主日礼拝

別れと出会い

「別れと出会い」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第130編 1節-8節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第15章 36節-16章 5節
・ 讃美歌 ; 22、324、402

 
歴史を変えた旅行
 使徒言行録は、本日の第15章36節から、新たな事柄を語っていきます。パウロの第二回伝道旅行がここから始まり、18章22節まで続いていくのです。この第二回伝道旅行は、キリスト教会の歴史において、いやさらに世界の歴史において、大変大きな意味を持つものとなりました。というのは、この旅行において、キリストの福音が初めてヨーロッパに伝えられたのです。聖書の後ろの付録の地図の7と8を見ていただきたいと思います。7は、私たちがこれまでに読んだ第一回伝道旅行の地図です。この時には、キプロス島と、いわゆる小アジア地方、今日のトルコにおいて伝道がなされました。第二回、第三回伝道旅行の地図は次の8です。範囲がずっと広がり、小アジアからエーゲ海を渡り、ギリシャに足を踏み入れています。そして、後にパウロが手紙を書き送り、それが新約聖書に入れられて私たちに伝えられている、フィリピ、テサロニケ、コリントといった町々での伝道がなされていったのです。日本においてキリスト教はヨーロッパの宗教と考えられており、ヨーロッパからアメリカを経て伝えられたものとして意識されていますが、そのヨーロッパがキリスト教化されていく歴史の端緒が、このパウロの第二回伝道旅行にあるのです。それゆえにこの伝道旅行は、世界の歴史を変えたと言っても過言ではないのです。

人間の思いを超えた神の導き
 この第二回伝道旅行は、パウロの提案によって始められたものだったことが36節から分かります。しかしパウロはこの旅行において最初からギリシャにまで行こうと思っていたわけではありません。彼が提案したのは、「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」ということでした。つまり、第一回伝道旅行で訪れ、教会が誕生したいくつかの町々を再び訪問して、信仰者たちを力づけようというのが、この旅行の動機だったのです。しかし、これから読み進めていきますが、その旅の途上で、聖霊なる神が彼らを導いて、初めは思ってもいなかったギリシャにまで足を伸ばすことになったのです。つまり福音がヨーロッパに伝えられたのは、人間の計画によることではなくて、むしろ人間の思いを超えて神様が与えて下さった実りだったのです。神様は、私たち人間の思いや計画をはるかに超えた仕方で福音を前進させ、救いのみ業を行なって下さいます。そのことは、私たち一人一人が体験していることです。今この礼拝に集っている信仰者は誰でも皆、自分がキリストを信じる者となり、教会に加えられたことを振り返って見る時に、そこに自分の思いを超えた神様の導きがあったことを感じています。その導きは、まだ洗礼を受けておられない方々にも、あるいは今日初めて教会の礼拝なるものに出席した、という方にも、与えられているものです。今日このように私たちが教会の礼拝にやって来たということ自体に、人間の思いを超えた神様の導きのみ業があるのです。パウロの第二回伝道旅行は、そのような神様の不思議な導きを次から次へと体験していくような歩みでした。そのことを、これから読み進めていく中で見つめていきたいと思います。

