夕礼拝

主よ、お話しください

「主よ、お話しください」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第3章1-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第10章14-21節
・ 讃美歌:324、189

主の預言者となったサムエル
 私が夕礼拝の説教を担当する日には今、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いています。サムエル記は、サムエルという人の生涯を語りつつ、イスラエルの歴史における一つの大きな転換期を描いています。士師の時代、つまりまだ王がおらず、十二の部族が独立して歩んでおり、危機の時には主によって立てられた士師と呼ばれる指導者によって導かれていた時代から、十二部族全体を束ねる王が立てられ、王国として歩み出していく、その転換期です。この時代に、サムエルは最後の士師として、そしてイスラエルに王を立てる人、キングメーカーとして生きたのです。それは勿論主なる神の導きによってでした。本日読む第3章には、このサムエルに主が最初に語りかけた時のこと、そこから始まってかれが主の預言者とされていったことが語られています。

祭司として育てられたサムエル
 1章2章に語られていたように、サムエルは生まれた時から両親の誓いによって神に捧げられた子として育てられ、乳離れすると同時に、当時神の箱、すなわち十戒を刻んだ石の板が納められている契約の箱のあった聖所シロの祭司エリに預けられ、祭司として育てられました。1節に「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた」とあるのはそのことです。エリはもう年老いており、目がかすんできて、見えなくなっていた、と2節にあります。それゆえに3節にあるようにサムエルが「神の箱が安置された主の神殿に寝ていた」のです。神殿の聖所の夜の番をしていたということでしょう。またここには「まだ神のともし火は消えておらず」とあります。このともし火は、出エジプト記27章にある、聖所に一晩中ともしておかれるべきものです。サムエルはそのともし火を絶やさないという大切な働きを与えられていたのでしょう。このようにサムエルは少年祭司として主に仕えていたのです。

主の言葉が臨むことは少なく
 ところでこの第3章のはじめのところで注目すべき言葉は、1節の「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」というところです。主なる神がみ言葉をもって、あるいは幻をもって人々にご自身を現し、語りかけて下さることがまれになっていた。イスラエルの人々は主なる神のみ言葉を聞き、それによって導かれることができなくなっていたのです。ここに、この時代の空気が示されています。人々は自分たちを導いてくれる神の言葉を失い、明確な指針を見出せずにいました。必要な時には士師が現れて救われてはいましたが、それは余りにも成り行き任せの、不確かなことに感じられていました。既に士師記にも語られていたし、この後の第4章にも語られているように、イスラエルは強力な敵であるペリシテ人に常に脅かされていました。安全保障上の危機に直面して、人々は不安の中にあったのです。それに加えて、先月第2章で読んだように、主の神殿の祭司エリの後継者である二人の息子たちは、主に仕えるどころか、祭司の地位を利用して自分の欲望を満たしていました。人々のために神に執り成し祈り、み言葉による導きを求めるべき祭司が腐敗堕落していたのです。主の言葉が臨むことがまれになっていたことの一つの原因はそれでしょう。社会が危機に瀕しているのに、民を導くべき指導者たちは腐敗堕落している、そういう閉塞状況の中にイスラエルの人々は置かれていたのです。そのような中で、王を求める声が高まっていったと言えるでしょう。
 時代の転換期に差し掛かっているが、先が見えず、どうなっていくのか分からないという状況は今の私たちの社会と共通していると言えます。周辺諸国との間の疑心暗鬼も高まっている。そういう中で今この社会では、強力なリーダーシップを発揮する強い指導者を求める声が強まっています。それはイスラエルの人々が王を求めていったのと同じ思いだと言えるでしょう。しかし、強力なリーダーが現れれば社会が良い方向へ導かれるというものでもない、ということも今私たちは体験しつつあります。そのことは、旧約聖書に記されているイスラエルの民の歴史が既にはっきりと示しています。歴史は形を変えて繰り返されていくことを感じます。

