主日礼拝

伝えられた教えの規範

「伝えられた教えの規範」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第50章4-9節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第6章15-23節
・ 讃美歌:323、394、529

神への甘え心
 先々週に続いて本日も、ローマの信徒への手紙第6章15節以下からみ言葉に聞きます。最初の15節に「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」と語られています。私たちは「律法の下ではなく恵みの下にいる」、これが、主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちにもたらされた神の救いの恵みです。主イエスによって神は私たちを、律法の下から恵みの下へと移して下さったのです。つまり今や神は私たちを、律法つまりご自分の掟、戒律をどれだけ守り行うことができるかによって厳しく裁こうとしておられるのではなくて、キリストの十字架による罪の赦しの恵みの下に置いて下さっているのです。私たちに向けられている神のみ顔は、厳しく恐ろしい閻魔大王のような顔ではなくて、優しい恵みのみ顔なのです。これが、パウロが宣べ伝えているキリストの福音、良い知らせ、救いの知らせです。しかし私たちはこの神の恵みに甘えて、それを言わば悪用して、神は赦して下さるのだから罪を犯してもいいんだ、と思ってしまうことがあるのではないでしょうか。皆さんはないですか?私はあります。パウロは私の中にあり、皆さんの中にもあるであろうそのような神への甘え心に対して「決してそうではない」と言っているのです。

罪の奴隷であるか神の奴隷であるか
 そのためにパウロが16節以下で先ず語っているのは、私たちは罪の奴隷であるか神の奴隷であるか、どちらかなのだ、ということです。罪を犯しているなら、その人は罪の奴隷であって、神のご支配の下にはいないのです。だから、神の恵みの下にいながら罪を犯しているということはあり得ない。そのように神に甘えているのは、実は罪の奴隷として生きているということなのです。ある牧師はこの箇所の説教で、マタイによる福音書12章43節以下の主イエスのたとえ話を引用しています。それは、汚れた霊がある人から一旦出て行くが、仲間を連れてまた戻って来るという話です。汚れた霊が出て行くとは、私たちが罪を悔い改めて新しい生活を始めることを意味していると言えるでしょう。汚れた霊を追い出して、心の部屋を掃除してきれいに整えるのです。ところが一旦追い出された汚れた霊がまた戻って来る、しかも自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れて来て私たちの心に住み着いてしまうのです。そうなると以前よりもっと悪い状態になってしまうのです。そのようなことが起こるのは、私たちが自分の心をきれいに掃除して整えても、そこに住んで家を守る主人がいないからです。つまり、罪にまみれた心をきれいに掃除しても、神をそこに主人としてお迎えしていないなら、そこは汚れた霊の格好の住処となってしまうのです。この話が語っているのは、私たちは自分の心から罪を追い出すだけではだめなのであって、神を主人として迎え入れなければならない、ということです。パウロが本日の箇所で、あなたがたは罪の奴隷であるか神の奴隷であるか、どちらかだと言っているのはそういうことだと言えるでしょう。神が主人でなければ結局は罪が主人になっていくのです。

罪から解放されている者として
 しかしパウロはここで私たちに、あなたがたは神の奴隷として生きるのか、罪の奴隷に留まるのか、どちらを選ぶのか、と問いかけているのではありません。17、18節で彼は「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」と言っています。かつては罪の奴隷であったあなたがたが、今は神の奴隷、神に仕える者となっている。それは彼がこの6章の前半で語っていたように、洗礼を受けたことによってです。洗礼を受けて、主イエス・キリストと結ばれたあなたがたは、罪に支配された古い自分がキリストの十字架の死にあずかって死ぬことによって罪から解放され、キリストの復活にあずかって神の恵みの下を生きる新しい命を与えられているのです。「律法の下ではなく恵みの下にいる」というのはそういうことです。ですから彼がここで語っているのは、あなたがたは神の恵みによって既に罪の支配から解放されているのだから、その事実を感謝して受け止め、罪を犯し続けて恵みを無にしてしまうことなく、神に従順に仕える奴隷となって歩みなさい、という勧めなのです。

