主日礼拝

喜ばしい知らせ

「喜ばしい知らせ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第1章5-25節
・ 讃美歌: 37、141、525

ヨハネとイエス
 福音書は、主イエス・キリストのご生涯とそのみ業、み言葉を語っている書物です。しかし、新約聖書に収められている四つの福音書はどれも、主イエスのみ業を語る前に、洗礼者ヨハネの働きがあったことを語っています。ヨハネが先ず現れ、主イエスの到来を予告し、そのための備えをした、それから主イエスが登場したと、四つの福音書は共通して語っているのです。中でもルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生の物語をも語っています。それを語っているのはルカのみです。ルカは、主イエスの誕生をも詳しく語っていますが、それとヨハネの誕生とを織り合わせるように結びつけています。本日の箇所に語られているのはヨハネの誕生の予告です。この後今度は主イエスの誕生の予告、次にヨハネの誕生の話、そして主イエスの誕生の話になるのです。このように織り成された二つの誕生物語を読み、味わいながら、そこに込められているメッセージを受け止めていきたいと思います。

世界の歴史の中で
 本日の箇所の冒頭の5節は、「ユダヤの王ヘロデの時代」と始まります。このヘロデは、「ヘロデ大王」と呼ばれている人で、紀元前37年から紀元前4年までの間ユダヤの王でした。といってもその王位は、当時地中海世界全域を支配下に置いていたローマ帝国が認めてくれたことによって得られたものです。このヘロデがユダヤを治めていた時代の出来事を私たちはこれから読んでいくわけですが、ルカはこれと同じような言い方をこの後も繰り返していきます。2章の冒頭には、主イエスの誕生が、ローマ皇帝アウグストゥスの治世のもとで、住民登録の勅令が出された時だったことが語られています。また3章の冒頭には、洗礼者ヨハネが活動を開始したのは、アウグストゥスの次の皇帝ティベリウスの治世の第15年だったことが語られています。これらのことを語ることによってルカは、主イエス・キリストによる救いの出来事を、この世界の歴史の中に位置づけているのです。ヘロデもアウグストゥスもティベリウスも、世界史の教科書に登場する人物です。主イエス・キリストは、彼らの時代に、実際にこの世の歴史の中に生まれ、生き、その中で救いのみ業を行なわれたのです。イエス・キリストによる神様の救いは、世界の歴史と無関係の抽象的な出来事ではなくて、歴史の中で具体的に実現したことなのです。

過去が現在に
 しかしルカがこのように歴史上の人物の名をあげていることの持つ意味はもう一つあります。ルカにとってはヘロデもアウグストゥスもティベリウスも過去の人物なのです。ルカがこの福音書を書いているのは、これらの人々の時代からまだ百年は経っていない、比較的近い時代ですけれども、しかし彼らが既に過去の人々であることには違いありません。その人々の時代に主イエスはこの地上を歩まれたということは、ルカにとっては主イエスご自身も過去の人であるということです。ルカはこのような書き方によって、主イエスが生きた時代と現在自分が生きている時代との隔たりを意識しているのです。私たちは、ルカからさらに1900年以上後の時代を生きています。主イエスの時代との隔たりはますます大きくなっており、私たちにとって主イエスはまさに遠い過去の、古代の歴史上の人物です。しかし遠い近いはあるにせよ、主イエスが過去の人物であることはルカにとっても同じだったのです。ですからルカは、基本的には私たちと同じ視点で、つまり後の時代から過去の人である主イエスを振り返るという視点でこの福音書を書いています。そのことが、この5節冒頭の言葉に現れているのです。しかしそれは、ルカにとって主イエスは自分とは関係のない単なる歴史上の人物に過ぎないということではありません。先週読んだ1節にあったように、ルカはこの福音書において、「わたしたちの間で実現した事柄について」語っているのです。先週もお話ししたことですが、過去の人である主イエスのご生涯が、後の時代を生きる私たち自身の間で実現した私たちの出来事となる、ということをルカはこの福音書で語ろうとしているのです。

