主日礼拝

脅えてはならない

「脅えてはならない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ダニエル書第12章1-13節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第21章5-19節
・ 讃美歌:8、141、577

終末を見つめさせる
 今週と来週の二週にわたって、ルカによる福音書第21章5~19節を礼拝において読みたいと思います。今週の説教題は「脅えてはならない」、来週の題は「忍耐して命を得る」です。今週の題は9節から、来週の題は19節から取っています。この二つの視点からこの箇所を読もうということです。ここに語られているのは終末について主イエスがお語りになった教えです。「しゅうまつ」とは「ウイークエンド」ではありません。7節の前に付けられている小見出しに「終末の徴」とあるこの「終末」です。この世界が終る時が来る、終末が近づいている、主イエスはそのことをお語りになり、終末へと向かう歩みにおいて私たちが何を見つめ、何を注意し、何をなすべきかがを教えておられるのです。この世界には終末、終わりがある、それが聖書の基本的な教えです。終わりがあるということは始まりもあったわけで、それが神による天地創造の出来事です。神様がこの世界とそこに生きる全てのものを造って下さった、その創造のみ業によって始まったこの世界は、同じく神様がこの世界を終らせられるそのみ業によって終わるのです。この世界は神によって始まり、神によって終わる、始まりと終わりのある世界だと聖書は語っています。その「終わり」を見つめて生きる信仰を主イエスはここで教えておられるのです。

エルサレム神殿の崩壊の予告
 そのために主イエスがここで用いておられるものがあります。それはエルサレムの神殿です。今、主イエスは神殿の境内で人々に教えを語っておられます。エルサレムに来られた主イエスが毎日神殿の境内で教えておられたことは19章の47節に語られていました。同じことが21章の終わりの38節にも語られています。その間のところ、つまり20章と21章に語られていることは全て、神殿の境内が舞台なのです。5節に「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」とあります。エルサレム神殿には、各地から多くのユダヤ人たちが巡礼に訪れていました。生まれて初めてこの神殿を見る、という人も多かったのです。そういう人々が、この建物に用いられている見事な石と、すばらしい奉納物に感心していたのです。この当時のエルサレム神殿は、主イエスの誕生の話に登場するヘロデ大王が何十年もかけて改修工事をした大変壮麗なものでした。ヘロデ大王はとっくに死んでしまっていましたが、この時まだその工事は続いており、完成してはいなかったようです。そういう立派な神殿の建物に感心している人々の言葉を主イエスはお聞きになり、それをきっかけにして語り始められたのです。6節「あなたがはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」。つまりこの神殿が徹底的に破壊され、崩されてしまう日が来ると主イエスはおっしゃいました。このことは、およそ四十年後の紀元70年に現実となりました。ユダヤ人たちがローマ帝国に対して反乱を起こし、しかし圧倒的なローマの軍勢によって打ち破られ、エルサレムも籠城戦の末に陥落し、神殿も徹底的に破壊されてしまったのです。その壁の一部が今も残っているのがいわゆる「嘆きの壁」です。黒ずくめの服装をしたユダヤ人たちがその前で祈っている姿を写真などで見た方も多いでしょう。この紀元70年の神殿の崩壊以降、今日に至るまで、ユダヤ人たちは神殿を持たずに歩んできました。彼らがあの壁の前で祈っているのは、神殿を失ったためです。神殿の崩壊を予告した主イエスのお言葉はそのように実現したのです。
 しかし、主イエスがここで本当に語ろうとしておられるのは、エルサレム神殿がもうじき崩壊する、ということではありません。それは、この後の問いを引き出すためのきっかけに過ぎないのです。この主イエスのお言葉を聞いた人々は、7節でこのように尋ねています。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」。「そのこと」というのは、6節の主イエスのお言葉からすれば、エルサレム神殿の崩壊です。それはいつ起るのか、それが起る前にどんな前兆があるのか、とこの人々は問うた、論理的にはそういうことになります。しかし、このあたりから話はもう、エルサレム神殿という一つの建物の話ではなくなっていきます。まさに世の終わり、終末の話になっていくのです。これは決して話のすり替えではありません。エルサレム神殿の崩壊を予告した主イエスは、そのことによって、この世の終わりへと人々の思いを向けさせようとしておられたのです。ですから話はまさに主イエスが意図しておられた方向へと進んでいるのです。

