主日礼拝

どんな実を結ぶか

「どんな実を結ぶか」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第11章13-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第7章1-6節
・ 讃美歌:326、135、469

パウロの葛藤、嘆き
 礼拝においてローマの信徒への手紙を読み勧めておりまして、本日より第7章に入ります。この第7章は、この手紙の中でも多くの人々に愛され、親しまれてきた章です。何故かというと、ここには、パウロが大変正直に自分の中の信仰の葛藤を語っている言葉があるからです。特に15節以下にそれが語られています。15節に「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分自身が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」とあります。さらに18節には「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」とあります。また21節にも「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」とあります。こういう葛藤、ジレンマが自分にはある、とパウロは嘆いているのです。その嘆きが極まっているのが24節です。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。このようにパウロはこの7章で、善を行なおうと思う心はあるのに、自分の肉それを妨げ、むしろ罪を犯させている、という分裂した惨めな自分の姿を赤裸々に告白しているのです。こういう自己分裂を私たちも味わっています。信仰者として、神に従ってみ心に適う生活を送りたいという気持ちは確かにあり、そのように決意して何度も歩み出すのだけれども、自分の体が、また生活における様々な事情が、私たちの思いとは裏腹に罪に捕えられていき、気がつくと元の黙阿弥になっている、という挫折を誰もが体験していると思います。だから私たちはパウロのこの告白に親しみを覚え、ほっとするのです。あの偉大なパウロも、自分と同じ弱さをかかえていたのだ、と親近感を覚えるのです。それで、この箇所は愛され、親しまれているのだと思います。

私たちの嘆きとパウロの嘆き
 この第7章でパウロは確かに、自分の弱さや、罪に捕えられてしまっている状態を告白しています。だから私たちがここを読んでパウロにも弱さがあったことを知り、親しみを覚えることは決して間違いではありません。しかし気をつけなければならないのは、ここでのパウロの嘆きを私たちの嘆きと簡単に結びつけてしまうと、パウロが語ろうとしていることを正しく捉えることができなくなる、ということです。私たちが信仰において感じている嘆きや弱さは簡単に言えば、「わかっちゃいるけどやめられない」ということではないでしょうか。信仰者として神に従ってどのように生活すべきなのかは分かっているが、現実にはなかなか理想通りにはいかない、いろいろな誘惑があり、この世の生活におけるやむを得ない事情があって、それらを全て断ち切って神に完全に従うことはなかなか出来ない、私たちはそういう自分の嘆きを、パウロの「善をなそうという意志はあるが、それを実行できない」という嘆きと重ね合わせてここを読んでいることが多いと思います。しかしパウロが言っているのはそういうことなのでしょうか。
 先週まで私たちはこの手紙の6章を読んできました。そこでパウロは、洗礼を受けて主イエス・キリストによる救いにあずかったあなたがたは、罪に対しては既に死んでおり、神に対して生きているのだ、罪の奴隷から神の奴隷へと既に変えられているのだ、ということを強調していました。そしてそれゆえに、6章13節では「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」と勧めており、また19節後半でも「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と語っていたのです。その後の第7章に語られているパウロの嘆きを、私たちが自分の嘆きに引き寄せて、聖なる生活を送ろうという思いはあるのだが、肉の弱さのゆえに実行できずに相変わらず罪の奴隷として生きている私は何と惨めな人間なのだろう、と読んでしまうと、第6章で彼が強調していた、あなたがたは既に罪から解放されて神の奴隷となっている、ということが無意味になってしまいます。ですから私たちはここでのパウロの嘆きと、私たちが感じている「わかってはいるのだがなかなか理想通りにはいかない」という嘆きとを簡単に重ね合わせてしまってはならないのです。
 またこうも言えます。パウロがここで告白しているのは、「この体が死に定められており、このままでは自分は滅びてしまう」という深刻な嘆きです。それに比べて私たちが感じている「わかってはいるけれどもやめられない」という嘆きは、もっとずっと暢気な、嘆きとは言えないようなものではないでしょうか。つまり私たちはパウロのように、このままでは滅びに至る、と真剣に恐れ苦しんではいないのです。だからいつまでたっても「わかってはいるけどやめられない」という状態が続いているのです。

