夕礼拝

まことの神を知る

「まことの神を知る」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:列王記上 第8編27節
・ 新約聖書:使徒言行録 第17章16-34節
・ 讃美歌:224、351

<憤慨する>  
 伝道者パウロは、「憤慨した」とあります。それは、アネテの町の至るところに、偶像があったからです。   
 アテネは今もギリシャの首都ですが、かねて古くから芸術や学問の中心地として栄えていました。このパウロの時代にはかつての勢いは無くなっていたものの、自由都市であり、有名な高等教育機関がありました。そして、神々の像が数多く立ち並ぶ町であったようです。アテネに住んでいる人の数より、偶像の方が多いと言われるほどでした。これらの像はギリシャ神話などの神々や英雄たちで、アテネの人々はそれらを礼拝し、拝んでいました。   
 それを見て、パウロは憤慨したのです。      

 「憤慨した」と書かれているところは、もとのギリシャ語を正確に訳すと、「彼の中で彼の霊が刺激された」となっています。パウロの内で霊が刺激された。彼の内から、心の奥底から、揺さぶられるものがあったのです。パウロはその刺激に突き動かされて、ユダヤ人の会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また広場で居合わせた人々と毎日論じ合っていた、とあります。彼が論じていたことは、18節に「イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである」とあるように、主イエス・キリストという方と、その方が復活した、ということについてです。   
 パウロはなぜ霊が刺激され、憤慨したのでしょうか。それはアテネの人々が、唯一のまことの神がおられることを知らないで、自分たちで偶像を造り、多くの神々を祭り、虚しく偶像を拝んでいたからです。偶像の神々には人々を救う力はありません。また、偶像に頼ることは、まことの神から更に離れてしまうことになります。   
 この世界をお造りになった、ただ唯一の、まことの神がおられること。神が、救い主として遣わして下さり、死者の中から復活した主イエス・キリストこそ、信じ、礼拝するべき方であること。そのことを伝えなければならない、とパウロは強く感じたのです。      

 この日本でも、他の神々や、多くのものが祀られていますし、またそのような形でなくても、自己中心的な考えや、虚しいもの、世のものに頼ろうとすること、そのような偶像礼拝で溢れています。日本の状況は、このアネテの状況とよく似ていると言えるかも知れません。この国で、キリストの救いを信じる者たちは、このアテネと同じように偶像を信じる人々がいる状況の中で、パウロのように霊が刺激され、憤慨し、唯一のまことの神と、主イエスと復活の福音を伝えなければ!と、そのような思いを抱いているでしょうか。      

 パウロは、至るところに偶像があるのを見て、じっとしていられなくなりました。本当はこの町では、ただ旅の同行者であるシラスとテモテが追い付いてくるのを待っているだけの予定でした。しかし、パウロは結局、毎日人々と論じ合い、福音を告げ知らせていたのです。

<哲学者との論じ合い>   
 これまでパウロは、どの町へ行っても、まずユダヤ人の会堂を探し、そこでユダヤ人や、旧約聖書を良く知っている人々に、主イエスこそ、旧約聖書の時代から神が約束されていた救い主である、と告げてきました。   
 しかし、今日の箇所では、さらに広場でもパウロは伝道しています。広場というのは「アゴラ」と言って、アテネの人々の生活と活動の中心地であり、人々が自分の意見を述べたり、主張を語ったりする場所として用いられていました。そこで、まったく旧約聖書を知らない、別の神々を拝んでいる人たちとで論じ合っていたのです。      

 ここには、二つの哲学の学派が登場します。一つはエピクロス派、もう一つはストア派です。簡単に説明するのは難しいですが、エピクロス派は、神々の存在を信じないか、または信じていても、神々はこの世からかけ離れた存在であって、この世界には何も影響を与えないと考えていました。人間は、崇高な快楽と、静謐、静けさを求め、それによって苦痛や死の恐怖から解放されると考えていました。一方ストア派というのは、一種の汎神論であり、神と万物、世界は同一であると考え、神は万物の内にあるエネルゲイア、働きであるとしました。神は世界の理性であって、それは世界の秩序や美しさに現れると言い、人間はこの理性に従って生きるべきだとするものです。   
 しかし彼らもまた、自分たちの知識や理性によって、自分たちの思い描く世界、神を造り出しているのではないでしょうか。これもまた、偶像の神であると言えるかも知れません。      

