讃美歌:295、140、536

祭司長たちとの対立
 主イエスが、そのご生涯の終りにエルサレムに来られたことを今私たちはマルコによる福音書の第11章において読み進めています。11章から先は、主イエスのご生涯の最後の一週間のことです。エルサレムに来られた主イエスは、その週の内に捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。しかしそこに至るまでに、マルコはずいぶんいろいろなことを語っています。特に本日のところから12章にかけては、主イエスと、エルサレム神殿の祭司長や律法学者、長老たちなどユダヤ人の宗教指導者たちとのいくつかの論争ないし対立が語られていきます。これらの論争を通して、ユダヤ人の指導者たちと主イエスとの対立点が明確になっていくのです。つまり、主イエスが何ゆえに十字架につけられたのかが示されていくのです。  本日の箇所に語られている最初の対立は何をめぐるものだったのでしょうか。28節で祭司長、律法学者、長老たちは、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うています。主イエスがしている「このようなこと」とは、主イエスのこれまでのみ業の全てを指しているとも言えますが、直接には、先週読んだ15節以下の、いわゆる「宮清め」のことを指していると言えるでしょう。エルサレムの神殿に来られた主イエスは、その境内、「異邦人の庭」と呼ばれる広場で、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したのです。そして旧約聖書の言葉を引いて、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」とおっしゃったのです。主イエスがエルサレムの神殿でなさったこれらのことを、指導者たちは問題としているのです。彼らがこのように問うたのも神殿の境内においてだったことが27節に語られています。  主イエスのなさった「宮清め」は、単に、礼拝の場所である神殿で商売をするのはけしからん、神殿を金儲けの場所にするな、ということではない、ということをこれまでにお話ししてきました。これらの商売は、ユダヤ人たちの礼拝の便宜をはかるためになされていたのです。その商売が、異邦人の礼拝を妨げていることを主イエスは問題にしておられるのです。ですから主イエスの怒りは、神殿で商売している人に向けられたのではなくて、ここで行なわれている礼拝そのもの、礼拝に集っている人々の思いそのものへと向けられていたのです。あなたがたの礼拝は、形だけは整えられているが、異邦人を無視して、自分たちの幸せや慰めを求めることしか考えていない。それは強盗のような貪欲に支配された礼拝だ、と主イエスは言っておられるのです。そのような偽りの礼拝を打ち砕き、「すべての国の人の祈りの家」を打ち立てるために、主イエスはこの世に、そして今エルサレムに来られたのです。  しかし主イエスがなさったことを聞いた祭司長、律法学者たちは、18節にあったように、「イエスをどのようにして殺そうかと謀った」のです。イエスを生かしてはおけない、という殺意を深めたのです。しかしすぐに主イエスに手をかけることは出来ませんでした。やはり18節に「群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである」とあります。人々は主イエスを支持していたのです。そこで彼らは、人々の主イエスに対する支持、好意を切り崩しにかかります。それがここからの一連の論争や対立の目的です。主イエスの言葉尻を捕えて陥れ、人々の気持ちを主イエスから引き離そうと彼らは画策するのです。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」という彼らの問いはそういう意図によってなされているものです。彼らは、イエスには何の権威もない、誰もイエスにこんなことをする権威を与えてはいない、全てはイエスが勝手にしていることなのだ、ということを明らかにしようとしているのです。

