主日礼拝

救われる者は少ないのか

「救われる者は少ないのか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第107編1-9節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第13章22-30節 
・ 讃美歌:22、377、535

救われる者は少ないのか
 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第13章23節に、ある人が主イエスに「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことが語られています。主イエスはこの問いに答えて、その人にではなく、23節の終わりにあるように、周囲にいた「一同に」お語りになりました。それは、周囲の人々が皆、この人と同じ問いを抱いていることを感じ取られたからでしょう。「救われる者は少ないのか」という問いは、多くの人々に共通するものです。私たちの心の中にもそういう問いがあるのではないでしょうか。救われる人は多いのだろうか、それとも少ないのだろうか、主イエスは、あるいは聖書は、そのことについてどう言っているのだろうか、私たちも、そのことを知りたいと思っているのではないでしょうか。
 この問いはいったい何を意味しているのでしょうか。このように問うことで、私たちは何を知りたいと思っているのでしょうか。この問いに対する二通りの答えを想定してみることによってそれが見えてくると思います。つまり、もしも「救われる者は多い」という答えが返って来るなら、私たちは、神様は恵み深い、やさしい、寛大な、心の広い方だ、と感じます。そして、そういう神様なら自分も救ってくれるのではないか、と期待できる気がします。しかし反対に、「救われる者は少ない」という答えが返って来るなら、神様は厳しい、厳格な審きの神だ、ということになり、自分のような者は救ってもらえないのではないか、という気がしてきます。そして、そんな了見の狭い神様のもとで生きるのは窮屈な、安らぎのないことだ、と感じます。つまりこの問いの背後には、「救われる者は多い」と言ってくれるような神様なら信じてもいいが、「少ない」と言う神様などはそもそも信じたくない、という思いがあるのです。主イエス・キリストは、あるいは主イエスが教えておられる父なる神様は、「救われる者は多い」と言ってくれるようなやさしく寛大な心の広い方なのか、それとも厳しくて了見の狭い審きの神なのか、その答えによって、信じるか信じないか、従って行くかいかないかを決めよう、という思いが、この問いの根底にはあるのです。

狭い戸口から入るように努めなさい
 この問いに対する主イエスのお答えが24節以下です。主イエスは先ずこうおっしゃいました。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。このお答えは、先ほど想定した二つの答えのどちらに近いのでしょうか。それは明らかに「救われる者は少ない」という方だということになるでしょう。「入ろうとしても入れない人が多い」ということは、救いに入ることができる人は少ない、ということです。なぜ少ないのか。その理由は、そこに入るための戸口が狭いからです。私たちはここを読むと、マタイによる福音書第7章13、14節にある、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」というお言葉を思い起こします。それと同じことがここに語られているのだ、と思いがちです。しかしよく読むと、マタイにおける「狭い門から入りなさい」という教えと、本日の所の教えは意味が違います。マタイの方では、「狭い門」は、それを見出す者が少ない、目立たない門です。多くの人々が入ろうとするのは、むしろ広い門です。そちらの門の方がずっと立派で、その先に続く道も、いかにもメインストリートらしく広々としているので、皆がその門から入ろうとするのです。しかし実はそれは滅びに通じる門なのであって、命に通じる門は別の所にあるのです。その命に通じる門を見つけ出してそこから入りなさい、というのがマタイにおける教えです。それに対して本日の箇所における教えが語っているのは、そこが入るべき戸口であることは分かっているけれども、狭いのでなかなか入れない、という様子です。よく入学試験のシーズンになると、「狭き門」という言葉が使われます。昨今は、大学の入学試験よりも就職のための試験の方がずっと狭き門となっているわけですが、そういう時に用いられる「狭き門」という言葉の意味は、マタイにおける「狭い門」よりもむしろルカのこの入りにくい「狭い戸口」の方に近いと言えるでしょう。ただしこの戸口は、多くの人が殺到して倍率が高くなるから狭くなるのではなくて、もともと狭いのです。だから、そこから入れる人が少ないのです。

