主日礼拝

み心による救い

「み心による救い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第14章1-32節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第5章12-16節
・ 讃美歌:210、124、529

重い皮膚病
 本日ご一緒に読む聖書の箇所、ルカによる福音書第5章12~16節には、主イエスが、重い皮膚病にかかっていた人をお癒しになったという奇跡が語られています。この箇所についてのお話をするためには先ず、ここに出てくる「重い皮膚病」について語らなければなりません。皆さんの中には、先ほどの聖書朗読を聞いていて、自分の持っている聖書とは違う言葉で朗読がなされたと思った方がおられるのではないでしょうか。「重い皮膚病」というところが「らい病」となっている聖書をお持ちの方がおられると思うのです。同じ新共同訳聖書でも、ここは途中で言葉が変えられた所です。最近印刷された聖書では「重い皮膚病」となっていますが、しばらく前までは「らい病」となっていたのです。
 旧約聖書にも出てくるこの皮膚病のことが、長い間、「らい病」、今日の呼び方では「ハンセン病」のことだと考えられてきました。ハンセン病については、これはこれでまた正しい知識を持たなければならない事柄であって、らい菌という非常に感染力の低い病原菌によって起る病気であり、昔考えられていたような遺伝病ではないことが証明されていますし、現在では特効薬が開発されて、たとえ感染しても治る病気になっています。しかしそういう知識が不足していた時代に制定された「らい予防法」という法律によって、日本でも患者は施設に隔離されてきました。つい最近ようやくこの法律が撤廃されたところです。ハンセン病患者は、人々の誤解、偏見の中で、家族とのつながりも断ち切られ、本名を名乗ることもできないような大変な苦しみを強いられてきました。そのハンセン病療養所の中に教会を建て、そこで暮らす人々への伝道や、諸教会との交流、また各国におけるハンセン病予防のための働きをしているのが、「好善社」という団体で、私どもの教会で共に礼拝を守っておられる棟居勇先生が現在その理事長を務めておられます。この「好善社」の活動を私共としても常に祈りに覚え、協力していきたいと思います。それはそれとして、先ほど申しましたように、本日の箇所に出てくる「重い皮膚病」とハンセン病とは違うものだということが、現在の定説となっています。ただ、新約聖書で用いられている言葉が、らい病、ハンセン病を意味する言葉だったので、最近までそのように訳されてきたわけです。その誤解を断ち切るために今ではこれを「重い皮膚病」と訳すことになりました。

汚れた者
 さてそれでは今度は、この「重い皮膚病」とはどのような病気かということですが、それについては、本日読まれた旧約聖書の箇所であるレビ記の、先ほど読まれた14章の前の13章に細かく語られています。まあしかしそこを読んでも正直言ってどのような病気なのかということはよく分かりません。皮膚科の専門医の方ならある程度イメージがつかめるのかもしれませんが、素人にはとても無理です。しかし私たちはここで、これがどのような病気か、症状はどうか、などということを知る必要はないのであって、読み取っておかなければならない大事なことは、この病気にかかることは「汚れている」者になることであり、この病気が治ることは「清くなる」ことだと語られているということです。祭司が症状を見て、この病気にかかっていると判断すると、「あなたは汚れている」と宣言するのです。同様にこの病気が治ったと判断すると「あなたは清い」と宣言するのです。そして13章の45、46節にはこうあります。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。人と出会った時には「わたしは汚れた者です」と呼ばわらなければならず、人々の住む宿営の外に住まなければならない、つまり、家族や友人たちから引き離され、人々の共同体から隔離されてしまうのです。それはまことに気の毒なことであり、ですからこの病気にかかることはつらい苦しい絶望的なことだったと察することができます。このことは、先ほど申しましたらい病、ハンセン病にかかった人々が味わってきた苦しみ、絶望と通じるわけですが、ただここで、この「汚れ」とそれによる共同体からの隔離ということの意味を正しく理解しなければなりません。ハンセン病において、患者を隔離することが行われ、それが国の法律にまでなった主な理由は、感染を防ぐためでした。そのこと自体が知識の不足から来ることで、ハンセン病は隔離しなければ感染が防げないような病気ではなかったのです。誤解と偏見のためにそのような不幸な事態が生じたわけですが、そのことと、聖書において、重い皮膚病にかかった人が「汚れている」と言われ、共同体の外で暮らさなければならなかったこととは理由が全く違います。レビ記にあのように語られているのは、感染を防ぐためというような衛生上の問題ではありません。「汚れている」とか「清い」という言葉は、ウイルスがついているかいないか、というような衛生的な事柄ではないのです。これは宗教的な事柄です。だからこそ、祭司がそれを判定するのです。祭司が「汚れている」とか「清い」と宣言するのは、公衆衛生の観点からではなくて、宗教的な、つまり神様との関係における事柄としてなのです。神様との関係においてというのは、具体的に言えば、神様のみ前に出ることができるか、礼拝をすることができるか、ということです。汚れている者は神様のみ前に出ることができないのです。礼拝に参加できないのです。宿営の外に住まなければならないのはそのためです。神の民であるイスラエルの宿営とは、主なる神様のみ前で、礼拝をささげつつ歩む共同体です。汚れた者がそこから外に出なければならないのは、神の民の礼拝がみ心に従って行われるためです。病気の感染を防ぐためではなくて、礼拝がみ心に従って行われるために、祭司は「汚れている」という判断を下し、その人が共同体の外に出るようにしなければならないのです。