「終わり」を象徴する出来事
 エルサレム神殿の崩壊から世の終わりへと話が進む、ここには、まさに今私たちが直面している事柄にもつながる大事な問題が示されています。エルサレム神殿の崩壊、それはユダヤ人たちにとっては、一つの大きな建物が壊れるというだけではすまない、もっと象徴的な意味を持っていたのです。それは自分たちの培ってきた伝統、信仰、文化、生活全体の崩壊です。国の崩壊、滅亡でもあります。一つの建物だけでなく、社会全体が崩壊し、破局が訪れるのです。ユダヤ人たちにとってそれは神様がお造りになったこの世の終わりをも意味するような事柄でした。自分たちが生きてきた世界が「終わる」ことを、彼らは主イエスのこのお言葉によって意識させられたのです。一つの建造物の崩壊という出来事がそのように象徴的な意味を持ち、一つの時代、社会の終わりを意識させる、ということがあります。ベルリンの壁の崩壊はそういう意味を持った出来事でした。まもなく十年目となる、アメリカ同時多発テロによる貿易センタービルの崩壊もそういう出来事だったと言えるでしょう。そして私たちにとっては、3月11日の東日本大震災がそういう出来事です。大津波に町が飲み尽くされていくあの映像は、その地域の崩壊というだけでなく、私たちが生きているこの社会、そこで営まれている生活、さらには文化や思想にまでも影響を及ぼすものであり、私たちは何かの「終わり」をそこに感じたのではないでしょうか。また、福島第一原発の事故も、一つの電源プラントの崩壊ではすまない重大な影響を、物理的には勿論、社会的、文化的、精神的、思想的にも与えています。あそこでやはり何かが崩壊し、終わったのです。それが何であったのか、何が終わったのかは、まだはっきりとは分かっていません。それをこれから私たちは身を以て体験していかなければならないのでしょう。2011年の日本を生きている私たちは、まさに、ユダヤ人にとってのエルサレム神殿の崩壊に匹敵する崩壊の現実の前に立たされており、「終わり」に直面させられているのです。

いつ、どんな前兆が?
 エルサレム神殿の崩壊の予告によって「終わり」に直面させられた人々は、「それはいつ起るのか」「どんな前兆があるのか」と問いました。これらは要するに、その崩壊、終わりにどう対処したらよいか、という問いです。いつ起るのかを知りたいというのは、それを知ることによって備えをしたいということだし、前兆を知りたいというのも、崩壊、終わりに向かってどのようなことが起るのか、そのイメージをつかみ、少しでも適切に対処したいということです。この問いは、私たちの問いでもあります。私たちは今申しましたように、3月11日以降一つの大きな崩壊、終わりに既に直面させられていますが、しかし同時に、次の崩壊への不安の中にも置かれています。つまり東海、東南海、南海地震がいつ起っても不思議はないと前々から言われており、今回の巨大地震によってそれが誘発されるのではないかとも語られているわけです。そして実際あちこちを震源とする地震が頻発しているわけで、これは次の大地震の前兆ではないか、ということを誰もが自然に感じています。次の巨大地震はいつ起るのか、それにどう備え、対処していったらよいのかという、まさに7節で人々が主イエスに問うたのと同じことを私たちも知りたいと願っているのです。つまり私たちは、崩壊、終わりに既に直面しつつ、これから起る崩壊、終わりの不安の中にもいるのです。

