主日礼拝

あなたの上に主が輝く

「あなたの上に主が輝く」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第60章1-7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章12-20節
・ 讃美歌:151、236、580

<一年を振り返って>  
 この2017年は、1月1日と今日の12月31日が日曜日で、礼拝で始まり、礼拝で終える年となりました。少し特別で嬉しい気がいたします。  
 年末は、一年を振り返るニュースが多く流れます。世界は不安定さを増し、危機を身近に感じるような一年でした。暗雲に覆われ先が見えない、そんな印象を持ちます。
 また、それぞれ個人の一年の歩みを振り返る時でもあります。充実した良い一年だったでしょうか。または、病や苦しみ、困難と戦った、辛い一年だったでしょうか。大きな喜びがあったでしょうか。深い悲しみがあったでしょうか。周囲の人々との関係はどうだったでしょうか。愛することが出来ましたか。また、大切な人との別れを経験した方もおられたと思います。  

 わたしたちの心は、起こった出来事によって大きく揺れ動きます。快晴のような清々しい日もあったけれど、もうダメかと思うような嵐の日もあった、そんな風に振り返ります。  
 信仰もまたそうです。真っ直ぐ神を見上げ、感謝と喜びに満ちる日もあれば、神に嘆き、訴え、神の御心を問うたり、疑ったり、迷ったりしたこともあったかも知れません。  

 でも、わたしたちが覚えなければならないのは、そこにいつも、主イエス・キリストが共におられた、ということです。わたしたちの心の在り方や、信仰の状態に関係なく、いつも変わらずに、主がわたしたちの上に輝いておられ、まことの光を照らしていて下さった、ということです。  
 主イエスという、まことの光である方を知り、従うならば、暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。主イエスご自身がそのように語りかけて下さっています。
 本日はヨハネによる福音書から、その主イエスの光を、共に覚えたいと思います。

<光>  
 主イエスはご自分を「わたしは世の光である」と証言されました。主イエスが光である、というのは、ヨハネによる福音書の一つの主題です。1:1以下を共に見てみましょう(163頁)。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」  
 言とは神の御子、主イエスのことです。この言は、世の創造の初めから神と共におられる方であり、この方によって万物は造られた。この世と、わたしたち一人一人が創造された。だから、この言は、父なる神、聖霊なる神と共に、わたしたち一人一人のことをよくご存知です。また言の内に命があり、その命は人間を照らす光であるということが語られています。  

 それは一方で、人間は皆、命の光に照らされなければ、闇の中にいる、ということでもあります。それは罪の闇、滅びに向かう闇です。罪とは、神から背くこと。神から離れ、造り主である神にそっぽを向き、自分の思うままに生きることです。まことの神を神としないで、自分を神として歩んでいることです。その神との関係の破れが、闇を歩くことであり、またそれはわたしたちの隣人関係の破れとなり、様々な苦しみや困難を引き起こします。

 そして、1:9以下を見ると、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と書かれています。
 光が世に来た、とは、先の主の日にお祝いをしたクリスマスの出来事です。主イエスは、神と共におられた独り子でありながら、暗闇を歩き、滅びに向かう人々を救い出すため、暗闇を光で照らすために、父なる神に遣わされて、まことの人となって世に来られました。  
 しかし、「暗闇は光を理解しなかった」と語られます。神の出来事は、人の理性や常識を超えた出来事だからです。人が理解できることや、常識に納まることならば、それは人から出たものかも知れません。しかし、神の救いは、人には及びもつかない仕方で、神から来ます。それゆえに世は、この神から遣わされた方を、中々受け入れることが出来ないのです。

<仮庵祭>  
 さて、今日の箇所も、そのように主イエスを受け入れることが出来ない、ファリサイ派の人々との問答が語られています。  
 今日の8:12~に戻っていただいて、この箇所は、本来は右隣のページの7:52の続きだと考えられています。その間の7:53~8:11までが、括弧で括られていますが、この部分の記事は後からこの箇所に置かれたと考えられているのです。
 さて、それでは7章では何が語られていたかというと、一枚ページを前にめくって戻ると、右側の178ページの上の段の冒頭に小見出しがあり、「仮庵祭でのイエス」と書かれています。この場面は、仮庵祭のために、主イエスがエルサレムに上られた場面に続いているのです。

 仮庵祭の最中に、主イエスは神殿の境内で教えられます。そして人々は、この人はメシアかどうか、と論じるのです。しかし、主イエスが気に入らないファリサイ派という律法学者の人々は、何とか主イエスを陥れて、逮捕しようとしています。
 ですから、本日の問答も、主イエスを逮捕する理由を見つけ出してやろうという、ファリサイ派の敵意が背後にあります。

