夕礼拝

新しく生まれる

「新しく生まれる」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第51編12節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第3章1-15節
・ 讃美歌:7、476

 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 そのように、主イエスがニコデモという人物に、おっしゃいました。      

 神の国を見る、とは、神のご支配の中に入ること、神の救いに入れられることです。   主イエスは、救われるために、わたしたちは新しく生まれなければならない、と言います。      

 「新しく生まれる」とは、一体どういうことなのでしょうか。わたしたちは新しく生まれなければならない、と言われて、何が出来るのでしょうか。      

 もし、立派な人物であることや、良い行いをすることが救いの条件だったなら、分かりやすかったかもしれません。   
 今日の聖書に出て来る、ニコデモという人物を見てみますと、彼は1節に、ファリサイ派に属するということ、またユダヤ人たちの議員であったということが書かれています。   
 ファリサイ派というのは、律法主義と言われて、律法に書かれていることを細かくしっかりと守った人たちのことです。また、ユダヤ人たちの議員であった、と書かれており、これはユダヤの最高法廷の議員、つまり超エリートであったということです。   
 そして4節で「年を取った者が、どうして生まれることが出来ましょう」と言っており、ニコデモは老人であったと思われます。   
 教養もあり、地位も名誉もあり、生活も律法に即してちゃんとしていて、年も相応に重ねた超エリート。彼は人々に尊敬されるような、立派な人物だったでしょう。   
 もし、優れた生き方をすることや、良い行いをしたり、律法を守ることが、救いにあずかる条件であったなら、ニコデモは真っ先に神の国に入れる人物だったかも知れません。そして、ニコデモ自身だって、自分は神の国に近い、と思っていたかも知れません。   
 しかし、主イエスによれば、それは神の国に入る条件ではないようです。      

 もしそのように立派に生きることが、決まりを守ることが救いの条件であるのなら、わたしたちはそのように出来ない現実を前に、戸惑ってしまうでしょう。良いことをしようとしても、つい自分勝手に振る舞ってしまいます。何かを成し遂げようと決意しても、すぐに心が折れてしまいます。努力をしようとしても、つい怠惰になってしまいます。失敗だってするし、時には人を傷つけてしまうこともあるからです。救いにふさわしく生きるのはとても難しいでしょう。      

 でも逆に、いや、わたしはそんなに悪いことをしたこともないし、人助けもするし、どっちかと言えば、良い人間だと思いますよ、という方も、いるかも知れません。わたしはニコデモのような人物になれる、という人がいるかも知れません。      

 しかし、それこそ主イエスが「はっきり言っておく」とおっしゃったように、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」のです。「新たに生まれる」ということが、神の救いに入るということなのです。      

 今日の聖書箇所見てみましょう。   
 ニコデモは、夜、主イエスのもとを訪れます。人目を忍んだのかも知れません。主イエスは今日の聖書の前の箇所で、神殿で商売をしていた人を追い出して、他のユダヤ人たちに目を付けられていました。しかし、ニコデモはどうしても主イエスに会いたくて、居ても立っても居られなくなったのかも知れません。彼は夜に、主イエスのもとに来て、こう言います。   
 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」   
 「ラビ」というのは、ユダヤ人が教師を呼ぶときに使った言葉です。「大いなる者」という意味があって、尊敬の念を現しています。この年老いたエリートのニコデモは、主イエスを尊敬していることを示しました。それは、主イエスがしるし、奇跡を行っておられるのを知り、「神のもとから来られた教師であり、神が共におられるのでなければ、そのような『しるし』を誰も行うことはできない」はずだと、確信したからです。   
 きっとこの方が聖書に書かれている偉大な預言者だ、救い主だ、と思い、それを確認しにきたのかも知れません。      

 しかし、主イエスはニコデモにこう答えられました。   
 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」   
 ニコデモが「あなたは神のもとから来られた教師だ」と言ったことへの答えとしては、噛み合っていないように聞こえます。しかし、主イエスは、ニコデモが主イエスを神から来られた方であると言いながら、その本当の意味、「神の救い」ということがどういうことかが分かっていないと、見抜いておられたのではないでしょうか。   
 それで、「はっきり言っておく。」「神の国を見るには」つまり、神の救いにあずかるには、「人は、新たに生まれなければならない」とおっしゃったのです。      

