主日礼拝

自然の人と霊の人

「自然の人と霊の人」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第40章12-14節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第2章6-16節
・ 讃美歌 ; 15、127、447

 
神の知恵

 礼拝においてコリントの信徒への手紙一を読み進めておりまして、前回、先々週は第2章6~9節を読みました。本日は、その続きの10節以下ではなくて、同じく6節から16節までを読みます。9節と10節の間に切れ目はありません。9節までは前回に読みましたから、本日は10節以下を主に読んでいくのですが、そのためには6~9節に語られていることをしっかり踏まえなければならないのです。具体的には、10節に「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」とある、「そのこと」とは何かということです。それが、6~9節に語られているのです。「そのこと」とは、この手紙を書いた使徒パウロが、信仰に成熟した人たちの間で語ると言っている知恵のことです。その知恵は、この世の知恵ではなく、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもない、隠されていた神秘としての神の知恵である、と彼は言っています。その神の知恵は、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものである、とも言われています。その神の知恵とは、「十字架の言葉」だと、1章18節にありました。その内容は、神の独り子、栄光の主であるイエス・キリストが、人間となってこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、それによって私たちの罪が赦され、救いが実現した、そしてこの主イエスを信じ、主イエスと結びついて生きる者が、主イエスの復活の栄光にも与かっていく、ということです。神様が、独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いを、私たちのために成し遂げて下さっている、それが、隠された神秘としての神の知恵なのです。
 この知恵は「隠された神秘」です。誰の目にも明らかに知恵とわかるものではないのです。神秘という言葉は、前回も申しましたように、「ミステリー」という言葉の元になっているものです。不可解な謎、という意味がそこにはあります。そのように神の知恵は、私たち人間の感覚で自然に分かり、理解することのできないものです。私たちが分かり、理解することのできる知恵は「この世の知恵、人間の知恵」なのです。神の知恵は、この世の知恵を磨いていって、その理解を深め高めていくことによって到達できるものではありません。神の知恵は、この世の知恵とは全く別の仕方で私たちに示され、与えられるのです。それでは、隠された神秘としての神の知恵は、どのようにして私たちに示され、与えられるのでしょうか。そのことが、この10節以下に語られているのです。

神の霊によって

 10節に、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」とあります。「明らかに示す」という言葉は、隠されているものを、その覆いを取って明らかにする、という意味です。私たちには、隠された神秘としての神の知恵が、明らかに示された、それは、霊によるのだ、と言われているのです。「霊」という言葉に、チョンチョンがつけられて、括弧に入れられた形になっています。それは、この霊を、普通の霊、人間の霊と区別するためです。11節の「人の内にある霊」にはその印がついていません。これは人間の霊なのです。それと区別するために10節の「霊」には括弧がつけられているわけです。原文の言葉は同じです。しかしその言葉が、人間の内にある人間の霊を表すこともあれば、神の霊、いわゆる聖霊を表すこともあるのです。11節の2行目には「神の霊」という言葉があります。これは、「神の」とはっきり言われているのですから、人間の霊と混同されてしまうことはないわけです。そのように「神の」とか「人間の」ということがはっきり語られていない場合で、これは「神の霊」のこととして読むべきであるというところに、この印がつけられています。ですからこの印のついた「霊」は、「神の霊、聖霊」と考えて読んだらよいのです。このことは、新共同訳聖書の巻頭の「凡例」の中に書いてあります。「凡例」を読むことはあまりないのではないかと思いますが、読んでみると案外参考になることがいろいろ書いてあります。話を元に戻しますが、私たちに、隠された神秘としての神の知恵が明らかに示されたのは、神の霊、聖霊の働きによってなのです。
 このことの理由が10節の後半に語られています。「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」とあります。ここの原文には「なぜなら」という言葉があります。神の霊、聖霊は一切のことを、神の深みさえも究めるものであるから、その神の霊によってこそ、神の知恵は示されるのだ、と言われているのです。パウロはそのことを11節で、人間の事柄を例にあげて説明しています。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか」。この「人の内にある霊」は、私たちの心、意識と考えればよいでしょう。つまり、自分の心以外に、誰が自分のことを知っていようか、ということです。自分のことは自分が一番よく知っている、ということです。それは、ある場合には当たっていないこともあります。私たちは、自分のことがなかなか自分では本当にわからない者であるということも覚えておかなければならないでしょう。しかし私たちはしばしば、自分の思い、気持ちがうまく相手に伝わらないというもどかしさを抱きます。自分の本当の思いはこうなのに、それがどうしてもうまく伝わらず誤解されてしまう、という苦しみを体験するのです。そのような時にはまさに、自分の思いは自分にしか分からない、ということを実感するわけです。それと同じように「神の霊以外に神のことを知る者はいません」と語られていきます。神様のみ心、その本当のお気持ち、それを知るのは神の霊のみなのです。だから、その神の霊によってこそ、神のみ心、神の知恵は私たちに示されるのです。