惑わされるな
 私たちにとっても切実な問いかけに、主イエスはどうお答えになったのでしょうか。8、9節が主イエスのお答えです。主イエスはこうおっしゃいました。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」。主イエスは先ず、「惑わされないように気をつけなさい」とおっしゃっています。崩壊に直面し、また今後起る崩壊への不安、終わりへの恐れの中で私たちは、惑わされないように気をつけなければならないのです。社会がこのような不安の中にある時には必ず、私たちを惑わそうとする者たちが現れて来るからです。どのような「惑わし」に気をつけなければならないのでしょうか。一つは、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか『時が近づいた』とか言う」という惑わしです。わたしの名、つまり主イエスの名を名乗る人々が現れて「わたしがそれだ」と言う、それはつまり自分こそ救い主だと言うということでしょう。「時が近づいた」というのも、「あなたがたの救いの時が近づいた」ということで、つまり「救い主である私が現れたのだからもう大丈夫だ、私のところに来なさい、そうすれば救われる」ということです。しかし、そういう者たちに「ついて行ってはならない」と主イエスは警告しておられます。崩壊に直面し、苦しみや不安が社会に満ちる時には必ず、「私に従っていれば大丈夫だ」と言って人々を安心させ、そしてとんでもない所に連れて行こうとする者が現れるのです。福島の原発事故以降、私たちはそういう者たちの言葉をテレビなどで沢山聞かされてきました。「ただちに健康に被害はない」という言葉はその代表です。それは「ただちに」はなくても、長時間そこにいたり、繰り返しそれを摂取すれば影響が出る、という意味に聞くべきです。また事故の初期に福島市で一時間に20マイクロシーベルトの放射線が観測されたというニュースに登場したある東大教授が、「一回のレントゲン検査が600マイクロシーベルトだから、その30分の1の量で全く問題ない」と発言しました。一時間に20マイクロということは、そこに30時間いれば1回分のレントゲンの量になるわけで、ずっとそこに暮らしている人はほぼ毎日レントゲンを受けるのと同じことになるのです。立派な肩書きを持っている人が「大丈夫、問題ない」と言えば誰でも安心しますから、ついそれを鵜呑みにしてしまいます。しかしこれらの者たちを信用してついて行くととんでもないことになるのです。今この社会にはそういう偽りの安心を語る言葉が満ちています。私たちは、惑わされないように、本当に信頼できる情報は何なのかを吟味しなければならないのです。そういう意味で、主イエスのみ言葉はそのまま今の私たちが気をつけるべきことだと言えるのです。

脅えてはならない
 また9節には、「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない」とあります。これらは世の終わりの前兆として捉えられていた事柄です。崩壊、破局の前兆として見つめられていることは10、11節にも語られています。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」、民族紛争や国家間の対立、そこから内戦や戦争が起るのです。また地震や飢饉や疫病といった、自然現象を原因として生じる苦しみが見つめられています。「恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」というのは、天体の動きにおいて起る異変、それが不吉なことの前兆と考えられていたということです。戦争や暴動、民族紛争などは人間が引き起こす人災ですが、地震その他は自然がもたらす天災です。しかし天災と人災の区別ははっきりしないところがあり、それらが相まって大きな災害となることは東日本大震災においても明らかです。そういう様々な意味での災害によって、またそれが起るのではないか、という噂によって、私たちは動揺し、脅え、右往左往してしまうのです。そのことを指摘しつつ主イエスは、「おびえてはならない」と言っておられます。崩壊、終わりに直面している私たちに、主イエスは「脅えるな」とおっしゃるのです。先ほどの、偽りの安心を語る偽物の救い主に惑わされてしまうのも、脅えているからです。脅えに捕われてしまうことによって、私たちは惑わされ、物事を正しく適切に判断できなくなるのです。「脅えてはならない」というみ言葉こそ、崩壊、終わりに直面する私たちがしっかりと聞かなければならない主イエスの教えなのです。

人災や天災は必ず起る
 しかしそうは言われても、脅えずにはおれないような現実があります。主イエスが「脅えてはならない」とおっしゃることの根拠は何なのでしょうか。9節の後半には、「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」とあります。これが「脅えてはならない」という教えの根拠です。このお言葉はじっくりと味わうべきものです。主イエスは、「こういうことがまず起こるに決まっているが」とおっしゃっています。戦争や暴動、民と民、国と国との対立、争い、地震や飢饉や疫病、これらの人災や天災は起るに決まっている。「決まっている」というのは、必ずそうなる、避けられない必然である、という意味です。主イエスは理想論を語るのではなく、人間の現実を冷静に見ておられます。私たちは勿論、戦争が悲惨な結果を生むことを知っています。だから戦争をなくすように努力していかなければなりません。広島と長崎の原爆記念日の間に迎えたこの主の日、私たちはそのことをいっそう深く思わしめられるのです。しかし主イエスは、戦争はなくならないと言っておられます。民と民、国と国、その根本にある人と人との争い、対立がある以上、この世界の歴史から戦争が無くなったことはないしこれからもないでしょう。戦争をなくす努力は大切だけれども、人間の努力で戦争はなくならないのです。また自然の災害も無くなることはありません。このたびの地震や津波も、千年ぐらいのスパンで繰り返されてきたことが分かっています。私たちはそういう大地の上で生活しているのであって、時として自然が人間の生活に牙を向けることはこれまでも、今後もあるのです。「こういうことがまず起こるに決まっているが」というみ言葉は、戦争や災害の苦しみをとんでもないこと、あってはならないことと思うな、と言っているのです。とんでもないこと、あってはならないことに直面する時、人はうろたえ、そして脅えます。しかしそれが「起こるに決まっている」ことを見つめているなら、それらの災いとの向き合い方が違ってくるのです。