私たちにおいてはどうか
 このような不安定な状況の中でイスラエルの民は、「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」ことを感じていました。私たちにおいてはどうでしょうか。世間の人々はともかく、私たちは、毎週礼拝において主なる神の言葉を聞いている、だから私たちは主の言葉に導かれている、と言うことができるでしょうか。サムエルの時代にも礼拝は行われていました。神の箱が安置されている神殿があり、そこには神のともし火が絶やさず灯され、毎日犠牲が捧げられていたのです。そこでの礼拝には私たちの礼拝における「説教」はありませんでした。私たちの礼拝では説教が語られているのだから、主の言葉が語られ、聞かれている、と言えるでしょうか。私たちは本当に主の言葉を毎週聞いて、それによって生かされ、導かれているのでしょうか。もしそうなら、私たちの生活と信仰は、主なる神を心から愛し、主のもとで生かされていることを心から喜び感謝し、そして隣人を自分のように愛する、生き生きとした、力強い歩みになっているはずです。しかしどうもそうではないという現実がある。それは私たちが、本当に主の言葉によって生かされ導かれてはいないということです。そのことの責任は第一に、説教を語っている者にあります。説教者が本当に主の言葉を語っているのか、主の言葉ではなく単に自分の意見や主張を語ってしまってはいないか、ということがいつも吟味され、問われなければならないのです。しかしそれと同時に、説教を聞く側にも求められ、問われていることがあります。本当に主の言葉、神の言葉を求めて礼拝に集い、そういう思いで説教を聞いているのか、ということです。つまり神の言葉に本当に聞き従おうとしているのか、それによって自分が変えられようとしているのか、です。そうではなくて、説教の中で、自分の気に入ること、自分の思いや考えに合うことだけを喜んで聞き、そうでないことには耳を塞ぐ、ということになってはいないか。説教において主の言葉が語られ、それによって生かされるという礼拝が本当になされるためには、説教を語る者においても、聞く者においても、そういう自己吟味、自分への問いかけが常になされていなければなりません。それなしには、私たちにおいても、「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」ということになってしまうのです。

神の言葉を知らないサムエル
 さて本日の箇所には、ある晩、主なる神が少年サムエルに声をかけたことが語られています。主がサムエルの名を呼ばれたのです。しかしサムエルはそれが主なる神の声であることが分からず、師であるエリが自分を呼んだのだと思ってエリのもとに行きました。しかしエリは「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言いました。それでサムエルは戻って寝ました。するとまた自分を呼ぶ声が聞こえた。そういうことが三度繰り返されたのです。サムエルがこのように自分の名を呼んだ声をエリの声だと思ったことの理由が7節にこう語られています。「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」。サムエルはまだ主なる神の声を聞いたことがなかったので、その声が分からなかったのだ、というのです。このことは意味深い教えを含んでいます。サムエルは幼い時から神に捧げられ、神殿において、祭司として、主に仕える者として育てられてきました。そのサムエルですら、主なる神の声を知らなかった。つまり人間は、主なる神のみ声を元々知らないのです。だから、何か語りかける声が聞こえた時に、ああこれは神の声だ、と分かるということは基本的にないのです。だから自分に語りかける声が聞こえた時に、それをすぐに神の声だとは思わない方がいいのです。また、「自分は神の声を聞いた、神と対話した」と言っている人がいたら、その話は眉唾だと思った方がいいのです。サムエルは、神の声を人間の声だと思いました。それが、純粋な心を持った少年の反応なのです。ところが人間は成長するにつれ、人間の声、自分の内心の声を神の声だと思い込むようになります。そして、これが神の言葉だ、と言って自分の思いを語り出すのです。しかし本来はこのサムエルのように、「神さまの声なんて、聞いたことがないから分からない」という方がむしろ正しいのです。

