主日礼拝

人の子が来る

「人の子が来る」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第96編1-13節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第24章29-31節
・ 讃美歌:299、469

主イエスの過去、現在、将来
 毎週の礼拝において告白している「使徒信条」に導かれて、聖書のみ言葉に聞いておりまして、今はその第二の部分、神の独り子イエス・キリストへの信仰が語られているところを読み進めています。前回までは、復活した主イエスが天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる、ということについて、聖書が語っていることを聞いてきました。復活した主イエスが天に昇ったことまでは、主イエスの「過去」を語っており、「全能の父なる神の右に坐したまへり」は、主イエスの「現在」を語っています。主イエス・キリストは、今現在、父なる神の右に座しておられるのです。神の右の座とは、天における父なる神の王としてのご支配を司る者の座です。つまり主イエス・キリストは今、天においてこの世界と私たちとを支配しておられるのです。それはどのようなご支配かを前回確認しました。本日はその続き、使徒信条第二の部分の最後の「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」です。ここには、主イエス・キリストの「将来」が語られています。「かしこ」とは「そこ」という意味であり、主イエスが今おられる「全能の父なる神の右の座」のことです。今はそこに座っておられる主イエスが、将来もう一度この世に来て、生ける者と死ねる者とをお審きになるのです。主イエスがもう一度来られることを「再臨」(再び臨む)と言います。その時主イエスがなさる審きがいわゆる「最後の審判」です。主イエスの「将来」として教会は、私たちは、再臨と最後の審判を信じているのです。
 このように使徒信条は第二の部分において、主イエス・キリストの過去と現在と将来を語っています。主イエスが過去において既に成し遂げて下さったことと、現在して下さっていることと、そして将来実現して下さることを語っているのです。その全体が主イエスによる救いです。主イエス・キリストによる救いを信じるとは、この過去、現在、将来の救いの全体を信じることです。その一部分だけを信じるのでは、主イエス・キリストによる救いの全体を捉えることができていないのです。

またおいでになる
 天に昇った主イエスがもう一度来られることを語っている聖書の箇所として先ず第一にあげられるのは、使徒言行録第1章の10、11節です。主イエスは弟子たちの目の前で天に上げられ、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった、という昇天のことが9節に語られており、それに続く10節以下にこうあります。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがた見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」。「白い服を着た二人の人」とは天使でしょう。天使が、ということはつまり神が、弟子たちに、天に昇って彼らの目から見えなくなった主イエスが、「天に行かれるのをあなたがた見たのと同じ有様で」つまり目に見えるお姿で、またおいでになる、と宣言して下さったのです。

人の子が来る
 そのことを主イエスご自身も語っておられたのが、先ほど朗読されたマタイによる福音書第24章29節以下です。30節に、「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」とあります。「人の子」というのは主イエスがご自分のことを言っておられる言葉です。「人の子(つまり私)が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」と主イエスは言われたのです。この24章は、この世の終わりについて語られているところです。この世の終わりにはどのようなことが起るのか、と尋ねた弟子たちへの主イエスの答えがここに記されているのです。世の終わりに向けては様々な苦しみが起こる、と主イエスは言っておられます。戦争、飢饉、地震、そして偽預言者が現れて人々を惑わせる、などのことです。そして29節に「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」とあります。この世界が終わることが見つめられているのです。しかし主イエスがここで語っておられることの中心は、この世界が苦しみの中で破局を迎え、滅亡することではありません。「そのとき、人の子の徴が天に現れる」、つまり主イエスの存在が全ての人々にはっきりと示されるのです。そして全ての人々が「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」のです。主イエスが天からもう一度来られる、そのことこそ、世の終わりに起こることの中心なのです。戦争や地震や飢饉が起こり、人々を惑わす偽預言者も現れ、激しい苦しみが襲って来る、しかしこの世界はそれらのことによって終わるのではない、つまりこの世界は破局を迎えて滅亡して終わるのではない。人の子主イエスがもう一度来られることによってこそ終わるのだ、と主イエスはおっしゃったのです。