信仰の決断と熱心
 主イエスがこの「狭い戸口」というたとえによって語ろうとしておられるのは、救われる者は少ない、ということではありません。主イエスはここで、狭い戸口から入るように「努めなさい」と言っておられます。主イエスが語ろうとしておられるのは、救われる者が多いか少ないかという議論ではなくて、救いに入るために「努めなさい」という勧め、促しなのです。ここもマタイにおける「狭い門」の話と違う所です。マタイでは、広い門と狭い門とがあるから、狭い門の方から入りなさい、と言っておられます。しかしここには広い戸口のことは一切語られておらず、狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われているのです。この「努めなさい」という言葉は、勝利を目指して競技する、戦う、という意味です。狭い戸口から入るには戦いが必要なのです。それは他人を蹴落とすための戦いではありません。この狭い戸口から入って救いにあずかるための信仰の戦いです。狭くて入りにくいこの戸口こそ救いに通じるのだと信じて、そこから入ろうとする熱心さです。主イエスがここで人々に、つまり私たちに、求めておられるのは、主イエスを信じて従うことによってこそ救いが得られるという信仰の決断と、その狭い戸口から入ろうとする熱心さなのです。「救われる者は多いのか少ないのか」という問いの根底には、先ほど申しましたように、神様はやさしい方なのか厳しい方なのか、それによって信じるか信じないか、従って行くか否かを決めよう、という思いがあります。つまり神が自分の思い、考え、願望に合っているのかどうかを確かめ、合っているならば信じようとしているのです。主イエスは人々の中にあるこのような思いを見抜いて、そういう思いでいる限り、救いに入ることはできない、救われるためには、この戸口をくぐろうとする決断と熱心さが必要なのだ、この戸口は自分の寸法にぴったりフィットするかどうか、などと考えているのではなく、入りにくい狭い戸口を通って救いにあずかろうと努めるのでなければ、救いに入ることはできないのだ、と言っておられるのです。入ろうとしても入れない人が多いのはそのためです。それは、入れてもらえないのではなくて、本当に入ろうと努めることをせず、入れるか入れないか、入ろうかどうしようかと考えながら、この戸口の寸法を計ったり、ドアの仕組みを調べたりしながらうろうろしているからです。そういう人が多い、という意味で、救われる者は確かに少ないのです。それは神様が厳しい審きの神だからではなくて、本当に真剣に救いを求めようとする人間が少ないからです。

時は限られている
 主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」という勧めを、25節ではこのように言い換えておられます。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」。これも、「戸口」が重要な役割を果している一つのたとえです。一家の主人が夜になって、戸口を閉めて鍵をかける、そうしたらもう翌朝まで誰もその家に入ることはできないのです。このたとえのポイントは、戸口が閉じられる時が来る、そうしたらもう入ることはできない、ということです。この狭い戸口を入って救いにあずかることには、タイムリミットがあるのです。この戸口はいつまでも開いているわけではないのです。最終的なタイムリミットは、主イエスがもう一度来られ、それによってこの世が終わる、終末の時です。その終末が来ることを私たちの人生において指し示しているのが、私たちの肉体の死です。私たちの人生には、死というタイムリミットがあるのです。それが救いにあずかるための最終的タイムリミットなのかどうかを私たちは断言することができません。しかし、与えられている時には限りがあることを覚えて、救いの戸口から入るように熱心に努めることが求められていることだけは確かです。そしてこのことは、主イエスが12章から13章にかけて、繰り返し様々な形で語ってこられたことです。12章35節以下には、いつ帰って来るのか分からない主人を眼を覚まして待っている僕のたとえが語られていました。いつかは分からないけれども、主人が帰って来る時が迫っているのです。12章54節以下には、空模様から天候の変化を見分けるように、今の時を見分けなさい、という教えがありました。そして57節以下には、「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには」ということが語られました。つまり、あなたは審き主である神様のみ前に出るための道の途中にあるのだから、今のうちになすべきことをしなさい、ということです。今の時を見分けるとは、このことをしっかり見つめ、タイムリミットを意識することです。また13章に入って6節以下には、もう三年実を実らせていないいちじくの木のたとえが語られました。園丁は主人に、来年まで待ってください、それでもだめならこの木を切り倒してください、と言っています。切り倒されるまでのタイムリミットはあと一年なのです。このように主イエスは様々な仕方で、今あなたがたには時が、チャンスとして与えられている、しかしその時には限りがある、与えられている時をしっかり生かしなさい、そうしないと、もう時間切れで遅かった、ということになる、と警告しておられるのです。本日の箇所も、その続きであると言うことができます。主人が、つまり神様が戸を閉めてしまってからではもう遅いのです。「御主人様、開けてください」といくら戸を叩いても、「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまうのです。26節は、その時こんな言い訳をしてもそれは通らない、ということです。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。つまり、私たちもあなたと一緒にいたではありませんか、あなたの教えを聞いたではありませんか、ということです。その「あなた」とは主イエスのことだと言えるでしょう。主イエスのもとに集い、その教えを聞いた、礼拝に出席してみ言葉を聞いた、聖書を読み、その教えを生活の中で生かそうとしていたかもしれない、けれどもこの人々は、狭い戸口から入らなかったのです。本当に主イエスによる救いにあずかろうと熱心に求めることをせず、信仰の決断をすることなく時を過ごしたのです。そしてそのうちに戸は閉められてしまいました。そうなったら、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまうのです。