サムエルはどのようにして預言者となったか
 同じことが三度続いたので、エリは、これは主がサムエルを呼ばれたのだと気づきました。それでサムエルに、9節「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と教えました。主は四度目にサムエルを呼び、サムエルは教えられた通りに「どうぞお話しください。僕は聞いております」と答えました。このようにして主がサムエルにみ言葉を語り始められたのです。ここから、サムエルが主の言葉を聞き、それを人々に伝えていくということが、つまり預言者としてのサムエルの歩みが始まりました。19節以下にはサムエルが預言者として成長していったことが語られています。「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を現された」。さらに4章1節前半にはこうあります。「サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ」。このようにして、主なる神が預言者サムエルを通してみ言葉を語り、ご自身を現して民を導いて下さる新しい時代が始まったのです。
 「主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を現された」。私たちも、このようなことが起ることを願い求めています。主なる神さまが預言者を立て、み言葉をもってご自身を現し、導いて下さることがこの「指路」教会において、そして全世界において起ることを願い求めているのです。その私たちは、サムエルがどのようにして主の預言者として立てられたのかを確認しておきたいと思います。サムエルは、自分が預言者になろうとしたのではありません。また何かの言葉が聞こえたので「自分は神の言葉を聞いた」と言って語り始めたのでもありません。彼は神の言葉など聞いたこともなかったし、自分に語りかけたのが神であることも分からなかったのです。その彼が主の預言者となったのは、エリによって教えられた、神の語りかけへのあの応答の言葉によってでした。「主よ、お話しください。僕は聞いております」。この言葉をもって主なる神の前に立つことを教えられたことによって、サムエルは主の言葉を聞いてそれを語り伝える預言者となったのです。

主よ、お話しください。僕は聞いております
 「主よ、お話しください。僕は聞いております」。これは聖書の中で最も大事な言葉の一つです。私たちの信仰、神に対する姿勢のあるべき姿を一言で言い表している言葉だと言えます。「主よ、お話しください」。主が先ず語られるのです。私たちはそれを聞くのです。それが主なる神と私たちの正しい関係です。私たちはその関係をしばしばひっくり返してしまいます。自分があれこれ語り、主に聞かせようとする。そして、「主よ、ちゃんと聞いているんですか」と責めたりするのです。しかし信仰とはそういうものではない。主がお語りになることを私たちは僕として聞くのです。この姿勢がない限り、私たちはみ言葉によって生かされることを体験することはできないのです。以前の口語訳聖書ではここは、「僕は聞きます。主よ、お話しください」と訳されていました。「僕は聞きます」が先に来ていたのです。しかし原文の語順はこの新共同訳のように、「主よ、お話しください」が先です。この順序は大事だと思います。主が語られることが先ず先なのです。それを私たちが聞くのです。さらに、「僕は聞いております」というところには、新共同訳の苦心の跡が見られます。ただ「聞きます」ではなくて「聞いております」と訳すことによって、この言葉が原文において文法用語で分詞形という形で語られているニュアンスが表現されているのです。分詞形は「聞く用意が出来ている」という意味を表す、とある注解者は言っています。主なる神が語られることを聞く用意が出来ている、それがサムエルがエリから教えられた、神の前に立つ姿勢だったのです。この姿勢をもって神に向き合っていったことによって、サムエルは主の預言者となったのです。

