夕礼拝

真実で理にかなったこと

「真実で理にかなったこと」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第33編1-22節
・ 新約聖書:使徒言行録 第26章24-32節
・ 讃美歌:281、227、72

<「頭がおかしい」という反応>
 今日の場面は、ローマ総督フェストゥスと、ユダヤの王、アグリッパの前で、パウロが弁明をしているところの続きです。
 前回、パウロはその弁明の中で、自分がイエス・キリストを信じる者となった回心の出来事と、キリストの伝道者として、人々に宣べ伝えていることの内容を語りました。
 しかし、総督フェストゥスは思わず大声でパウロの話を遮りました。
 「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
 パウロは言います。
 「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。」

 パウロが宣べ伝えていることとは、イスラエルの先祖の時代から預言されていた、神から遣わされるメシア、救い主が、この一人のユダヤ人である、ナザレのイエスという方である、ということです。
 この方は、すべての人の罪を御自分の身に負って、十字架で死なれました。そして、死んだ後、墓に葬られましたが、三日目に、神によって復活させられました。イエス・キリストは、死者の中から復活し、今も生きて天におられるのです。
 この主イエスの十字架と復活の出来事によって、イスラエルの民に昔から与えられていた、神の救いの約束が実現しました。そして、この救いは、ユダヤ人だけでなく、キリストの名を信じる者すべてに与えられます。救いは世界中の人々に及ぶと、聖書には語られています。

 パウロはアグリッパに言います。「これはどこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存知ないものはないと、確信しております。」
 ナザレの人イエスが十字架に架けられたのは、この場面の数年前に、エルサレムで実際に起こった、多くの人々の記憶に新しい出来事です。また、復活したというのは、多くの目撃者、証言者がいることです。
 その中心は、主イエスの弟子たちです。十字架の時には主イエスのもとから逃げ出し、処刑後も人目をはばかり、意気消沈していた弟子たちが、活き活きと、迫害も恐れずに、主イエスの復活を証言し、この方を信じて救いに与るようにと語り始めました。多くの者がそのことを信じ、教会という信じる者の群れが各地に生まれています。それは今や、ローマ帝国も無視できなくなっている現実なのです。

 パウロは人々に、特に異邦人に、このキリストの救いを宣べ伝えています。パウロ自身も、復活の主イエスに出会い、主イエスご自身からそうするように命じられたからです。

 さて、パウロが語る、これらのことを信じるのは、頭がおかしいことでしょうか。
 それとも、真実で理にかなったことでしょうか。
 洗礼を受けて教会に連なっているクリスチャンは、皆これらのことを信じ、受け入れています。
 しかし、わたしたちの周囲にも、フェストゥスのように、復活とか、キリスト教が信じていることはちょっと頭がおかしいな、という思いを持っている人は、少なくないと思います。

 キリスト者が信じていることを、完全に拒否する人もいれば、「神」という存在はいるかも知れないが、イエスという人が神の子で、十字架で死んだ後、復活したというのは、よく分からない、という人もいるでしょう。または、イエスという人は、人々に良いことを教え、自己犠牲の人生を歩んだ、素晴らしい模範となる人物だ、と偉人の一人として受け取る人もいますし、復活というのは、人々の心の中で生き続けているということだ、という風に、聖書に書かれている事、実際に信じられている事とは違う解釈をする人もいます。

 まったく受け入れないか、または一部、受け入れられそうなところだけを受け入れるか、変形させて自分が納得できる形に変えてしまうか、人の反応は様々です。

 それは、イエス・キリストの出来事が、人の思いや、考えや、常識を超えている出来事だからです。わたしたちの感覚で、すんなり理解できる事ではないからです。
 フェストゥスも、ユダヤ人の真面目で熱心な超エリート律法学者であったらしいパウロが、こんな訳の分からない、突拍子もないことを真剣に信じるようになり、人々に語って、命を狙われたり、捕らわれて裁判の席に立たされているなんて、とても馬鹿げたことであり、それこそ頭がおかしいと思ったのです。