神の国に入る者とは
 「不義を行う者ども」と言われています。それは別にその人たちが特別に悪いことをした、大きな罪を犯した、ということではないでしょう。彼らは、主イエスと一緒に食べたり飲んだりした、つまり主イエスと交わりがあったのです。そして広場で主イエスの教えを受けたのです。み言葉を聞いて、それを自分なりに受け止めて生きていたのです。いっしょうけんめい良い行いに励んでいたと言ってもよいでしょう。しかし彼らは救いに入ることができない。それではどのような人々が救いにあずかるのか。28節には、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」とあります。神の国に入るのは、「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」です。「アブラハム、イサク、ヤコブ」はイスラエルの民の先祖です。その三人のみが神の国に入るということではなくて、その子孫である神の民イスラエルの代表としてこの三人の名前があげられているのです。つまり、神の国に入るのは神の民です。しかしここで外に投げ出されている人々もイスラエルの民だったと考えられます。ですからただ血筋においてイスラエルの民であることによって神の国に入ることができるわけではありません。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、主なる神様の呼びかけに応えて旅立ちました。自分の願う通りになることが保証されていることを確かめた上でではなく、先行きどうなるか分からない中で、主の示される道を、主と共に歩んでいったのです。つまり彼らは、主なる神様と共に歩むという狭い戸口から入ったのです。彼らに罪がなかったわけではありません。いろいろな罪を犯し、失敗もしました。しかしその歩みの全ては、あの戸口の中での歩みだったのです。神の民とは、この歩みを受け継ぐ者たちです。また神の国には「すべての預言者たち」もいます。預言者たちは、神様のみ言葉を聞き、それを人々に伝えました。主なる神様のみ言葉を受け、それによって生きた人々です。神の民とは、神様のみ言葉によって生きる人々です。神の国に入るのはそのような人々なのです。そして29節には、「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とあります。これの背後には、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編107編3節があります。そこには主なる神様がご自分の民を、「国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から」とあります。全世界から、神の民が集められて、神の国で宴会の席に着くのです。その人々は、何か特別に良いことをしたのではありません。自分の善行の報いとして招かれたのではありません。彼らは、主なる神様の招きに応答したのです。呼びかけに応えて、与えられた時、チャンスを無駄にせずに、主と共に歩むという狭い戸口から入り、み言葉によって生きる民となったのです。そのことによってこそ、神の国の宴会の席に着くことができるのです。この招きは全ての人々に与えられています。イスラエルの民には真っ先に与えられていました。しかしイスラエルの人々はなかなかこの招きに応えようとせずに、むしろ後から招かれた異邦人たちの方が先にそれに応えて狭い戸口から神の国に入っている、ということが起っています。それが30節の、「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」の意味です。神様の招きに応えるかどうかは、私たちの決断に委ねられています。それゆえにこのように後の人が先になり、先の人が後になることが起るのです。これらのことから考えるに、先ほどの、不義を行う者とはどういう者かという問いですが、その不義とは、神様の招きに応えようとしないことだと言うことができます。神の国に入ることができないのは、罪を犯した人ではなくて、神様の招きのみ心を無視して、せっかく開かれている戸口から入ろうとしなかった人、あるいは入るチャンスを失い、そのうちに戸が閉められてしまった人なのです。