マルコと呼ばれるヨハネ
 さてそのように豊かな実りを与えられたこの第二回伝道旅行ですが、実はその出発において大きな問題が起こり、その結果パウロは、一つの別れの悲しみを背負って旅立つことになったのです。それは、第一回伝道旅行を共にしたバルナバとの仲違い、別れでした。その事情が37節以下に語られています。仲違いのきっかけは、「マルコと呼ばれるヨハネ」を伝道旅行に連れていくかどうか、ということでした。バルナバは彼を連れて行こうと言い、パウロは38節にあるように、「前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた」のです。
 この対立を理解するためには、第一回伝道旅行のことを振り返って見なければなりません。パウロが言っているのは、13章13節に語られていたことです。「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」とあります。第一回伝道旅行において、最初の伝道地キプロスから海を渡って小アジアに上陸したところで、ヨハネはそれ以上彼らと同行せずにエルサレムへ帰ってしまったのです。ヨハネの家はエルサレムにありました。この人の名前が最初に登場したのは12章12節です。そこに「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」とあります。この家が、エルサレムにおけるキリスト信者たちの集まる場所になっており、この時はペトロが獄に捕えられ、明日にも処刑されようとしている中で、信者たちがこの家に集まって祈っていたのです。このことから、このマルコの母マリアは主イエスに従っていた人々の中でも中心的な存在であったことが伺えます。そのため、主イエスが弟子たちと最後の晩餐をなさったのも、またあのペンテコステの日に弟子たちが集まって祈っていたのもこのマリアの家だったのではないか、という推測もなされています。そうだとすればマルコは幼い日に、自分の家でなされた主イエスと弟子たちの最後の晩餐を目撃し、またペンテコステに弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まったことをも目撃したのかもしれません。そのようなことを通して彼は、エルサレムに生まれた最初の教会の一員となったのです。このマルコをアンティオキアに連れてきたのは、バルナバとパウロでした。そのことは12章25節に語られています。この時バルナバと、まだサウロと呼ばれていたパウロは、飢饉のために苦しい生活をしていたエルサレム教会の人々のためにアンティオキア教会の人々が捧げた援助の金品を届けるために上京していたのでした。その帰りに彼らはマルコを連れてアンティオキアに下り、そして第一回伝道旅行に伴ったのです。このマルコは、コロサイの信徒への手紙第4章10節によれば、バルナバのいとこでした。ですから、エルサレムからマルコを連れて来たのも、第一回伝道旅行に彼を伴ったのも、バルナバの意向だったのでしょう。そして、彼が途中で帰ってしまったのもそのことと関係があるかもしれません。キプロスはバルナバの故郷です。前にも申しましたように、第一回伝道旅行はパウロよりもむしろバルナバが中心になってなされたものでした。それゆえに最初の伝道地としてバルナバの故郷であるキプロスが選ばれたのでしょう。マルコは、いとこであるバルナバの郷里伝道には親族として協力したけれども、その後さらに小アジアの奥地にまで伝道に行くことは気が進まなかったのかもしれません。あるいは、キプロスでの伝道において、主導権が次第にバルナバからパウロに移って行ったことがマルコには面白くなかったのかもしれません。これらは全て推測に過ぎませんが、いずれにせよマルコは第一回伝道旅行の途中で故郷に帰ってしまったのです。第二回伝道旅行に出発しようとした時、バルナバはもう一度このマルコを連れて行こうとしましたが、パウロはそれに反対しました。そのことをめぐって「意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになった」のです。

パウロとバルナバの対立
 バルナバがマルコをまた連れて行こうとしたことには、「身内びいき」の思いがあったと言えるでしょう。然しそれだけではなく、ここにはバルナバという人の性格が表れているとも言えると思います。バルナバという名前は、4章36節にあったように、「慰めの子」という意味のあだ名です。この「慰め」という言葉は、「励まし」とも「勧め」とも訳せると前に申しました。バルナバは、人を慰め、励まし、勧めをすることのできる人だったのです。それは、人の欠点や失敗を責めたり批判するのでなく、弱い者を温く見つめ、その成長を促すための配慮をすることができる、ということです。バルナバはそういう思いから、マルコにもう一度チャンスを与えようとしたのではないかと思います。しかしバルナバのそういう考え方はパウロには、甘い、厳しさが足りないと思えたのでしょう。パウロは、伝道はそんなに甘いものではない、途中で嫌になって帰ってしまうような者がいては足手まといになる、と主張したのだと思います。これは伝道についての考え方の違いです。どちらが正しいという白黒をつけられることではないでしょう。とにかくそういう意見の対立によって、パウロとバルナバは行動を共にすることができなくなってしまったのです。