ザカリアとエリサベト
 さてこのヘロデ王の時代に、ザカリアという祭司がいました。祭司は、エルサレムの神殿の祭儀のために仕える人々で、当時大変沢山の祭司たちがいたようです。七千人ぐらいだったという人もいれば、二万人いたという説もあります。その祭司たちが、24の組に分けられていて、その一つが「アビヤ組」でした。ザカリアはそこに属する祭司でした。祭司であるということは、モーセの兄弟アロンの子孫であるということです。彼の妻エリサベトも「アロン家の娘の一人で」とありますから、彼らは夫婦そろって由緒正しい祭司の家系の出身でした。そしてこの夫婦は、6節にあるように「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」のです。「二人とも神の前に正しい人」だった、それは「主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」ということだとあります。この後半のところは原文を読みますとこの訳とは少しニュアンスが違います。直訳すると、「主の掟と定めにおいて非のうちどころなく歩んでいた」となります。「掟と定めをすべて守り」と言うと、あの掟もこの定めもすべてきっちりと守る、というふうに、一つ一つの戒律を神経質に守って生きているという感じですが、この夫婦の姿はむしろ、主の掟と定め、つまり神様のみ心に従って、常に主の前に、主を仰ぎ見つつ、また主が自分たちを見つめていて下さるそのまなざしの中を歩み続けた、ということです。要するに彼らは神様を信じて、神様に従って、誠実に生きてきたのです。しかし7節、「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」。彼らには子供がありませんでした。子供を与えられることはイスラエルの人々にとって神様の祝福の目に見える印でした。逆に子供がないことは、それだけで、神様の祝福が決定的に欠けていると自分たちも感じるし、人々からもそう思われるという苦しみ、悲しみだったのです。神様を信じて、信仰者として誠実に生きてきたが、神様の祝福が与えられないままもう年をとってしまった、ザカリア夫妻は自分たちもそう感じていたし、周囲の人々からもそう見られていたのです。

聖所に入るザカリア
 さてこのザカリアの属するアビヤ組が神殿の祭儀を行う当番だった時、神殿の聖所に入って香をたく務めを行う人をしきたりに従ってくじ引きで決めたところ、ザカリアが当たりました。それぞれの組に何百人という祭司たちがいる中で、このくじに当たることは、祭司としての生涯に一度あるかないかのことです。ですからこれは祭司にとって大変な晴れ舞台です。また「くじ引き」というのは、ただ公平のためにすることではなくて、聖書において、神様が誰をお選びになるのか、そのみ心を問うための手段です。ですからザカリアはこのくじに当たった時、神様が自分を選んでこの大切な務めを与え、晴れ舞台に立たせて下さった、と感じたでしょう。自分たち夫婦はこれまで子供が与えられず、祝福の目に見える印を得ることができなかったけれども、神様はようやくこのような形で祝福を示して下さった、神様を信じて仕えてきたことは無駄ではなかった、神様は私たちのことを忘れてはおられないのだ、彼はそのように感謝しただろうと思うのです。

神を恐れる
 彼がそのような思いをもって聖所に入り、香をたいていると、そこに主の天使が現れました。天使は文字通り天の使い、神様からの使者です。その天使が現れたということは、神様ご自身が自分の目の前に現れ、自分と向かい合っておられる、ということです。そのことを知ったザカリアは、「不安になり、恐怖の念に襲われた」と12節にあります。彼は長年祭司として神殿の祭儀、つまり礼拝のために仕えてきました。それは、常に神様のみ前に進み出ることをしてきた、ということです。そのようにして仕えてきた神様が、今まさに自分と、目に見える仕方で向かい合われたのです。それは彼が長年願ってきたこと、待ち望んできたことだと言えるでしょう。ところがいざそうなった時に、ザカリアは不安になり、恐怖の念に襲われたのです。それはおかしなことではありません。神様に仕えてきたザカリアの思いは見せ掛けで本物ではなかったということではありません。いやむしろ彼は神の前に正しい人であり、妻と共に常にみ心に従って歩んでいたからこそ、この不安と恐怖を覚えたのです。なぜならそのような人こそが、自分は神様の前に立つことなどとうていできない罪深い、汚れた者であることを知っているからです。本当の信仰者というのは、神様のみ前に出ることの恐ろしさを知っている人です。本当に信じていない人は、平気で神様の前に出るのです。「主を畏れることは知恵の初め」と箴言第1章7節にありますが、私たちはなかなかこの「初め」にまで到達できない、初め以前のところでうろうろしていることが多いのです。
 不安と恐怖に襲われたザカリアに、天使は「恐れることはない」と語りかけます。このパターンが、この後、主イエスの母となったマリアにも、また救い主の誕生を告げられた羊飼いたちにも繰り返されていきます。罪ある人間が神様のみ前に出て、神様と向かい合うところに必然的に生じる恐れは、神様ご自身が、「恐れるな」と語りかけて下さることによってのみ乗り越えられるのです。私たちが、神様のみ前に出ても恐れずにすむような立派な者になることによってそれを乗り越えるのではありません。そんなことはできない。神の前に正しく、非のうちどころのない歩みをしていたザカリアでさえも恐怖を覚えずにはおれなかったのです。私たちは、自分の正しさや立派さによってではなくて、神様が「恐れるな」と語りかけて下さるそのみ言葉を聞くことによってこそ、安心して、大胆に、神様のみ前に出て、今しているように礼拝をすることができるのです。