神の奴隷となって
 前回も申しましたが、「奴隷」という言い方に私たちは抵抗を覚えるかもしれません。神は私たちを奴隷にするのか、神を信じると奴隷のような不自由な生活を強いられることになるのか、と思ってしまうのです。そういう思いを意識してパウロは19節前半で「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」と言っています。この「分かりやすく」は原文では「人間的な」という意味です。口語訳聖書はここを「わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである」と訳していました。パウロが言おうとしているのは、私は人間的な事柄を比喩として用いて語っているので誤解を招くかもしれない、しかしそれはあなたがたの肉の弱さのゆえ、つまりあなたがたが神の事柄をなかなか理解できないからであって、あなたがたに分かってもらうために敢えて人間的な比喩を用いているのだ、ということです。信仰者を神の奴隷と言い表すことが誤解を招きかねないことをパウロも意識しています。奴隷は進んでなるものではありません。何かの事情によって仕方なく、あるいは強制されて奴隷に身を落とすのであって、それは不幸なことです。しかし信仰者として生きることは仕方なく強制されてのことではないし、不幸に身を落とすことでもありません。むしろ本当に自由になって、本当の幸福への道を歩むことです。ですから信仰をもって生きることと奴隷として生きることには共通点は殆どありません。しかしただ一つのことにおいて、信仰者と奴隷には共通するところがあるのです。それは、主人に服従して生きる、ということです。信仰者とは主人である神に服従する者です。パウロはそのことを強調するために、誤解を恐れずに奴隷という比喩を用いているのです。主人に服従しない奴隷は存在している意味がないように、神に服従しない信仰者は信仰者とは言えない、そのことを最も分かりやすくはっきりと示すことができるのが「神の奴隷」という比喩なのです。ですからパウロが信仰者を神の奴隷と言っているからといって、信仰者になるとマインド・コントロールされて奴隷のように自由な意志をもって生きることができなくなる、などと考えるのは間違いです。そのことは先程の17節の言葉からも分かります。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり」とありました。信仰者は、伝えられた教えの規範を「受け入れ、それに心から従うようになった」のです。「受け入れ」も「心から従う」も自発的な決断によることです。私たちは信仰者となることを強制されることは決してありません。神に従って生きることは自分で決断することです。私たちの罪を恵みによって赦し、その支配から解放して下さった神に従う者となることを自由な決断によって選び取るのです。信仰とはそういうものです。パウロがここで求めているのは、あなたがたは自分の自由な決断によって神に服従する者となったのだから、その決断に誠実に生きなさい、神への甘えによってその決断を無にしてしまってはならない、ということなのです。

伝えられた教えの規範
 今の17節に、あなたがたは「伝えられた教えの規範」を受け入れ、それに従うようになった、と語られています。信仰をもって生きるとは、「伝えられた教えの規範」を受け入れ、それに従って生きることです。つまり神を信じ神に服従して生きるというのは、自分が勝手に思い描いた神を信じ従うことではないのです。自分で考えた神に従うというのは、自分の思いに従っていることにしかなりません。信仰において大事なのは、私たちの考えや感覚ではなくて、神が私たちにどのようにご自身を示し、何を語りかけておられるのか、です。そのことが「伝えられた教えの規範」に示されているのであって、それを受け入れ、それに従うことが神を信じ、従うことなのです。それでは「伝えられた教えの規範」とはどのようなものでしょうか。前回の説教においては、それは教会の宣べ伝えている教えだと申しました。私たちが洗礼を受けて信仰者となるのは、教会が宣べ伝えている教えを受け入れ、それを信じて生きる者となるということです。その教えは教会において代々伝えられ、受け継がれてきたものです。この手紙を書いたパウロ自身も、教会が宣べ伝えている教えを受け入れ、信じ、その信仰を人々に伝えようとしているのです。そのことがはっきり語られているのは、コリントの信徒への手紙一の第15章の初めのところです。その3節で彼はこう言っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」。つまりパウロが宣べ伝え、語っている福音はパウロ自身も受け継いだもの、つまり教会において伝えられてきた教えなのです。その内容を彼はその後の所で語っていますが、それは、キリストが私たちの罪のために死んで葬られ、そして三日目に復活して、生きておられる方として多くの人に、そして自分にも出会って下さったことです。キリストの十字架の死と復活によって、神が私たちの罪を赦して下さり、キリストの復活にあずかる新しい命に生かして下さっている、その福音が「伝えられた教えの規範」の内容です。この福音を受け入れ、それを信じたことによって私たちはキリストによる罪の赦しにあずかり、罪から解放されたのです。そのことの印として洗礼を受けたのです。

