主日礼拝

父なる神

「父なる神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章23-24節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章15節
・ 讃美歌:12、412

父なる神を信じることは信仰の「いろは」の「い」
 「使徒信条」の冒頭の言葉「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」をめぐって、聖書のいろいろな箇所からみ言葉に聞いておりますが、本日は、「父なる」という言葉を取り上げます。使徒信条の最初の文章についての、最後の説教となります。
 ところでこれまで、日本語に訳された使徒信条の言葉の順序に従って、先ず「天地の造り主」、次に「全能の」、そして最後に今日「父なる」を取り上げるわけですが、ラテン語で書かれている使徒信条の原文の順序はそれとは正反対になっています。原文の順序では、「我は神を信ず」と先ず語られ、その神とは「父なる」「全能の」「天地の造り主」であると語られているのです。つまり神が父であることは、実は使徒信条の冒頭に語られているのです。父なる神を信じることは、教会の信仰の「いろは」の「い」なのです。

神を父と誇る?
 神は我々の父である、という信仰は世界中にあります。それは多くの場合、自分たちは神の子孫なのだ、という民族的な誇りや自負と結びついています。日本でも、天皇は天照大神の子孫であると語られており、そして日本人の系図はみんな清和源氏が桓武平氏のどちらかに繋がっているようですから、その起源は清和天皇か桓武天皇となるわけで、ということは日本人は皆天照大神の子孫だ、ということになるわけです。そのように、神を父と信じる信仰は、自分たちは氏素性の確かな、由緒正しい者だ、という誇りを語るための拠り所となっている場合が多いわけですが、聖書は、そのような人間の誇りを打ち砕きます。それが、これまで見てきた、神が「天地の造り主」であるという信仰です。この世界と人間とは神によって創造されたものだ、という天地創造の信仰は、人間は神によって造られたもの、被造物だ、ということを意味しているのです。しかも創世記第2章は、人間は土の塵から造られたと語っています。人間は土の塵の塊に過ぎず、神が命の息を吹き入れて下さったから生きており、神がそれを取り去れば、元の土の塵に帰るのです。聖書はこのように語ることによって、神は人間の父ではないし、人間は神の子、神の子孫ではない、と語っているのです。天地の全てをお造りになった創造主である神と、造られた被造物である人間との間には越えることのできない隔たりがあり、人間は、自分は神の子孫だと誇るようなことはできないのです。

父のような愛
 このことが旧約聖書の信仰の根本であるわけですが、その旧約聖書の中には何箇所か、神を父と呼んでいるところがあります。例えば申命記第32章6節です。本日は聖書のいろいろな箇所をこの説教の中で読みますが、聖書をお持ちでない方もおられるでしょうから、聞いていて下さればよいです。申命記32章6節にこのように語られています。「愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父、あなたを造り、堅く立てられた方」。申命記32章の全体を後でご自分で読んでいただきたいのですが、ここには、モーセがその生涯の最後にイスラエルの民に勧告を与えている「モーセの歌」が記されています。彼はこの歌で、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、荒れ野の旅路を守り導き、そして約束の地を与えて下さろうとしている主なる神の恵みを振り返りつつ、その主なる神にしっかり聞き従って歩むように勧めているのです。その歌の中で、主なる神が「造り主なる父」であると語られています。それは、主なる神があなたがたイスラエルの民を造り、父が子に対するように深く愛し、慈しみ、恵みを与え、導いて下さっていることを語っているのです。モーセがここで神を父と呼んでいるのは、神の人間に対する愛を言い表すためであって、イスラエルは神の子孫なのだと誇るためではありません。

父と子の良い関係は損なわれた
 主なる神はイスラエルの民を、父が子を愛するように愛し、恵みを与えて下さったのですが、イスラエルの民は、この神の愛に応えようとしませんでした。そのことが、申命記32章の続きのところに語られています。15節以下を読みます。「エシュルン(イスラエルのこと)はしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。彼らは他の神々に心を寄せ、主にねたみを起こさせ、いとうべきことを行って、主を怒らせた。彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ、新しく現れ、先祖も知らなかった無縁の神々に犠牲をささげた。お前は自分を産み出した岩を思わず、生みの苦しみをされた神を忘れた」。ここには、主なる神がイスラエルの民のために産みの苦しみをし、産み出して下さったと語られています。つまり主なる神が今度は母にたとえられているのです。神は父や母が子どもを愛するようにイスラエルの民を愛し、養い、育てて下さったのです。しかしイスラエルは成長すると神を忘れ、感謝せず、あろうことか他の神々を拝むようになりました。この後のところには、神がイスラエルの民のこの罪に対して怒り、彼らを敵の手に渡して苦しみを与えると語られています。この「モーセの歌」の中にはその後のイスラエルの民の歴史が先取りされて語られているのです。主なる神はイスラエルの民を子どものように愛し、慈しんで、エジプトから解放し、約束の地を与えて下さったけれども、イスラエルの民はその愛に応えようとせず、他の神々、偶像の神々を拝むようになった、その罪のゆえに、神とイスラエルの間からは父と子という良い関係が失われてしまったのです。