み心にかなう礼拝
 聖書における「汚れている」とか「清い」という言葉を私たちは正しく理解しなければなりません。それは私たち人間が「汚れている、きたない」と感じるかどうかという問題ではなくて、神様が、どのような者の礼拝を求めておられるか、という事柄なのです。旧約聖書を読んでいると、重い皮膚病のみでなく、汚れているとされる場合がいろいろあります。例えば、生理期間中の女性は汚れているとあります。出産後何週間かも汚れているとあります。動物も、清い動物と汚れている動物とに分けられています。これらはどれも、衛生的な問題ではないし、人間にとって害があるか否かという話ではありません。なぜこちらは清くてこちらは汚れているのかを合理的に説明することは不可能です。要は、神様のみ前に出るあるいは献げることができるものと、それができないものとが、み心によって分けられているということです。そういう区別を聖書、特に旧約聖書は大切にしています。それゆえに、神様を礼拝しつつ生きる神の民は、相応しくない者がみ前に出たり、相応しくない犠牲を献げてしまうことのないように、よく気をつけなければならないのです。その務めを担っているのが祭司です。祭司は、神様のみ前における礼拝がみ心に従って整えられるように、相応しい者とそうでない者とをしっかりと区別する務めを与えられていたのです。

礼拝に連なる者へと
 本日の箇所の背景として先ずこれらのことを確認しておきたいと思います。そのことによって、ここに出てくる「全身重い皮膚病にかかった人」が主イエスの前にひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったことの意味、またこの人の思いを深く知ることができるのです。彼は、自分の病気、重い皮膚病の癒しを願ったのです。しかしそれは単に病気が癒されて元気になることを願ったのではありません。彼は「清くなる」ことを願ったのです。つまり、神様のみ前に出て、礼拝をすることができる者となることを願ったのです。彼がかかえていた苦しみは、病気のつらさ、苦しさ、またそれによる生活の不自由さのみではありません。その根本には、神様のみ前に出ることができない、礼拝に連なることができない、という苦しみがあったのです。その苦しみの中から彼は主イエスに救いを求めたのです。
 主イエスは、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われました。するとたちまち重い皮膚病は去った、つまり彼は癒されたのです。主イエスがここでなさったことも、単なる病気の癒しではありません。主イエスは「清くなれ」と言われたのです。つまり彼を、汚れた者から清い者となさったのです。神様のみ前に出て礼拝をすることができない者から、それができる者、それに相応しい者へと変えたのです。それが、ここでなされた奇跡の根本的な意味です。主イエスは彼の、礼拝に連なることができないという苦しみを取り去り、み前に出て礼拝をすることができるという幸い、慰め、喜びを与えて下さったのです。それが、ここで与えられた救いの根本なのです。