別の理由?
 これが、使徒言行録が語っている、パウロとバルナバの仲違いの理由です。けれどもこの仲違いには、それとは別の理由もあったのではないか、とも考えられます。先々週の礼拝において触れたことですが、使徒言行録15章には、エルサレムで行われた、教会の指導者たちの会議のことが語られていました。ユダヤ人でない異邦人が主イエス・キリストを信じて教会に加えられる時に、ユダヤ人の印である割礼を受ける必要があるか否かをめぐって行われた会議です。このことは根本的には、ユダヤ人の民族的伝統とキリストによる救いとの関係という問題です。エルサレム教会のユダヤ人信者たちの中には、異邦人が教会に加わる時には割礼を受け、ユダヤ人になるべきだと主張した者がいました。それに対してパウロらは、ユダヤ人になることによって救われるのではない、主イエス・キリストによる救いを信じて洗礼を受けるだけでよいのだと主張したのです。エルサレム会議では、パウロらのこの主張が認められて、異邦人は割礼を受ける必要がない、異邦人のままで教会に加わることができるということが確認されました。しかしこの問題はそれで解決したわけではありませんでした。教会においてユダヤ的伝統をどう受け止めるか、ということを巡ってなおいろいろな問題が起こりました。パウロが「ガラテヤの信徒への手紙」の2章11節以下で語っている出来事もその一つです。アンティオキアの教会では、ユダヤ人の信者と異邦人の信者とが共に食事をすることが普通に行われていました。そこにやって来たケファ、それはペトロのことですが、彼も最初はそのような食事の席に連なっていたのですが、ヤコブを中心とするエルサレムの教会からある人々がアンティオキアに来ると、ペトロはその人たちを恐れて異邦人との食事から身を引いてしまうということが起こりました。ユダヤ人の伝統においては、異邦人と食事を共にするなど考えられないことだったのです。パウロはペトロのこの行動を、キリストの福音の真理にもとることとして激しく非難しました。そして13節には、バルナバさえもそういうことに陥ってしまったと書かれているのです。バルナバは、先程申しましたエルサレムでの会議において、異邦人が割礼を受ける必要はない、ということをパウロと共に主張した人でした。そのバルナバさえもが、ユダヤ人としての伝統にこだわり、共に主イエス・キリストの救いにあずかっているはずの異邦人との交わりから身を引いてしまったのです。パウロとバルナバが行動を共にすることができなくなった本当の原因はむしろこのことだったのではないか、と考える人もいます。そうだとしたらこれは、マルコのことよりももっと根本的な、キリストによる救いの理解に関わる問題です。伝道の仕方、あり方についてだけでなく、キリストによる救いをどう理解するかにおいても、両者の間に溝が出来てしまったのかもしれないのです。

別れ
 理由はともあれ、第二回伝道旅行はこのように、パウロとバルナバとの意見の食い違いによる別れから始まりました。39節にあるように、バルナバはマルコを連れて再びキプロス島へと船出し、パウロはシラスという人と共に、陸路、小アジアの諸教会へと向かったのです。40節にあるように、彼らは「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発し」ました。アンティオキア教会の人々はパウロとシラスのために祈り、彼らはその祝福を受けて旅立ったのです。しかしそうではあっても、パウロにとってこの旅立ちはやはり後味の悪いものだったでしょう。バルナバはパウロにとって、同志であったのみでなく、恩人でもあります。教会を迫害していた彼が、回心してエルサレムの教会の人々との交わりに入る時に執り成しをしてくれたのはバルナバでした。また、彼をアンティオキア教会に連れて来たのもバルナバでした。そのバルナバと激しい意見の衝突の末別れなければならなくなったことは、理由はどうであれ、人間の交わりにおける一つの挫折です。人間の弱さや人間関係の難しさを痛い程思い知らされる出来事です。パウロの第二回伝道旅行は、人間関係におけるこのような挫折、失敗から始まったのです。