エリヤを遣わして下さる神
 旧約聖書の中で神が父、民が子と呼ばれているところがもう一つあります。それが先ほど朗読された、マラキ書第3章の23、24節です。主なる神はここで、「大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤを遣わす」と言っておられます。「大いなる恐るべき主の日」とは、主なる神の創造主としてのご支配が決定的に現され、敵対する者が裁かれ滅ぼされる日です。神の愛に応えようとしない罪人はその裁きにおいて滅ぼされるしかないのです。しかしその前に神は、預言者エリヤを遣わして下さると言っておられます。そのエリヤが、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」のです。父である神と、子である人間の間の良い関係は、人間の罪のために失われています。お互いの心がそっぽを向いてしまっているのです。その父の心を子に、子の心を父に向けさせる、つまり両者の良い関係を回復させる、そのためにエリヤが遣わされるのです。お互いの心がそっぽを向いていると申しましたが、このエリヤを遣わして下さる父の心は既に子へと向かっているのです。父である神は子である人間と良い関係を回復したいと願っておられるのです。人間を裁いて滅ぼしたくはないと思っておられるのです。問題は人間が悔い改めて心を父に向けるかどうかです。そのために神はエリヤを遣わして下さるのです。

父と子の関係を回復して下さる主イエス
 このマラキ書3章23、24節は、旧約聖書の最後の文章です。そして新約聖書の最初にある福音書の始めのところには、主イエス・キリストが活動を始める前に、洗礼者ヨハネが現れて人々に悔い改めを求めたことが語られています。四つの福音書はどれも、マラキ書3章23、24節を、洗礼者ヨハネが現れることを預言している言葉だと捉えているのです。洗礼者ヨハネこそ、主なる神がお遣わしになったエリヤでした。しかしヨハネ自身が父と子の良い関係を回復したのではありません。ヨハネは、主イエス・キリストのための道備えをした人です。ヨハネの使命は、主イエスを指し示し、主イエスのもとに人々を導くことでした。ヨハネが指し示した主イエス・キリストによってこそ、神と人間との間に、父と子としての良い関係が回復されたのです。それが、主イエス・キリストによって実現した人間の救いです。旧約聖書の最後に語られているマラキの預言は、洗礼者ヨハネが指し示した主イエス・キリストによって実現したのです。主イエス・キリストが神と私たちとの間に、父と子としての良い関係を回復して下さったので、私たちは神を「父なる神」として信じることができるのです。

「アッバ、父よ」と呼ぶことができる独り子主イエス
 主イエスはそのことをどのようにして実現して下さったのでしょうか。先ず読みたいのは、マルコによる福音書の14章36節です。いわゆる「ゲツセマネの祈り」において主イエスは、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。主イエスは神に「アッバ、父よ」と呼びかけて祈られたのです。「アッバ」というのは、子どもが愛する父親を呼ぶ言葉、日本語で言えば「お父ちゃん」というような言葉です。そのような言葉で神に呼びかける習慣はユダヤ人たちの間にはありませんでした。神がイスラエルの民の父であると語っている箇所は先ほど見たように旧約聖書の中にいくつかありますが、「お父ちゃん」と呼びかけて祈るようなことはあり得なかったのです。しかし主イエスはそのように祈っておられました。それは、主イエスが元々神の子だったからです。そのことが、コロサイの信徒への手紙の第1章に語られています。その13、14節には、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」と語られています。御子イエス・キリストによって罪の赦し、救いが与えられているのです。その御子イエス・キリストについて、その後こう語られています。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。御子イエス・キリストは、全てのものが造られる前に、つまり天地創造以前に、父なる神から生まれた神の子であられるのです。そのように神から生まれた子であられるのは主イエスだけです。神を「父」と呼ぶことができるのは、本来はこの主イエス・キリストお一人なのです。そのことを聖書は、主イエスは神の「独り子」であると語っています。この言葉は、使徒信条の次の文章「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」に出て来ますので、次回に取り上げます。本日のところは、神を「父なる神」と呼ぶことができるのは、本来は、神の独り子である主イエスだけなのだ、ということを確認しておきたいと思います。「アッバ、父よ」という主イエスの祈りは、主イエスと父なる神との間のこの特別な関係の現れなのです。私たち人間は、神が父のように愛して、命を与え、養い、導いて下さっているとしても、神から生まれた子ではなくて、神によって造られた被造物です。だから私たちは本来神を「父」と呼ぶことはできないし、まして「お父ちゃん」などと呼びかけて祈ることはできないのです。

