主日礼拝

わたしの恵みはあなたに十分である

「わたしの恵みはあなたに十分である」 副牧師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第142編1-8節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第12章1-10節
・ 讃美歌:311、17、536

 いかなるキリスト者も、このからだに留まっている間は、苦難を全く免れることができると想像することはできない。たとえわたしたちが幻や主から示された啓示に恵まれ、第三の天まで引き上げられたとしても、自分が鞭を逃れたと結論することはできません。もし神様があなたに大きな帆と順風を与えているとしたら、神様はあなたに重い荷をも与えて、舟の底が海中深く沈むようにされるでありましょう。愛する兄弟姉妹方。自分が信仰において強められたからといって、肉体の重荷から解き放たれるだろうと期待してはなりません。

 主は、ご自分の子どもたちを懲らしめて、そうしたことを感じさせられます。私たちは、ある程度の苦難を忍んだ後でこう考える。「自分も、これほどの苦難に慣れてきたのだから、もはや以前のように動揺させられることはないであろう」、と。この手紙を書いたパウロは鞭で打たれ、船が難破して翻弄され、さらに飢えと、渇きと、裸に苦しみ、ついには、もし誰かが肉によって誇る権利があるとしたら、それはこの苦しんだ自分であると感じるまでと言っていました。それでも、その彼でさえも、主が自分の心に達して、その心に痛みを与えることがおできになることを見いだしていました。彼の肉体にはとげが与えられていた。その、体に与えられたとげとは、彼を神様から離そうとする、またまた彼に神様を忘れさせようする、頼らなくさせようするサタンの使いであるとパウロはいっています。ですから、私たちも幾多の試練を受けるに違いありません。ある種のいばら、そのいばらのとげが、私たちの肺をえぐり、私たちの骨髄と、私たちの血肉に触れるに違いない。

 懲らしめられるとき私たちは祈りに頼る。だが、そうしても懲らしめを免れるわけではない。このパウロも、このとげのことで祈っていた。求めれば与えられるという「祈りの真実」を確かに理解していたに違いない彼が、三度も主に願っている。しかし、肉体のそのとげは、取り除かれるどころか、鈍ることさえなかった。なおも彼は以前と同じくらい苦しまなくてはならなかった。このパウロでさえ、肉のために願ったときには、その訴えが却下されている。彼は苦難から全く解放されていない。しかしながら、それよりも良いものを彼は受けている。それは、主が彼にこう仰せになったこの言葉である。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。愛する兄弟姉妹。私たちは、自分に降りかかるに違いない様々な逆境をそのようなものとみなしたい。「世にあっては患難がある」こと、これは主のご計画である。主はご自分の愛する者たちを懲らしめることを御心とし、主の子どもたちは確実にその懲らしめを受けることになる。それは、確実であります。主イエスは「あなたがたには世で苦難がある。」と言われています。しかし、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主はわたしたちに言われる

 この宣言の真実さを体験してきた人々にとって、この聖句はことのほか甘やかなものでありましょう。世には魂や霊をいたく悩ませる特定の事がらがあり、恵みだけがその痛みを鎮める香り良き薬であります。この場合には、「恵み」が治療薬なのであり、他のものは役に立たない。人を骨の髄まで痛めつけるような試練に必要なのは恵みであり、それが唯一効き目のある薬であります。この骨の髄まで傷めつけるような試練の場合、恵みの過去の経験は何の役にも立たない。本日の「わたしの恵みはあなたに十分である。」という御言葉の中で約束されているのは、現在の恵みであり、現在の恵みこそ必要なものであります。私たちは、時としてうなだれ、暗闇の中を歩き、何の光も見えなくなったときには、夜に自分が過去に得た慰めの体験を思い起こそうとする。それを私たちの霊は熱心に探し求める。しかし、私は過去の経験に何の価値も見いだせない時があった。サタンは、その時、その過去は、みな幻想だったのだと告げて来た。あなたの信仰は単なるあなたの自信、あなたの希望は単なる興奮、あなたの一切の喜びは動物的な本能がそうさせることでしかないのだ、とも言ってきた。そのような時にわたしは、自分の歩んできた道を振り返っても、そのすべては死の影の谷のように見えました。その暗い死の影の中では、今の自分を生かすしるしが1つも見えない。そこで、乗り越えてきた経験という数々の書物をめくって、それを読んでみても、何の役にも立たない。そのような時があった。私が伝えたいのは、もし大きな海のど真ん中にいてそこで嵐にあった時、自分の国の港にある錨は、その嵐の中では何の役にも立たないということです。非常にしっかりとしていた錨でも、浜辺に置き去りにされているとしたら、嵐の中にあるわたしたちには何の役にも立ちません。いま役に立つのは現在の恵みであり、現在の恵み以外の何物でもないのです。今の苦難にあるわたしたちには、わたしたちの悩みの中で、わたしたちの神に、今の火急の必要時に、「現在の恵みを得さてください」と叫ばざるをえないのであります。