 そして、主イエスが「わたしは世の光である」と言われたのが、仮庵祭の時期の神殿という場所であることも、意味があると思われます。
 仮庵祭では、シロアムの池の水を汲んで毎日祭壇に注ぐ行事が行われ、また神殿の庭に高い燭台を四本立てて、火を燃やしました。これは、イスラエルの民が奴隷として苦しめられていたエジプトから、神によって脱出させられた時のことを記念するものです。民は40年荒れ野を旅しました。水は、荒れ野において岩から湧き出した水を表し、四本の燭台の炎は、荒れ野で神が民に先立って導き、夜も民を明るく照らしてくださった「火の柱」を表しているといいます。
 この仮庵祭における四本の燭台の炎は、夜でもエルサレムの町中を照らすような、大きな明るい炎であったとのことです。人々は、この力強い炎をみて、自分たちの祖先であるイスラエルの民が、神の導きと守りによって、エジプトから救い出されたことを思い起こしたのでした。

 そして恐らく、出エジプトの神の火の柱を記念する、皓々と輝く神殿の炎の前で、主イエスは「わたしは世の光である」と言われたのです。
 それは、「燭台の炎ではなく、ここにいるわたしこそが、暗闇にいる民を照らすまことの光である」ということ。ご自分こそが、神の御心に従って罪の中から民を救い出し、暗闇を照らす光、先立って民を導く火の柱である、ということです。

<どこから来たのか、どこへ行くのか>
 当然、そのように神と御自分を等しくするような主イエスの発言に対して、ファリサイ派は反発し、13節で「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言いました。
 当時、裁判などでの証言は、二人以上の証人がいなければなりませんでした。ファリサイ派は、主イエスがご自分について語られることは、自分一人で言っていることであり、他に証しをする人がいないのだから、真実ではない、と批難したのです。

 しかし、主イエスは、14節にあるように、「たとえわたしが自分について証しするとしても、その証しは真実である」と語られます。
 それは、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」というのが理由です。

 「自分がどこから来て、どこへ行くのか」。これは、自分が何者であるか、ということだと言えるでしょう。
 主イエスご自身は、ご自分が天の父なる神から遣わされて世に来られたこと、そして、また神のおられるところに行く、ということを知っておられます。この方だけが、父なる神を知っておられ、またご自分が何者であるかをはっきりとご存知なのです。
 だから、8:18で「わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをして下さる」と語っておられます。

 「自分がどこから来て、どこへ行くのか。」
 わたしたちも、自分自身について、少なからず、このことを考えたことがあるのではないでしょうか。わたしはどこから来たのか。最後にはどこへ行くのか。わたしという存在は何者なのか。生きている意味は、目的は何なのか。

 以前、わたしが務めていた職場の同僚に、無神論者の人がいました。神などいないと考えているのです。「じゃあ最後死んだらどうなるの?」と聞いたら、彼は「無だよ」と答えました。「だから、生きている間に、自分の力で成功して、勝ち組になって、色んなものを手に入れて、自分の思いのままに楽しく生きなくちゃいけないんだ」。そう言いました。そして、同じ職場のあまり仕事が出来ない人を見下していました。競争心が激しいのです。勝ち残っていかなければならないからです。
 しかし、人生の目的を達成した、といえるゴール地点なんて、あるんでしょうか。もし、自分が失敗してしまったり、自分は一所懸命やっているのに、外から災難が降りかかってきたらどうなるのでしょうか。何か困難に阻まれて、持っているものを失ったり、楽しいことが出来なくなったら、どうするのでしょうか。
 そして成功にしても、失敗にしても、無に向かって行く人生に意味を感じられるのでしょうか。死を目前にして、最後は無であるということを、本当に受け入れられるのでしょうか。

 この世で、自分で上げた成果によって、自分の価値が左右されるような歩みは、決して幸せであるとは言えません。それは常に競争で、脱落したら終わりです。また、このような歩みと反対に、消極的で、自分はだめだ、何も出来ないと諦めて生きることも、自分で自分の価値を低く決めつけているのであり、幸せであるとは言えません。
 また、最後に無へと向かう人生は、決して喜びに溢れているとは言えません。
 まさにそれは、先の見えない闇の中を歩いているのと同じことではないでしょうか。そして闇の中で、人は思い思いに、これと信じた、まったくトンチンカンな方向へ歩いています。

