主日礼拝

権威ある言葉

「権威ある言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編第130編1-8節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第4章31-37節
・ 讃美歌:276、351、510

日本伝道150年の記念の年
 主の2009年を迎えました。今年は横浜開港150年の記念の年です。そしてそれは即ち、この横浜に、何人かの宣教師たちがやって来て、まだ江戸幕府によるキリシタン禁制の中で、日本におけるプロテスタント・キリスト教の伝道が始まった年です。この年に、指路教会の創立者の中心となった宣教医ヘボンも来日したのです。言葉も一から学ばなければならず、そのための辞書もないから自分で造らなければならなかった、しかもキリスト教は邪教として固く禁じられ、日本人がクリスチャンになろうものなら死刑に処せられるかもしれない、そういう時代に、キリストの福音を伝えるために、何か月もかけてはるばるやって来たヘボンを始めとする当時の宣教師たちの、信仰に基づく伝道の情熱を、この150年の記念の年に私たちは改めて思い、その志を受け継ぎ、そして今この時代のこの状況の中で、私たちは何をなすべきなのか、何ができるのかを真剣に考え、それを実行していきたいと思います。

主イエスの伝道開始
 その日本伝道150年を記念する年の最初の礼拝に、ルカによる福音書第4章31節以下の、主イエスがガリラヤで伝道を始められた時の様子を記した箇所を与えられたのは意味深いことだと思います。先週読んだ16節以下の所に既に、主イエスがお育ちになったナザレの会堂で教えを語られた時のことが語られていました。その23節に、ナザレの人々が、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」という思いを持っていたことが示されていました。主イエスは既に同じガリラヤ地方の町カファルナウムで伝道を始めておられたのです。その様子が本日の31節以下に語られていると言えるでしょう。本日の箇所の最後の37節に「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」とありますが、これは14節の「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった」とつながります。つまりこのあたりは必ずしも時間的前後関係に従って語られてはいないのです。

権威ある言葉
 さて主イエスが伝道を開始されたことを語るこの一連の箇所を今私たちが読むことの意味ですが、それは、「このように伝道していけばよいのだ」というやり方、方策を示されるということではありません。私たちはここから、伝道の本質を示され、そこで何が伝えられ、どのようなことが起るのかを知らされるのです。本日の箇所においてそれをはっきりと語っているのは32節です。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」。主イエスは、権威ある言葉を語られたのです。その言葉を聞いた人々は非常に驚いたのです。伝道の本質と、それによって何が起るのかがここに端的に示されています。伝道とは、主イエスの権威ある言葉が語られることであり、それによって人々が非常に驚く、ということが起るのです。しかし、権威ある言葉とはどのような言葉なのでしょうか。私たちは通常、その分野における専門家、学者の言葉には権威がある、と思っています。その事柄についてよく知っており、深い知識がある人の言葉を、権威ある言葉と言うのです。しかし、主イエスの言葉に権威があったというのは、それとは全く違うことです。そのことをよりはっきりと語っているのは、マタイによる福音書の第7章28、29節です。そこを読んでみます。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。ここにも、主イエスの教えを聞いた人々が非常に驚いたことが語られています。それは主イエスが「権威ある者」としてお教えになったからです。そこに、「彼らの律法学者のようにではなく」とあります。主イエスの権威と学者の権威との違いがここに示されているのです。律法学者とは、旧約聖書に記されている、神様からイスラエルの民に与えられた律法、またそれに基づいてイスラエルの民の中で言い伝えられてきた数々の掟について深い知識のある人々です。一般の人々は、生活の中で、このことについて律法はどう言っているのだろうか、どうすれば律法に違反せずに正しく歩めるのだろうかという疑問が生じると、律法学者のところに行って尋ねるのです。すると律法学者は、このことにはこの律法をあてはめて考えることができる、だからこうすればよい、と教えてくれるのです。そのように、律法についての広く深い知識によっていろいろな疑問に答えてくれるのが律法学者です。そういう意味で律法学者たちの教えには専門家としての権威があったのです。しかし主イエスの言葉の権威は、それとは全く違うものでした。36節で人々は驚いてこう言ったのです。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」。つまり、主イエスの言葉の権威とは、汚れた霊に命じると、汚れた霊もそれに従って出ていく、そういう力です。主イエスの言葉の権威は、律法の知識に基づくのではなくて、汚れた霊を追い出す力に基づいているのです。