予期しない恵み
 天使は「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と語りかけました。ザカリアの願いが神様に聞き入れられた、その喜びの知らせを告げるために天使は彼の前に現れたのです。ザカリアの願いとは何でしょうか。13節後半に、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と言われていますから、彼らの願いとは、自分たちに子供が与えられることだったと言えるでしょう。神様の祝福の目に見える印である子供を与えられることを、彼ら夫婦は長年祈り求めてきたのです。その長年の願いがついに聞き入れられ、実現する、そういう喜びの知らせが天使によってもたらされたのです。これはザカリアにとって、全く予想していなかったことです。先ほど申しましたように彼は、くじに当たって聖所で香をたく務めを与えられたことだけで、神様の祝福をいただいた、神様はやはり自分たちのことをちゃんと覚えていて下さったのだ、と感謝していたのです。しかし神様はその彼に、全く予期しなかった、期待もしていなかった、驚くべき祝福を告げて下さったのです。ここには、神様の恵みとはどのようなものであり、どのように与えられるのかが示されていると言えるでしょう。私たちは、自分の感覚や知識や常識の中で、神様の恵みのみ業を「こんなものかな」と量ってしまいます。そして、これだけの恵みが与えられているのだからもう十分感謝だ、これ以上のことを望むなんて贅沢だ、と思ってしまうのです。それはある意味で謙遜な、控えめな、お行儀のよいことです。しかし他方でそれは、神様の恵みのみ心を、私たちの感覚、常識の範囲内に押し込め、神様の恵みはせいぜいこんなものだろうと高を括ることなのです。しかし神様を見くびってはなりません。私たちの思いや常識をはるかに超えた仕方で、神様は恵みのみ業をなさるのです。神様の恵み、祝福は、私たちの知識や常識というちっぽけな器ではとうてい量り尽くすことができない、大きなものなのです。

ヨハネの使命
 このようにザカリアは、自分の期待をはるかに超えた神様の恵みの知らせを聞きました。しかしこの喜びの知らせは、ただ彼と妻エリサベトの家庭に与えられた個人的な祝福ではなかったのです。14節以下には、生まれてくる子ヨハネがどのような人になるのかが告げられています。14節には先ず「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる」とあって、これは彼ら夫婦にとってのことです。しかしそれに続いて、「多くの人もその誕生を喜ぶ」とあります。ヨハネの誕生は、彼らの家庭の喜びであるのみでなく、多くの人々にとっての喜びでもあるのです。それは何故か。15節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」。これは要するに、ヨハネが神様によって特別に選ばれており、聖霊に満たされて、神様のみ心を行なっていく偉大な人になる、ということです。彼が行なっていく神様のみ心、それが16、17節に語られています。「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。先に17節を見たいのですが、「エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ」とあります。ここは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、マラキ書第3章の23、24節に由来するところです。そこにはこうありました。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。これは、主なる神様が全ての民を裁くために来られる「主の日」の前に、預言者エリヤが先に遣わされ、人々の心を父である神様の方に向き変わらせ、父なる神様が怒りをもって人々を破滅させることのないように人々を整えるということです。そのために遣わされるエリヤの働きをヨハネがするのだ、と天使は告げたのです。「主に先立って」行く、その「主」とは、ヨハネの後に生まれ、現れる主イエス・キリストです。ヨハネは、主イエスに先立って行き、人々の心を神様に向けさせ、準備のできた民を主イエスのために用意する、そういう使命を神様から与えられているのです。そのことを一言でまとめているのが16節です。「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」。イスラエルの子ら、とは神様の民である人々のことです。神様の民であるのに、主なる神様に背き逆らい、神様のもとから迷い出て、失われた羊のようになってしまっている、その人々を、神である主のもとに立ち帰らせる、つまり、悔い改めさせるのです。ヨハネが行なっていく神様のみ心とは、そのようにイスラエルの人々を悔い改めさせ、そっぽを向いている民を神様の方に向き直らせて、救い主の誕生に備えさせることだと天使は告げたのです。