大いなる力と栄光を帯びて
 「主イエスがもう一度来られる」と申しました。主イエスは既に一度この世に来られ、この世を歩まれたのです。それが、クリスマスの出来事に始まる主イエスの地上のご生涯でした。その主イエスが、十字架につけられて殺されたけれども、三日目に復活して、天に昇り、今は父なる神の右に座しておられるのです。そしてそこから、世の終わりにもう一度来られるのです。主イエスが一度目にこの世に来られた時のお姿と、将来もう一度来られる時のお姿とには大きな違いがあります。一度目に来られた時、主イエスはベツレヘムの馬小屋で生まれました。天使によって救い主の誕生を告げられた何人かの人々がそれを喜び祝いましたが、この世の大部分の人々は、神の独り子である主イエスがこの世に来られたことなど知りませんでした。主イエスはそのように、隠された仕方で、人間の目から見たら誰もこの方が神の子であり救い主だとは思わないような弱く貧しい姿でこの世に来られたのです。そして最後は、捕えられて十字架につけられて殺されました。それが一度目にこの世に来られた主イエスのお姿でした。しかし将来もう一度来られる主イエスのお姿はそれとは全く違います。人の子主イエスは、「大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」のです。一度目には誰も主イエスが来られたことに気づかなかったけれども、もう一度来られる時には、天にその徴が現れ、大いなる力と栄光を帯びて来られる主イエスのお姿を全ての人々が見るのです。つまり今、復活して天に昇り、全能の父なる神の右の座に着いて、神の王としてのご支配を担っておられる、その主イエスのご支配がはっきりと現されるのです。天に昇られた主イエスのお姿を、地上を生きている私たちは今、この目で見ることはできませんし、主イエスの天におけるご支配も今は私たちの目に見えません。しかし世の終わりに主イエスがもう一度来られることによって、その主イエスのご支配が、目に見える仕方ではっきりと示され、誰の目にも明らかになるのです。そのようにして、今既に天において、私たちの目には見えない仕方で実現している主イエスのご支配が、主イエスがもう一度来られることによって、全ての者の目に見える現実となり、完成するのです。この世の終わりにはそういうことが起る、と主イエスは言っておられるのです。

審きに備える
 主イエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られ、そのご支配があらわになり、完成する時、そこでなされるのは「生ける者と死ねる者とを審きたまはん」ということです。主イエスによる審きが行われるのです。支配することと審くことは一体です。支配しているから審くことができるのだし、審きは支配している範囲にしか及びません。海外に逃亡してしまったカルロス・ゴーン被告に日本の裁判権は及ばないのです。しかしもう一度来られる主イエスが、大いなる力と栄光をもって世の全ての人々を支配なさる時、そこから逃亡できる者はいません。主イエスのご支配の下で、全ての人々の審きがなされるのです。「生ける者と死ねる者」というのは、主イエスがもう一度来られる時に生きている者も、それ以前に死んでしまった者も、ということです。もう一度来られる主イエスは、この世を生きた全ての人々を支配し、お審きになるのです。その審きのことを語っているのが、マタイによる福音書の次の25章です。特にその31節以下にこう語られています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをえり分け、羊を右に、山羊を左に置く」。これが、人の子主イエスによる審きです。全ての人々が主イエスの前に集められ、右と左とに分けられるのです。右が救われる人、左が滅びる人です。救われる人と滅びる人がはっきりと分けられる、それが、世の終わりにもう一度来られる主イエスによってなされる、いわゆる最後の審判なのです。主イエスがもう一度来られてそのご支配が完成する時に、私たちの救いと滅びが最終的に決まるのです。そのことを忘れずに、主イエスがもう一度来られることに備えているように教えているのがこの25章です。25章の1節以下には「十人のおとめのたとえ話」が語られています。それは、ともし火を灯して花婿の到着を待っている十人のおとめたちの話です。予備の油を備えていた賢いおとめたちは、いざ花婿が来た時にともし火を灯して婚宴に連なることができましたが、備えていなかった愚かなおとめたちはともし火を灯すことができず、婚宴から締め出されてしまったのです。また次の14節以下は「タラントンのたとえ話」です。旅に出た主人からそれぞれお金、タラントン、それは能力、才能を意味する「タレント」」という言葉の元になったわけですが、それを預けられた僕たちが、主人の留守中にそれを生かして用いたか、つまり僕として主人が帰って来ることにしっかり備えていたかが問われる、という話です。いずれの話も、世の終わりにもう一度来られる主イエスを待つことの大切さを教えており、それらを受けて31節以下には、人の子主イエスが来て人々を右と左に、救われる者と滅びる者とに分ける審きのことが語られているのです。

審きを恐れる
 このように、世の終わりにもう一度来られる主イエスは、審きをなさるのです。救われる者と滅びる者とがそこではっきりと分けられるのです。今は隠されている主イエスのご支配があらわになり、完成するとはそういうことです。主イエスのご支配が完成する時、主イエスを信じ従う者は救われ、背き逆らう者は滅ぼされるのです。それは恐ろしいことだと私たちは感じます。その通りです。それゆえに、先ほどのマタイ福音書24章30節には、「そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ」と言われていたのです。人の子主イエスのご支配があらわになり、その主イエスが来て審きをなさる、その前で、私たちは誰もが恐れ悲しまずにはいられません。なぜなら私たちは皆、神に背き逆らう罪を犯しているからです。神を神として認めず、受け入れず、敬わず、自分の思いと欲望を第一にして生きているのが私たちの罪です。神が私たちに求め、期待しておられることは、この世界を造り、私たちに命を与えて下さった神を先ず愛し、それと同時に自分を愛するように隣人を愛することです。しかし私たちは、自分を造り生かしておられる神を愛し従おうとしない、だから自分自身を本当に愛することもできず、自分が自分であることを喜べなくて常に不平不満に満たされてしまうのです。そして自分を愛することができていない者が隣人を愛することなどできるはずはありません。主イエスがもう一度来てお審きになるとき、そういう私たちの罪が全て明らかにされるのです。その罪を示されたら、もう自分は滅ぼされるしかない、と恐れ悲しまずにはおれません。自分には罪がないから当然救われる者に入れる、などともし思っている人がいるとしたら、それは自分の現実が全く見えていないということです。主イエスによる審きを見つめるときに、罪人である私たちが感じる恐れ、悲しみは、神を信じる信仰において不可欠です。それを感じないとしたらそれは、神との正しい関係を失っているということです。つまり自分が平安を得るために神を利用しているだけの、神を侮る思いに陥っているのです。神を信じるとは、神を恐れることです。主イエスがもう一度来て、生ける者と死ねる者とをお審きになることを、恐れをもって見つめ、それに備えていくということなしに、信仰はあり得ないのです。