 パウロはそのような彼らに向かって、主イエスと復活について告げ知らせていましたが、中々その福音は受け入れられませんでした。   
 ある人は、「このおしゃべりは何を言いたいのだろうか」と言いました。「おしゃべり」と書かれているのは、元は鳥が「種を拾い集める」という言葉で、何かそこらあたり学問の知識の端っこを拾い集めて、聞きかじったことを、自分のことのように話す者の意味として使われています。ですから、訳の分からないことを偉そうにしゃべっている「おしゃべり、受け売り屋」と、軽蔑の意味を込めて使われているのです。   
 またある人は、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言いました。パウロは18節で「イエスと復活」について語っていた、とありますが、復活はギリシャ語で「アナスタシス」という女性名詞なので、彼らは「イエス」という新しい男の神と、「アナスタシア」という女神のことを話していると思ったようなのです。      

 しかし興味を持った彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行き、「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」と言いました。   
 彼らには、パウロが語る主イエスの十字架や復活が、「奇妙なこと」に聞こえました。それは、今の私たちの周りでも、キリストを信じていない人にとって、十字架と復活のことは奇妙にしか聞こえないでしょう。だから、何か合理的な説明が欲しい。理解できるものにしたい。そこにはそのような誘惑が生まれます。   
 パウロが連れて行かれたアレオパゴスというのは、定期的に評議会が行われる場所で、最高裁判所のような機能を果たしているところでした。ここで、パウロは裁判にかけられたというのではなくて、新しい学説を披露し、説明して欲しいと言って連れて行かれたのです。  

 しかし、パウロが語ろうとしていることは、アテネの人々が好んでいる学問や、人生や人間についての理論や、哲学の新説ではありません。もし「奇妙なこと」、つまり主イエスの十字架と復活の福音を、何とか人が理解し、納得できるように、合理的に、無理矢理に説明しようとするなら、それは神のなさったことを、人が考え、理解できる小さい範囲に閉じ込めてしまうことになります。実際に、これまでの歴史の中でも、復活は弟子たちの思い出だったとか、彼らの心の中に復活したのだとか、本当は死んでいなくて仮死状態だったとか、復活を何とかわかるように説明しようとしてきた者は多くいます。それもまた、自分に都合の良いサイズの神の偶像を作り出すことになるのです。   

 しかし、ここでパウロが語るのは、良い知らせ、福音です。人に命を与え、罪から救い、永遠の命を与えて下さる、まことの神がおられるということです。それは人の考えや思いなどを大きく超えて、外から神がすべての人に与えて下さった出来事、神がなさった救いのみ業であり、理屈や、考え方や、哲学などではないのです。

<アテネの人々の信仰>  
 パウロはこのように切り出します。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」  

 パウロは、真っ向から彼らを否定せず、救いと平安を求めて必死になって「知られざる神」への祭壇さえ作る、そのアテネの人々の思いを受け止めています。   
 しかし、本当に拝むべき神は、まったくアテネの人々が思っているような、考えているような神々とは根本的に違うのです。あなたがたは、本当に拝むべき方を拝んでいない。あなたたちが知るべき神、まことの神を告げ知らせましょう、とパウロは語りかけるのです。   