 ニコデモは、言います。   
 「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか。」   
 もう一度母親の胎内に入って生まれる。そんなこと、できるわけがありません。   
 ニコデモは、単純に「新しく生まれる」ということが、母親の胎内に入って生まれ直す、という意味だと、真剣に勘違いしていたのではないでしょう。   
 そうではなくて、年を重ねてきたニコデモが、「新しく生まれなければならない」と今更言われたって、それはどうすればいいのか。   
 これまで、律法を正しく守り、努力もし、重要な仕事も引き受けて実績も積み上げてきた。旧約聖書のこともよく理解している。そのことは「神の国を見る」ためには役に立たないということか。これまでの自分では不十分なのか。   
 「この年を取ったわたしが、新たに生まれなければならないとは、どういうことですか。一体わたしはどうすればいいのですか。」   
 そのような、ニコデモの困惑の言葉だったでしょう。      

 神に救われるために、どうしたらいいのか。   
 「どうしたら新しく生まれることができるのか。」   
 ニコデモの問いは、わたしたちの問いです。   

 主イエスはお答えになります。  
 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに驚いてはならない。」   

 「水と霊とによって」生まれる。これは洗礼のことを指しています。洗礼を受けるということは、わたしたちが「新しく生まれる」ということだと言うのです。この霊からの誕生によって、神の国に入ることができる、と言うのです。  
 3節、7節の「新たに生まれる」の「新たに」という言葉は、「上から」という意味でもあります。上から生まれる、つまり、わたしたちは自分の外からの力、つまり神の力によって、「生まれる」ことが出来るのです。   
 言い方を変えれば、自分の力や、何かを成すことによってではなく、神の力によってしか、「新しく生まれる」ことは出来ないのです。  

 わたしたちは、父と母から生まれました。これは肉から生まれた、ということです。このわたしたちの命の誕生も、神の御業ですが、神は父と母を通してこのことを行われます。  
 しかし、新しく生まれるためには、人は何もすることが出来ません。ただ、上からの神の力によって、霊によって、生まれるしかないのです。  
 ただ一方的な神からの恵みによって、上からの力によって、わたしたちは水と霊によって新たに誕生することができると言います。   

 主イエスは、この新しく生まれさせる「霊」のことを、風にたとえておられます。   
 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」   
 「風」という言葉は、実は「霊」と同じ言葉です。 「風は思いのままに吹く」、つまり、霊は自由に働かれるのであって、わたしたちがその働きを把握したり、予想したり出来ない、ということです。   
 風がどこから来たのか、またどこへ行くのかを見通すことは出来ません。しかし、確かに風の音を聞き、確かに存在を感じます。   
 同じように、自由に働く神の霊、聖霊を、わたしたちは把握したり理解することはできませんが、しかし確かに力強く存在し、働いておられるのです。   

 聖霊によって生まれる、ということは驚くべきことです。どうやって生まれるのか、わたしたちはどうやって新しくされるのか。   
 キリストを信じると告白させて下さるのも、洗礼を願わせて下さるのも、聖霊のお働きによります。キリストの救いを信じると告白し、牧師が三度水を頭につけて、父と子と聖霊の名によって洗礼が行われた時、その牧師の手の下で、どのようにしてその新しい誕生が起こっているのでしょうか。     

 洗礼を受けたら、その人の見た目がまばゆく輝き出すわけでもなく、洗礼の直後から全く罪を犯さない清らかで正しい人間になる、というわけでもありません。病がみるみると治るのでもなく、願いが叶うとか、抱えている問題がすぐ解決するというのでもありません。   
 しかし、それらのことよりももっと根本的に重要で、驚くべき素晴らしいことが起こります。   
 洗礼を受けたその時、神の救いの御業が確かにそこで起きているのです。罪の古い自分が死に、キリストの命に生きる自分が生まれるのです。霊から生まれた者は、確かに神の国に入る者とされる。洗礼を受けた者は、十字架と復活のキリストに結ばれ、罪を赦されて、復活と永遠の命を約束されるのです。この世の罪と死と、あらゆる悪から解放されて、神のご支配の中を生きることが出来るのです。   
 わたしたちの人生が、命が、キリストによって救われ、キリストのものとされます。水と霊の洗礼によって、そのような「新しい命」へと、生まれるのです。  

