「み心を求める」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第119編9-16節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章1-2節
・ 讃美歌:6、460、507
礼拝の本来の姿
今日は、一年に一度行っている「総員礼拝」の日です。いつもは、教会学校の礼拝と大人の礼拝とが別になされていますが、今日だけは、教会学校の生徒の皆さんと保護者の方々と大人の礼拝に集っている人たちが一緒に、この10時半からの主日礼拝を守っているのです。でもこれは特別なことなのではなくて、教会の元々の姿、礼拝の本来のあり方だとも言えます。教会というのは、神さまによって招かれた人たちの群れです。神さまは、子どもも大人も、赤ちゃんからお年寄りまで、みんなをご自分のもとに招いて下さっています。神さまに招かれた私たちが、赤ちゃんからお年寄りまで、こうして一緒に礼拝をするのは自然なこと、当たり前のことなのです。先週私たちはペンテコステの礼拝を守りました。弟子たちに聖霊が降って教会が生まれたことを記念したのです。ペンテコステの日に、聖霊のお働きによって生まれた最初の教会には、教会学校の礼拝と大人の礼拝などという区別はありませんでした。赤ちゃんからお年寄りまで、みんなが一緒に神さまを礼拝していたのです。それが教会の元々の姿でした。だから今日私たちがしている礼拝は、普段の礼拝よりもむしろ、最初の教会の礼拝に近いと言うことができます。普段大人の礼拝に集っている人たちはそのことを覚えておかなければなりません。教会の礼拝というのは、本来は、今日のように沢山の子どもたちが一緒にいる場なのです。赤ん坊が泣いていたり、子どもたちが騒がしかったりざわざわしていることは当たり前なのです。そして教会学校の生徒や保護者の皆さんにも覚えておいて欲しいことがあります。それは、教会は学校ではない、ということです。学校というのは、何年かそこに通って勉強して、そして卒業していく所です。でも教会には卒業はありません。私たちは教会で何かを勉強して身につけて、そして卒業していくのではなくて、神さまを礼拝するのです。それは一生続くことです。親に抱っこされて連れられて来る赤ちゃんの時から始まって、お年寄りになって、人に支えてもらわなければ来れなくなっても、生涯私たちは教会で神さまを礼拝していくのです。教会というのはそういう所なんだ、ということを覚えておいて欲しいのです。
私たちが今、大人の礼拝と教会学校の礼拝を分けて行っているのは、大人には大人に相応しい、子どもには子どもに相応しい礼拝がなされ、それぞれに合った説教が語られることによって、どちらもより深くそして心から神さまを礼拝できるためです。だから、普段教会学校の礼拝を守っている人たちには、その後沢山の大人の人たちがこのように神さまを礼拝しているんだ、ということをいつも覚えていて欲しいし、普段大人の礼拝に集っている人たちには、さっきまでここで、このように子どもたちや保護者の方々が礼拝をしていたんだ、ということをいつも覚えておいて欲しいのです。
み心が成りますように
さて教会学校の礼拝では今、「続・明解カテキズム」という信仰問答に基づいて、「主の祈り」についてのお話を聞いています。今日はその第三の祈り「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」についてです。先週はペンテコステの箇所でしたが、その前の週には「主の祈り」の二番目の祈り「み国を来らせたまえ」について聞きました。そして来週は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」についてです。そいうわけで今日は、大人の人たちも一緒に、「主の祈り」の三番目の祈り、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」についてみ言葉に聞きたいと思います。
「主の祈り」は、イエスさまが「このように祈りなさい」と教えて下さったお祈りです。イエスさまは私たちに、お祈りをする時には先ず、「天におられる父よ」と呼びかけなさいと教えて下さいました。イエスさまがこのように教えて下さったから、私たちは「天の父なる神さま」と呼びかけてお祈りすることができるのです。そしてイエスさまはこの「主の祈り」で、天の父である神さまに、どんなことをお願いしたらよのかを教えて下さったのです。その三つ目が今日の「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。「み心」というのは、神さまが「こうしよう」と思っておられることです。そのみ心が「天になるごとく、地にもなさせたまえ」というのはとても古めかしい、難しい言い方ですが、要するに、神さまのみ心が、地上でも、つまりこの世界でも、その通りに実現しますように、ということです。そのことをお願いしなさい、とイエスさまは教えて下さったのです。