<真実で理にかなったこと>
 フェストゥスは、パウロを「学問のしすぎで、頭がおかしくなったのだ。」と言っています。つまり、パウロの語ることは、人の知識から来ていると思っています。そして、それが行き過ぎて、もはや人の知識や知恵では理解できないものになっている、頭がおかしくなっている、ということでしょう。

 しかし、パウロが、少し前の26:19で「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず」と言っているように、パウロが語っていることは、「天から示されたこと」なのです。
 イエス・キリストの救いは、人間の思考の中から出てきた理論や哲学ではありませんし、ましてや現実逃避の末の妄想や、妄信的な思い込みではありません。
 天から、神から示され、明らかにされたことなのです。

 パウロは25節で、イエス・キリストの救いの事柄を、「真実で理にかなったこと」だと言います。
 これは神の事柄であるが故に、人間の感覚や理解の中には納まりません。人の常識の感覚に反するからと言って、これを幻想や、おかしなことだと言うことは出来ないのです。

 「理にかなう」というのは、「頭がおかしい」の対義語で、「正気、思慮深さ、分別がある」という意味です。そして何より、これらのことは「真実」である、と言うのです。
 日本語で「真実」というと、「偽りではないこと、まこと、本当」という意味ですが、ギリシア語を見てみると、更に深い意味があります。「真実」はギリシア語で「アレテイア」という言葉ですが、この言葉は、「隠れる」という意味の言葉から派生して出来たと言われています。つまり、この「真実」という言葉は、「隠れていない」「顕わにされている」という意味を含む言葉なのです。
 パウロが宣べ伝える「キリスト」は、神によって隠されていたことが「顕わにされた」ことであり、これこそが「真実」なのです。

<神の啓示>
 人は本来、神を知ることは出来ません。神は人を、またこの世界を創造された方であり、永遠から永遠にいます方、天におられ、すべてを超えておられる方です。本来、神は人が知ることの出来ない方、明らかにされていない方であり、その意味で隠されている方です。
 わたしたち人間が、天に昇り、神に近付き、神の御前に出て語りかけ、神を知るなんていうことは決して出来ません。

 わたしたちは、もしかすると、自然や、科学や、宇宙や、この世の中に、神の存在を感じることはあるかも知れません。不思議と存在する秩序や法則、想像を超えた美しい風景、偉大な自然の力に、人の意志を超えている、何か大きな存在を感じ取るのです。
 しかし、それは神の御手の業の一端を垣間見ているに過ぎません。わたしたちはそこから、神の意志や、み心、神がどのような方なのかなど、神の人格について知ることは出来ないのです。
 わたしたちは、神について思いを巡らしたり、問いを持ったり、知り得ないことを知ろうとしたりします。しかし、それを想像や、人間の知識や、思索で追い求めても、決して答えは出ません。

 わたしたちが神を知るには、神が、わたしたちに御自分を示して下さるしか、方法はありません。神が御自分を人に知らせようと、決断をして行動して下さるしかないのです。
 そうして神が、わたしたちに御自分を知らせて下さるために遣わされたのが、御子であるイエス・キリストです。この方において、神は、み心、わたしたちへの愛、救いのご計画を、すべて明らかにして下さいました。
 わたしたちは、神を知りたいと願う時、神が遣わして下さったイエス・キリストという方に尋ね求めるべきなのです。

 わたしたちが知ることが出来る方となって下さるために、神の御子主イエス・キリストは、まことの人となって世に来られました。神が、わたしたち人間の歴史の中に、突入して来られたのです。
 一人の弱く小さな幼子として、また十字架の上で辱を受け、みすぼらしく、惨めで悲惨な罪人として、神の御子は姿を現されました。しかし、このお姿にこそ、神の御心、神の愛、神の救いは、はっきりと示されたのです。