 そして、もし過去の経験が全く役立たずだとしたら、過去の成功はそれ以下であるでしょう。ある人はパウロの肩に触れて、こう云ったかもしれない。「パウロ、パウロ!サタンの攻撃が何だというのだ?あなたはコリントに教会を設立したし、小アジア全域に数々の教会を創立してきたではないか! あなたほど自分の神に対して忠実に仕えてきた者がいただろうか? あなたは幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、剣の難に会い、たびたび眠られぬ夜を過ごし、しばしば食べ物がないこともあったではないか。あなたはすべての教会への心遣いをしてきたではないか? あなたの主人は、あなたを高く際立たせ、使徒のかしらにも劣らぬ者としてくださったではないか。いかにおびただしい数の人たちが今や御座の前にいることであろう。彼らは、あなたの伝道活動によって生まれたのである!そして、幾千人の人々が今なお道を歩いていることか。」もしわたしたちがそうパウロにいったとしたら、彼はこう答えていたでありましょう。「確かに。時にはこのことが私の慰めとなったこともあった。もし、いま考えているのが私の伝道活動が神のものと認められてきたかどうかということだとしたら、それは決定的なものとなっていたでしょう。しかし、私はいま別の所で痛い目に遭っており、その傷があまりに深く、私のただれがあまりにひどく、私の心があまりに激しく重くなっているため、他の人々がどれほど親切に考えてくれたとしても、また、自分自身がどれほど心地よい黙想をしても、私にはこれっぽっちも救いがないのだ。主よ。私はしいたげられています。」と彼は言うでしょう。しかし、主はいかにすれば彼を助け起こすことができるかご存知であり、それゆえ、彼にこの恵み深い確信をお与えになったのである。「わたしの恵みは、あなたに十分である」。

 愛する兄弟姉妹方。私も、主の過去のいつくしみ深さを思い出すことは有益であると思います。しかし、それだけに頼って生きてはならないと思うのです。前進して、天から新しい恵みの供給を得なくてはならない。今日においても、天から降ったものとはいえ、古いマナを保存しておけば常に虫がわき、悪臭を放つのです。このことはモーセの時代から何の変わりはありません。大切なのは、この瞬間におけるマナです。わたしたちはマナを受けるときに、それを食べ、より多くを求めて常に進まなくてはなりません。古いマナはわたしたちにとってまず何の役にも立たないのです。わたしたちは日ごとに現在のマナを求め、その配給を神の御座から受けなくてはならないと思います。   

  さて今、第二のこととして、伝えたいのは、この恵みの香り良き薬は真に十分であるということです。この薬は、いかに急性の疾患や、いかに慢性的な疾病をも癒すことができる。それは、この「恵み」がまことに「十分」だからです。恵みがまさに試練によってかき立てられる恐れにとって十分である。わたしたちキリスト者が困惑させられ、試みを受け、患難に遭うときには、何を恐れるのでしょうか。私の知るところ、キリスト者が一番おそれるのは再び罪に陥るのではないかという恐れだと思います。再び、主を忘れてしまう、主から離れてしまう、主を信頼しなくなってしまう。それがわたしたちの恐れではないでしょうか。あるキリスト者はこう言うでありましょう。「私は貧しくなるのが恐ろしい」、「それは貧乏が嫌いだからではない。むしろ、私は自分の信仰が心配なのだ。私が神様につぶやくといけないからだ。」彼はさらに言う「私は苦しみが恐ろしい」。「もし神様がそれを私にお送りになるとしたら、私は進んでそれを受けるつもりである。だが、私は私の信仰が心配だ。その苦痛が激しすぎて、私が私の神様を疑うことになるといけないからだ。この世の様々な誘惑、また、サタンの様々なほのめかしが、これから私に襲いかかるだろうと予期されても、それらがやって来ることは恐ろしくない。しかし、その誘惑によって、私は自分の主を否定したり、主を恥としたり、結局背教者となるかもしれないことが恐ろしい。」キリスト者が真に受ける唯一の傷は、その人が罪を犯したときです。様々な苦しみは単に傷跡であり、肉にのみ傷ついているのであります。ただ、私たちがくじけて、恐怖そのものの中でやむなく降伏し、恐れ始めるときこそ、サタンが本当に勝利を得るのです。それが罪の支配、サタンの勝利でありましょう。

