主日礼拝

父の業を信じる

「父の業を信じる」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エレミヤ書 第31章31―34節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第10章31-42節
・ 讃美歌 ; 4、352、360

 
イエスはキリスト
キリスト者の信仰の中心は、主イエスがキリストであると信じ告白することです。キリストとは救い主を意味します。「イエス・キリスト」とは、イエスこそ、私の救い主であるという一つの告白なのです。しかし、「イエスはキリストである」とさえ言えば、神様の救いに与っているかと言えば、決してそうではありません。前回も申しましたが、ヨハネによる福音書の中で、主イエスはご自身のことをキリストであるとはっきり語りません。10章の24節には、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言ったことが記されています。メシアとはキリスト、救い主のことですが、主イエスに自分がキリストであるとはっきり言うように迫ったのです。しかし、主イエスは、自分がキリストだとは語られませんでした。この時、ユダヤ人たちは、自分たちを支配するローマ帝国からの解放をもたらす力強い地上の政治的な王を救い主として待ち望んでいました。ユダヤ人たちがキリストとするのは、ダビデ王が築いたような偉大な王国を実現してくれる人だったのです。しかし、主イエスは、ローマ帝国からの解放をもたらすために世に来られたのではありません。人々が期待していた救いは、主イエスがもたらす救いとは異なっていたのです。言葉による対話が成立するためには、自分の言った言葉を聞く人が自分の言いたい意味で、受けとめてくれなくてはなりません。しかし、それが出来ずに本来言おうとしていたことと、相手が受け取ることとの間にずれが生じてしまうこともあるのです。そして、このことは、主イエス・キリスト、「主イエスはキリストである」ということにおいても起こるのです。なぜなら、「キリスト」という言葉によって、人々は、自分の思いに従って救い主を描いているからです。そのため、主イエスは、ここで、ご自身を「キリスト」と語らなかったのです。

「主イエスは神の子」
主イエスは、ご自身をキリストであるとは言いませんでした、むしろ30節にあるように「わたしと父とは一つである」と言われました。主イエスが父なる神と一つであるとは、主イエスが神の子であるということです。この「主イエスが神の子である」ということこそ、信仰にとって大切なのです。そして、ユダヤ人たちが、思い描いていたキリストと、主イエスの違いの根本にあるものが、主イエスを神の子として受け入れるかどうかということだったのです。ユダヤ人たちにとって、救い主は、神の子、神と等しい方ではなく、人間の指導者でした。ですから、ユダヤ人たちにとって、「主イエスはキリストであるかどうか」と「主イエスは神の子であるか」は別問題だったのです。しかし、主イエスをキリストとする時に大切なのは、「主イエスが神の子である」と受け入れることなのです。主イエスはキリストであるということと、主イエスは神の子であるということは、キリストを信じる信仰が与えられる所においては一つですが、ユダヤ人たちにとっては違いました。
ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めます。言とは主イエスのことです。主イエスが神と一つであることが語られるのです。しかし、さらに続けて、「言は世にあった。世は言によってなったが、世は言を認めなかった」と続きます。世に来られた神の子主イエスを、世は認めないのです。この言を認めない「世」とは、具体的には「ユダヤ人たち」として描かれています。この福音書は、「ユダヤ人たち」を描くことによって、主イエスと対立する人間たちの世を表しているのです。この世は、神が人となって来られたということに躓くのです。キリストを信じる信仰を持つ者にとって、地上を歩まれた主イエスが神の子であるというのは、自明なことのように思われるかもしれません。しかし、現在、私たちの周囲で、「私は神と一つである」と言い出す人が現れた時に、私たちの中で起こる反応を考えれば、おそらく、私たちは、そのような人を心の中で、あざ笑い、耳を貸さないのではないでしょうか。地上を人として歩まれる主イエスが、神と一つであるということには、そのような躓きがあるのです。