模範とすべき生き方
 このように「伝えられた教えの規範」とは教会が宣べ伝えている教えであると先ずは言うことができます。しかしこの言葉はさらに広がりを持っています。「規範」と訳されている言葉は「模範」とか「実例」とも訳すことができます。そういう意味から言えば「伝えられた教えの規範」は、信じるべき事柄の内容と言うよりも、主イエス・キリストを救い主と信じて、神に従って生きる信仰者の生活のあり様、信仰者が模範とすべき生き方、という意味にも理解することができるのです。つまりパウロがこの「伝えられた教えの規範」という言葉で考えているのは、何を信じ受け入れるのかという教えの内容だけではなくて、それを信じて、神に従って生きる信仰者の生き方、生活の姿でもあるのです。このこととの関連で指摘しておくべきことがあります。「伝えられた」と訳されている言葉は「引き渡された」という意味の言葉です。「引き渡された教えの規範」と訳せるのです。私たちは普通それを「あなたがたに引き渡された教えの規範」というふうに理解しますが、実は原文を正確に訳すなら、「あなたがたが引き渡された教えの規範」となるのです。つまり、教えの規範があなたがたに引き渡されたのではなくて、あなたがた自身が教えの規範へと引き渡された、という文章になっているのです。このことは、「教えの規範」を信じる内容と捉えると不自然な感じがします。信じる内容へと引き渡されるというのはおかしいのであって、私たちが伝えられた教えを受け入れ、その内容を信じるのだ、ということになるのです。しかし先程申しましたように「教えの規範」を信仰による生活のあり方、模範とすべき生き方という意味で捉えるなら、これはむしろ自然なことです。つまり私たちは、信仰に基づいて生きる生活へと、神に従う生き方へと引き渡されるのです。引き渡して下さるのは主イエス・キリストです。主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しによって、私たちは罪の奴隷としての生き方から解放されて、神に従う生き方へと引き渡されたのです。そのことを私たち自身も喜びをもって受け入れ、罪に替わって主人となって下さった神に従って生きる者、つまり神の奴隷となって生きていく、それが信仰者になるということです。何かの教えが伝えられて来て、私たちがそれを納得して信じるというだけなら、主人はあくまでも自分です。しかし私たちの信仰においては、主人はあくまでも神であって、神がキリストによって私たちを罪から解放して、神に従って生きる新しい信仰の生活の模範へと引き渡して下さるのです。私たちはその救いのみ業を感謝して受け入れて、示された模範に従って、神に服従する者、神の奴隷となって生きていくのです。

