主日礼拝

上に立つ権威

「上に立つ権威」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第21編1-14節
・ 新約聖書:ローマの信徒へ手紙 第13章1-7節
・ 讃美歌:18、394、520、81

上に立つ権威
 主日礼拝において、ローマの信徒への手紙を読み進めておりまして、アドベントの前に12章の最後まで来ていました。アドベントとクリスマスを終えて年が明け、本日から13章に入ります。本日の箇所である13章1-7節については、その受け止め方において様々な議論があります。ここに語られているのは、1節にあるように「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」ということです。「上に立つ権威」というのは、3節には「支配者」とか「権威者」とあり、4節にはその権威者が剣を帯びていると語られていることから分かるように、剣をもって、つまり場合によっては人を殺すこともできるような力をもって私たちを支配している、いわゆる国家権力のことです。パウロがこの手紙を書いた当時、その権力を握っていたのはローマ帝国でした。ローマは当時、地中海沿岸の全域を支配しており、ローマ皇帝の下に、多くの民族が支配されていたのです。日本も七十数年前までは「大日本帝国」であり、天皇が支配する国でした。天皇は今でも英語ではエンペラー、つまり皇帝です。大日本帝国においては国民は皆皇帝である天皇の臣民、つまり家来だったのです。しかし大日本帝国は曲がりなりにも立憲君主国で、天皇は憲法に基づいて支配権を行使することになっていました。ローマ帝国においては皇帝個人の権力がそれよりもずっと強く、皇帝は気に入らない者を死刑にすることもできました。人々は皇帝の絶対的権威、支配の下にあったのです。特に、パウロがこの手紙を書き送っている相手はローマの教会です。ローマは皇帝のお膝元であり、ローマの教会の人々にとって皇帝の意志はまさに自分たちの生死に関わることでした。そのような上に立つ権威、国家の、皇帝の支配をどのように受け止めるべきであるかということは、信仰をもって生きている者にとって大きな問題です。信仰とは、神に従い、神のご支配の下で生きることですが、現実の生活においては、皇帝に支配されており、それに従わなければ生きていけない、そこに矛盾、葛藤が生じるのです。

国家権力の支配
 このことは、ローマ帝国や大日本帝国の下で生きていた人たちだけの問題ではありません。私たちは今、皇帝に支配されているわけではありませんが、国家権力の下にあることには変わりはありません。国というものがある限り、国家権力がなくなることはないのです。私たちが国家の権力、支配を最も身近に感じるのは、税金を取られる時です。働いて得た収入のある部分を国家に納めなければならない、会社勤めをしていたら、毎月の給料から税金が自動的に天引きされていくのです。また今、消費税が10%になろうとしていますが、政府と国会においてそれが決められれば、私たちは否応なしに、物を買う時に一割の税金を払わなければならなくなるのです。こういうところに国家権力の支配が現れています。パウロが7節で「貢」とか「税」と言っているのはそういう問題です。「貢」とは今日の直接税、「税」とは関節税のことだろうと言われています。直接関節に、国に税金を納めなければならない、そこに国家権力の支配が端的に現れているのです。
 国家権力の支配は税金を徴収することだけに現れているのではありません。犯罪者を逮捕し、裁判にかけ処罰することも国家権力によってなされます。その点において国は今も「剣を帯びて」支配しているのです。この「司法制度」も国家の権力行使の一つの要素です。そしてそれは今日、いわゆる「三権分立」の原則によって、立法権、行政権とは独立して行使されることになっています。しかし現実には、裁判が政府の思惑によって歪められるということがどこの国でもあります。起訴されたらほぼ全て有罪になる、というのが日本の裁判の実体であり、そこに冤罪事件もいくつも生じています。「疑わしきは被告人の利益に」という裁判の原則が無視されてしまうことが多いのです。そういう意味で国家権力というのはまことに恐ろしいものです。税金を取られていまいましい、という程度では済まない、場合によっては私たちの人生を大きく変えてしまうような力をもって、国家権力は私たちを支配しているのです。