出会い
 そのようにして始まった第二回伝道旅行において、しかしパウロは一つの素晴らしい出会いを与えられました。それが、16章1節以下にある、テモテとの出会いです。パウロとシラスの一行は、シリア州、キリキア州を通り、東から小アジアに入り、先ずデルベに、それからリストラに行きました。これは第一回伝道旅行とは全く逆のコースです。そのリストラで、パウロはテモテという青年と出会ったのです。パウロはこのテモテをこの後、伝道旅行に伴いました。テモテはパウロの弟子となり、伝道者となったのです。新約聖書には、パウロがこのテモテに宛てて書いたとされる二つの手紙が入っていますが、その中でパウロはテモテのことを「信仰によるまことの子」と呼んでいます。パウロにとってテモテは、単なる弟子、あるいは若い同労者というに止まらない、特別な存在となったのです。そのテモテとの出会いがここで起こりました。1節の原文を直訳すると、「すると見よ。そこにテモテという名の弟子がいた」となります。翻訳には表れていない、「すると見よ」という言葉があるのです。そこに、テモテとの出会いにおけるパウロの驚きと喜びが言い表されていると言えるでしょう。パウロにとってテモテとの出会いは、彼の第一回伝道旅行における働きに対して神様が与えて下さった、人間の思いを超えた実りでした。テモテは1節にあるように、信者のユダヤ婦人の子でした。そしてさらに、テモテへの第二の手紙の1章5節によれば、彼の祖母もまた信者だったのです。そこにはこのように語られています。「そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」。即ちテモテの信仰は、祖母や母から受け継いだものなのです。それでは彼の祖母や母が信仰者になったのは何時かというと、それはパウロの第一回伝道旅行の時だったろうと思われるのです。第一回伝道旅行におけるリストラ伝道のことは、14章8節以下に語られていました。パウロはこの時、生まれつき足が不自由だった人を癒すという大きなしるしを行いました。それを見たリストラの人々はバルナバとパウロを、ギリシャの神々ゼウスとヘルメスが人間の姿を取って現れたのだと思い、彼らに犠牲を捧げようとしました。パウロたちはやっとの思いでそれをやめさせたのです。リストラ伝道はこのようにパウロの大きな業が示され、人々がそれに注目することによって始まりました。しかしその後、何人かのユダヤ人たちがやって来て群衆を煽動したために、パウロは今度は石を投げつけられて死んだようになってしまったのです。そのようにしてパウロらはこの町を追われました。つまり彼はここで、自分たちを神として崇めようとした人々が、掌を返すように今度は石を投げつけて殺そうとする、ということを体験したのです。リストラ伝道はそのような苦しみの中でなされました。この苦しみに満ちた伝道によって、キリストを受け入れ信じた何人かの人々がいたのです。その中に、テモテの祖母や母がいたのでしょう。彼女たちは、パウロが去った後も、迫害の中で信仰を守り通し、その信仰がテモテへと受け継がれたのです。第二回伝道旅行でパウロが再びリストラを訪れた時、テモテは、2節に「彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった」とあるように、大きく成長していたのです。パウロにとってこのことは、どんなに感謝しても足りないような喜びだったに違いありません。伝道者にとって、自分が福音を宣べ伝えた人々が、またその人々の子供や孫が、信仰者としてしっかりと成長しているのを見ることほど嬉しいことはありません。伝道の労苦に、神様が豊かに報いて下さったことをそこで感じるのです。テモテとの出会いはパウロにとってそのような素晴らしい出来事だったのです。そしてこのことによって彼は、バルナバとの別れという挫折を背負って出発したこの第二回伝道旅行の歩みに、神様からの慰めと励ましを豊かに与えられたのです。神様が、自分の思いや力を超えた豊かな実りを与えて下さることを体験させられたのです。まことに神様は、人間の力や計画を超えて、いやむしろまことに無力な人間の働きを用いて、さらには人間の罪や失敗、挫折をすら用いて、大いなる救いのみ業を行なって下さいます。そのことが私たちにおいても確かに起るのです。私たちがどんなに力弱く欠けの多い罪人であり、人間関係において破れを背負った者であっても、神様が用いて下さり、聖霊が働いて下さるなら、そこには豊かな伝道の実りが与えられるのです。神様が私たちをお用いになる時にモノを言うのは、私たちの能力でもなければ、人とうまくやっていくことができる性格でもありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神様が私たちの罪を赦し、新しい命を与えて下さった、その恵みを本当に信じて、それによって生かされ、その恵みを精一杯証ししていくならば、そこに聖霊が働いて下さり、神様ご自身が豊かな実りを与えて下さるのです。