わたしたちの思いではなく
ああその通りだな、神さまのみ心がこの世界に実現したらどんなにいいだろう、そうすれば、世界から戦争とかテロとか、人と人とが憎み合うようなことがなくなるだろう、どこかの国からミサイルが飛んで来ることを心配したりしなくてよくなるだろう、と私たちは思います。でも、このお祈りはそんなに簡単なものではありません。週報に載っている、「続・明解カテキズム」の問41の答えのところを見て下さい。そこには、このお祈りで私たちは、「わたしたちの思いではなく、神さまのみこころが天と同じようにこの地上でも完全に行われることを心から願い、待ち望むのです」とあります。「わたしたちの思いではなく」ということころが大事です。神さまのみ心が実現しますように、とお祈りするということは、私たちの思いや願いではなくて、神さまのみ心こそが実現するように願う、ということなのです。私たちにはそれぞれ、いろいろな思いや願いがあります。こうなってほしい、これを手に入れたい、と思っていることがあります。でも、私が「こうなってほしい」と思っていることと、ほかの人が「こうなってほしい」と思っていることは違っていたりします。私が「手に入れたい」と思っているものは他の人も手に入れたいと思っていたりします。だから、お互いの「こうなってほしい」「これを手に入れたい」という思いがぶつかり合って、喧嘩や競争や対立が起ります。それが膨れ上がっていくと、人を傷つけ、殺してしまうようなことも起ります。戦争とかテロというのはそのようにして起るのです。つまり、戦争やテロの一番始めの原因は、「こうなってほしい」「これを手に入れたい」という私たちの思いなのです。だから、神さまのみ心が実現してこの世から戦争やテロなどが無くなるためには、私たちの思いではなくて、神さまのみ心こそが実現することを求めていくことが必要なのです。私の思いや願いは実現してほしい、神さまにはそれを叶えてほしいし、私の願いを叶えてくれないなら神さまを信じたって何にもならない、と思いながら、でも神さまのみ心が実現して世界が平和になるように、というのは、実はとっても勝手な、不可能な願いなのです。神さまのみ心が実現することを願って祈るとは、私の思いや願いが実現することを願うことをやめる、ということなのです。でもそれってとっても大変なことです。自分の思っていることが実現することを願うのをやめることなど、私たちにはそう簡単には出来ません。自分の思いこそが正しいんだ、という気持ちは私たちの誰もがとても強く持っています。だから、神さまのみ心が成りますようにとお祈りしていても、実は自分の思いと合っているみ心だけが成ることを願っている、ということが多いのです。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と本当に心からお祈りすることは決して簡単ではないのです。
神さまの愛のみ心を示して下さったイエスさま
この祈りを心から祈ることができるためには、私たちは、自分の思いや願いよりも、神さまのみ心の方がはるかに正しく、良いものなのだ、ということをはっきりと知らなければなりません。そしてそのためには、神さまのみ心とは何なのか、神さまがどのようなことを思っておられ、どのようなことをしようとしておられるのかを正しく知らなければなりません。自分の思っていることや願っていることを、これが神さまのみ心だと思い込んでいたのでは、神さまのみ心が自分の思いよりも正しく良いものだ、ということはいつまでも分からないのです。私たちは神さまの本当のみ心をどのようして知ることができるのでしょうか。
神さまのみ心を私たちに示して下さったのがイエスさまです。神さまの独り子であって、人間としてこの世に来て下さったイエスさまによってこそ、私たちは神さまのみ心を正しく知ることができるのです。イエスさまによって示されている神さまのみ心、それは、神さまが私たちのことを心から愛して下さっている、というみ心です。愛して下さっているというのは、別の言い方をすれば、とても大切に思って下さっている、ということです。私たちの方は、神さまのことを愛しておらず、大切にしてもいません。「神さまのことはそれほど」という感じで生きています。つまり神さまよりも自分のことを大事にしていて、神さまのことは二番目、いやもっと後、三番目か四番目か五番目くらいにしか思っていないことが多いのです。でも神さまは、私たちのことを本当に愛しておられます。大切に思っておられます。だから、独り子のイエスさまをこの世に遣わして下さったのです。そのイエスさまは私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さいました。