 そして、そのように罪の中にあり、死に支配されているわたしたちが、水と霊とによって「新たに生まれる」ために、主イエスはわたしたちの許に来られました。   
 主イエスは13節で、「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」と言われます。主イエスは、神の御子であり、その方が救いのために天から降って、まことの人となられたのです。   
 人の罪を赦すために、父なる神が天から御子を地上に遣わして下さいました。   
 1:33で洗礼者ヨハネが主イエスを見て、「『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と語っています。   
 神から遣わされ、まことの人となられたこの方は、聖霊によって洗礼を授ける方、神の子なのです。      

 わたしたちが負いきれない罪を、支配されていた死を、主イエスが十字架の死によって贖って下さいました。そして父なる神は主イエスを復活させ、その復活と永遠の命を、主イエスを信じて結ばれた者にも、受け継がせて下さいます。      

 そのことを主イエスは14節で語られています。   
 「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」      

 このモーセのことは、民数記に書かれています。聖書を開ける方は、民数記21章4節以下をご覧ください(旧249ページ)。      

 神はモーセに炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げるようにお命じになりました。そして、蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る、と言われました。そして実際、蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た、と書かれています。   
 この青銅の蛇が旗竿の先に上げられたように、主イエスも上げられる、と言うのです。それは十字架の上にです。そして、蛇にかまれて毒が回って死ぬはずの者が、旗竿の先に上げられた青銅の蛇を見上げれば命を得たように、罪に支配されて死ぬはずの者が、十字架に上げられた主イエスを見上げる時、命を得る、というのです。   
 主イエスが十字架に架かられるのは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである、と書かれています。      

 もし蛇にかまれたら、蛇や、自分の血が流れている傷口ばかりに目が行くかもしれません。しかし、青銅の蛇を見上げるということは、蛇や傷口から目を離すということです。   
 同じように、わたしたちは、自分の罪や、自分の弱さや苦しみばかりに目を向けているかも知れません。   
 しかし、わたしたちが罪の中にいる自分自身から目を離して、十字架の主イエスだけを見上げる時、わたしたちは命を得ることが出来ます。十字架に上げられた主イエスは、そこでわたしたちの罪の赦しを宣言し、命を得させることを示して下さっているからです。      

 わたしたちは十字架の主イエスを見上げて、罪赦されて新しい命を歩むことを赦されているのです。   
 そして、そのキリストの命を歩むために、水と霊が、わたしたちを新しく生まれさせて下さいます。わたしたちは何をすることも出来ません。   
 ただ、主イエスの十字架を見上げることだけです。この方が救い主であると、信じることだけです。神の恵みを喜んで受け入れることだけです。   
 それは同時に、自分の力で何とかしようとすることを止めることでもあります。それは、自分のすべてを、神に委ねていくことです。しかしそれは、神様がしてくれるから、自分が何もしなくなる、ということではありません。自分の人生を神のものとして生きていく、神に喜ばれるように生きていく、ということなのです。   
 その時、わたしたちの目は、目の前の現実に塞がれることはありません。苦難や困難や悩みがあっても、死ということさえも、わたしたちの目を覆うことは出来ません。わたしたちの目は主の十字架だけを見上げ、自分の歩みが、命が、主イエスの恵みのもとにあること見るからです。   
 それが、新しく生まれるということです。      

 ニコデモが「どうして、そんなことがありえましょうか」と思わず言ったように、「新しく生まれる」ことを素直に信じることは難しいことかも知れません。   
 しかし、その信仰さえ、聖霊が働き、導いて下さいます。   
 神はそれほどまでに、わたしたちが主イエス・キリストを信じ、神に立ち帰り、神と共に生きる者となることを望んで下さっているのです。   
 だからわたしたちは、水と霊によって、ただ上からの神の恵みによって、洗礼を受け、キリストに結ばれ、新たに生まれることが出来るのです。      

 老人となったニコデモさえも、聖霊なる神は新しく生まれさせることがお出来になります。   
 神はすべての者に「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいます。そしてそれは、神にしか出来ないことです。   
 主イエスは「あなたは水と聖霊によって新しく生まれなさい。十字架を見上げなさい。ただ救いだけを見上げなさい。わたしは信じる者に、永遠の命を与えよう」と、わたしたちに語りかけて下さっています。   
 わたしたちは、ただ外から来る神の恵みによって、洗礼を受け、「新しく生まれ」、神の国を見ることが出来ます。   
 命を得させる主イエスの十字架だけを見上げ、神の招きにお応えしましょう。

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