神の恵みを知る

 12節には「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それ でわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」とあります。パウロが「わたしたち」と言っているのは、コリントの教会の人々を含めた、つまりイエス・キリストを信じ、教会に連なっている全ての信仰者のことです。全ての信仰者たちは、神からの霊を受けたのです。信仰者になるというのは、神からの霊、聖霊を受けることです。このことは、そもそも教会がどのようにして生まれたかということと関係しています。教会の誕生は、使徒言行録第2章に語られているあのペンテコステの出来事に遡ります。復活された主イエスによって再び集められた弟子たちが、集まって祈っていた所に、神様の霊、聖霊が降ったのです。その聖霊を受けたことによって、彼らは、主イエス・キリストのことを力強く宣べ伝え始めました。最初の教会はそのようにして誕生したのです。それは最初の教会のみの特別なことではありません。私たちが洗礼を受けて教会に加えられるということは、聖霊を受けることなのです。洗礼において私たちは、水と霊とによって新しく生まれ変わるのです。洗礼を授ける時、牧師は受洗者の頭に水をつけ、そして手を置いて祈ります。それは、聖霊がその人に降り、聖霊の働きによって、その人が主イエス・キリストの救いにあずかる神の民の一員として新しく生まれ変わることを祈り求めているのです。洗礼において私たちに、あの最初のペンテコステの出来事と同じことが起こるのです。洗礼を受けた信仰者は、神からの霊を受けた者なのです。そんな実感はない、と思う方も多いかもしれません。しかしそれは、私たちの実感の問題ではありません。聖霊を受けたような気がするかどうかではないのです。聖霊が私たちに降って私たちの中でして下さることは、それこそ霊にとりつかれたような気持ちになり、興奮状態になり、突然それまではできなかったことが出来るようになったりすることではありません。聖霊は、先程申しましたように、神様のみ心、その本当のお気持ちを私たちに分からせて下さるのです。神様のみ心、その本当のお気持ちとは何でしょうか。それは、私たちへの恵みのみ心、私たちを救おうとするお気持ちです。聖霊は、そのみ心を私たちに示してくれるのです。12節の後半に、「それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」とあるのはそのことです。ここの原文には「~のために」という言葉が使われています。口語訳はそれを生かして「それによって、神から賜わった恵みを悟るためである」と訳していました。いずれにしても、聖霊を受けることによって私たちは、神様の恵みを知るのです。神様が恵みによって私たちのためになして下さった救いのみ業を知り、その中で生きる者となるのです。それが、洗礼を受けて信仰者、クリスチャンになるということなのです。

霊的な言葉を語る

 そして13節にはこうあります。「そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」。聖霊を受けて、神様の恵みを知った者は、その恵みを語っていきます。宣べ伝え、証ししていくのです。その働きに専念し、それを専らしているのがパウロたち伝道者です。しかしこの働きは、伝道者たちのみがすることではありません。洗礼を受け、聖霊を受けて神様の恵みを知らされた信仰者全てが、その恵みを語る者として立てられているのです。自分にはそれを語る力はない、と決めてしまってはなりません。神の恵み、神の知恵が語られるのは、ここに言われているように「人の知恵に教えられた言葉によるのではない」のです。私たちが、自分にはどれだけ語る力があるか、神様の恵みを証しするような言葉を自分は語り得るか、と思う時に見つめているのはすべて「人の知恵に教えられた言葉」です。人間の知恵と力によって語られる言葉です。そこにおいては、人によって優れた力を持っている人もいれば、そうでない人もいるでしょう。しかし、神様の恵みは、そういう人間の知恵によって伝わるのではないのです。聖霊のみが示し与えることができる神様の恵みのみ心は、あの括弧つきの「霊」に教えられた言葉によってのみ語られ、示されるのです。神様の恵みは霊的な事柄ですから、それは霊的な言葉によってしか語れません。霊的な言葉は、私たちの語る能力から生み出されるものではありません。私たちの信心深さからでもありません。信心深さというのも、人間の一つの能力、資質であると言えるでしょうが、聖書の教える信仰はそういう人間の資質とは関係がありません。もともと信心深い人だから信じることができるのではないのです。信仰は、神の霊、聖霊の働きによって神の恵みを示される、ということにかかっています。それを示された者が信じ、その恵みを味わい、それによって生かされていくのです。そこに、その人なりの、その恵みを証しする言葉、あるいはそれは言葉というよりも生きる姿勢、生活の姿かもしれませんが、そういう霊的な言葉が与えられていくのです。