解放、自由を告げる
 主イエスが具体的にはどのような言葉を語られたかが、先週読んだナザレの会堂での話において示されていました。主イエスはナザレの会堂での安息日の礼拝において、18節以下の、イザヤ書61章の言葉を朗読なさいました。それは、貧しい人に福音を告げ知らせるために、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるために、主が私に油を注ぎ、遣わした、と語っている言葉です。それを朗読した上で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになったのです。イザヤが預言した、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるという福音が、今まさにご自分において成就、実現している、とお語りになったのです。それが、主イエスの「権威ある言葉」です。そして本日の箇所の、汚れた霊に取りつかれた人の癒しのみ業は、この主イエスの権威ある言葉の実現なのです。汚れた霊に捕らわれ、自由を失っている人を主イエスは解放し、自由をお与えになったのです。このように先週のナザレにおける出来事と本日のカファルナウムにおける出来事とは深く結び合っています。時間的前後関係を崩してこのような順序で語られていることの意味もそこに見えてきます。ルカは、先週の所で、主イエスの権威ある言葉を先ず示し、それから本日の箇所の汚れた霊に取りつかれた人の癒しのみ業を語ることによって、その言葉の具体的実現を語っているのです。
 伝道とは、主イエスのこの権威ある言葉が語られることです。それによって、捕らわれている人の解放、自由が実現するのです。私たちは、主イエスのこの権威ある言葉をこそ求め、それが私たちの中で語られ、この解放、自由が私たちの間で実現することをこそ祈り求め、そのために仕えていくのです。聖書のどんなに深い知識がここで語られても、また正しく生きるためにはこうしなさいという教訓がいくら語られても、それらの言葉は、律法学者たちの言葉と同類なのであって、私たちを、そして人々を、本当に解放し、自由にする権威ある言葉ではありません。説教も、律法学者的な分かりやすい解説に終わってしまったのでは本当の目的を達成していない、ということを私自身この年頭に当って自戒したいと思います。この礼拝において、ただ主イエスのみがお語りになることができる権威ある言葉が響き、そして私たちが私たちを捕らえている様々な力から解放され、自由を与えられ、神様に感謝と賛美をささげつつ生きる者とされていく、そういう驚くべき解放の出来事がここで起っていくことによってこそ、伝道はなされていくのです。

悪霊に取りつかれた人
 さてカファルナウムの会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいました。この人が具体的にどのような状態になっていたのかは語られていません。しかしとにかく、普通の社会生活ができず、人々とのよい交わりに生きることができないという苦しみをこの人は負っていたのです。主イエスが会堂で教えておられると、この人が大声で叫び出しました。34節「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。この言葉は、この人自身の言葉と言うよりも、この人に取りついている悪霊の言葉です。語っているのはこの人ですが、その内容は明らかに悪霊の言葉なのです。「我々を滅ぼしに来たのか」というところからそれが分かります。「我々」とは悪霊のことであって、この人のことではないのです。ここに、悪霊に取りつかれた人の陥る悲惨な状況が示されています。この人は、自分自身の言葉を語れなくなっているのです。口から出るのは、悪霊の言葉です。しかしそれは、口をあやつられて、自分が思ってもいない言葉を語らされているというのとも違うでしょう。むしろこの人は、自分の言葉、自分の考えや思いを語っているつもりなのです。しかしそれは明らかに悪霊の言葉です。つまり、自分の言葉と悪霊の言葉の区別がつかなくなっているのです。自分の言葉を語っているつもりで、実は悪霊の代弁者になっている、そういうことがこの人に起っているのです。