終わりはすぐには来ない
 しかしこれは誤解しないようにしなければなりません。主イエスは、戦争や災害は必ず起るものだと覚悟していつも備えをしておけ、備えあれば憂いなしだ、と言っておられるのではありません。「こうくことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と言っておられるのです。つまり主イエスがここで示そうとしておられるのは、戦争や災害は必ず起るが、それが「世の終わり」ではない、ということなのです。もっとも、「世の終わりはすぐには来ない」と訳されていますが、「世の」という言葉は原文にはありません。「終わりはすぐには来ない」が直訳です。つまり必ずしもこの世界全体の終わりを考えなくてもよいのです。私たちは、戦争や大きな災害に直面する時、うろたえ、脅え、「もうおしまいだ」と思います。自分の命、生活、あるいは自分が生きているこの地域、社会、この国がもう終わりだと感じるのです。そのような絶望的な思いに陥ることが「脅える」ということです。そのように脅えてしまう私たちに対して主イエスは、「終わりはすぐには来ない」とおっしゃるのです。戦争や災害のような破局、崩壊の出来事は必ず起る、それは人間の力で避けられないことだ、しかしそういう崩壊、破局によって全てが「おしまい」になることはない、「終わり」はそれとは別のものによってもたらされるのだ、と主イエスは語っておられるのです。だから、「脅えてはならない」のです。脅えずにはおれないような悲惨な現実の中で、なお私たちが脅えることなく、惑わされることなく歩むことができるとしたら、それは、私たちを、この世界を、最終的に支配するのは、戦争や災害によって引き起こされる崩壊や破局ではない、ということを見つめる信仰によってのみなのです。

主の再臨による「終わり」を信じて
 それでは、「終わり」は何によってもたらされるのか、そのことは、この21章の後半に語られていきます。先取りして見ておくと、27節です。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」、「人の子」とは主イエス・キリストのことです。主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られる、そのことによってこの世界は終わる、と聖書は語っているのです。それは、主イエス・キリストのご支配が誰の目にも明らかな仕方で確立し、完成するということです。神様の独り子、まことの神であられる主イエス・キリストは、既に人間となってこの世に来て下さり、私たち全ての者の罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、私たちの罪の赦しを成し遂げて下さいました。そして復活して永遠の命を生きる者とされ、天に昇り、父なる神様の右の座に着いておられます。主イエスは今既にこの世界を、私たちを、支配して下さっているのです。しかしそのご支配は今は目に見えません。信じるしかない事柄です。この世界と私たちの目に見える現実には、なお罪が満ちており、苦しみや悲しみがあり、天災や人災による苦難があります。それらが私たちをともすれば脅えさせます。そのようなこの世界にあって、目に見えない主イエスのご支配、父なる神様のご支配を信じて生きていくのが信仰者です。主イエスのご支配は、いつまでも見えないままではありません。救い主イエス・キリストがもう一度来て下さり、そのご支配が目に見える仕方で完成して下さる時が来るのです。神様がお造りになったこの世界は、この主イエスの再臨によって終わるのです。このことを信じて待ち望みつつ生きるなら、私たちは、崩壊の現実に直面する時にもそれが「終わり」ではないことを、それらは「まず」起るに決まっているが、その先に神様の救いの恵みの完成があることを見つめて生きることができるのです。そのことによって私たちは、脅えから解放されて、偽りの安心を語る者たちによって惑わされることなく、本当に見つめるべきことを見つめつつ生きることができるようになるのです。
 本日も一人の姉妹が信仰を告白して洗礼を受けます。洗礼を受けて信仰者、クリスチャンとなるとは、この世界の終わりに、神様の、主イエスによる恵みのご支配の完成があることを信じて生きる者となることです。苦しみや悲しみの現実はなおあります。崩壊に直面し、あるいはその恐れの中でうろたえてしまうようなこともあります。しかし、私たちのために主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さったことを信じ、主イエスの復活によって私たちにも約束されている新しい命にあずかる洗礼を受け、聖餐において主イエスの体と血によってその新しい命を養われていくなら、私たちは自分の力によってではなく神様の恵みによって、厳しい現実の中でも脅えうろたえることなく生きていくことができるのです。

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