信仰告白
 この人が救いを求めて主イエスに語った言葉と、主イエスがそれに応えてこの人にお語りになった言葉をさらに深く見つめていきたいと思います。彼は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。これは、「私を癒して下さい」というお願いの言葉ではありません。「あなたは私を清くすることがおできになる方です」「あなたそういう力を持っておられます」という確信、信頼の言葉です。主イエスに対する信仰の告白の言葉と言うことができます。彼は主イエスにお願いをしたのではなくて、信仰を告白したのです。「主よ」という呼びかけがそのこととつながります。これは「あなたこそ、病気やそのもたらす汚れの一切を取り去り、人を清くすることができる権威と力を持っておられる主です」ということです。彼は、ナザレのイエスこそ力ある主であると信じ、その信仰を言い表したのです。そのように告白すると同時に彼は、その主が、自分自身、また自分がかかえている苦しみ悲しみに関わり、救って下さる方であることを信じ、告白しています。「わたしを清くすることがおできになります」とはそういうことです。主であられるイエスの権威と力が、私と無関係にあるのではなくて、私を清くする、病を癒し、汚れを取り去り、神様のみ前に立つことができる者とするために発揮される、つまりイエスは私の主なのだ、と彼は告白しているのです。そしてこのイエスこそ主であるということと、私を清くしてくださることとを結びつけているのが、「御心ならば」という言葉です。これは直訳すると「もしあなたが意志するなら」という言葉です。力を持った主が意志して下さるなら、その力が発揮されて、私は清くされる、救われる、全てはあなたのご意志、み心にかかっている、という信仰を彼は告白したのです。

主イエスの意志によって
 この彼の信仰告白に応えて、主イエスは、「よろしい。清くなれ」と言われました。この「よろしい」は直訳すれば、「私は意志する」となります。つまり主イエスは彼の「もしあなたがそのように意志して下さるなら」という言葉に応えて、「私はそのように意志する」と宣言して下さったのです。この主イエスのご意志、み心によってこの癒しが、救いが起ったのです。ここに、主イエス・キリストによる救いがどのように与えられるのかが示されています。私たちは、様々な苦しみ悲しみの中から、主イエスに救いを求めます。そして、救って下さったらイエス・キリストをもっとはっきり信じることができるのに、と思います。しかしこの話は、信仰とはそういうものではない、と教えているのです。主イエスを信じるとは、イエスこそ主であり、私を救うことがおできになる方だと信じることです。主であるイエスが意志して下さるなら救いが実現する。そのことを信じてその信仰を告白することの中でこそ、主イエスの力が発揮されるのです。私たちは、救いを体験したから信じるのではありません。信じて生きることの中で救いを体験していくのです。

手を差し伸べる主イエス
 しかしさらに大事なのは、ここで与えられた救いの内容です。それは汚れた者が清くされたということでした。神様のみ前に出て礼拝をすることができなかった者が、それができるようになった、礼拝に連なって生きる者とされたのです。それは言い換えれば、それまでは切れていた神様との関係がつながったということです。そのことを象徴しているのが、「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」ということです。主イエスは彼に触れて下さったのです。先ほど見たように、重い皮膚病にかかっている人は、人を見たら「わたしは汚れた者です」と呼ばわって、人との接触を避けなければならなかったのです。誰かが知らずに彼に触れてしまうことがないようにです。汚れた者に触れると、その人も汚れてしまうのです。それは先ほど申しましたように、病気が感染するということではありません。この汚れは宗教的な汚れです。しかしその宗教的な汚れが、ウイルスのように感染すると考えられていたのです。それゆえに誰も、重い皮膚病にかかった人に触れようとはしませんでした。しかし主イエスは敢えて手を伸ばしてその人に触れて下さったのです。それは、人々が恐れて触れようとしない病人にも勇気をもって触れて下さったという主イエスの愛を示していると言うよりも、神様との関係が断ち切られてしまっているこの人に、まことの神である主イエスが手を伸ばして触れて下さり、関係を、つながりを回復して下さるというそのご意志の現れです。主イエスが差し伸べて下さった御手によって、神様と彼との間がつながったのです。このことこそ、神様の独り子であられる主イエスがこの世に来られた目的です。主イエスは、罪によって神様との間が断ち切られ、つながらなくなってしまっている私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことによってその罪が赦され、私たちが神様とつながって生きることができるようになるために、神様と私たちとの間の仲立ち、仲保者となるために、つまり言ってみれば神様が私たちに向かって差し伸べて下さり、私たちに触れて下さるその手となるために、人間となってこの世に来て下さったのです。ですから、主イエスが手を差し伸べてこの人に触れ、「よろしい、清くなれ」と言って彼を癒し、清めて下さったことは、主イエスのご生涯全体によって私たちに与えられた救いの恵みを象徴的に示していると言うことができるのです。