国家権力を認めるか認めないか
 このような国家権力を私たちは信仰においてどのように受け止め、それにどのように向き合ったらよいのか、それは信仰者にとって重大な問題であり、そこにはいろいろな考え方、生き方が生まれます。その一つは、我々は神のご支配の下にあり、神にのみ従うのだから、人間の権威や国家の支配は一切認めず、そのようなものには従わない、という生き方です。キリスト教の歴史において、そのようなグループがしばしば現れました。これはまだ教会が誕生する前ですが、主イエスの時代の、聖書に出て来る「熱心党」というのはそのような生き方をしていた人々でした。彼らは、神の民であるイスラエルに対するローマ帝国の支配を認めず、ローマの支配を打倒するために暴動を起したりテロ行為をしていたのです。宗教改革以後にも、国家と結びついている教会のあり方を批判して独自の共同体を築こうとする群れが生まれました。このようなグループの中には、時の国家権力と激しく対立し、権力による弾圧を受け、結局小さなグループに止まり、歴史から消えていったものもあるし、国の政治には一切関わらずに、自分たちだけの小さな共同体の中に閉じこもって生きていった人々もいます。神にのみ従い、人間の権力、国家の支配は認めないという彼らの考えはある意味で大変純粋であり、信仰的でもあります。しかし私たちが見つめておくべき大事なことは、主イエス・キリストご自身はそのような生き方をなさらなかったということです。主イエスの弟子の中には熱心党出身の人もいましたが、主イエスご自身は熱心党とは常に一線を画しておられました。主イエスは、ローマ帝国の支配を否定したり、それを打倒しようとはなさいませんでした。むしろ主イエスはルカによる福音書第20章25節で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのです。このお言葉は皇帝に税金を払うことが神の律法に適っているか、という議論において語られたものです。このお言葉によって主イエスは皇帝に税金を納めなさい、とおっしゃったのであり、皇帝の支配を認めたのです。本日の箇所におけるパウロの「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」という言葉も、この主イエスの教え、生き方に倣うものだと言えます。パウロも7節で「貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め」なさいと教えているのです。

国家権力は神によって立てられたもの
 つまりパウロは、主イエスの教えに基づいて、国家権力に従い、税金をちゃんと納めなさいと言っているのです。それではパウロにおいて、そして主イエスにおいて、国家の支配に従うことと神のご支配に従うこととの間に矛盾や葛藤はないのでしょうか。パウロは1節の後半で「今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と言っています。国家の権力は全て神によって立てられたものなのだから、それに従うべきだ、と言っているのです。ここから、先程述べた第一の生き方とは正反対の生き方が生まれます。つまり、国家権力を神によって立てられたものとして受け入れ、それに従うことを神に従う信仰の義務の一つにする、という生き方です。このような考え方、生き方は、後にキリスト教がローマの国教、国の宗教となったことによって確立していきました。そして後には、「王権神授説」、つまり王の権威は神がお授けになったものだから、王に逆らうことは神に逆らうことだ、という教えも生まれたのです。そうなると、たとえ王が、つまり国家権力が民を苦しめるものであっても、それは神のみ心なのだから、出来ることは神がみ心を変えて下さることを祈ることだけだ、ということになります。「今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」というパウロの言葉はそういうことを教えているのでしょうか。そのようにここを読むなら、これは現代においてはもう時代遅れの、非民主的な教えということになります。このようなパウロの教えは支配者におもねるものであり、人間の自由、平等、権利を阻害している、と批判されることもあるのです。私たちはこのパウロの教えをどのように受け止めたらよいのでしょうか。