奴隷の姿を模範として
 やはりある牧師の説教を通して、この箇所とペトロの手紙一の第2、3章との繋がりを示されました。ペトロの手紙一の第3章は、信仰をもって生きる夫婦のあり方を教えています。1節には妻に対する教えとして「自分の夫に従いなさい」と語られています。しかしそれよりも大事な言葉は、その前にある「同じように」です。何と「同じように」なのかというと、2章18節以下に語られている召し使いたちへの教えと同じように、です。召し使いとは要するに奴隷のことです。信仰をもって生きる奴隷たちに対して、「主人に従いなさい」と教えられているのです。この奴隷たちと同じように、妻に対しては夫に従いなさいと言われているのです。聖書は妻を夫の奴隷にしようとしている、けしからん、と怒る前に、3章7節の夫に対する教えの冒頭にも「同じように」とあることに注目しなければなりません。つまり夫も妻も共に、奴隷と同じようにしなさい、奴隷の生き方を模範としなさいと教えられているのです。奴隷の生き方とは主人に従うことです。2章18節以下には、善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にも従いなさい、それによって不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えなさい、と語られているのです。なぜそこまでして主人に従うことが勧められているのか、その根拠が2章21節以下にこのように語られています。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。ここに、信仰者である奴隷もまた模範とすべき究極の模範が示されています。それは主イエス・キリストのお姿です。主イエスは、何の罪もないお方だったのに、私たちの罪を背負って十字架の苦しみを引き受け、死んで下さったのです。この主イエスのお姿こそ、神に服従する者、神の奴隷となって生きる者の模範なのです。

主の僕イエスの模範に倣って
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第50章4節以下には、この主イエスのお姿を前もって示している主の僕の姿が語られています。4節に「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」とあります。主の僕は、主なる神から弟子として語る舌を与えられ、弟子として主に聞き従う耳を朝ごとに開かれて、語ることにおいても、聞き従うことにおいても、神に従順な僕として歩むのです。その結果彼は6節にあるように、背中を打たれ、ひげを抜かれ、嘲りと唾を受けることになるのです。それはまさに主イエスのお姿です。主イエスを信じ、その救いにあずかり、神に服従する者として生きる信仰者は、この主の僕である主イエスの足跡に続いて、主イエスのお姿を模範として生きるのです。だから主に従う奴隷に対して、不当な苦しみを耐え忍んで主人に従いなさいと勧められているのだし、主に従う妻にも夫にも、それぞれの立場において、その奴隷たちの姿を模範として生きるようにと勧められているのです。不当な苦しみを受けて死んで下さった主の僕主イエスの模範に従って、その足跡に続いていくことによってこそ、私たちの夫婦や家庭におけるあり方は、またそれぞれがこの社会において与えられている様々な立場における生き方は、罪の支配から解放されて、神の祝福の下に置かれるのです。ローマの信徒への手紙6章22節の言葉を用いるなら、罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結び、永遠の命に至ることができるのです。自分は奴隷にはならない、自由な者として生きる、自分には自分のしたいようにする権利があるし、したくないことはしない自由がある、と主張して生きていくところには、夫婦や家族の間にも、またこの社会のどこにおいても、平和はないし、祝福された人間関係は築かれていきません。憎しみ、対立、争いによって人間関係が破壊されていくばかりです。私たちが自分の自由と権利を主張していく所には、自由が確立するのではなくて、罪の支配が確立するのです。私たちが神の奴隷として生きようとしない所では、罪が私たちを奴隷としているのです。しかし私たちが、主イエス・キリストを信じて、主イエスの模範に倣って、神の奴隷として、神に服従する者として生きていくならば、私たちをがんじがらめに縛り付けている罪の支配からの解放が起ります。罪にではなく義に仕えて生きる新しい生活が与えられていくのです。「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」というパウロの言葉は、主イエス・キリストを信じて生きる私たちに与えられている新しい生き方を語っています。主イエスを救い主と信じて、その十字架の死によって罪の支配から解放された私たちは、神の奴隷となって、義に仕える者として生きる新しい生き方へと引き渡されています。その模範は、主の僕として歩んで下さった主イエスです。私たちは主イエスに従う新しい生き方を真剣に追い求め、神の奴隷としての生活を、それぞれに与えられている具体的な生活の場において、喜びと感謝をもって自発的に形造っていきたいのです。

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