 人間は、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知る必要があります。
 このことの答えは、わたしという存在をお造りになった方、神を知らなければ、得ることは出来ません。しかし、生まれつき神から離れて歩んでしまう罪に捕らわれ、闇の中を歩いているわたしたちは、創造主であり、天におられる神を、直接知ることは出来ません。
 この神を知るには、神から御自分を現して下さるしかありません。それで神は、御子イエス・キリストにおいて、世に御自分を知られるようになさいました。
 わたしたちは神から遣わされて世に来られた御子、主イエス・キリストという方を通してしか、神を本当に知ることは出来ないのです。

 父なる神は、御子を世に遣わされました。御子である主イエスは、その神の御心をよくご存知です。人は直接、神の御心を知ることが出来ません。しかし、主イエスによって、わたしたちは父なる神の御心を知ることができます。
 そうして、主イエスを知ることが、わたしたち自身も、「自分がどこから来てどこへ行くのか」、何者なのかを知ることになるのです。

 主イエスが示して下さったことは、わたしたちは、神に造られた者であり、神に知られており、愛されているということ。神に背く罪の中から、悔い改めて神に立ち帰ることを求められているということ。そして、神の子として、神の恵みのご支配の中を、神と共に生きる者になることを望まれている、ということです。神は、わたしたちがどんな状態でも、一人一人を価値あるものとして大切に見て下さっています。それが、神の御心であり、わたしたちが何者であるか、どこから来て、どこへ行くのか、ということなのです。

<救いと裁き>
 この御心を、主イエスは御自分において示して下さいました。主イエスは、わたしたちが知ることが出来る方となるために、肉を取り、まことの人となって、世に来られました。
 低く降って来られ、闇の中で迷っている一人一人を照らし、最も神から遠く離れている者も、探して見つけ出し、出会って下さるためです。

 そして、主イエスは十字架に架かられ、すべての人の罪を負って死なれました。しかし、三日の後、父なる神がこの方を復活させられました。それは、この方が罪と死に打ち勝たれ、救い主となられたことを明らかにされることであり、またわたしたちも、復活に与らせるという保証です。そして主イエスは天に昇られ、従う者たちに聖霊が遣わされることとなったのです。

 今や、救いは実現しました。罪によって閉ざされていた、神のもとへ向かう道を、主イエスが切り拓き、整えてくださいました。そして、主イエスの光は闇を照らし、先立って歩まれます。わたしたちは、この方の後に従ってゆけば良いのです。
 主イエスの十字架によって、神に背き、逆らって来たあなたの罪は赦される、と宣言されています。父なる神は、御子を十字架の死に渡すほどに、あなたを愛している。御子の死によって、もはやあなたを罰しないで、よろこんで御許に迎え入れて下さるというのです。

 しかしこの知らせは、一方で厳しさを持ちます。この神の招きを受けたならば、主イエスが、わたしのために神から遣わされた救い主であると信じるか、信じないか。この光を受け入れるか、受け入れないで闇に留まるか。もはやどちらかしかありません。  

 あるスイスの説教者は、「クリスマスは、子供らしい事柄や無邪気な出来事どころではない。」クリスマスは、「わたしたちに対して光が提供されるが、その光を受け入れない者は、闇の中に留まるのである。またそこでは救いが告げられるが、その呼び声を聞こうとしない者は、棄却の中に沈むのである。キリストは、その持ちものの中に入ってこられるが、しかし人は、キリストに対してその所有権を拒み、彼に対して戸を閉ざすこともできる。また人は、キリストに属する者たちの一人でありながらキリストを受け入れないということも出来る」と言い、まさに光が世に来たということは、わたしたちにとって「生か死か」が問われる、と語っています。  

 生か死か。それは裁きなのでしょうか。
 主イエスは、15節以下で「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である」とお語りになりました。御子の裁きは、わたしたちの世における裁きとは異なります。
 ヨハネによる福音書で、「裁き」という言葉は3:16~18にも出てきます。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」
 御子が来られたのは、世を裁くためではない。御子によって世が救われるためである、と語られています。しかし、その救い主である御子を受け入れないことで、人は裁かれるのです。命に与ることを拒むのです。
 そして、そのスイスの説教者は、キリストに属する者の一人でありながら、キリストを受け入れないことも出来る、と語りました。キリスト者こそ、救いを知っていると思い込んでいる者こそ、罪を犯しやすいのです。いつも神の御前に遜り、立ち帰らなくてはなりません。