国家権力も神の下にある
 私たちは、国家権力の支配と神のご支配との間に矛盾対立があることを知っています。国家権力が時として非常に無慈悲な仕方で人々の権利と自由を奪い、その生活をねじ曲げることがあることを知っています。戦前の日本においてまさにそういうことが起っていました。国民全てが天皇の臣民であるという体制の下で、唯一の神を信じ、キリストにのみ従って生きることは大変なことでした。逮捕されて、天皇とキリストとどっちが偉いのか、と尋問されたキリスト者もいたのです。戦後70年、私たちはそのようなことのない社会を生きてくることができましたが、これからはどうなるでしょうか。信教の自由、ひいては思想、信条の自由は、当たり前のこととしていつもあるわけではありません。それは私たちが守っていかなければならないものです。国家権力は時としてそれを制限しようとします。そういう権力と戦って、信仰の自由を守らなければならないということもあることを私たちは肝に銘じておかなければなりません。このような、国家権力の支配と信仰との葛藤をパウロも十分知っています。キリスト教は紀元4世紀になってようやくローマ帝国において公認され、その世紀の終りには今度はローマの国教となりますが、公認される以前の三百年間は、基本的に迫害の時代であり、キリスト者たちは皇帝の権力の下で殺されていたのです。パウロ自身も、皇帝ネロの迫害において殺されたとされています。パウロはそのようなこの世の現実に目を塞いで、国家権力は神からのものだから従えと教えているのではありません。また彼は権力におもねってこのように語ることで迫害を逃れようとしているのでもないし、信仰者たちに、権力には従っておいた方が身の安全を保てる、という保身を教えているのでもありません。そうではなくてパウロはここで、国家権力の脅威に常にさらされており、恐れを抱いている教会の人々に、この世の権力、国家の支配をもご自分の下に置いておられる主なる神を見つめさせようとしているのです。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」という彼の言葉は、この世の権威に従うべきことを教えているというより以上に、私たちをこの世で支配している全ての権威、権力が、神の下にある、それを立てるのも倒すのも神のみ心なのだ、ということを語り示しているのです。

国家権力は神の支配に仕えている
 国家権力も神の下にある、ということは4節では「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」という仕方で語られています。国家権力は神に仕えているのだ、とパウロは言っているのです。それは4節後半にあるように「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」ということにおいてです。悪人を罰することによって人々に善を行うことを勧めるために権威者は剣を帯びているのであって、そのことによって彼らは神に仕えているのです。これは、権力者たちの意識や自覚の問題ではありません。ローマ皇帝は、自分がキリストの父である神に仕えているなどとはこれっぽっちも思ってはいません。それは今日本の政治権力を握っている人々も同じです。しかし、その人々がどう思っていようとも、彼らが今権力の座にあることを許しておられるのは主なる神なのであって、彼らの行う支配の背後には、主なる神のお働きがあるのです。彼らは自覚していなくても、結局神のみ心に仕えているのです。それがパウロがここでローマの教会の人々に語り示している信仰です。つまりパウロは、人間の思いや意識を超えた仕方で働き、実現する神のご支配という目に見えない事実に目を注いでいるのです。

目に見える現実を超えた神のご支配を見つめる
 しかしどうしてそんなことが言えるのでしょうか。今パウロたちにのしかかって来ているローマ皇帝の権力は、教会を迫害し、信仰者たちを殺そうとしています。そのような権力が、神によって立てられ、神に仕えているなどということはあり得ないと私たちは思います。神によって立てられ、神に仕えている権力が教会を迫害したり、信仰者を殺すようなことはあり得ないしあってはならない、というのが私たちの常識です。しかし、実は主イエス・キリストご自身が、この私たちの常識とは全く反対のことを言っておられたのです。ヨハネによる福音書の第19章8節以下を読んでみます。「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』」。今主イエスはローマ帝国のユダヤ総督であるピラトの下で裁判を受けています。ピラトは、主イエスを十字架につけることも、また無罪を宣言して釈放することもできる、そういう権力を握っているのです。ところが主イエスは、あなたのその権力は、神から与えられたものだ、神から与えられていなければ、あなたは私に対して何の権限もない、とおっしゃるのです。つまり、ピラトが主イエスを十字架につけて殺すという判決を下すとしても、それは神によって立てられ、与えられた権力によるものなのであり、そこには神のご支配があり、み心が行われているのです。そのみ心とは、独り子イエス・キリストの十字架の死によって罪人である人間たちが赦され、神の救いが実現する、ということです。ピラトによる裁判も、この救いを与えて下さる神のご支配の下でなされているのです。パウロがここで見つめているのもそういうことです。つまり彼が、上に立つ権威はすべて神によって立てられたものだと言っているのは、この世の権力は全てキリスト信者たちに対して良いことをしてくれる、教会を守ってくれる、だからこの世を権力を恐れる必要はない、ということではありません。この世の権力は、目に見えるところでは神に逆らい、信仰者を迫害し、殺すかもしれない、いや現にそういうことが主イエスご自身において起った、しかし、そのことを通して私たちの救いが実現したのだ。だからこの世の権力が教会を迫害し、私たちを殺すようなことがあっても、そこにおいてもなお主なる神がこの世界を、私たちを支配していて下さり、主イエスによる救いに私たちをあずからせて下さるのだ、という事実にパウロは教会の人々の目を向けさせようとしているのです。つまりこれは、国家権力による苦しみ、迫害による死を超えた先に与えられる神の恵みのご支配を見つめている者の言葉です。この神の、この世の目に見える現実を超えたご支配を見つめているからこそ、国家権力との葛藤、苦しみの中にあって、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によってたてられたものだ」と語ることができるのです。