 しかし、そうであるならば、わたしたちが知っているように、恵みは罪を処理するがゆえに、まさにその恵みはそのような危険や危機に対して十分なのです。わたしたちは、自分の忍耐が尽きるのではないかと恐れている。だから主はこう云われる。「わたしの恵みがあなたの忍耐に影響を及ぼし、あなたを耐えさせる」と。わたしたちは、自分の信仰がくじけるのではないかと考えている。それで主は云われる。「わたしの恵みがあなたにあなたの信仰を与えたのだ。そして、わたしの恵みは、ガスコンロのガスのように、あなたの信仰を燃やし続ける。悪魔がそれを消そうと水をかけてきても関係ない。いつでもわたしはガスを供給する。わたしの恵みこそ、わたしを愛するよう最初にあなたに教えたものであった。そのように、迫害されるとき、わたしの恵みはあなたにわたしをより良く愛させることになろう。わたしは、これまであなたがわたしを捨て他の者を信じる者にならぬように守ってきた。何が起ころうとも、わたしの恵みはあなたに十分である。わたしは、恵みによって、あなたが最終的に神の子となることを、完成された新たな者となることを保証している。だから、あなたは、あなたの試練と苦難のすべてから、炉をくぐった銀のように出て来るであろう。汚れた者としてではなく、火によってきよめられ、精錬された者として出て来るであろう」。

 この恵みの確信は現実に、キリスト者が自分の目の前にしている恐れや現実に作用するのです。それはあたかも、主がご自分のしもべのひとりにこう云われたかのようにです。彼は孤立して立ち、幾千もの敵から矢を打たれている中で、主は云われる。「彼らはお前に矢を放つだろうが、わたしはお前を頭から足まで鎧と兜で覆っている」。あるいは、それはあたかも、わたしたちが、苦難という深い海を渡ることを考えて震えているとき、主がこう云われたかのようである。「この海は深く、あなたはそれを渡らなくてはならない。だが、わたしがあなたのそばにいる。そうすれば、あなたは足を濡らすことなくそれを通り抜けることができよう」そのようにして、恵みは、恐れを飲み込み、平安をもたらす。いかに私たちが苦しむとしても、私たちがそれに耐えられる恵みを有しているとしたら、何のことがあろうか?もはや、苦難は苦難ではなく、もはたそれは主の恵みの力強さを目の当たりにする時と、場所にほかならない。わたしたちが、安心する場所にほかならないのです。

 そして最後に、私たちが十分な恵みを受けるとの確信は、私たちをこの上もなく喜ばせることではないだろうか?ということを共に考えていきたい。「恵みは、わたしに十分であるならば、どうでしょうか?パウロは、これを聞いて、「私は、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言いました。単に喜んで、ではなく、「大いに弱さを喜んで」いました。与えられた神様の恵みは、わたしたちにとって十分すぎるものです。そのために、この事実の確かさについて考えてみるのがいい。わたしたちの内の誰れもが、恵みが不足していたことなどなかったはずです。もし、主の恵みが足りなかったと思う人がいるなら、今主の前に立ち、それを伝えてみればいい。その時、主はその人に間違いなくこう告げられる。「わたしはあなたがたの中の誰を私が助けそこなったことがあるだろうか?いつわたしは、わたしの約束を破っただろうか?あなたは苦しみの大水の中にいた。あなたは溺れただろうか?あなたは火の中を通り抜けてきた。あなたは黒焦げになっただろうか? わたしは一度でも、あなたがわたしに呼びかけたとき、あなたの叫びを聞くのを拒んだことがあっただろうか?戦いの日において、いつわたしはあなたの頭を覆わず、あなたを放置して滅ぼす者のえじきとしただろうか?」そう主は言われるでしょう。愛する兄弟姉妹方。わたしたちの場合もそうではなかったでしょうか?主が助けてくださらないことなどなかった。私はそう確信しています。「わたしの恵みは、あなたに十分である」、と主は云われる。そう思えないのならば、聖霊によって書き記された聖書に目を向けるのがいい。聖書はわたしたちに教えるでありましょう。主はご自分の選びの民を捨て去るようなことをなかった。彼らは確かに、深い苦難の海の中に入ったことがあった。わたしたち以上の苦難にあっている者のことがたくさん書かれている。わたしたちはまだ、全財産を失ったり、子ども全員を失わされたりしたことはない。また、ヨブがしたように灰の中に座し、土器のかけらを取って自分の身を掻いたこともない。わたしたちは、あの究極の杯を飲み、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と言われたお方のお受けになった苦しみを受けたことはない。しかし、どの主の民も救われたのです。あのお方も、復活させられ、栄光の冠を授けられた。わたしたちの主は勝利を得られた。そして、あらゆる時代の、あらゆる状況下における主の民はみな、主にあって勝利を得てきた。聖書からはそう見出すことしかできない。だから、わたしたちは見捨てられはしないのです。