自然の人と霊の人

 さて次の14節には、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」とあります。「自然の人」とはどういう人でしょうか。これは明らかに次の15節の「霊の人」との対照において語られていることです。自然の人の反対は霊の人なのです。霊の人というのは、12節にあった「神からの霊を受け」、それによって「神から恵みとして与えられたものを知るようになった」人です。そうではないのが「自然の人」です。神の霊を与えられていないために、神の霊に属する事柄、つまり、私たちを救おうとなさる神の恵みのみ心を知ることができないのです。つまり、この「霊の人」と「自然の人」の違いは、神の霊を受けているかいないかです。受けている人が霊の人、受けていない人が自然の人なのです。ですから、「自然の人」という言葉には積極的な意味はありません。口語訳聖書ではここは「生まれながらの人」となっていました。生れつきの自然な人間です。私たちの誰もがもともとその「自然の人」でした。その「自然の人」は、人間の霊は持っているけれども、神の霊は与えられていないのです。それゆえに、もともと生まれつきの人間には、霊に属すること、神様の救いの恵みを理解し、受け入れることができないのです。14節後半に「その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」とあります。神の霊を受けていない者にとっては、神様の救いの恵み、神の知恵は、愚かなことでしかありません。何故ならば、その救いの恵みの中心は、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しだからです。生れつきの私たちは、このキリストの十字架による救いを愚かなものと思います。その思い方は人によっていろいろ違うでしょう。自分はキリストによって赦してもらわなければならないような罪人ではない、自分が何の罪を犯したというのか、と思うこともあるでしょう。自分に罪があることは認めるが、それをキリストの十字架によって赦してもらおうとは思わない、そんなのは逃げだ、自分の罪は自分で背負って自分で責任を取るのだ、と思う人もいるかもしれません。あるいは、罪の赦しなどということにはそもそも何の意味もない、罪を赦されたからといって生活がどうなるわけでもない、もっと直接生活に結びつくような救いでなければ意味がない、という思いも起こってくるでしょう。思い方は様々ですけれども、私たちはキリストの十字架の死による罪の赦しに自分の真実の救いがある、とはなかなか思いません。それが自然なのです。生れつきの人間の姿なのです。そのような私たちが、主イエス・キリストの十字架の死による神様の救いの恵みを信じて、その恵みを受け入れて、その恵みに感謝して生きるようになるとしたら、それは聖霊のみ業によることでしかありません。自然の人が、神様の霊を受けて霊の人になるのです。それが、信仰を持つ、ということなのです。