石で打ち殺そうそうとする。
「父と一つである」と語った主イエスに対する反応が、31節に記されています。「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」。ここで「また」とありますが、ユダヤ人たちが主イエスに石を投げようとしたのは初めてではありません。8章にも、ユダヤ人たちが、石を取り上げ、イエスに投げつけようとしたことが記されています。主イエスが、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と語ったからです。ユダヤ人たちの信仰の父、アブラハムよりも前からあると語ることは、ご自身を神と言っているのと同じです。主イエスが、ご自身を神とするような発言を聞く度に、ユダヤ人たちの間に殺意が生まれたのです。ユダヤ人たちは「唯一絶対の神」を信じていました。しかし、一人の人間であるイエスが唯一絶対の神と一つであることが受け入れられなかったのです。そして、受け入れられない主イエスを殺そうとしたのです。
主イエスは、今にも石を投げようとする人々に対して、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と聞かれます。その問いに対する答えが、33節にあります。そこで先ず、ユダヤ人たちは「善い業のことで、石で打ち殺すのではない」と答えます。ユダヤ人たちは、主イエスの行った、善い業を批判しているのではありません。主イエスは、様々な奇跡によって病を癒したり、悪霊を追放して来ましたが、そこには石で打ち殺されるような業は一つもないと認めているのです。しかし、ユダヤ人たちが、主イエスがなさる業の意味を本当に理解していたわけではありません。主イエスは、ここで「父が与えてくださった」善い業を「示した」と言われます。主イエスが行って来た業は、どれも自分自身の業ではないというのです。父が与えて下さったものであり、主イエスは、その父から与えられた業を示しているというのです。主イエスは、病を癒し、苦しむ人々を助けました。しかし、それらの業は、医療行為や、慈善活動とは異なります。主イエスの業はすべて、根本的には、神の子として、神の業を示すものなのです。それは、ご自身が神の子であることを示すための業なのです。もし、主イエスを、神の子として受け入れることが出来なければ、主イエス・キリストはせいぜい、道徳的に素晴らしい生き方をし、苦しむ人々の助け手となった偉大な人となります。主イエスのなさった善い業を人間の業として解釈しているのです。そのような時、ユダヤ人たちのように、主イエスの業を認めながらも、神の子としての主イエスは受け入れていないのです。主イエスの「善い業」を自分なりに解釈し、自分が理想とする救い主の像を読み込んで、神の子としての主イエスは無視しているのです。

神を冒涜した
しかし、ここで、石を投げるという程までに激しい行動に出たことには、ただ、真の人である主イエスが、真に神でもあるということが不可解であるということ以上の理由があります。33節の後半に「神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ」とあります。主イエスが「自分を神としている」。それが神に対する冒涜なのだというのです。ここに、ユダヤ人たちが、主イエスを殺そうとした理由があります。そして、この神を冒涜したという主張の背後には、ユダヤ人たちの、自分たちは神を知っているという思いがあります。神を知るというのは神についての知識があるというだけでなく、神が共にいて下さると信じることです。自分たちと神は共にいる。そして、少なくとも、自分を神としているイエスは神ではない。自分たちが知っている神と、今、私の目の前にいる人間イエスは同じではないという確信があったのです。だから、主イエスが、自分を神と等しい者と語っていることは、「神を冒涜した」としか思えなかったのです。主イエスが神の子であると受け入れられない所では、神の子である主イエスを知らなくても、神が分かるという思いがあるのです。石を投げるというのは、律法に対する違反を裁くための行為です。ユダヤ人たちは、自分たちが神を知っているとうい思いから、自ら、神のように裁く者として振る舞っているのです。そこでは、世に来られた神の子をも神を冒涜したとの理由で裁くのです。そこに人間の世の罪があるのです。

主イエスの反論
34節以下には、主イエスの反論が記されています。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが『神々』と言われている」。主イエスはここで、旧約聖書、詩編82編の言葉を用いて語っています。詩編82編の1節には「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる」とあります。ここで「神々」というのは、神の民イスラエルを治めていて、イスラエルの民の中の裁判官のような務めについていた人々です。イスラエルの民にとって「裁く」といことは神の業でした。地上において裁きを行う人は、そのことを神から任命されていると考えられたのです。そのため、「神々」と呼ばれたのです。しかし、実際の裁きは、神の裁きのように、公正なものではありません。2節にあるように「不正に裁き、神に逆らう者の味方」をしていたのです。そのような人々に対して、6節では、「わたしは言った/『あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか』と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ」と言われます。ここでは、神のように公正な者ではなく、人間として死んでいく者が、神々、神の子と呼ばれています。主イエスはこのことを引用して、「神の言葉を受けた人たち」が「神々」と呼ばれているのであれば、「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」というのです。「神々」という言葉を人間に対して使っているのだから、主イエスが、「神の子」と言った所で「神を冒涜している」ことにはならないというのです。