神の救いの御心の実現
 ヨハネのこの使命を思う時、天使が告げたこの喜びの知らせは、子供が与えられなかった老夫婦についに跡継ぎの男の子が生まれる、という単純な家族の喜びの知らせではないことが分かります。この後語られていくように、ヨハネはまことに特別な人生を歩んでいくのです。彼はザカリアの跡を継いで祭司にはならず、荒れ野に住み、ヨルダン川で人々に悔い改めの印である洗礼を授けました。彼は洗礼を受けにやって来た人々に「蝮の子らよ」などと語りかけて、激しい言葉でその罪を責め、悔い改めを求めたのです。誰に対しても歯に衣着せずに罪を責めたヨハネは、同じことを、ヘロデ大王の孫である領主ヘロデに対してもしたために、牢に閉じ込められ、ついには殺されてしまうのです。神様から与えられた使命に忠実であったために、彼はこのように捕えられ、殺されてしまうのです。ヨハネの生涯は、人間の感覚からすると幸せなものではありません。ザカリアやエリサベトにとっても、「喜びとなり、楽しみとなる」どころか、むしろ彼らは息子ヨハネのゆえに、かえって深い苦しみや悲しみを背負うことになっただろうと思うのです。しかし天使はここで、「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と言っています。それはもはや、人間の思いにおける喜びや楽しみではありません。主なる神様が、このヨハネを、救い主イエス・キリストに先立って歩ませ、ヨハネによって人々をご自分もとへと立ち帰らせ、悔い改めさせ、キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みにあずかる準備をさせて下さる、その神様の救いの御心が実現することの喜びであり楽しみです。人々が彼の誕生を喜ぶというのは、このイエス・キリストによる救いのために整えられることを喜ぶということですし、ザカリアとエリサベトの喜び、楽しみは、主なる神様による救いのみ心の実現のために、自分が、また自分たちの子供が用いられる喜び、楽しみなのです。そのように考えてくると、「あなたの願いは聞き入れられた」と天使が言ったあのザカリアの願いは、「自分たちに子供を与えてください」という願いではなくて、主なる神様が旧約聖書において約束しておられる救い主を遣わして下さって、神の民の救いを実現して下さい、という願いだったのかもしれません。神様のみ前を常に誠実に歩み続けていた彼らは、いつもそのことをこそ祈り願っていたのです。その約束がついに実現する、そしてそのために、自分たちに与えられる子供が務めを与えられて用いられる、そのことによって彼らは、大きな喜び、楽しみを与えられたのです。

主の祝福を期待して
 子供が与えられないというのは、先ほど申しましたように、イスラエルの人々にとって、神様の祝福の目に見える印が与えられないという苦しみを代表することです。それゆえに、旧約聖書には、似たような話がいくつも出てきます。イスラエルの民の最初の先祖、信仰の父と呼ばれるアブラハムもそうでした。彼は「あなたの子孫を大いなる民にする」という神様の約束を信じて旅立ち、信仰の旅路を歩みましたが、彼ら夫婦にはなかなか子供が与えられませんでした。旅立ちから25年、百歳になってようやく、息子イサクが与えられたのです。その他にも、士師記に出てくる英雄サムソンの誕生においても、また預言者サムエルの誕生においても、同じように、ずっと子供が生まれなかった夫婦に神様によって子供が与えられる、という話があるのです。本日のザカリアとエリサベトの話も、これらの話の系譜の中にあると言えるでしょう。これらの話が語っているのは、目に見えるこの世の現実の中で、この世を生きる人生の歩みの中で、神様の祝福が見えない、自分にはそれが与えられていないように思われる、ということです。私たちはそのことを、人生の様々な場面において体験し、感じます。つまり子供が与えられないということだけではなくて、他の様々なことにおいて、神様の祝福は自分に与えられているのだろうか、自分にはそれがあるようには思えない、という思いを私たちは抱くのです。ザカリアとエリサベト夫妻の姿は、その点において私たちと重なるのです。彼らの人生は私たちの人生であり、彼らの苦しみ悲しみは私たちの苦しみ悲しみなのです。彼らはその人生を、神様のみ前で、神様を信じて誠実に歩みました。主なる神様はその彼らの祈りを聞いて下さって、祝福を与えて下さったのです。しかも、彼らが思ってもいなかった仕方で、おそらくもう祈り求めることすらやめてしまっていただろうことを実現して下さったのです。そのことによって彼らは、神様の救いのご計画の中で用いられ、喜ばしい知らせの実現のために仕える喜びを与えられたのです。私たちはそのことを、この物語から読み取ることができます。そして教えられるのです。主なる神様が私たちにも同じことをして下さると信じ、期待してもよいのだ、ということを。神様が私たち一人一人に何をして下さるのか、どのような祝福を与えて下さるのか、それを前もって知ろうとすることは無意味です。その時私たちは、神様の恵みのみ心を、私たちの感覚や常識の中に押し込め、高を括ってしまうのです。神様を見くびってしまうのです。主イエス・キリストの十字架と復活による救いを与えて下さった神様は、私たちのそのような思いをはるかに超えた仕方で、私たちが思っても見ないような恵み、祝福を与えて下さるのです。そのことを信じ、期待しつつ、神様のみ前を誠実に歩みたいと思います。

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