 また5:27では、神が「裁きを行なう権能を子にお与えになった」とも書かれています。
 聖書が語っているのは、主イエスが再び来られ、終わりの日に最後の審判が行われる、ということです。そして、その裁きの全権を持っておられるのは、御子である主イエスです。  
 しかし、聖書はまた、この裁き主こそが、同時にまことの人となり、御自分の十字架の死をもって人の罪を贖って下さった救い主だと告げるのです。  

 「わたしはだれをも裁かない」と仰った主イエスは、すべての人の罪をご自分の身に負って、御自分がすべての人の裁きを受けて、十字架で死なれました。  
 闇の中にいるわたしたちが、この救い主イエスの光に照らされる時、そこに浮かび上がるのは、罪にまみれた自分の姿です。暗闇で気付かなかった、もしくは隠していたものが、すべて光に照らされ、はっきりと示されます。  
 神を蔑ろにし、自分が神のように振る舞い、人を傷つけ、人を赦さず、傲慢や、無慈悲や、怒りに満ちた人生の歩み。直視するに堪えがたい、隠れたくなるような罪の姿です。  
 しかし、そのわたしの罪を顕わにする光は、同時にその罪の赦しを与えて下さる方の姿をも、目の前にはっきりと示します。罪人の傍らに立っておられるのは、頭に茨の冠を被せられ、手に貫かれた釘の傷跡を持つ方です。
 そして、あなたのその罪をわたしがすべて負ったのだと、告げて下さるのです。あなたが滅びるのを神は良しとされない、あなたは神に愛され、わたしに愛され、命に召されているのだと、そう告げて下さるのです。  

 この主イエスの光の中で、赦しの中で、わたしたちは自分の罪を見つめ、悔い改めて、神に立ち帰ることが出来ます。この救いの光の中でなければ、わたしたちは本当に自分の罪を直視することは出来ません。
 この赦しの光の中で、わたしたちは自分の有罪をはっきりと示されながら、しかし主イエスの名によって無罪であると宣告されるのです。  
 そして、主イエスの救いを信じ、受け入れる時、神はわたしたちを神の子として下さいます。このことを悟らせ、信仰を与えて下さるのも、聖霊なる神の導きによってです。わたしたちは、受けること以外、全く自分で何もできません。しかし、受け入れたなら、主イエスが救い主であると公に告白することが求められています。神の方を向き、招きに、呼ぶ声に、しっかりと返事をするのです。そして、聖霊によって主イエスと一つに結び合わされ、神と共に生きる、新しい、永遠の命に生かされるのです。主イエスの命の光を持つ者とされるのです。  

 わたしたちの行きつく先は、無でも、滅びでもありません。神の国です。神のご支配が完成し、わたしたちも主イエスの復活の体にあずかり、永遠の命を生きる、その約束の時に向かって、歩みます。  
 それは最後の審判の日ですが、キリストを信じる者にとっては、救いの完成を意味します。ですから、喜びをもって、希望をもって、この世の死のさらに向こう側にある、復活の日、終末の日を、待ち望んで生きることが出来るのです。

<光の中を歩む>  
 今この時も、主イエスの光の中を、わたしたちは歩んでいます。
 「起きよ、光を放て。/あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。/見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。/しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。」  
 わたしたちの目は、闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいるのを見ます。しかし、そのことに目を奪われてはいけません。  
 わたしたちの上には、主が輝いておられる。先立って歩み、わたしたちを導いて下さる方が、わたしたちの一歩一歩を、人生のすべてを、まことの光で照らして下さっています。

 わたしたちは、主イエスによって、自分が神に造られ、愛され、神の子として受け入れられていること。神の国の完成に向かって歩む者であることを、はっきり知らされています。  
 わたしたちが、そのように、闇や暗黒に見える世において、しかしはっきりとまことの光を見つめ、希望を持っていることが、他の人々にも光を証しすることになります。  
 今や、聖霊が遣わされて、わたしたちも、主イエスを証しする者とされているのです。  
 時に俯いたり、座り込んだり、倒れたりすることもあるかも知れませんが、それらはわたしたちの人生から、光を奪うことは出来ません。わたしたちがどうであれ、光が、わたしたちを愛し、見捨てず、闇の中まで来て、わたしたちの命を捕らえて下さったからです。

 そして、もはや競争に勝つことや、成功すること、多くのものを得ることが人生の大切なことではありません。貧しくなっても、損をしても、愚かに見えても、愛して下さった神を愛し、また隣人を愛して、神の御心に応えることこそが、わたしたちの喜びとなります。
 主イエスの、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」との言葉に支えられて、共に一つの光に照らされ、同じ道を歩む兄弟姉妹と共に、神の子として、まことの光の中を歩んでまいりましょう。

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