人々に証明する
 癒されたこの人に主イエスは、「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」とおっしゃいました。主イエスが彼にお命じになったのは、祭司に体を見せ、清めの献げ物をし、人々に証明することです。それはつまり、自分の病気が治り、もう汚れた者ではなくなり清い者となったことを、祭司に認定してもらって、神の民イスラエルの礼拝に連なることができる者となるための儀式をすませなさい、ということです。その手続きや儀式のことが、本日共に読まれたレビ記第14章に語られています。あそこに語られていることをして、人々に、自分は清い者となったことを証明しなさいと主イエスは言われたのです。「人々に証明しなさい」ということが表しているように、これは、彼がイスラエルの民の礼拝の共同体に復帰し、神の民の交わりに再び加わることができるように、ということです。ここに、主イエスが与えて下さった救いのもう一つの大事な意味が示されています。彼は、神様のみ前に出て礼拝をすることができる者とされたことによって、同時に、人々との交わりに復帰し、神の民の共同体の一員となったのです。彼はこれまで、礼拝から遠ざけられていたために、人々との交わりから遠ざけられ、宿営の外に、共同体の外に置かれていました。その苦しみ悲しみから解放され、再び人々との交わりに生きることができる、共同体の一員として生きることができる者とされたのです。そのことと、神様を礼拝することができる者とされたこととが一つに結び合っている、それが、主イエスのみ心によって彼に与えられた救いだったのです。

私たちの救い
 さて私たちはこの話から、私たち自身の事柄として何を読み取っていくべきでしょうか。重い皮膚病にかかっている人が汚れた者であり、神様のみ前に出る礼拝に相応しくないなどということを聞くと、私たちは、それは余りにもひどい差別だ、と思います。そのようなことを命じる神などけしからんと思います。しかし、旧約聖書が語っているこのまことにつまずきに満ちた教えから私たちが考えなければならないことがあると思うのです。それは、神様のみ前に出て礼拝をすることは、私たち人間にとって決して当たり前のことではない、それが当然の権利だなどと思うのは間違いだ、ということです。神様のみ前に出て礼拝をするためには、それに相応しい者でなければならない、ということは、私たちにおいてもあるのです。私たちの礼拝においては、例えば入り口に祭司が立っていて、あなたは清いから入ってよい、あなたは汚れているからだめ、などということはありません。誰でも、この礼拝に連なることができます。しかしそれは当然のことではないのです。神様が、その独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活とによって私たち全ての者の罪を赦して下さり、そして救い主イエスが、そのみ心、ご意志によって、私たち一人一人に手を差し伸べて下さったから、私たちは今ここにいることができるのです。私たちは誰でも皆、本日のこの話において重い皮膚病を癒された人と同じようにして、今この礼拝に連なることを許されているのです。私たちはもともと、神様のみ前に出て礼拝をするのに相応しくない罪人です。主イエスによる罪の赦しの恵みをいただかなければ礼拝に連なることなどできない者なのです。ですからここに語られている救いの出来事は、私たち一人一人において起っていることなのです。

私たちの共同体
 主イエスのみ心によって与えられたこの救いによって私たちは、礼拝を共に守る共同体の一員に迎えられます。主イエスによる罪の赦しの恵みによって、その恵みによって結び合わされた人と人とのつながり、交わりがここに与えられるのです。それは、生まれつきの私たちが人々との間に持っている、あるいは築いてきた人間の思いによる交わり、共同体とは違う、新しい、主イエスのもとでの共同体です。人間の思いによって結び合う交わりにおいては、私たちそれぞれが持っている罪が妨げとなり、関係が断ち切られていくのです。例えば、人間の思いによってあの人は清いとか汚れているとか、相応しいとか相応しくないとかいうことが語られ、気の合う仲間だけの交わりを築いて他の者たちと対立するようなことになっていくのです。しかし主イエス・キリストは、そのような罪に満ちた、まさに神様のみ前に出るに相応しくない私たちに手を差し伸べ、私たちに触れて、清くして下さいます。そして私たちを、神様を礼拝する群れ、共同体へと招いて下さるのです。それが教会です。私たちは、洗礼を受けることによって、主イエスによって清められたことを人々の前に証明して、この群れに連なるのです。しばしばこのことを忘れてしまい、自分がもともと礼拝に相応しい者だったかのように錯覚して、あの人は相応しくない、などと言ってしまう私たちです。しかし私たちは皆、ただ主イエスの恵みのみ心によって救われ、清くされて、この礼拝に導かれているのです。このことに常に立ち返りつつ、主イエス・キリストのもとに集う新しい共同体を築いていきたいのです。

関連記事

TOP