 神の御子が、まことの人となられたのは、神から離れ、暗闇の中を彷徨い、もがいている、わたしたちの所まで来て下さって、見つけ出して下さり、光へと招いて下さるためです。最も近くにいて下さり、人間の苦しみ、悲しみ、そして罪を、全て担って下さるためです。十字架に架かれたのは、わたしたちの罪と死を、すべて代わりに負って下さるためです。復活なさったのは、死に打ち勝ち、キリストの救いを信じた者に、永遠の命を与え、復活の約束を与えて下さるためです。
 わたしたちが神の許に立ち帰るために、御自分の愛する独り子をも惜しまず与えて下さる、それが父なる神の御心であり、そこまで神がわたしたちを愛し下さっているということなのです。

 このように、神がご自身を示されることを、「啓示」と言います。啓示とは、覆われていたものが取り外される、という意味です。これこそ、「真実で理にかなったこと」なのです。
 もちろん、そうして神のすべてをわたしたちが知ることが出来るようになったのではありません。神は偉大な方であり、なお、わたしたちには知り尽くせない、隠されていることがあるでしょう。
 しかし、神がわたしたちに伝えようとされたこと、わたしたちに必要なことは、すべて、イエス・キリストにおいて示されたのです。

 神を知るまことの道筋は、このイエス・キリストにしかありません。どんな宗教を信じていても、最終的には同じ神に辿り着く、という考えの人がいますが、そうではありません。
 まことの神を尋ねるには、神ご自身が選び、示して下さった方法しかないのです。それは、神の御子イエス・キリストだけなのです。

<受け入れること>
 さて、パウロも初めは、イエス・キリストについて宣べ伝えられていること、またそれを信じる人々に激しい拒否反応を示していました。パウロはユダヤ人ですから、旧約聖書に語られている、世界を創造し、イスラエルの民を導いた神を信じていましたが、この神が遣わされた救い主、すべての民の王となる方が、一人の十字架に架けられた、みすぼらしい惨めなイエスという男だ、ということを受け入れられなかったのです。

 しかし、パウロは、キリスト教会の人々を迫害しに向かう旅の途中で、復活の主イエスに出会い、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけられたのです。
 このパウロの、復活の主イエスとの出会いも、神からの一方的な働きかけでした。神がパウロを選び、語りかけ、真実へと導いて下さいました。いつでも、神が主導権を持っておられます。ですから、パウロがキリストを信じたのは、神ご自身の御心によるのであって、自分で試行錯誤の末に真実に行き付いたとか、誰かに言いくるめられた、ということではないのです。

 この復活の主イエスとの出会いが、パウロを変えました。主イエスの語りかけ、神との出会いは、パウロを打ち倒し、これまでの歩みが神に背くものであったことをパウロに突き付けました。そしてパウロは、人生の大転換を迫られたのです。
 それは、これまでの自分の努力や力で築いてきたもの、信じていたもの、頼っていたものを捨てることです。自分を信じて歩んできた、自分中心の生き方、罪を悔い改めて、神の方にしっかりと向き直り、神に頼り、神にすべてを求めることです。

 主イエスと出会った時、真実を知らされた時、人はこれを受け入れるか、受け入れないかを迫られます。神の救いへの招きに、応えるか、応えないかです。
 しかし、主イエスの救いを受け入れるには、これまでの自分の考えや、思いや、生き方を、飛び越えなければならないでしょう。神から示された救いは、わたしたちが自分自身や、他のどんな方法でも到達できないことだからです。

 「頭がおかしい」と言って、一蹴してしまうことも出来ます。聞いたことを無視すること、受け入れないことも出来るのです。
 一方で、信じて受け入れるなら、それは主イエスに自分の人生を渡したということです。

 わたしが知っている、ある理系バリバリの青年は、友人がクリスチャンなので一緒に教会に来ましたが、やはり十字架によって自分の罪が赦されるということや、復活ということが、全然納得できなかったそうです。
 でも、教会で礼拝を守り、聖書のみ言葉を聴き、他の教会員、すでにキリストを信じている人たちと共に過ごす内に、「イエス・キリストが救い主だということに、賭けてみよう」と思ったそうです。これはまさに本人にとっては、自分の人生、命を懸けた、賭けだったと思います。自分の救いを、キリストに賭けたのです。彼はそうして洗礼を決意し、キリストの中に飛び込みました。
 彼は、今は日曜学校の教師をしていて、キリストが救い主であること、キリストを信じる喜びを、子どもたちに語っています。そうできるのは、実際にキリストに自分を預けて、日々御言葉を聞き、祈り、神と共に歩む中で、救いの確かさ、喜びを、しっかり神から与えられているからだと思います。
 それに本当は、本人からすれば賭けでしたが、父なる神からすれば、遠くで彷徨っていた愛する我が子が、やっと呼びかけに応えて帰って来るということだったのです。