悪霊の仕業
 彼は主イエスに対して、「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」と言っています。この「かまわないでくれ」は前の口語訳聖書では「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」と訳されていました。こちらの方が原文のニュアンスを表しています。要するに悪霊は主イエスに、お前と我々は関係ない、だから我々のところに首を突っ込むな、と言っているのです。イエス・キリストと自分とは関係ない、イエスなどに自分の生活や問題に首をつっこまれたくない、自分は自分だけでやっていきたいのだ、そのようにこの人に思わせ、語らせているのが悪霊です。そのようにして悪霊は、主イエスの救いが、解放と自由とを与える福音が、この人に及ぶことを妨げようとしているのです。悪霊とはどのようなものか、サタン、悪魔と呼ばれているものとどう違うのか、という疑問が聖書を読んでいると起りますが、サタンも悪霊もすることは一つです。私たち人間を、神様の救いから、主イエスの権威ある言葉による解放、自由から遠ざけ、いつまでも支配かに置こうとしているのです。しかも、悪霊に捕らえられているなどとは思わせないで、自分は自由に自分の思いによって歩み、自分の言葉を語っているのだと思わせておいて、実は悪霊の言葉しか語ることができなくしている、それがサタンや悪霊の手口です。そういう悪霊が、昔も今も変わらずに私たちを付け狙っているのではないでしょうか。この悪霊に捕らえられることによって私たちは、主イエスによる救いから遠ざかり、福音を福音として、つまり喜ばしい解放の知らせとして受け止めることができなくなってしまうのです。

主イエスと悪霊の戦い
 悪霊は主イエスに向かって「正体は分かっている。神の聖者だ」と言いました。それに対して主イエスは「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになり、悪霊を追い出しました。悪霊と主イエスのこの対話をどう解釈するかをめぐっていろいろな説がありますが、私はここに、悪霊と主イエスとのバトルを見るのがよいと思います。相手の隠された正体を言い当てることによって、相手との関係において優位に立つことができます。悪霊は主イエスが神の独り子、まことの神であられる方だと知っており、自分たちがとうていかなわない相手であることを知っています。「我々を滅ぼしに来たのか」という言葉がそれを示しています。その中でなんとか少しでも戦いを有利に進めようとして、人間の目には隠されている主イエスの正体を語ったのです。しかし主イエスは悪霊にそれ以上物を言うことを許さず、この人から追い出したのです。つまりこのバトルの勝利者は主イエスです。悪霊が抵抗しても、主イエスの勝利は揺るがない、主イエスはそういう力、権威を持っておられる方だということがここに示されているのです。

投げ倒される
 主イエスはこのようにして、ご自分の権威と力とによって、この人から悪霊を追い出し、解放して下さいました。悪霊はこの人から出ていく時、35節後半にあるように、「その男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」のです。「投げ倒し」という言葉から分かるのは、悪霊が出て行き、その支配から解放される時、その人自身に大きなショックがあり、立っていられないような状態になる、ということです。つまり悪霊の支配から解放されることには痛み、苦しみが伴うのです。そのことは、先ほどの、自分の言葉と悪霊の言葉との区別がつかなくなっている、ということとも関係します。悪霊が追い出される時、この人は、自分が自分の思いで語っていると思っていた言葉が間違っていたこと、それが実は悪霊の言葉だったことに気付かされたのです。自分がこれまで行い、語ってきたことが真っ向から否定されるという体験をしたのです。それはもはや立っていることができないようなことでした。主イエスの権威ある言葉によって悪霊の支配から解放される時、私たちはこのように、投げ倒されるような衝撃を受けるのです。しかしここには同時に「何の傷も負わせずに」とあります。彼は投げ倒されたけれども、何の傷も負わなかったのです。悪霊の支配からの解放は、一時衝撃や苦しみをもたらすものだけれども、それは傷にはならない、むしろそこで起るのは癒しなのです。このことによって私たちは、神様に感謝し、喜んで、隣人と共に生きることができるようになるのです。それは主イエスの守りによることです。私たちは主イエスの守りの中で投げ倒され、そして癒されるのです。

人々の中に
 もう一つ「人々の中に」とあることにも注目したいと思います。この言葉はいろいろな意味に読むことができます。投げ倒された彼を受け止め、介抱する人々の中に、と読むこともできるでしょう。この出来事は、カファルナウムの会堂における、ある安息日の礼拝の中でのことです。共に神様を礼拝している人々が周囲にいるのです。その人々の中で、悪霊からの解放が起こります。それによって衝撃を受け、立っていられないような思いに陥った人を、共に礼拝している仲間たちが支え、助け、そして彼が再び立ち上がり、神様に感謝して生きていく手助けをするのです。悪霊からの解放が、共に礼拝をしている信仰の仲間たちの間で与えられる、ということを「人々の中に」に読むことができるのです。しかしこの言葉を、「人々の目の前で」と読んだ場合にはどうなるでしょうか。彼は人前で投げ倒されたのです。これまで自分が語ってきたことを否定され、もはや立っていられないという醜態を曝したのです。それは彼にとってとてもつらい、恥ずかしいことです。できるならば、誰も見ていない所でそっと悪霊を追い出してもらいたかった、とも言えるかもしれません。しかし主イエスによる悪霊からの解放はこのように人々の中で起るのです。人々の中に投げ倒されることを避けていては、主イエスによる解放の恵みにあずかることができないのです。