 また、わたしたちはこのことを思い起こせばいい。私たちは決して、恵みがいかに十分であるかを、こうした数々の試練がないとしたら、決して知ることがないということです。それゆえ私たちは、この恵みがいかに広大かつ十分であるかを私たちに確信させてくれるあらゆる教訓から学ぶべきである。いくら、サッカーのルールブックや教本を読んでも、実際に体を動かして、練習しなければ、さらには、相手のある試合をしなければ、サッカーは上達しない。上にいくことはできない。一流の選手になるということはない。サッカー少年たちが、地元のサッカー少年団に入団しても、横浜マリノスの下部組織に入団したとしても、そこで一度も試合をすることなく練習だけをしていたのであれば、スカウトマンに目をつけられることはなく、プロになることはない。彼らはピッチに出て、試合に出なくてはならない。幾多の試合は経験をもたらし、この経験こそが、その少年たちの成長をもたらす。旧約の戦人も、「戦い」の中で、主の大いなる力強さ、恵みを目の当たりにしてきた。その戦いの経験、絶体絶命の中で、恵みが十分であることを体験し、成長を促されてきたのです。この成長は、それ以外の手段では達成されないのです。

 さらに言えば、この世の人々が神の恵みを見てとる道が、私たちの試練以外にはそうないということ、これを共に覚えておきたい。恵みが与えられているのは、私たちが罪から守られるためである。そうであなるならば、試練がやって来るとき以外に、恵みは輝くだろうか?ひとりのキリスト者の婦人の子どもが亡くなってしまった時、まだクリスチャンでない夫が、その妻の信仰を見る。激痛がからだの表に現われ、恐ろしい死が現われるとき、人々は死につつあるキリスト者の忍耐を見てとる。わたしのクリスチャンの友人夫婦でこういう人がいました。その友人である夫が鬱であると診断されるほどに鬱状態になり、働くこともできず、また家で家事の手伝いもほとんどできないほどにうつ状態になった。そして、妻はなんとか踏ん張って働き、家のこともして、夫を支えていました。その夫の両親はクリスチャンではなく、妻のことを不憫に思い、二人は別れたほうがいいのではないかとまで思っていました。しかし、妻は、神様が選んでくださった夫と共にあることを望み、神様に祈りながら、夫婦で苦しみながら、夫婦で忍耐しながら、生きていきました。そのような中で、夫の両親は、別れない嫁のことを不思議に思いはじめ、最後にそれは彼女がイエス様を信じているからであることに気付かされていきます。そして、教会にその両親が教会の礼拝に行ってみるというところまで、来たそうです。その時その友人夫婦は、泣いたそうです。何もできなくなっていた夫が特に泣いたそうです。自分の弱さ、自分の病、自分の貧しさを通して、両親が教会に来たと。イエス様と出会ったと。泣いたそうです。支える妻の愛に感謝もしたそうですが、何よりも彼は、自分はなにもできないダメなやつだと思っていたのに、神様が、その自分の弱さを用いて、自分の身近な人を、導いてくださったと知って、号泣したそうです。その友人の妻も共に号泣したそうです。

 私たちの欠けや弱さ、また病いは、神の愛という宝を美しく見せる土の器となるのです。だから、自分が苦しみうることを神様に感謝するのがいい。このようなしかたで、神様は栄光を現わされる。そして多くの人々を驚嘆させ、神様ご自身の恵みを賛美させることとなる。

 もうこれ以上は語りません。しかしこの確信をわたしたちはそれぞれ受け止め、これを家に持ち帰って、それぞれの舌に載せてほしいとだけ願いたい。この確信を、朝食べるパンケーキのようにしてほしい。それを明日の朝、一人ひとりの朝食として食べるのがいい。いや、この後に、そのパンケーキを昼食にしてもいいし、お昼のおやつにしてもいいです。できるならば、この確信と恵みをそれぞれの常食となればいい。これを糧として生きればなおいい。その確信とは、「わたしの恵みは、あなたに十分である」。ということです。この「あなたに」という言葉を心に突き入れることである。「主の恵みは、わたしに十分である」、この言葉とその確信とを、毎日の糧として、そして、緊急の時の常備薬としてもってください。今日のパンを与えてくださった主に感謝を。永久に癒やす薬を与えてくださった主に賛美を献げましょう。ハレルヤ。主はいわれる「わたしの恵みはあなたに十分である」と。ハレルヤ。

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