 パウロは、アテネの人々が多くの神々の祭壇を造り、名も知らぬ神のためにさえ祭壇を築くその熱心さの中に、そこまでしても満たされない思いや、不安、恐れを見出したのでしょう。ギリシャにはあらゆるものに神々がいます。美しさにも、死にも、太陽にも、月にも、風にも、すべてに神がいます。そして、自分たちの願いを叶えてもらったり、災いを遠ざけたりするために、神々に祭壇を作って礼拝しているのです。   
 しかし、もしかすると、自分たちが気付いていない神がいて、その神の祭壇がないために、その神の怒りを買ったり、神が災いを下すかも知れません。「知られざる神に」という祭壇は、そのような自分たちの意識の及ばない神々に、知らず知らずに失礼があって怒りを買ったりしないように、自分たちに災いを下さないようにと築かれているのでしょう。神々の機嫌の損ねないために、人が色々なことを心配し、祭壇を造り、祀ってあげなければなりません。   
 彼らの信仰は、熱心かも知れませんが、それによって平安を得ているとは言い難い彼らの信仰が、「知られざる神に」と刻まれた祭壇から伺い知れるのです。

<まことの神>   
 パウロは、まず神がどういう方かを述べます。それは、「世界とその中の万物を造られた」方であるということです。人が造り出したり、考え出したり神ではありません。まことの唯一の神が、世界を造り、人を創造し、命と、息と、そして必要なものすべてをお与えになったのです。   
 24節には「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」とあります。世界を、人をお造りになったのは神ですから、神は人が作った神殿に住まわれることもないし、人に何かしてもらわなければならないということもありません。   
 むしろ、すべてを造られたこの方が、民族を造り、地上に住まわせ、季節を決め、居住地の境界を決め・・・とあるように、人間の歴史を支配し、導いておられるのです。神はこの世界をお造りになり、人に積極的に関わっておられます。      

 このパウロの話を聞いていたであろう、エピクロス派は、神は世界とかけ離れた存在であるから、神は「人に仕えてもらう必要もない」と考えていました。しかしそれゆえに、神は人間に関心もないし、世界と関わりを持たない、と考えていたのです。   
 パウロの言っていることは、そのことを否定します。むしろ、神は御自分がお造りになった世界に生きて働かれ、人々をいつもその御手で守り導いておられます。   
 そして27節に、「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです」とあります。パウロは、神が人間を創造し、すべてを与え、導いて下さっているのは、神を求め、神を見出し、出会うためであるというのです。      

 パウロは、「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と言いました。神は遠く離れていない、というのは、ストア派でも主張されていた表現です。それでパウロは、次にストア派の詩人の詩を引用しています。   
 「我らは神の中に生き、動き、存在する」「我らもその子孫である」   
 しかし、このように言いつつ、ストア派の詩人は神のことを、世界の理性や秩序としてしまって、人格的に生きて、人間に関わり、働かれる神であるとは受け止めていません。ストア派の神も、人から遠く、人に語りかけたり、関わってきたりするような人格的な神ではないのです。   

 まことの天地の主である神は、人に近くおられ、語りかけ、関わり、養い、導いて下さる方です。それなのに、アテネの人々は、人間をお造りになり、生かして下さる神を、人格の無いもののように考えたり、自分の業や考えによって、多くの神々の偶像を造り上げて、それを神として頼ろうとしています。それゆえに、彼らは正しく神を求め、見出すことが出来ないでいるのです。

<主イエスによって>   
 まことの神は、人間に関わり、語りかけて下さり、人間が応えるのを待っておられます。神は人と人格的な関わりを持とうとしておられるのです。   
 30節で「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと命じておられます」とパウロは語ります。      

 悔い改めとは、自分の心の中で反省したり、後悔するということではありません。悔い改めは「方向転換する」という意味です。これまで神の声を無視して、神から離れ、あらぬ方向に向かっていたのを、しっかりと神の方向に向き直って、神に立ち帰るということです。神の呼びかけにお応えする、正しい関係になる、ということです。神はそのようなものとして、人を創造して下さったのです。      

 アテネの人々は、神を自分の知識や、哲学によって知ろうとし、また神を自分の願いや、不安の回避のために求め、自分たちの手で神々を作り出すことになりました。それは、神を正しく見つめようとせず、自分たち人間を中心に神を考えるので、そのようになってしまうのではないでしょうか。そしてそれは、今の時代の人々においても、同じことではないでしょうか。   
 わたしたちがまことの神を知ろうとする時、わたしたちは自分から神にたどり着くことは出来ません。わたしたちは神に造られた者だからです。神が、わたしたちにご自分を示して下さらなければ、わたしたちは神を知ることは出来ないのです。すべては神が先に、中心におられるのであり、神から出発しなければ、わたしたちは何も知ることが出来ないのです。      