対立を恐れず
 このことを見つめるならば、私たちは、人間関係における不和、対立をいたずらに恐れる必要はなくなります。勿論自分勝手な思いによる対立は不毛なことで、それは極力避けなければなりませんが、事が信仰の核心に関わる場合、福音の真理が曲げられてしまうような場合には、私たちはむしろ断固として自分の確信を貫き、主張すべきなのです。それによって人間関係がうまくいかなくなることがあっても、真理を曲げるべきではないのです。パウロがそのように自らの主張を貫いたことによって、バルナバとの別れが起こりましたが、そのようにして始まった第二回伝道旅行においてテモテとの出会いが与えられ、また、キリストの福音がヨーロッパへと伝えられていったのです。パウロとバルナバの仲違いは教会の力を弱めることにはならず、むしろ5節にあるように「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」のです。

福音による和解
 そしてさらに私たちが見つめることを許されているのは、このような対立が、自分勝手な思いの対立ではなく、主イエス・キリストの福音の真理を巡る対立であり、双方がその福音の真理に立とうとしている限り、その対立はいつか必ず解消する、ということです。パウロとバルナバの関係がその後どうなったかを直接示す聖書の記述はありませんが、マルコと呼ばれていたヨハネのことは、後のパウロの手紙に出てきます。テモテへの第二の手紙の4章11節に、「マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」とあります。このことは、パウロとマルコの関係がその後良くなり、マルコはパウロの同労者となったことを示しています。さらに、伝説によれば、このマルコが、「マルコによる福音書」を書いたとも言われるのです。その真偽の程ははっきりしませんが、いずれにせよマルコは立派な伝道者、福音の担い手へと成長したのです。そのことから想像するに、パウロとバルナバとの間も、後には回復したと考えてよいでしょう。そのような関係の回復をもたらすのは、人間の努力ではなく、主イエス・キリストの福音です。福音そのものをめぐる対立は、福音そのものによって必ず解決するのです。

主に望みを置く
 本日の説教の題を「別れと出会い」としました。私たちの歩みには、悲しい別れがあります。様々ないさかいや対立によって、どうしても共に歩めなくなるということがあります。そこには私たちの罪や弱さがからんでいます。しかし主なる神様は、そのような別れを引き起してしまう私たちを導き、用いて、み業を行って下さるのです。そしてそこに新しい出会いを与えて、私たちを慰め励まして下さるのです。それゆえに私たちは、自らの罪による挫折や別れの中にあっても、主なる神様に望みを置いて、主なる神様がみ業を行って下さることを待ち望みつつ歩むことができるのです。本日共に読まれる旧約聖書の個所として、詩編第130編を選びました。悔い改めの詩編として読まれているものの一つです。最後にこの詩を今一度味わいたいと思います。

 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
 主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり
 人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき
 わたしの魂は望みをおき
 御言葉を待ち望みます。
わたしの魂は主を待ち望みます
 見張りが朝を待つにもまして
 見張りが朝を待つにもまして。

イスラエルよ、主を待ち望め。
 慈しみは主のもとに
 豊かな贖いも主のもとに。
主は、イスラエルを
  すべての罪から贖ってくださる。

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