主日礼拝

尽きることのない富

「尽きることのない富」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第12章22-34節
・ 讃美歌:7、127、529

尽きることのない富を天に積む  
 本日のお話しの題を「尽きることのない富」としました。それは先程朗読された新約聖書の箇所、ルカによる福音書第12章33節から取ったものです。33節にこう語られています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。これはイエス・キリストの教えです。キリストは、「尽きることのない富を天に積みなさい」とおっしゃいました。それは、あなたも尽きることのない富を得ることができるのだ、ということです。でもその富は、この地上における財産とは違います。あなたもお金持ちになれる、ということではありません。「尽きることのない富」という題をチラシやポスター、あるいはホームページで見て、財産を築くための方法を、老後のために2000万貯める手立てを教えてもらおうと思ってここに来たという人はいないでしょう。そういう話は他所で聞いていただくしかありません。本日のお話しの「尽きることのない富」は、地上ではなくて天に積まれるものです。「擦り切れることのない財布を作り」とありますが、その財布は天に作るものです。天に作られた財布は擦り切れることがありません。地上の財布は擦り切れて穴があき、そこからお金が落ちることがあります。あるいはその財布ごと落としたり、無くしたりすることがあります。先日、禁止されている薬物の入った財布をタクシーに忘れたために捕まったラグビー選手のニュースがありました。善意の運転手がネコババせずに警察に届けたために御用となったのです。天の財布ならタクシーに置き忘れることはありません。まあそこに薬物を入れることもできませんが…。またここには、天に積んだ富は、「盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」とあります。地上に蓄えている富は、盗まれてしまうことがあります。振り込め詐欺にひっかかって取られてしまうこともあります。あるいは資産を守ろうとして買っておいたものの価値が下がって損をしてしまうこともあります。しかし天に積んだ富は、盗まれることも、価値が下がってしまうこともありません。いや、失われずに守られるというだけではありません。それは「尽きることのない富」です。使っても使っても無くならない富です。泉の水が尽きないように、次から次へと新たに湧き出て来る。無尽蔵な富です。そういう富を、あなたも天に積むことができる、と主イエス・キリストはおっしゃったのです。

自分の持ち物を売り払って施す  
 尽きることのない富を天に積むためにはどうしたらよいのでしょうか。33節には「自分の持ち物を売り払って施しなさい」とありました。このことによって、擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積むことができる、と言われているわけです。自分の持ち物を売り払って施すこと、つまり貧しい人にあげること、それが天に富を積むことだというのです。私たちはこれを読むと一方では、自分の持っているものを手放して人にあげてしまったら、自分の富はどんどん減ってしまう、失われてしまう、それでは富を積むことにならないではないか、と思います。でももう一方で私たちはこの教えに納得します。自分の持ち物を売り払って施すような素晴しい愛の業、自分を犠牲にして人のために尽くす善い行いによって、天に、ということは神さまのもとに、その善行を積むことができる、善い行いのポイントを蓄えることができる、天の銀行口座の自分の預金高を上げることができる、そういう感覚が私たちにはあるのです。そして私たちは、天に預金したものはいつか引き出すことができる、あるいは貯まったポイントでサービスを受けることができる、と思っています。つまり、善行を積んだ自分に神さまが何かいいことをして下さるはずだ、困った時に助けて下さるはずだ、と思っているのです。愛の業を行い、人に親切にすることで「天に富を積んでいる」という私たちの思いの裏側にはこのように、その見返りに神さまからの恵み、祝福を期待するという思いがあるのです。だから、そのようにしてきたのに何か苦しみや不幸が襲って来ると、自分はこれまで一生懸命特良い行いをしてきたのに、人に親切にしてきたのに、その自分にどうしてこんなことが起こるのか、こんなのおかしい、と思うのです。このように、善い行いをすることによって天に富を積むという感覚は、私たちの中に自然にあるものだと言えるでしょう。  
 けれども、これを語られた主イエス・キリストの思いはそれとは全く違います。主イエスは、自分の持ち物を売り払って施すという善い行いをすることによって、天に、神さまのもとにポイントを蓄えなさい、そうすればいつかあなたにも良いことがある、とおっしゃったのではありません。善い行いをすれば天の銀行の預金を増やすことができる、と言っておられるのではないのです。主イエスが「富を天に積め」ということで語ろうとしておられることの意味を知るためには、22節から32節を読まなければなりません。主イエスのお言葉は22節からずっと続いているのであって、32節までのことを受けて33節に、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と語られているのです。

思い悩むな  
 主イエスが弟子たちにお語りになった22節からのお言葉の冒頭に「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とあります。29節にも「あなたがたも何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」とあります。22節以下のお言葉の中心はこの、食べるものや飲むもの、そして着るものについて思い悩むな、という教えです。この「思い悩み」は、現代の日本で生きている私たちにはピンと来ないものです。私たちの周りには食べるものも飲むものも着るものも豊富にあって、その中でどれを選ぼうかと思い悩むことはあっても、今日食べるもの、飲むもの、着るものがなくて困る、ということはめったにありません。しかし主イエスがここで見つめておられるのはまさに、今日食べるもの、飲むもの、着るものを得られるだろうか、つまり今日を生きていけるだろうか、という思い悩み、不安、心配です。生きるか死ぬかの瀬戸際の、ですから「思い悩み」と言うよりもむしろ苦しみと言うべき事柄です。人々のそういう苦しみを見つめつつ主イエスは、「思い悩むな、心配するな」と言っておられるのです。なぜそんなことを言うことができるのでしょうか。それは無責任な発言ではないのでしょうか。