選ばれた者たちが呼び集められる
 しかしそこで私たちがしっかり見つめるべきことがもう一つあります。それは、もう一度来て、私たち全ての者をお審きになるのは、主イエス・キリストだ、ということです。主イエス・キリストは、神の独り子、まことの神であられたのに、私たち罪人の救いのために、聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれて私たちと同じ人間になって下さいました。そして私たちの罪を全て背負って、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられて死んで下さったのです。神の独り子である主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちの罪を赦して下さいました。そしてその主イエスは、三日目に死人の内よりよみがえりました。父なる神が主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さったのです。それによって神は、主イエスを信じる者たちにも、復活と永遠の命を約束して下さいました。主イエスの十字架の死と復活によって、罪人である私たちが赦されて、神の子として新しく生かされるという救いが実現したのです。その救い主イエス・キリストが、天に昇り、今や全能の父なる神の右に座しておられ、この世界と私たちを支配して下さっているのです。そしてそのご支配が、将来主イエスがもう一度来て下さることによって目に見える仕方で完成し、それによって今のこの世は終わり、神の国が実現するのです。そういう救いに私たちをあずからせて下さるために、神はその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。ですから、主イエスがもう一度来て全ての者をお審きになる時に、私たちは、自分が罪のゆえに滅ぼされてしまうのではなくて、主イエスによる罪の赦しにあずかって救われることを信じることができるのです。その救いは私たちがこの世で清く正しく信仰深い生活を送ることによって得られるのではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が実現して下さった救いを信じることによって、神が与えて下さるものです。神が私たちを選んで、ご自分のもとに引き寄せて下さって、救い主イエス・キリストを信じる信仰を与えて下さって、罪の赦しと永遠の命にあずからせて下さる、その救いが、主イエスがもう一度来て下さるこの世の終わりに完成するのです。そのことを先ほどのマタイ福音書24章は31節においてこう言い表していたのです。「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。「大きなラッパの音」それは人の子主イエスによる審きの開始を告げるラッパであり、この世の終わりを告げるラッパです。その時、天使たちが遣わされて、人の子によって選ばれた人たちが、四方から、つまり世界中から、主イエスのもとに呼び集められるのです。つまり主イエスがもう一度来られ、生ける者と死ねる者とに対する、つまり全ての人々に対する審きをなさる時には、主イエスに選ばれて救われる者たちが救い主イエス・キリストのもとへと呼び集められ、神の民とされ、その救いが完成するのです。「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と信じるとは、この救いを信じることです。最後の審判は、自分が滅ぼされてしまうことを恐れ、びくびくして、だからそんなものなるべく来ないでほしい、と思うものではなくて、私たちの救い主である主イエスがもう一度来て下さって、そのご支配をはっきり示してくださり、私たちに復活と永遠の命を与え、神の民として下さるという救いの完成の時であり、私たちはそれを喜びをもって待ち望むことができるのです。

主イエスが来られるのを待ち望みつつ生きる
 フィリピの信徒への手紙第3章20節以下にもこう語られています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。主イエス・キリストがもう一度来てくださり、私たちをもご自分と同じ復活の体へと変えてくださり、本国である天に迎えて下さることを待ち望んでいる、それが教会の、私たちの信仰なのです。
 コリントの信徒への手紙一の第16章22節にある、「マラナ・タ」という祈りもその信仰によるものです。それは「主よ、来てください」という意味です。天において父なる神の右の座に着いておられる主イエスが、もう一度来て全ての者をお審きになることを、私たちは一方でしっかり恐れなければなりません。人間を審く神など信じない、というのでは、神を神として信じることはできません。神は私たちに仕える僕ではなくて、この世と私たちの全てを支配しておられる方なのです。しかしそのご支配は、独り子主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、復活と永遠の命を与えて下さるという恵みのご支配です。主イエスがもう一度来て下さることによって、そのご支配が完成されるのです。私たちはそのことを信じて、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と祈りつつ生きるのです。まさにこの世の終わりが迫っていると感じる苦しみ悲しみの現実の中で、主イエスがもう一度来て下さり、救いを完成して下さることを希望をもって待ち望む、それが教会の、私たちの信仰なのです。

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