父の業を信じる
しかし、ここで主イエスが語られたことは、「主イエスは神の子である」ことが受け入れられずにいる人々の憤りと殺意に満ちた非難を退けるための主張で、反論に過ぎません。むしろ主イエスが言いたいことは、次の37節に記されています。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」。主イエスは、もし、ご自身が父の業、神の業ではなく、人間の業を行っているのであれば、自分のことは信じなくても良いと言われます。その上で、しかし、もし神の業であるならば、その業を信じなさいというのです。これはある意味では驚くべき発言かもしれません。主イエスが神の子であると信じることが出来なくても良いというのです。ただ、主イエスがなさる業を信じれば良いというのです。なぜなら、主イエスの業を信じるところに信仰が与えられるからです。真の人である方が同時に真に神であるとは、私たちが頭のなかでいろいろと思いをめぐらして理解し得ることではありません。それは、神の業を信じることによってのみ分かるのです。ですから、「主イエスは神の子である」と信じようとする以前に、主イエスがなさる業を信じるのです。キリストを信じる信仰は、神の子である主イエスをキリストと信じることから始まるのではありません。そうではなく、主イエスによって示される、神の業を信じることから始まるのです。その時、37節の後半に記されている通り、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟る」のです。つまり、業によって、主イエスと神が一つであると信じる時に、主イエスをキリストと受け入れる道が与えられるのです。

罪を贖われる主イエス
主イエスが行う父の業とは主イエスの十字架と復活です。主イエスが、地上で行った様々な業の全ては、「父が与えて下さった業」でした。しかし、その業の集大成とも言われるべきものは、十字架と復活なのです。そこにこそ、最もはっきりと主イエスが神の子であると示されているのです。神の子主イエスが十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつ息を引き取ったのを見ていた、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と語りました。人間の罪のために、父なる神に捨てられ切り離される苦しみのなかで息絶えた主イエスを前にして、ローマの百人隊長は、この主イエスこそが神の子だったと告白するのです。どうして、そこで、この方こそ神の子だと分かるのでしょうか。主イエスに石を投げようとした人々は、最終的に主イエスを十字架につけます。自分の望む救い主を追い求め、自分たちは神を知っているとする人間の罪が神の子を死へと追いやるのです。自ら裁く者になって、神の子を裁くのです。しかし、その十字架において、神である主イエスが、人間の罪を贖うために、自ら裁かれ人々の罪をも贖って下さっているのです。十字架によって自らの罪が贖われていることを信じる時に、自分が、神に逆らい、神の子を殺していること、しかし、神に反し、逆らって立っている者が尚、神の業において救われていることを知らされるのです。その救いを知らされる中で、38節にあるように、父なる神が主イエスの内にいること、又、神の内に主イエスがいることを知らされるのです。
 40節以下には、主イエスが、「ヨルダン川の向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」と記されています。この10章の終わりにおいて、ヨハネによる福音書の一つの区切りがあると見ることが出来ます。11章からは、新たに主イエスの十字架と復活に向けた歩みが本格的に始まって行くのです。そこに入る前に、主イエスの歩みの原点であり、ヨハネによる福音書の初めに記されていた、主イエスの洗礼の場面に立ち返っているのです。ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネの活動から書き記されています。ヨハネは、主イエスがやって来た時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と語りました。そして、主イエスに対して洗礼を授け、「この方こそ神の子である」と力強く証をしたのです。ヨハネ自身がしるしをおこなったのではなく、主イエスが、世の罪を取り除く方であり、その業の故に神の子であると示したのです。そのヨハネの証しに触れていた多くの人々は、「彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」と言って、主イエスを信じたのです。世の罪が主イエスの業によって取り除かれているということによって、この方こそ神の子ということが示されるのです。その業を受け入れて、主イエスはキリストであると告白するのです。

贖いの主をキリストとして
私たちは、常に、主イエスの業、十字架によって、この方が神の子であると知らされなくてはなりません。私たちは、自分の思いでキリストを捉えてしまいます。私たちが、主イエスはキリストであると言う時、そこで、それぞれの人が描きたいキリスト像が描かれるのです。キリストを捉える時に、自らの置かれている場においてしかキリストを捉えられないのです。自分が捉えることが出来る範囲でキリストを捉え、キリストを自家薬籠中のものにしてしまうのです。そこでは、必ず、私のキリストこそ真のキリストだという主張が起こります。私は神を知っているという主張から様々な対立が生まれるのです。そこでは真のキリストは知らされていません。ただ、徹底的に主イエスのみ業を見つめつづけること、とりわけ、その十字架において示された主イエスの業を信じることにおいて神の子が、人の世の罪を贖って下さっていることを知らされるのです。自分のキリストを求めようとする人間の罪を神の子として来られた主イエスが担って下さり、人間の罪が取り除かれていることを知らされる中で、主イエスを神の子であるキリストとして知らされるのです。主イエスの業に示された、救いの御業を知らされつつ、神の子として世に来られたキリストを讃えたいと思います。

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