上に立つ権威に従うとは
 そしてこの確信に基づいてパウロは、上に立つ権威に従うことを教えているのです。この「従う」は、何でも言うことを聞くということではありません。上に立つ権威に従うというのは先ず第一には、上に立つ権威を「認める」ことです。神に従うのだから国家の権力や支配など認めないというのではなくて、この地上において多くの人間が共に生きていくための社会的秩序としての国家の存在を、そしてそこに必然的に生じる権力を否定するのではなく認め、その国の国民としての義務を負い、税金もちゃんと納めてその国の発展のために責任を果たすのです。キリスト信者は、国家も、その権力も、神がみ手の内に置き、支配しておられることを信じているがゆえにそうすることができるのです。そしてそのように国家の秩序を重んじることによって私たちは、12章18節に語られていた「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という勧めに従って生きることができます。国家の秩序を認めないなら、様々な違いを持った他の人々と共に生きることができなくなり、自分たちの仲間、同志の者だけの小さな群れの中でしか生きられなくなります。そのような群れは孤立し、行き詰まり、やがて無くなっていくでしょう。

私たちの責任
 上に立つ権威に従うとはこのように、国家の秩序、権力を認め、その下で責任ある生き方をしていくことです。しかしそれは、国家権力の支配、命令にどんなことでも絶対に服従しなければならないということではありません。神に従うことをやめて国家権力に従うのではないのです。上に立つ権威のさらに上に、神の権威、ご支配があることを見つめ、それに従うがゆえに、国家権力に従うのです。だからそれは権力に無批判に迎合することではありません。国家のあり方、権力のあり方について、それが本当に神に仕えるものとなるたに批判し、意見を述べ、また行動していくこともそこには含まれるのです。パウロはここで、支配者は悪を行う者を懲らしめ、人々に善を行わせるために神に仕えているのだと言っています。それは、支配者、国家権力の本来あるべき姿を示している言葉だと言えるでしょう。国家は、人間の悪を抑制し、善を奨励し、人々が平和に暮らすことができるためにこそあるものです。しかし現実においては、国家権力自体が悪を行い、権力者がその地位を利用して私腹を肥やしたりすることによって、善を行うよりも立場を利用してうまく立ち回った方が得だ、という思いを人々に起こさせるようになっている。そのような権力者のあり方を批判することも、上に立つ権威を認め、それに従う私たちの責任なのです。また先程申しましたように、信教の自由、思想、信条の自由、つまり私たちの良心の自由を脅かすような方向へと国家が進もうとするなら、その国家の方針を拒み、それに抵抗することも、国家の存在を認め、尊重する私たちの責任なのです。そのようなことは迫害を生むかもしれません。投獄されたり、命を奪われるようなことだって起るかもしれません。しかし、たとえ権力が私たちを殺すことがあっても、その権力も、主イエス・キリストの父である神のご支配の下にあり、神のみ心こそが実現するのです。パウロはその確信の下にこの箇所を語っているのです。国家権力を超えた神の恵みのご支配が、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現していることを知る時、私たちは、この世の国家の秩序や権力を重んじつつ、同時にそれらに捕われない自由さをもって、この世の事柄に誠実に関わり、隣人と共にこの社会を責任をもって築いていく生活をしていくことができるのです。

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