第7章のテーマは「律法」
 それでは、パウロがここで語っている惨めさとはどのようなものなのでしょうか。それをこの第7章から段々と読み取っていきたいのですが、本日はその1-6節を読みます。ここは、パウロの自己分裂、惨めさが語られている所よりも前の部分です。しかしここに既に、この後語られていくことへの導入がなされており、第7章で語ろうとしている主題がここに提示されているのです。第7章を読む上で最も大事な鍵となる言葉は「律法」です。それが第7章の主題です。15節以下のパウロの自己分裂、惨めさを語っている部分にも、翻訳には現れていませんが実は同じ「律法」という言葉が用いられています。21節以下に「法則」という言葉が何度も出てきますが、それは原文においては「律法」と同じ言葉なのです。その意味については先に行ってからのことですが、いずれにせよこの第7章の鍵となる言葉が「律法」であることが分かります。パウロが語っている惨めさ、嘆きも、この「律法」に関することなのです。
 このようにこの第7章の主題は律法であり、律法についての知識や、律法の下での生活の体験が前提となっています。1節に「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが」と語られていることがそれを示しています。しかし私たちは「律法を知っている人々」ではありません。律法について多少の知識はあっても、律法の下で生活した体験は、ユダヤ人でない私たちは誰も持っていないのです。ですから私たちはこの第7章を理解する上でハンディを負っています。学びと想像力によってそれを補っていく必要があるのです。律法とは、神がイスラエルの民にお与えになった、神の民として歩むための掟です。その中心にあの十戒があります。十戒の周囲に、さらに様々な、行なうべき儀式についての掟や生活上の事柄を教える掟があり、その全体が律法です。イスラエルの民はこの律法を守ることによって、自分たちが神に選ばれ、愛され、救いにあずかる神の民であることを確認しつつ歩んでいたのです。パウロ自身もイスラエルの民の一員として、また特にファリサイ派に属する者として、律法を人一倍熱心に守り行ないつつ生きていた者だったのです。

死によって律法から解放される
 そのパウロが、律法を知っている者の常識としてこの1節で語っているのは「律法とは、人を生きている間だけ支配するものである」ということです。そしてそのことを彼は2、3節で、結婚、夫婦の関係についての律法を例に出して語り示しています。結婚した女は、夫が生きている間は律法によって夫に結びつけられているから、他の男と関係を持ったら姦通の罪を犯すことになるが、夫が死ねばその律法から解放されるので、他の男と一緒になっても罪にはならない、ということです。これは夫たる者にはいささか物騒な例です。世の妻たちは夫が死んで解放されることを願っているのかしら、などと思ってしまいますが、パウロは別にそういうことを考えさせようとしているのではありません。彼が指摘しているのは、結婚の律法は夫の生存中は妻を夫に結びつけているが、夫の死によってその律法からの解放が起る、ということであり、それによって彼は、「律法は人を生きている間だけ支配するものであり、死んだら律法から解放される」ということを示そうとしているのです。それを受けて4節でこう語られています。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」。それと同じような言い方は6節にもあります。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」。これが、本日の箇所で語られていることの中心です。イエス・キリストの救いにあずかった者は、律法に対しては死んだ者であり、律法から解放されているのです。そのことをパウロは既に6章の14節後半において、「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と語っていました。律法から解放されて、もうその下にはおらず、神の恵みの下にいる、それがキリストによる救いです。そしてこの律法からの解放は、律法に対して死ぬことによって実現するのです。死ぬことが律法からの解放をもたらすのです。その例として、夫が死ぬことによって妻が結婚の律法から解放される、ということが見つめられているのです。