神さまは、独り子の命をも与えて下さるほどに、私たちを愛して下さっている、それが、イエスさまによって示されている神さまのみ心なのです。しかもその神さまの愛は、私一人に与えられているのではありません。神さまは、この世のすべての人を愛して、すべての人のためにイエスさまを与えて下さったのです。この神さまの愛が本当に分かってくると、私の思いや願いよりも神さまのみ心の方がはるかに正しく、良いものだ、ということがはっきりと分かるようになります。私の思っていること、願っていることは、自分のための思いであり自分の願いです。でも神さまは、私を愛して下さっているのと同じように、あの人をも、この人をも、愛しておられるのです。そして私たちが、いろいろ意見の違いや対立があっても、お互いに神さまに愛されている者として仲良くすることを願っておられるのです。イエスさまによってその神さまのみ心を示されるなら、私たちは、自分の思いや願いではなく、神さまのみ心こそが実現することを願い求めよう、という思いを与えられるのです。その時私たちは、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを心から祈ることができるのです。
み心をわきまえる者へと新しくされる
ですから、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と心から祈る者となるとは、私たちが心を新たにされること、生まれつきの自分が変えられることです。生まれつきの私たちは、神さまのみ心ではなくて、自分の思いや願いの実現を求めています。その私たちが変えられて、神さまのみ心の実現を求めるようになるのです。今日の聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第12章の2節が語っているのはそういうことです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。何が神さまのみ心なのかをわきまえるようになって、そのみ心をこそ求めるようになるために、私たちは心を新たにして自分を変えていただくことが必要なのです。生まれつきの私たちは、この世に倣って生きています。言い替えればこの世の型にはめられています。だから神さまのみ心をわきまえることができないのです。神さまのみ心は私たちへの愛のみ心であり、神さまがお喜びになることこそが善いこと、完全なことであり、私たちに救いをもたらし、人と人との間に良い関係を与えるものであることが分からないのです。だから、自分の思いや願いの実現ばかりを求めているのです。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、そのような私たちが神さまによって変えられ、心を新たにされて、神さまのみ心をこそ求める者となるための祈りなのです。
自分を神さまにお献げすることによって
私たちが自分で自分を新しくして、神さまのみ心を求める者になるのではありません。それだったらやはり自分の思いによって歩んでいることになります。どうしたらいいのでしょうか。私たちは、神さまのみ心を求める者へと、神さまご自身によって変えていただくのです。そのために必要なのは、神さまに自分自身をお献げすることです。そのことを勧めているのが、ローマの信徒への手紙12章の1節です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。自分の体を神さまにお献げしなさい、と勧められています。それは、自分を神さまのものとすることによって、神さまによって変えていただきなさい、ということです。生まれつきの、この世の型にはめられている私たちは、自分で自分を新しくすることはできません。だから自分を神さまにお献げして、神さまによって新しくしていただくのです。そうすることによって私たちは、自分の思いや願いよりもはるかに良い、神さまのみ心をこそ求める者となることができるのです。
礼拝の心を整えられる祈り
そのように私たちが神さまに自分をお献げすることこそ、あなたがたのなすべき礼拝です、と言われています。神さまを礼拝するというのは、私たちが、神さまに自分をお献げすることです。私たちが毎週教会に集って神さまを礼拝するのは、週の初めに、自分を神さまにお献げして、神さまのものとして生きていくためです。神さまを礼拝しながら歩むことによって、私たちは神さまによっていつも新しくされながら、私たちを愛して下さっている神さまのみ心が自分の上に、そしてこの世界に実現することを祈り求めていくのです。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」とお祈りすることによって、私たちは神さまを礼拝する心を整えられていくのです。