あなたがたの天の父
 ところが、主イエス・キリストは弟子たちへの教えにおいて、ご自分の父である神のことを「あなたがたの天の父」と言われました。マタイによる福音書の5?7章のいわゆる「山上の説教」に繰り返しそれが語られています。例えば6章25節以下の「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」という教えにおいても、その理由として、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と語られています。その少し前の祈りについての教えにおいても、異邦人は言葉数多く祈れば聞き入れられると思っているが、あなたがたはくどくどと祈るな、と言っておられ、その理由として、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と語っておられます。まことの神を知らない異邦人は、何度もしつこく祈らなければ神に届かないと思っているが、神はあなたがたの父として、祈り願う前から必要なものをご存じであり、与えて下さるのだから、あなたがたは父である神の愛に信頼して祈ることができる、ということです。それに続いて教えて下さった「主の祈り」においても、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて祈りなさいとお命じになったのです。天の父である神があなたがたを子として愛し、養い、導いて下さる。あなたがたは父なる神の愛の中で、思い悩みから解放されて生きることができるし、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて神に祈ることができる、それが主イエス・キリストの教えなのです。

主イエスの十字架と復活によって
 主イエスのこの教えは、「神が愛に満ちた父のような方であると考えれば安心して生きることができる」というような、人間の気の持ちようの話ではありません。私たちが父なる神の子として生きることができるようになるために、神の独り子である主イエスは、私たちと同じ人間となってこの世を生きて下さったのです。そして私たちの罪を全て背負って、身代わりとなって十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。神の愛に応えようとせず、神を無視して生きている私たちが、その罪のゆえに裁かれ、滅ぼされなければならない、その裁きと滅びを神の子である主イエスが代って受けて下さったのです。主イエスがそのように私たちと一つになって下さったことによって、本来神の子ではない、神を父と呼ぶことなどできないはずの私たちが、神の子とされ、神を父と呼ぶことができるようになったのです。私たちが「父なる神」を信じて、神の父としての愛に信頼して、思い悩みから解放され、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて祈ることができるのは、神の独り子である主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによってなのです。その救いを言い表しているのが、ヨハネによる福音書の3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。父である神が、その独り子主イエスを、その命を、私たちの救いのために与えて下さったのです。その独り子主イエスを信じることによって私たちは、主イエスの十字架によって罪を赦され、その復活にあずかって永遠の命を生き始めるのです。つまり私たちも主イエスと共に神の子とされるのです。「あなたがたの天の父」という主イエスの教えは、私たちの心の持ちようによってではなくて、主イエスの十字架の死と復活によって実現したのです。

神の子とする霊
 この主イエスによる救いを信じる信仰を私たちに与えて下さるのが、神の霊、聖霊です。その聖霊のお働きが、先ほど共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章15節に語られています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。私たちに働いて下さる聖霊は「神の子とする霊」です。聖霊は私たちに主イエスを信じる信仰を与え、主イエスと結び合わせることによって、私たちを神の子として下さるのです。神の子とされた私たちは、奴隷のような恐れから解放されます。奴隷がいつも主人の顔色を伺って、何か間違ったことをして罰せられてしまうのではないか、とビクビクしているような生き方から解放されて、神が天の父として自分を愛して下さり、必要なものを必要な時に与えて下さる、その父の愛に信頼して、安心して生きることができるようになるのです。そしてさらに、この聖霊のお働きによって私たちは、主イエスが祈っておられたように、「アッバ、父よ」と祈ることができるようになります。神に向かって、「お父ちゃん」と呼びかけるような、被造物である私たちには本来許されないはずのことが可能となるのです。私たちが信仰を与えられて、「天の父なる神さま」と祈り始める時、そこには神の子とする霊が働いて下さっており、私たちは神の子として生き始めているのです。「父なる神」を信じる信仰は、この祈りの中でこそ体験されていき、分かっていくのです。

教会創立147周年
 本日の礼拝は、この教会の創立147周年を記念する礼拝です。私たちを神の子として新しく生かして下さる聖霊が、147年の間、この群れに働いてきて下さったのです。私たちの信仰の先輩たちは、聖霊によって主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けて主イエスと結び合わされることによって神の子とされ、天の父である神の愛の下で、その愛に信頼して生きてきました。それによって、奴隷のような恐れから解放されて自由になり、天の父である神に向かって、主イエスと共に「アッバ、父よ」と親しく語りかけ、祈る幸いを与えられてきたのです。その聖霊が本日、一人の兄弟をこの群れに加えて下さり、共に父なる神を信じ、「天の父である神さま」と祈る者として下さいます。神の子とする霊に導かれた教会の歴史が、今もこのように前進していることを感謝し、み名をほめたたえます。
 この世を生きる私たちの人生には様々な苦しみ悲しみがあり、いくら力を尽くしても人間の力ではどうにもならないことがあります。今私たちを苦しめている新型コロナウイルスはまさにそうです。医療従事者の方々もへとへとになりながら懸命に戦っており、私たちも、感染予防のためにできるだけのことをしています。しかし私たちの知識や力ではどうにもならないこともたくさんあって、不安や恐れや絶望感に捉えられてしまうことがあります。しかし私たちは、天地の造り主であり、全能の、父なる神を信じる信仰を聖霊によって与えられています。独り子主イエスの十字架の死と復活によって、神が私たちの父となって下さり、私たちを子として愛して下さっているので、その愛に信頼して、「天の父なる神よ」と祈ることができます。それは何と幸いなことでしょうか。

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