主イエスの権威を問う
 彼らがこのように主イエスの権威を問題にしたのは、自分たちは祭司や律法学者としての教育を受け、正式にその職に任命されたことによって権威を与えられているけれども、イエスは祭司でも律法学者でもない、ガリラヤの田舎町の大工の息子に過ぎないのだから、エルサレム神殿で人々を教えるような権威はない、と考えているからです。これは人間の社会における権威についての常識的な感覚です。そのポイントは、権威というのは勝手に主張できるものではなくて、ある制度の中で正式に認められて初めて得られるものだ、ということです。それは私たちの社会を成り立たせている原則だと言えます。会社などにおいても、ある地位に任命されることによって初めて、一定の権威をもって仕事をすることができるわけです。教会にもそういう原則は当てはまります。たとえば私が毎週この教会でこうして説教をしているのは、私が日本基督教団の教師として立てられており、この教会に招聘されて正式に牧師として就任しているからです。そのことのゆえに、私自身に何か権威があるわけではないのに、ある意味では偉そうにここでみ言葉を語ることができるのです。また教会として様々なことを決断していく機関は、私たちの教会の受け継いでいる伝統においては長老会です。それは教会総会における選挙で選出された長老たちの会議です。正規の手続きを経て選ばれ、就任した長老たちの会議が教会としての決定をしていくのです。そのように、権威の所在をはっきりさせるための制度を教会も持っています。それなしには、それぞれが勝手なことを言い合う無秩序な烏合の衆となってしまうのです。ですから、ここで祭司長、律法学者、長老たちが考えていることは、ある意味では当然のことであり、私たちにもよく分かります。権威ある地位や職務を何も持っていないイエスが突然神殿にやって来て宮清めをしても、それは秩序の破壊にしか思えないのです。

天からのものか、人からのものか
 こういう思いで主イエスの権威を問うた彼らに対して主イエスは、逆に一つの問いをもってお答えになりました。29節以下です。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」。主イエスにこのように逆に問われて、彼らは言葉に詰ってしまいました。ヨハネとは、いわゆる洗礼者ヨハネです。主イエスが活動を開始される前に、ヨルダン川のほとりの荒れ野で人々に、罪を悔改めて神様に立ち帰るべきことを教え、悔い改めの印としての洗礼を授けていた人です。しかし領主ヘロデによって捕えられ、首を切られてしまいました。そうなったのは、ヘロデの思いによってだけではありません。ユダヤ人の宗教的指導者たち、つまり彼ら祭司長、律法学者、長老たちが、ヨハネの宣べ伝えたことを受け入れず、彼を支持しなかったからでもあります。つまり彼らは、ヨハネの洗礼を、天からの、つまり神からのものとは認めなかったのです。そのことを前提にして主イエスはこのように問うておられるのです。この問いを受けて彼らは互いに論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう」。彼らはヨハネの洗礼を受け入れなかったのですから、それを「天からのものだ」と言うわけにはいきません。しかし、「人からのものだ」と言い切ることもできないのです。なぜなら「彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである」と32節にあります。群衆は、ヨハネが本当に預言者、つまり神から使わされた人だと思っていたのです。「ヨハネの洗礼は人からのものだ」と言うことは、その群衆の思いを真っ向から否定することになり、逆に彼らが群衆の支持を失い、民心が彼らから離れてしまうことを彼らは恐れたのです。つまり彼らは、人々の心を主イエスから引き離そうとしてあのように問うたのに、主イエスのこの問いによって逆に自分たちが民衆の支持を失う危機に陥ってしまったのです。それで彼らは、「分からない」と答えました。主イエスの問いから逃げたのです。すると主イエスも、「それなら、何の権威によってこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とおっしゃって、彼らの問いに答えることを拒んだのです。  私たちはこの問答に、主イエスの、まことに機知に富んだ受け答えを見出します。相手の悪意ある問いを上手にかわして、逆に相手を追いつめるこの才覚は見事です。しかし、ここで見つめるべきことは、そのような主イエスの才覚ではありません。主イエスが彼らに問い返されたそのことは、単に彼らの悪意ある攻撃をかわすための機知なのではなくて、私たち一人一人にも向けられている鋭い問いなのです。「ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか」、天からであれば、それは神からのものであり、権威あるものです。それには聞き従わなければなりません。人からであればそれは人間が勝手にしていることで、従う必要はありません。つまり、「天からのものか、人からのものか」という問いは、天からの権威には従い、人からの権威には従わない、という姿勢を前提としているのです。祭司長たちは主イエスに、「あなたは何の権威でこんなことをするのか」と問いました。それに対してこのように問い返すことによって主イエスは、「私の権威を問うからにはあなたがたは、天からの権威には聞き従い、人からの権威には従わない、という姿勢を持っていなければならない。その姿勢をはっきりと見せなさい」と言っておられるのです。