命は食べ物より大切  
 23節以下に、「思い悩むな」という教えの根拠が語られていきます。先ず、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」とあります。しかしこれもよく分からない、やはり無責任な発言にも思えます。食べ物より命そのものの方が大切であるのは当然です。衣服より体そのものの方が大切であるのも勿論です。でもその命をつなぐための食べ物や体を守るための衣服が得られない、と思い悩んでいるのだから、これでは「思い悩むな」の理由にはならないと思うのです。

神が養い、装って下さる  
 もう少しよく分かる理由が24節以下に語られています。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない」。マタイによる福音書では同じ教えが「空の鳥を見なさい」となっています。鳥たちは、人間のように種蒔きも刈り入れも、収穫を倉に収めることもしない、つまり生きて行くためにあくせくしていない、その鳥たちを見倣いなさい、と主イエスは言っておられるわけです。私たちはこれにも反論したくなります。鳥が畑を耕さないのは当たり前じゃないか。鳥だってただ遊びで空を飛んでいるわけではない。餌を求めて毎日必死に生きているのだろう、と思うのです。しかし主イエスはここで、鳥たちはのんびり遊んでいると言っておられるのではありません。大事なのは、「だが、神は烏を養ってくださる」という言葉です。27節以下の「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい」という教えにおいても同じです。28節に「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる」とあります。烏も、野の花も、神が養い、装って下さっている、その神のみ業を見つめさせるために主イエスは烏や野の花を指し示しておられるのです。そしてそれぞれにおいてつけ加えられているのは、「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」という言葉であり、「まして、あなたがたにはなおさらのことである」という言葉です。神は烏や野の花ですら、養い、装って下さっている、ましてあなたがたのことは、もっともっと大切に養い、装って下さっているのだ。だから、思い悩むな、心配するな、自分の力で何とかしようとあくせくするな、と主イエスは言っておられるのです。  
 23節の「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」という言葉も、実はこれと同じことを語っていたのです。命は神が与え、生かし、養って下さっているのだし、体は神が装って下さっているのだから、自分の力で食べ物や衣服を得て命や体を養い、装おうとあくせくすることよりも、命を養い体を装って下さっている神の恵みを見つめることの方が大切だ、というのが23節の主イエスお言葉の意味なのです。

神のみが養い、装うことができる  
 またここには、私たちが自分でどんなに思い悩み、あくせくしても、命を延ばすことも、体を本当に美しく装うこともできない、ということも見つめられています。25、26節に「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」とあります。また27節には「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」とあります。イスラエル王国が最も栄えた時の王ソロモンが、権力と財力をフルに用いて美しく装っても、神が装っておられる野の花の一つにも及ばないということです。私たちは、どんなにあくせくしても、またお金をつぎ込んでも、自分の命を生かし養い、体を美しく装うことはできないのだ。それがおできになるのはただ一人、主なる神のみだ。その主があなたがたを生かし、養い、装って下さっているのだから、思い悩むな、心配するな、と主イエスは言っておられるのです。

あなたがたの父  
 30節には、「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」とあります。「異邦人」と「あなたがた」とは違う、ということが語られているのです。主イエスがこの教えを語られた「あなたがた」とは弟子たちです。主イエスを信じ、従ってきている人々です。信仰者たちと言ってもよいでしょう。それに対して異邦人とは、神の民でない人々、まことの神さまを知らず、信じていないない人たちです。その人たちは、何を食べようか、何を着ようかと思い悩みつつ生きているのです。まことの神さまが自分を生かし、養い、装って下さっていることを知らないから、自分の力で自分の人生をどうにかするしかないのです。だから「何を食べようか、何を着ようか」と思い悩み、先のことをあれこれ心配しているのです。しかし私を信じているあなたがたは違う、と主イエスは言っておられます。どこが違うのか。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。つまり弟子たちは、神が父として自分たちを養い、守り、装って下さっていることを、つまり神が自分たちを子どもとして愛して下さっていることを知っており、信じているのです。子どもを愛している父は、子どもがお願いするまでは何も与えないなどということはありません。願わなくても、子どもに本当に必要なものを弁えていて、それを必要な時に与えるのが本当の父というものです。あなたがたはこのような本当の父である神の子とされている。神があなたがたを子として愛し、養い、装って下さっている、だから、思い悩むな、心配するな、あなたがたの父となって下さっている神に信頼して歩みなさい、と主イエスは言っておられるのです。