 フェストゥスのように、一歩下がって、キリストの出来事を理解できないと批判するのか、パウロのように、あるいは理系の青年のように、キリストの出来事を自分に関わることとして受け止め、キリストに人生も命も委ねるのか。人はそのことを問われます。

 キリストを信じる信仰を持つ、とは、自分の存在すべて、生きることも、死ぬことも、何もかもキリストにお委ねすることです。神に信頼し、任せる、ということです。イエス・キリストの十字架の死がわたしの罪ためであったことを信じ、罪の自分が共に死ぬことです。そして、復活のキリストの新しい命に生きる者となることです。
 それは、色々ある宗教の一つとしてキリスト教を選んだ、ということや、キリスト教の考え方が気に入った、というようなものではありません。信仰は、生き方そのものなのです。

 そして、この信じることへの歩みも、弱く罪深いわたしたちは、神の恵み、導きによらなければなりません。聖書のみ言葉によって、天におられるキリストと出会わせて下さり、頑なな心を、目を、耳を開いてキリストを受け入れさせて下さるのは、聖霊なる神の導きです。
 神が、一人一人を選び、キリストの救いの恵みを知らせ、励ましと導き、そして、必要な時を与え、神のもとへと招いて下さっているのです。
 この招きに応えることを、神は求めておられるのです。

<信仰生活>
 さて、回心し、キリストに従うパウロは、29節で「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが」と、ちょっと皮肉に語ります。
 しかし、鎖に繋がれ、訴えられ、命を危険にさらすことになっても、キリストを信じ、自分を委ねたパウロは、そのような苦しみ悩み恐れを覆い尽くしてしまうほどの、喜びと希望があることを知っています。一人でも多くの者に、この真実を伝えたいと願っているのです。それが、神の御心でもあるからです。

 傍から見れば、キリストを信じる歩みは、パウロを以前より悲惨な人生へと追いやり、危険で、損をして、苦労ばかりしている、辛い生活にしか見えません。
 しかし、パウロが見つめている真実は、世の豊かさを得ることや、平穏さや、楽ちんさが人生の喜びだとは教えていません。
 むしろ、キリストのために労苦し、忍耐し、恥を受けたとしても、キリストと共に生きることにこそ、本当の喜びと、神の救いの恵みと、死を乗り越える復活の確かな希望があると、パウロは知っているのです。
 わたしたちの目には、世の心惹かれることも、苦しみや悲しみも、色々なことが飛び込んできます。
 しかし、罪に満ち、悪や、死が力を振るっている、今の世の苦しみや悲しみが、真実なのではありません。キリストを通して示された、神の愛、恵みのご支配、永遠の命と復活の希望こそが、わたしたちに示された真実なのです。
 神の国の完成、救いの完成は、主イエスが再び来られる終末の日に来るのであり、今はまだ隠されています。それは、この世で生きているうちに、直接見たり出来ることではありません。信じる事柄です。
 でも信仰は、自分の熱心さや、努力や、真面目さによって保ったり強めたりするのではありません。神ご自身が御言葉によって、わたしたちの信仰を励まし、慰め、強めて下さいます。今日与る聖餐も、聖霊が臨んで下さり、今、生きて天におられるキリストと一つにされている恵みを、目に見え、触れ、食べることが出来るパンと杯を通して受けることが出来る、確かにして下さる、信仰の養いの時です。
 神の恵みをしっかり受け取り、神が示して下さる真実を、しっかりと見つめましょう。
 また、洗礼を受けていない方も、神の招きに応え、この恵みに共に与る者となることが出来ますように、祈ります。

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