自分の権威を守ろうとする人々
 そしてこの主イエスの問いによって明らかになったのは、祭司長たちが、神からの権威には従い、人間の権威には従わない、という神に対する誠実な姿勢を持っていないということでした。彼らは、ヨハネの洗礼が神からのものか、人からのものか、明言することを避けたのです。彼らはヨハネを受け入れなかったのですから、ヨハネの洗礼が神からではなく人からのものだと考えていることは明らかです。それならば、民の宗教的指導者として、そのことをはっきりと人々の前で語り、ヨハネに聞き従うことは神のみ心ではない、むしろ神に逆らうことになるのだと教えて、民の間違いを正していくべきなのです。しかし彼らはそのようにはせず、「分からない」と逃げています。それは群衆を恐れているからです。人々の人気や信頼を失うことを恐れているのです。つまり彼らは、神を恐れ、神の権威に従おうとしているのではなくて、人を恐れ、人の評判を気にして生きているのです。そしてそういう彼らの姿勢の根本にあるのは、自分たちの権威を守ろうということです。ヨハネの洗礼を受け入れなかったのも、それが神からのものでないからと言うよりも、悔い改めを求めるヨハネの言葉が、民の指導者としての自分たちの権威を脅かすものであると感じたからなのです。そしてこのたび主イエスがエルサレムの神殿に来て宮清めを行ない、神殿の主、礼拝の主として振る舞われると、その主イエスを殺してしまおうとする、それも、主イエスによって彼ら自身の権威が脅かされると感じているからです。彼らはこのように、神の権威に従っているのではなくて自分たちの権威を守ろうとしているのであり、それゆえに神をではなく人間を恐れているのだということが、主イエスのこの問いによって明らかになったのです。

「分からない」
 私たちは、祭司長、律法学者、長老たちのこの姿を批判しているだけですむでしょうか。「天からの権威には聞き従い、人からの権威には従わない、という姿勢があるのか」という主イエスの問いは、私たち一人一人にも向けられているのです。私たちもしばしば、主イエスの権威を問います。主イエスは本当に信ずるに足る方なのか、本当に救い主なのか、神の独り子なのか、という問いは、要するに主イエスの権威を問うているのです。そういう問いは大切だし必要です。そのように問うことをせずにただやみくもに信じることは決して正しい信仰ではありません。信仰を持つことは、自分で考えることをやめてしまうことではないのです。そういう意味で私たちは常に、主イエスの権威を問うていかなければなりません。けれどもそこで大切なことは、まことの権威、神からの権威には聞き従い、それに服するという姿勢です。そういう姿勢なしに主イエスの権威を問うているとしたらそれは、この祭司長たちと同じように、自分の権威を守ろうとしているのです。そこでは、権威はあくまでも自分のものであって、それを脅かすものは受け入れないということが起ります。そういう姿勢でいる時に私たちも、この祭司長たちと同じように、主イエスの問いかけから逃げて「分からない」と言い始めるのです。主イエスは私たちに、神からの権威には従い、そうでないものには従わないという姿勢を求めておられます。しかし生まれつきの私たちは、神からの権威に従おうとせず、自分の権威を主張し、その結果人間の権威を恐れて生きています。その私たちには主イエスのこの問いは、自分を脅かすもののように感じられるのです。だから私たちも、「難しい、分からない」と言って逃げるのです。それは実は分からないのではなくて、分かりたくないのです。受け入れたくないのです。それを受け入れたら、自分の権威が失われるからです。言い換えれば、自分が人生の主導権を握っていられなくなるからです。しかしまことの信仰とは、まさにそこで神様の権威に従うことです。自分の人生の主導権を神様に譲り渡すことです。自分が人生の主人であることをやめて、神様に従う者となることです。主イエスの問いかけはそういう意味を持っているのです。「あなたは神の権威に従い、自分の人生の主導権を神に明け渡す用意があるのか、それとも自分の権威に固執し、人生の主導権をあくまでも自分の手に握っていようとするのか」、この問いかけの前で私たちも言葉を失うのではないでしょうか。私たちは、自分が分かることの範囲内で、受け入れることが出来る範囲内で、つまり自分の権威が脅かされることのない範囲内で信じようとする者です。自分の権威が脅かされ、自分が変わらなければならないことに対しては心を閉ざし、「分からない」といって逃げるのです。そのようにして自分の権威を必死になって守っているのが私たちであり、その点において、祭司長、律法学者、長老たちと変わるところはないのではないでしょうか。そのように自分の権威に固執し、「分からない」と言って逃げようとする者には、主は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とおっしゃるのです。つまり主イエスの権威はその人には分からないままなのです。「分からない」と逃げていると、いつまでも「分からない」ままなのです。  つまり「分からない」というのは決して中立であることではなくて、主イエスを拒否し、敵対し、殺すことなのです。祭司長たちのこの「分からない」という思いによって主イエスは十字架につけられたのです。自分の分かることだけを信じ、自分が受け入れることのできることだけを受け入れ、つまり自分が脅かされることのないところでのみ信じ、自分が脅かされることに対しては固く心を閉ざし、あるいは「分からない」と言って逃げる、そういう私たちの中にもある思いによって、主イエスは十字架につけられたのです。ですから私たちは日々、主イエスを十字架につけていると言わなければならないのです。