神の前に立つ姿勢
 主なる神さまがご自身を現し、み言葉を語って下さり、導いて下さることは、私たちがこの「主よ、お話しください。僕は聞いております」という姿勢をもって生きることによって実現します。この姿勢によってこそ私たちは、自分の考えや思いを神の言葉と勘違いするのではなく、神が本当に語って下さるみ言葉を聞いてそれによって生きることができるのです。神のみ言葉は私たちにとって耳に心地よいものではありません。自分の思いや考えを認め受け入れてもらえるような言葉、自分の好みに合う言葉ではない場合の方がむしろ多いのです。言い替えれば、私たちに変わることを求める言葉なのです。サムエルがここで初めて聞いた主のみ言葉もまさにそうでした。11節から14節にそれが語られていますが、主なる神はサムエルに、恵みや愛の言葉を語ったのではなくて、彼が聞いたのは、神がエリの息子たちの罪に対して激しく怒っておられ、またエリに対しても、息子たちが神を汚す行為をしているのをとがめなかった、その罪のゆえにエリの家を裁こうとしておられる、という預言です。主は「それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう」と言っておられます。神のみ言葉は、それを聞く者の両耳が鳴るような、激しいものなのです。だからサムエルは、自分が聞いたそのみ言葉をエリに語るのをためらいました。それを伝えるのを恐れた、と15節にあります。耳に心地よい、何の躓きも生まないような言葉は神のみ言葉ではないのです。そしてそのような神の本当のみ言葉を聞く者となるためには「主よ、お話しください。僕は聞いております」という姿勢が必要なのです。そのことをサムエルに教えたエリは、自分自身も主のみ言葉を聞く用意が出来ている人でした。自分の家に対する裁きのみ言葉をサムエルから聞いた彼は、「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」と言ったのです。これは先月第2章を読んだ時にお話ししたことですが、エリは、息子たちの悪事をやめさせることができなかったことについての自分の責任を深く自覚しているのです。そして自らの身を神の裁きに委ねているのです。主のみ言葉を聞いてそれによって生きるというのは、そのように、主のみ業に身を委ね、それを受け入れるということでもあります。自らがこのような姿勢をもって生きていたからこそエリはサムエルに「主よ、お話しください。僕は聞いております」という信仰の姿勢を教えることができたのだと言えるでしょう。

預言者、祭司、王
 本日の箇所はこのように、サムエルが主の預言者として立てられたことを語っています。そのサムエルは祭司のもとで、祭司として育てられた人です。つまり彼は祭司でありつつ同時に預言者として立てられたのです。そしてこのサムエルが後に、主の導きによって、イスラエルに王を立てる者となります。つまりこのサムエルにおいて、祭司、預言者、そして王という、神の民イスラエルを治め導くために主によって立てられる三つの働きが合体しているのです。サムエルのこのような位置づけは旧約聖書において特別なものです。このような人は他にはいません。しかし新約聖書にまで視野を広げるならば、私たちはこのサムエルが指し示している人物と出会うのです。それは勿論主イエス・キリストです。祭司、預言者、王という神の民のために立てられた三つの働きは、主イエス・キリストにおいて統合されています。主イエスこそ、私たちのまことの祭司として、ご自分の命を犠牲として執り成しを、罪の贖いをして下さった方です。また主イエスこそ、私たちを恵みによって支配し、守り導いて下さるまことの王です。そして主イエスこそ、私たちに父なる神のみ言葉を語り伝えて下さるまことの預言者です。いやもっと正確に言えば、神の言葉が肉となって私たちの内に宿られた方、み言葉によってご自身を示し、救いのみ業を行って下さる神ご自身なのです。つまり主イエスは、預言者であると共に、神の言葉そのものでもあられます。私たちが神のみ言葉によって養われ、導かれて生きることが主イエスによってこそ実現するのだし、そのことによって主イエスは私たちのまことの祭司、まことの王となって下さるのです。

キリストの言葉を聞くことによって
 本日共に読まれた新約聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙第10章14節以下ですが、その17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。み言葉を聞くことこそ私たちの信仰の出発点です。だから「主よ、お話しください。僕は聞いております」という姿勢が大事なのです。そして私たちにおいては、お語り下さる方は主イエス・キリストです。主イエスのみ言葉を聞くことから、私たちの信仰は始まるのです。そのみ言葉というのは、福音書の中に主イエスがこうお語りになったと記されているみ言葉だけではありません。神の言葉そのものであられる主イエスのご生涯と十字架の死と復活の全体を通してなされた神の救いのみ業を告げる言葉、聖書全体が語っている福音を聞くことが、キリストの言葉を聞くことです。このキリストの言葉を聞いて、それによって新しくされ、自分を変えられつつ、み言葉に聞き従うために、「主よ、お話しください。僕は聞いております」という祈りをもっていつも主のみ前に立ちたいのです。

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