キリストのものとなって新しく生きる
 律法から解放されて神の恵みの下に置かれる救いは、私たちが死ぬことによって実現します。そのことがあなたがたに既に起っているのだということをパウロは6章の3、4節で語っていました。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。つまり見つめられているのは洗礼です。洗礼を受けたことによって私たちはキリストと結び合わされ、キリストの死にあずかり、キリストと共に古い自分が死んで葬られたのです。そしてキリストの復活にあずかって新しい自分が生き始めたのです。それを受けて6章11節には「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と語られていました。先程の7章4節の「あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」はこれと同じことを語っています。キリストの体に結ばれるとは洗礼を受けることです。洗礼を受けてキリストの体に結ばれた私たちは、キリストの十字架の死にあずかって律法に対して死んだ者となり、それによって律法から解放されているのです。
 しかし律法から解放された私たちは、どのような掟にも支配されずに自分の好きなように生きる者となるわけではありません。4節の後半にはこうあります。「それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」。律法に対して死んだ者となり、律法から解放された私たちは、死者の中から復活させられた方である主イエス・キリストのものとなって、神に対して実を結ぶ者となるのです。「キリストの体に結ばれる」とは、キリストの体の部分となって、頭であるキリストに従って生きることでもあるのです。第6章でパウロは、洗礼を受けた者は罪に対して死に、イエス・キリストに結ばれて神に対して生きる者となったと語りました。罪の奴隷状態から解放されて神の奴隷となったとも語りました。罪という主人から解放されて神という主人の下で新しく生きる者とされたのです。第7章においてもそのことが見つめられています。私たちは、洗礼を受けて律法の支配から解放され、主イエス・キリストのご支配の下に新しく生きていくのです。

律法と罪
 このように、7章1-6節に語られていることは、6章に語られていたこととかなり重なり合っています。ただ違うのは、6章では、かつては罪の奴隷として生きていた私たちが、洗礼を受けた今は罪に対して死んで、神に対して、神の奴隷となって生きている、と言っていたのに対して、7章では「罪」の代りに「律法」が古い自分を支配しているものとして見つめられており、その律法からの解放が洗礼によって与えられた、と言っている点です。6章における罪からの解放が、7章では律法からの解放と言い表されているのです。ここに大切な問題があります。いったいどうして、罪と律法とがそのように同列に置かれるのでしょうか。罪からの解放は律法からの解放であるということにどうしてなるのでしょうか。律法は、先ほど申しましたように神がお与えになったものです。神がイスラエルの民をご自分の民として歩ませるために、恵みによって与えて下さったものなのです。その律法がどうして罪と同じようにそこから解放されなければならないものとなってしまったのか、これは大問題であり、大きな謎です。パウロがこの第7章で語ろうとしているのはこのことなのです。そして彼がここで告白している自己分裂、惨めさも、律法が罪と結びついてしまっていることから生じているのです。私たちはパウロの嘆きをこの律法と罪との結びつきという問題の中で捉えなければなりません。それを抜きにして、私たちの「わかっちゃいるけどやめられない」という弱さと同一視してしまうことは、パウロの嘆きを矮小化してしまう間違いなのです。

罪が律法によって力を得ている
 律法が罪と結びついてしまっている現実をパウロは5節でこのように語っています。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」。「肉に従って生きている間は」というのは、生まれつきの私たちの姿、洗礼を受ける前の古い自分のことです。その時には「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んで」いたのです。「罪へ誘う欲情」は直訳すれば「罪の欲情」です。「欲情」という言葉はそれ自体が悪いイメージですが、元の言葉はそうでもなくて、「情熱」「愛」などとも訳せる言葉です。しかしそこに「罪の」が付いているわけで、人間の情熱や愛が間違ったものへと間違った仕方で向けられていることが見つめられているのです。そして大事なのは、その「罪の欲情」が律法によって働いているということです。「働く」は原語で「エネルゲオー」です。「エネルギー」という言葉の元になっている言葉です。つまりこの「働く」は力を得てより活発に、エネルギッシュに働く、という意味です。罪の欲情が律法によって力を得て、より活発に、エネルギッシュに活動しているのです。律法が罪の欲情にエネルギーを与えるものとなってしまっているのです。このことをパウロは次の7節以下で語っていきますが、本日はそれには触れません。ここで大事なのは、律法が罪に力を与えるものとなってしまっており、それゆえに私たちはその律法から解放されなければならない、ということです。