神の言葉によって変えられていく
 本日共に朗読された旧約聖書の箇所は、エレミヤ書第23章33節以下です。そこには、預言者や祭司に対して、お前たちはもう「これが主の託宣だ」という言い方をしてはならない、と言われています。それは彼らが、勝手に自分の言葉を託宣として、つまり神の言葉として語ることによって主の言葉を曲げたからです。彼らは神の権威に聞き従って自分が変えられるのではなくて、自分の権威のために神の言葉を変えてしまったのです。そのような者たちに対して、「主の託宣だ」と言うことをやめて、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい、と語られています。つまり、神の語られること、お示しになることをしっかり聞き、それに耳を傾けよ、ということです。これこそが、神の権威に聞き従い、それに服する者の姿なのです。私たちの信仰においても、これと同じ転換が起らなければならないのです。自分が主人として人生の主導権を握り続けている中で、分かること、受け入れられること、つまり自分が変わらないですむことだけを信じようとしている限り、主イエスの権威は分かりません。主イエスにおいて神が語り示しておられることを聞き、その神の言葉によって自分が変えられていくことを受け入れ、求めていくことによってこそ、主イエスの神としての権威を知ることができるのです。

主イエスによる救いが分かる
 主イエスにおいて神が語り示しておられることを聞き、そのみ言葉によって変えられていくことによって、私たちは、神の独り子である主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことを知らされていきます。主イエスの十字架の死によって私たちの罪が赦されたこと、父なる神様が主イエスを復活させて下さり、死に打ち勝つ新しい命を私たちにも与えて下さることを示されます。それらの救いは、私たちが何らかの説明によって理解し、納得することができるようなことではありません。つまり、自分が人生の主人であり続けている間は分からないのです。主イエスが、私たちの人生に、権威をもって介入して来られ、お前たちの主人はもはやお前たちではない、それは私だ、と宣言なさり、私たちを支配して下さる、そのご支配に服従し、人生の主導権を主イエスに明け渡すことによってこそ、この救いの恵みは私たちにもたらされ、与えられるのです。主イエスによる救いが分かるとはそういうことです。主イエスは、恵みの権威をもって今私たちに語りかけ、あなたは私の権威を受け入れ、従うのか、それともあくまでも自分の権威に固執し、私を拒むのか、と問うておられるのです。「分からない」と言ってその問いから逃げるのでなく、「主よ、私を、あなたの恵みの権威に従う者として下さい」と祈り求めていくことによって、主イエスによる救いが私たちに与えられます。そこには、神をこそ恐れることによって人を恐れることから解放され、神に対しても人に対しても誠実に生きる新しい歩みが与えられていくのです。

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