夕礼拝

一番偉い者

「一番偉い者」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編第8編1―10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第18章1―9節
・ 讃美歌 : 120、463

教会についての教え
 本日はマタイによる福音書第18章1節から9節の御言葉をご一緒にお読みしたいと思います。第18章というのは「教会」について書かれております。既に読みました第16章の13節から20節までと並んで、主イエスが「教会」について教えておられる箇所です。主イエスが「教会」について、どのようなことを望んでおられるのかということが記されております。第16章13節から20節は「ペトロ、信仰を言い表す」と題して、主イエスと弟子ペトロとの対話が記されております。二人の対話を通して「教会」について記されております。フィリポ・カイサリア地方において弟子の一人であるペトロが弟子たちを代表して、主イエスに言いました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」(16節)これの信仰の告白であります。主イエスこそ、メシアであり、生ける神の子であると信仰の告白をいたしました。弟子の信仰の告白を受けて、主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(18節)と言われました。その岩を土台として、主イエス・キリストを信じる者の群れである「教会」が建て上げられていくということです。本日の第18章では、主イエス・キリストを信じる者たちの群れである「教会」がどのような群れであるのかということが示されていきます。

誰が一番偉いか
 「教会」について記されているこの第18章は、主イエスに対する弟子たちの問いかけから始まります。1節です。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った。」(1節)とあります。ここで「天の国」というのは、この地上とは別のどこかにある国ということではありません。「天の国」とは「神様のご支配」という意味です。主イエス・キリストがこの地上に来られたことによって「天の国」は既に近づきました。主イエスは「天の国は近づいた」(4章17節)と言われたのです。それは、神様のご支配が実現しようとしているということです。主イエスはそのことを、天の国、神の御支配の実現を宣べ伝えられたのです。主イエス・キリストにおいて神様のご支配、天の国が既に始まっているのです。ここでの弟子たちの問いかけとは、今もう既に主イエス・キリストにおいて始まりつつある、実現しつつある天の国、神のご支配では、「誰が一番偉いのか」ということです。それは自分たちの中で、誰が一体、一番「偉い」のかということが問題だったのです。そして、その問いを主イエスにぶつけたのです。第18章というのは「教会」について語られている箇所であると言いました。教会について語られる第18章の始まりは、誰が1番偉いのかというと弟子たちの問いかけから始まっていくのです。主イエス・キリストにおいて既に始められている天の国、神の御支配において、誰が1番偉いのか、という問いかけを弟子たちはしているのです。このことも、また教会の現実の姿であると思います。教会に集う者の現実の姿なのです。神の御支配のただ中において、一体誰が偉いのかと問う人間の姿が描かれております。

子供を呼び寄せ
 主イエスはこのような弟子たちの問い、一体誰が1番偉いのかという問いに答えららました。その際に主イエスは、一人の子供を呼び寄せられました。そして、その子を人々の中に立たせてこう言われたのです。3節です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(3節)。主イエスは「心を入れ替えて子供のようになりなさい。」そして、この「子供のようになる人こそ、天の国で一番偉いのだ。」とおっしゃったのです。また、続けて「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(5節)と言われました。

心を入れ替えて
 まず主イエスは「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(3節)と言われました。「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことでしょうか。4節では、「自分を低くして、この子供のようになる」とあります。主イエスはここで「教会」について教えられております。その最初のお言葉は「心を入れ替える」「心を入れ替えて子どものようになりなさい」と語られています。普通「心を入れ替える」ということを言います時に「向きを変えて元に戻る」という意味の言葉が用います。しかし、主イエスはここでそのように「向きを変えて元に戻る」ということだけを言おうとしておられるのではありません。子供が大人になり、その大人がただ単に子供に戻るということではないのです。子どもは純粋で、可愛くて、素直だから、大人はそのような子どもに戻らなければならないということが言われているのではありません。ここでは、子供に戻っていうことではなく、生まれ変わってやり直すということが言われているのです。向きを変え、人生の方向転換をしてということです。
 主イエスがここで何故「子供」について話されたのでしょうか。そのきっかけは弟子たちの問いかけでした。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』という弟子たちの問いかけです。主イエスのもとでは、誰が1番偉いのですか、と問うたのです。子供とは、その愛らしさから、純粋さから、大人が忘れているのものを思い起こさせてくれるということも度々あると思います。けれども、同時に子供もまた、大人同様に「偉さ」というものに憧れるのではないでしょうか。人間は大人も、子供も偉い人を尊び、自分も偉くなりたいと思うのです。これは、大人も同じです。大人は露骨には表しませんが、心の中でこのような問いをいつも持つのです。
 それでは、この「偉さ」とは一体どのようなものでしょうか。「偉い」という言葉は原文では「大きい」という言葉です。主イエスは4節で「自分を低くして、この子供のようになる人」と言われております。そのような人が天の国で一番偉いと、言われているのです。 「低くする」とは自分が偉くない、大きくない、小さい者であるということを知ることです。主イエスはまず、天の国、神の支配で偉い者、大きい者とは、自分を低くし、小さくし、主イエス・キリストだけをあがめる人であると言われます。主イエス・キリストだけを大きくする人、自分は低く、小さくするということです。