死に至る実を結んでいる
 5節でもう一つ見つめるべきことは、私たちの五体の中で罪の欲情が律法によって力を得て活発に活動し、死に至る実を結んでいる、ということです。罪が律法によって力を得て支配している所では、私たちの生活は、死に至る実を結ぶものとなっているのです。このことはやはり6章20、21節に語られていたことと重なり合っています。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない」。罪の奴隷として生きているところには、死に至る実りしか実らないのです。そこでは、神が与えて下さった良いものであったはずの律法も、罪に力を与え、死に至る実を結ばせるものとなってしまっているのです。パウロが語っている惨めさ、自分の体が死に定められてしまっているという深刻な嘆きはこのことによるのです。つまり彼は先ほど申しましたように、ファリサイ派の一員として神から与えられた律法を熱心に守り行なって生きていました。しかし律法を熱心に行なってきた自分の生き方によって、罪がかえって力を得て、死に至る実を結んでしまっている、つまりその生き方が自分をも人をも本当に生かすものになっておらず、むしろ人を傷つけ、殺し、そして自分自身をも傷つけ殺してしまうものになってしまっていることに彼は気づかされたのです。そこにパウロが感じている深い嘆きがあるのです。

神に対して実を結ぶ新しい生き方
 肉に従って生きていたかつての、生まれつきの私たちにおいては、「罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んで」いました。これに対して6節前半には「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」とあります。これが、洗礼を受けた今、私たちに与えられている新しいあり方です。かつては律法の下におり、そのために罪に支配されており、自分をも人をも生かすことができず傷つけ殺してしまうような死に至る実を結んでいた私たちが、洗礼を受け、キリストの体に結ばれた今は、律法に対して死んだ者となり、律法から解放されて、4節にあったように「神に対して実を結ぶように」なったのです。つまり自分をも人をも本当に生かしていく新しい生き方を与えられているのです。

聖霊に導かれる新しい生き方
 その新しい生き方をパウロは6節後半において「文字に従う古い生き方ではなく、〝霊〟に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と語っています。律法の文字に従うのが律法の下にいた古い生き方であるのに対して、神に対して実を結ぶ新しい生き方は、霊に従って神に仕える生き方です。それは、神の霊、聖霊の導きを受けて神に仕えていく、ということです。そこに、神に対して実を結ぶ新しい生き方が与えられるのです。文字に従うというのは、聖霊の導きを受けずに、人間の思いによって律法を読み、解釈し、判断するということです。そのように人間の思いによって受け止めてしまうことによって、神が与えて下さった良いものであるはずの律法が、罪に力を得させるものとなってしまうのです。しかし洗礼を受けた信仰者は、罪に対して死んで神に対して生きる者とされています。罪という主人の下から神という新しい主人の下に移されています。律法から解放されて、神の恵みの下に置かれています。神によって与えられたこの新しい生き方による生活を具体的に築いていくためには、聖霊の導きを受けつつ神に仕えていくことが必要なのです。聖霊の導きなしには、神の掟である律法も罪に力を与えるものとなってしまうし、神に従って歩もうとする思いがあっても肉の弱さによって挫折してしまうのです。私たちが感じている「わかってはいるができない」という嘆きとパウロの深刻な嘆きとは違うと申しました。しかしパウロに比べれば全く暢気な、嘆きとも言えないような私たちの嘆きも、聖霊に導かれる新しい生き方が出来ていないことによって起っていることだと言うことができます。そういう意味では、パウロの嘆きも私たちの嘆きも、どちらもその根本的な解決は、「〝霊〟に従う新しい生き方で仕え」ていくことにこそあるのです。パウロはこの聖霊に導かれる新しい生き方のことをこの後の第8章で語っていきます。その8章がローマの信徒への手紙の前半のクライマックスです。信仰者の自己分裂の嘆きを語っている第7章は、聖霊の導きによって、その分裂を乗り越えて与えられる新しい生き方を語る第8章への備えとなっているのです。

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