神の国をくださる父  
 これらのことのまとめが32節です。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。あなたがたは小さな、弱い、自分の力では何もできない群れだけれども、恐れる必要はない。あなたがたの父となり、あなたがたを子として愛し、養い、装って下さっている神がおられる。その神が、喜んで神の国を下さろうとしておられる。神の国とは、神のご支配ということです。神が父としての愛をもって、子である私たちを守り、導き、養い、装って下さる、その神の恵みのご支配の下に私たちを喜んで置いて下さっているのです。そのことを信じて、その神に信頼して身を委ねるならば、私たちは小さな弱い者であっても恐れずに、心配から解放されて生きることができるのです。

持ち物を売り払い、天に富を積むとは  
 この32節を受けて、33節の「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」という教えが語られているのです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という主イエスの教えの意味は、32節までを前提として考えなければなりません。そうすると分かってくるのは、これは自分のものを人に施すという善い行いをして、神のもとでの預金を増やしなさいということではなくて、自分の持っているものに依り頼むことをやめて、一切を父である神にお委ねしなさい、つまりただ神の国、神のご支配をこそ求めなさい、と主イエスは言っておられるのだ、ということです。天に富を積むというのは、神さまのもとに善い行いのポイントを蓄えておいて、後でそれを使おうとすることではなくて、天におられる神に信頼して、その神が自分を子として愛して下さっており、必要なものを全て与えて下さることを信じて、父である神のご支配の下で、神の子として生きることなのです。つまり問われているのは、あなたは何を本当の富として、何に信頼して生きているのか、ということです。私たちが、これこそ信頼できる、自分を本当に生かし、養い、装ってくれるものだと思っているものは何でしょうか。最後の34節にあるように、その富のある所に私たちの心もあるのです。私たちの心はどこにあり、何に本当に信頼しているのでしょうか。自分の持っているお金や財産、社会的な地位や名誉でしょうか、あるいは自分は貧しくてもまっとうに生きている、善い行いに励み、人々のために尽くしている、という自負でしょうか。これらはどちらも、自分の持っているもの、自分の中にある何かです。そういうものを富として依り頼んでいるなら、私たちは地上の財布に富を積んでいるのです。その財布は擦り切れ、その富は盗まれたり虫に食われたりして失われていきます。善行ポイントを天に蓄えたつもりでも、それは実は天ではなく地上を生きている自分の心の中に蓄えたに過ぎないのであって、いざそのポイントを使おうとしても何の役にも立たないのです。

主イエス・キリストによって神の子とされている私たち  
 天に富を積むというのは、自分の中にある何かを富として依り頼むことをやめて、ただひたすら、天の父である神に信頼し、自分の身を委ねることです。神が自分を子として下さっていることを信じることです。そのために、神の独り子イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さったのです。主イエス・キリストは神の独り子であり、本来神を父と呼ぶことができるただお一人の方です。しかしその主イエスが、私たちと同じ人間になって下さり、苦しみ悲しみに満ちた人間の人生を生きて下さり、そして私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を全て償って下さり、赦しを与えて下さったのです。この主イエス・キリストを信じて、主イエスと共に生きることによって、元々は神の子でない、むしろ神に敵対している罪人である私たちが、主イエスと共に神の子とされるのです。主イエスを信じる者を、神はご自分の子として下さり、父としての愛をもって生かし、養い、装い、必要なものを必要な時に与えて下さるのです。

尽きることのない富  
 主イエス・キリストによって現実のものとなっているこの神の愛こそが、天に積まれた宝です。この宝は、地上の宝と違って、盗まれることも、価値がなくなることもありません。それどころか、それは尽きることのない、使っても使っても無くなることのない、無尽蔵な宝です。この天の宝を使うとはどういうことでしょうか。それが、「自分の持ち物を売り払って施すこと」です。私たちが、自分の持っているものに依り頼むことをやめて、それを自分のもとに確保しておいて自分のためだけに使おうとするのでなく、多くの人々と分け合い、人々を支え助けるためにこそ用いていく、「自分の持ち物を売り払って施す」とはそういうことです。それは、主イエス・キリストの十字架の死によって私たちに与えられた神の愛に生かされ、その愛に信頼して身を委ねることによってこそ出来ていくことです。私たちが隣人を愛し、隣人のために自分のものを、自分自身を与えていくことは、神の愛という天の富をいただくことによってこそなし得ていくのです。そしてそのように天の富を使って隣人を愛していく時に私たちは、その富が減って行くのではなくて、むしろますます豊かに与えられていくこと、泉の水が湧き出て尽きないように、神の愛が私たちの内に豊かに満ち溢れていくことを体験するのです。  
 私たちは誰でも、擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積むことができます。それは、主イエス・キリストによって私たちを子として下さり、父としての愛によって私たちを養い、装って下さっている神を信じることによってです。独り子イエス・キリストによって私たちの天の父となって下さった神を信じ、信頼して自分の身を委ねて歩むこと、それが聖書の語る信仰です。この信仰によって私たちは、尽きることのない富を天に持ち、その富によって生かされ、またその富を自由に用いて人を愛して生きることができるようになるのです。

関連記事

TOP