愛の呼応関係

 そこで起こることは、私たちが、神様のみ心を、その本当のお気持ちを知るということです。独り子イエス・キリストの十字架の死に、父なる神様のどれだけ深い思いが込められているか、私たちの罪への深い悲しみと怒り、どうしようもなく罪を重ねていってしまう私たちへの深い憐れみ、その私たちを赦そうとして下さる恵み、そのために独り子の命を犠牲にして下さる愛、そういう神様のお気持ちの深みを感じ取る心を与えられるのです。そのことが、神の深みさえも究める聖霊を受けることによって起こります。聖霊のお働きによって、私たちの中に、神様のみ心、お気持ちを察する心が生まれるのです。それが信仰です。その信仰によって、神様のみ心と、私たちの心がつながるのです。呼べば応えるような、呼応関係が生まれるのです。それはとても難しいことだと思われるかもしれません。しかし、神様の愛の内で、神様を愛して生きるというのはそういうことでしょう。神様は、独り子イエス・キリストを与えて下さるほどに、私たちを愛して下さいました。そして私たちにも、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛することを求めておられます。信仰というのはこのように、神様に愛され、その愛の中で私たちも神様を愛して生きることです。神様との、愛の呼応関係に生きることです。そういう関係を成り立たせてくれるのが、聖霊の働きなのです。
 15節には「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」とあります。難解な言葉ですが、これも、今申しました神様との心のつながり、愛の呼応関係ということを前提にして読めば分かりやすくなるでしょう。神様とのそのような深い密接な交わりに生きている人は、一切を判断することができる、つまり、いろいろなことを神様のみ心に即して見分け、信仰に基づいた大胆な決断をすることができるのです。そしてその人自身は誰からも判断されない、それは、人が自分のことをどのように判断し、評価していても、それによって動揺したり落ち込んでしまわない、ということでしょう。神様との心の交流に生きている者は、人の評価、判断によって動じることはないのです。

キリストの思いを抱いている

 最後の16節には、「誰が主の思いを知り、主を教えるというのか」という旧約聖書の言葉の引用がなされています。そのもとになっているのは、本日共に読まれた、イザヤ書40章の13、4節です。「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか」。主なる神様のみ心を測り知り、主に歩むべき道を教えたりすることができる者があるか、つまり、神様のみ心を判断し、評価できるような者はいるか、ということです。そんなことは誰もできない。生れつきの人間の中には、そんなことができる人は一人もいないのです。ところがこの引用を受けてパウロは、「しかしわたしたちはキリストの思いを抱いています」と言っています。生まれつきの、自然の人は、主の思い、お気持ちを察することができません。しかし、神の霊を受け、信仰を与えられた私たちは、主の思い、お気持ちを感じ取る心を与えられているのです。イザヤが、「そんなことが出来る者は一人もいない」と言っていたことが、神の霊によってキリストの福音を知らされた私たちには出来るのです。そのことが、「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と言い表されていることがとても重要です。神様のお気持ちがわかる、感じ取れるというのは、主イエス・キリストの思いがわかる、キリストのみ心と私たちの心が響き合い、呼応し合うということです。神の霊、聖霊によって、神様のみ心、お気持ちの深みを感じ取る心を与えられると申しました。それはある意味ではとても危険なことです。何故なら私たちは、しばしば、自分の思いを神様の思いであると思い込んでしまうからです。今自分の心と神様のみ心がビンビン響き合っている、神様のみ心が痛いほどわかる、と感じる時に、私たちは非常に危険な所にいるのだということを知らなければなりません。それはひょっとしたら、自分の勝手な思いを神様のみ心と勘違いしてしまい、自分が神様に成り代わってしまっているということなのかもしれないのです。その危険を避ける唯一の道は、私 たちの思いがキリストの思いであるか、ということです。自分の思いはイエス・キリストの思いであると言えるか、イエス・キリストのみ心と自分の心とが、響き合い、呼応しているか、そのことを私たちは常に真剣に顧みていかなければなりません。そのイエス・キリストとは、十字架につけられたキリストです。私たちの罪を背負って、ご自身は何の罪もないのに、罪人の身代わりになって死んで下さった方です。そのキリストの思いを抱いている者こそが、神からの霊を受けた霊の人、隠されていた神秘としての神の知恵を示された信仰者なのです。主イエス・キリストのこのみ心を感じ取る心が与えられ、キリストのみ心と私たちの心が響き合い、呼応し合っていくなら、私たちは、自分の勝手な思いを神様の思いと勘違いして、それを人に押し付けていくようなことはしないでしょう。私たちの、人に対する思い、接し方も変わっていくでしょう。自分と気の合う者とだけ付き合い、好きな者どうしの間で群れを作り、他の人々、自分と意見が合わなかったり、そりが合わない人のことは悪く言い、対立していくようなことはなくなるはずです。コリント教会にはそういうことが起っていました。パウロはそういう現実を見つめながら、あなたがたはいつまで、自然の人のままでいるのか、私たちは、神の霊を受けた、霊の人、神の恵みを知っている者であるはずではないか、主イエス・キリストの十字架において示されている神の知恵をわきまえた、本当に知恵ある人、本当に成熟した人になろうではないか、と呼びかけているのです。

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