  小さい者
 6節以降では、天の国で誰が1番偉いのか、大きいのかという問いに答えて、主イエスは「小さい者」と繰り返して語られていきます。ここでは、大きい者が主題なのではなく、「小さい者」が主題となっていくのです。5節までは主イエスは常に「子供」と言われましたが、6節からは「小さい者」という言葉に変わります。第10章の42節で、主イエスは弟子たちのことをも「小さい者」と呼ばれました。主イエスが「小さい者」と言われたとき、それは実際の大人、大きい者であって、神様の前では小さい者であるということです。また、少し戻りますがが、5節において主イエスは「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(5節)と言われました。主イエスはここで「一人の子供を受け入れる」ことを教えられ、求めておられるのです。18章は「教会」について述べられていきます。主イエスが教えておられる教会のあり方とは、子供を受け入れるということです。子供を、「わたしの名のゆえに受け入れる」ことを主イエスは求めておられるのです。それが即ち、主イエスご自身を受け入れることなのです。

主イエスの警告
 「一人の子供を受け入れなさい」という主イエスの教えは、もう少し広い意味を持っております。次の6節以下に語られていきます。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(6節)。と言われます。この石臼は家庭の主婦が手で回すようなものではなく、ここではろばが引かなくてはならないような大きな石臼という意味です。このような大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましであるというのです。深い海とは、ユダヤ人にとっては神様から最も遠く、離れており、荒廃した恐るべきところを意味しておりました。ヨハネの黙示録第21章において、救いの完成である新天新地の実現をのべる際に「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21章1節)とあります。つまり、天の国とは海のないところなのです。従って、深い海に沈められるというのは、天の国とは正反対の所に沈められることであります。これは大変厳しい、警告の言葉であります。「わたしを信じる者の一人」をつまずかせることへの警告の言葉です。また「つまずく」とは、主イエスを信じる信仰から逸れていってしまうことです。また、それは自分の事柄だけではありません。人に対してもです。人の信仰の妨げとなってしまうことです。人を信仰から引き離す原因を作ってしまうことの災いが語られています。「つまづき」という言葉の元の言葉は「スキャンダル」という英語の語源です。元々は「罠」という意味です。鳥や獣が一度それにかかると、確実に捕えられ殺されてしまう「罠」のことです。ここでは、つまずいた人が再び立ち直るという、のんきな前提はないのです。つまずいて殺されてしまうという、それほどに厳しい警告の言葉なのです。ですので、私たちが語る言葉、行動の一つ一つに本当に注意しなければならないと思います。人々へのつまずきにならないようにしなければなりません。主イエスは、「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と言われました。また「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」と言われました。つまずきは、この世で生活する限り避けることはできません。従って、世は不幸だと言われるのです。人をつまずかせてしまう者の災い、不幸がこのように強調されています。それは言い換えますと、一人の子供を受け入れない者の、不幸であり、災いなのです。

受け入れられている
 信仰とは、主イエス・キリストによって受け入れられることを信じることです。主イエス・キリストを通して、神様がこのわたしを受け入れて下さっているということです。私たちは既に受け入れられているのです。そこから、人を受け入れるということが始まります。主イエスは、人をつまずかせることへの警告と同時に、8節以下では、自分の片手片足あるいは片目が自分をつまずかせるなら、それを切って捨てなさいと言っておられます。躓きとは、他者を躓かせることもありますが、その思いは自分自身にもあてはまるのです。自分が神様から受け入れられているということが、分からなくってしまうことです。そして、そのようなつまずきをもたらすものを切って捨てよと主イエスは言われるのです。たとえ、それが自分にとって大切なものであっても、神様への信仰のつまずきとなるものであってもいうことです。しかし、主イエスは言われるのです。「一つの目になっても命にあずかる方が良い」(9節)天の国、神の御支配とは、主イエス・キリストによってもたらされた御支配、私たちとの関係です。命の源である神様との関係の中に入れられ、神様に受け入れられているということを信じることです。

主イエスご自身によって
 神様は小さく、弱く、それでもなお大きく見せようとする私たちを受け入れて下さいました。主イエス・キリストを遣わされた父なる神様へのそのような信頼、信仰から、一人の小さな者を受け入れるということが可能となっていくのです。そこにこそ教会のまことの交わりが表されているのです。教会はこの世における、主イエス・キリストの体です。頭は主イエスご自身です。私たちはその手足です。この世において、教会が教会となるために、全身を危険に導く致命的なつまずきは切り落とさなければならないということもあるかもしれません。主イエスはつまずきは避けられないとおっしゃいます。しかし、私どもが信仰につまずき、自分自身につまづきます。けれども、主イエス・キリストが私たち以上に、ご自身の体をもって、私たちを救うために、父なる神との関係に生きるために、その身を十字架へと捧げて下さったのです。

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