 旧約聖書の時代には、神はご自分で選ばれた民に、預言者を通して、御言葉によって、ご自分を現して下さいました。   
 そして、神は今や、一人の方を遣わして下さり、この方によってすべての人が、まことの神を知り、神に立ち帰り、悔い改め、神に正しくお応えすることが出来るようにして下さったのです。   
 すべての人が神を知るための、決定的な道筋が与えられました。ですから、もう神が大目に見てくださる時代は終わりました。神は、「先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったから」であり、「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになった」からです。      

 この一人の方とは、「主イエス・キリスト」のことです。主イエスは神の御子です。この御子を、神はわたしたちのところに遣わして下さり、この方を通して、わたしたちが神を知り、神と出会うことが出来るようにして下さったのです。   
 主イエスによって、わたしたちは、わたしたちをお造りになった神が、わたしたちのことを心から愛して下さっていることを知ることが出来ます。わたしたちが神と共に生きる者となるために、わたしたちが悔い改めて、神の声にお応えし、神の許に立ち帰る道を、主イエスの十字架と復活のみ業によって開いて下さったのです。   
 独り子の命を与えて下さるほどに、神はわたしたちが悔い改めて、神との正しい関係の中で、神と共に生き、神と共に歩む者となることを望んで下さっているのです。      

 神の御子、主イエス・キリストは、その神のみ心のために、人となってわたしたちのところに来て下さり、わたしたちすべての者の罪を負って十字架に架かって死んで下さいました。それが、「先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになった」ということです。わたしたちが神から離れ、神に逆らい、滅びに至るしかなかった、そのような中から、主イエスがわたしたちの罪を代わりに負って、ご自分の命によって贖って下さり、その裁きを引き受けて下さったのです。   
 そして、神は主イエスを死者の中から三日の後に復活させて下さいました。そのことによって、すべての人に救いの確証をお与えになったのです。   
 もし主イエスの復活がなかったなら、あの一人の人の十字架の死が、世界のすべての人の罪を赦すためのものだったと、誰が信じることが出来るでしょうか。復活によって、わたしたちは、主イエスこそが、確かに神がお遣わし下さった救い主であり、その十字架の死は、神に逆らったわたしたちの罪の贖いのためであったと信じることが出来ます。また、その主イエスの復活に、わたしたちも終わりの日に与るということ。神が正しく世を裁かれる時、つまり神のご支配が完成する時に、わたしたちも主イエスの復活の恵みにあずかって、主イエスによって罪を赦された者として、神の御前に立つことができる希望を与えられているのです。裁きの日は、主イエスを信じる者にとって、救いの完成の日です。      

 パウロの話を聞いて、ある者はあざわらい、ある者は「いずれまた」と言って去っていきました。しかし、「信仰に入った者も何人かいた」と、確かに、キリストの福音を受け入れ、信仰を与えられた者がいたことが記されています。パウロの「学説」ではなく、主イエスの福音を聞き、神と出会い、神の愛を知り、彼らはまことの神と共に生きる、新しい命を生き始めたのです。      

 わたしたちは、主イエス・キリストによって、まことの神を知ることが出来ます。わたしたちと、世界を造って下さった神が、わたしたちを愛して下さっていることを知ることが出来ます。神が、わたしたちがしっかりと神を見つめ、神の呼びかけにお応えする、そのような喜びの関係の中を生きることを望んで下さっているということを、知ることが出来ます。そして、この礼拝は、まさに、わたしたちが神の言葉に耳を傾け、主イエスのみ業を通して神の愛を知り、祈り、賛美し、神にお応えしていく、そのような時なのです。   
 知られざる神ではなく、御子である主イエスを通してご自分を知らせ、神との関係の中にわたしたちを生かそうとして下さるまことの神に、わたしたちも立ち帰りましょう。

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