主イエスによる神の招き
 神様は私たちのために、救いへの、神の国での宴会の席への戸口を開いて下さっています。私たちはそれぞれ、様々な罪を持ち、問題をかかえ、悩みや苦しみや悲しみの中にありますけれども、その私たち一人一人を神様は招いて下さっているのです。本日の箇所においてそのことを暗示しているのが、最初の22節です。「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあります。主イエスが町や村を巡って教えておられたこと、それは神の国の福音です。この福音書の4章16節以下に、主イエスがナザレの町の会堂でお語りになった説教が記されています。主イエスは先ず預言者イザヤの言葉を朗読なさいました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。そして主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになったのです。主の恵みによる解放が、様々なこの世の力、苦しみや悲しみに捕われている人の解放という救いが、主イエスによって実現する、神様はその救いへとあなたがたを招いておられる、主はその福音を、どの町でも村でも告げておられたのです。そしてその歩みは、エルサレムへと向かっていました。エルサレムへと向かう、ということの意味は、既にこの福音書の9章51節に示されています。そこにはこうありました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」。この「決意を固める」という言葉は、単に心の中で決心する、ということではありません。口語訳聖書ではここは「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」と訳していました。「顔を向ける」という言葉が用いられているのです。この時以来、主イエスの歩みは、常にエルサレムへと顔を向けたものでした。そのエルサレムで何が起るのか、それは主イエスが「天に上げられる」ということです。それは、逮捕され、十字架にかけられて殺され、そして復活し、天に昇る、という一連の出来事全体を指しています。エルサレムに向かうのは、このことのためです。主イエスによる救いは、主イエスが十字架にかけられて殺され、その主イエスを父なる神様が復活させて下さることによって実現するのです。そこに、神様の恵み深い招きのみ心が示されています。神様は、罪のない清く正しい人間を招いておられるのではないのです。むしろ、深い罪を負い、それによって生じる様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみ、嘆きの中にある私たちを招いて下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死によってその罪を赦し、主イエスの復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えようとしておられるのです。罪人である私たちを招いて下さるために、主イエスは、十字架の死というまことに狭い、他の誰も入ることができないような深い苦しみの戸口を通って、天に上げられ、そのことによって私たちのが神の国に入るための戸口を開いて下さったのです。この主イエスの苦しみと死とによる神様の招きのみ心を無視し、せっかく開かれている戸口から入ろうとしないとしたら、それは主イエスの十字架の死と復活を無にすることになります。私たちも、神様の招きに応えて、主イエスが開いて下さったこの戸口を通って、救いにあずかろうではありませんか。今この礼拝に集っている私たち一人一人に、そのための時が、チャンスが、神様によって与えられているのです。タイムリミットが来る前に、その時をしっかりと捉えることが大切です。この戸口は確かに狭い戸口です。その先に続く道も、決して平坦なものではありません。この戸口さえ通ってしまえば全てが楽になるとか、何の問題も、悩みも苦しみもなくなる、などということもありません。私たちがかかえている罪だって、それによってなくなるわけではないのです。しかし、この戸口から入ることによって、相変わらず罪人であり、苦しみや悲しみを抱えている私たちの、その歩みの全体が、神様の救いへの招きの中に置かれます。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストが共にいて下さる信仰の旅路を歩むことができるようになるのです。そこには、私たちが、救われる者は多いのか少ないのかという問いにおいて考えているような、優しい神か厳しい神か、などという感覚的な議論をはるかに超えた、本当に確かな救いの世界が開かれていくのです。

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