金融危機の中で
 主イエスはこのようにして私たちを悪霊の支配から解放して下さいます。悪霊などは昔の人が考えたもので、私たちには関係がない、などということはありません。悪霊は、時代によって、社会のあり方によって、いろいろに形を変えて私たちを捕らえようとしています。2009年を迎えた今、私たちの社会を、いやこの世界全体を、悪霊が新たな仕方で支配しようとしていることを感じます。悪霊は今、百年に一度と言われる金融危機、それによる株価の下落や景気の悪化、そういう経済的不安という手段を用いて私たちを、この社会を支配しようとしています。この危機の中で、私たちが不安にかられて右往左往し、目先のことばかりにとらわれて、どうすれば景気が良くなるか、しか考えることができず、それらの根本にある人間の貪欲、罪に目を向けることなく、キリストによる救いのことなどはもうちょっと景気が良くなってから考えようとか、今の自分の生活を守ってくれることのみを神に祈り求めるようになるなら、それは悪霊の思う壷です。そのような悪霊の支配の下では、今のこの危機の中で新しい希望への道を見出すことはできないでしょう。私たちは現在のこの危機的な現実の中でこそ、主イエスの権威ある言葉を聞き、それによって自分の罪を示され、打ち倒され、そして悔い改めて福音によって解放と自由とを与えられていくことを求めていきたいのです。経済的不安の中で、専門家や学者たちがいろいろなことを語っています。しかし私たちが忘れてはならないのは、この世界を、そして私たち一人一人の人生の歩みを、本当に支配し、導いておられるのは、主イエスの父である神様なのだということです。主イエスの権威ある言葉によってこのことに目を開かれることによってこそ、私たちは悪霊の支配から解放され、自由になって、歩むべき道を見出していくことができるのです。

礼拝において
 私たちは今、主イエスの権威ある言葉を聞くために礼拝に集っています。その言葉は、礼拝がどんなに整然と厳粛に行われてもそれで聞けるわけではありません。あるいは牧師がどんなに学識豊かな、よく準備された分かりやすい説教をしてもそれで聞けるわけではありません。この場に、主イエス・キリストが、聖霊のお働きによって臨んで下さり、主イエスご自身が語りかけて下さることによってこそ、権威ある言葉を聞くことができるのです。悪霊を追い出すことができるのは、聖霊の力のみです。主イエスは聖霊の力に満たされて伝道を開始されたということをこの福音書は繰り返し語っています。主イエスはその聖霊の力によって悪霊に打ち勝ち、捕らわれている人々を解放して下さったのです。その主イエスが今、同じ聖霊の力によって、この礼拝に共にいて下さいます。そして聖霊の力によって、私たちを解放し、自由を与える権威ある言葉を語りかけて下さるのです。また本日は本年最初の聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯もまた、そこに聖霊が働いて下さることによって、主イエス・キリストによる解放の恵みに私たちをあずからせて下さる霊的な食物となるのです。主イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して死んで下さいました。この十字架の死と、父なる神様によるその死からの復活によって、主イエスの救い主としての権威が確立したのです。聖餐のパンと杯にあずかる時、そこに聖霊の力が働いて下さり、私たちに、主イエスの肉と血とによる恵みを味わわせ、私たちを主イエスと結び合わせ、その救いにあずからせて下さるのです。そのようにして聖餐は、主イエスの権威ある言葉の目に見える印となるのです。本年も私たちは、この礼拝において、聖霊のお働きの中で、主イエスの権威ある言葉を聞き続け、またその印である聖餐にあずかりつつ歩み続けたいのです。そのことの中でこそ、伝道がなされていくのです。

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