主日礼拝

主イエスの洗礼

「主イエスの洗礼」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書第42章1ー4節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第3章15ー22節
・ 讃美歌:241、159、534

アドベントの信仰
 本日よりアドベント、待降節に入ります。今年はアドベントクランツをこの講壇の上に置くことになりました。昨年まで何年かは玄関のロビーの上に吊り下げていたのですが、大きさのわりには目に入らないし、蝋や葉が落ちて困るということで、ここに置くことにしたのです。この方が、四本の蝋燭が皆さんによく見えてよいと思います。昨年までのクランツでは、何本の蝋燭に火が灯っているのか分からないような感じでした。本日はアドベントの最初の主の日ですから一本の蝋燭に火が灯っています。一週ごとに火を灯す蝋燭を増やしていき、四本の蝋燭全てに火が灯ると、クリスマスになります。そのように、一週ごとに、クリスマスを待ち望む思いを深めていき、主イエス・キリストをお迎えする心を整えていくのです。
 主イエス・キリストの到来を待ち、それに備えていくアドベントの信仰を養われていくためにちょうど相応しい箇所を今私たちは礼拝において読んでいます。洗礼者ヨハネに関する箇所です。ヨハネは、主イエスが現れる前に荒れ野で神様のみ言葉を語り、洗礼を授けていました。その働きは、救い主メシアの到来に備える心を人々の間に起こし、来るべき救い主のための道を整えるためでした。ヨハネ自身、自分はメシアの到来に備える者だという自覚をはっきりと持っていたのです。そのことが本日の箇所に語られています。民衆はもしかしたらヨハネがメシア、救い主本人ではないかと思ったのですが、ヨハネは、「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言ったのです。この言葉は、ヨハネ自身が、救い主の到来を待ち望んでいることを示しています。洗礼者ヨハネは、救い主が来られることを待ち望み、それに備える信仰に生きており、その信仰を人々に教えたのです。ヨハネの信仰こそ、まさにアドベントの信仰であると言うことができます。

悔い改め
 ヨハネが人々に教えたアドベントの信仰とはどのようなものだったのかを、私たちはこれまで何回かにわたって見てきました。ヨハネは人々に悔い改めを求めたのです。それは繰り返し申しておりますが、まず第一に、自分が神様に対して罪を犯していることを認めるということです。神様に背き逆らい、そっぽを向いていることが、私たちの根本的な罪です。そのそっぽを向いている心が、神様の方に向き変わることが悔い改めです。その悔い改めこそが、救い主を迎えるために整えなければならない心、つまりアドベントの信仰だとヨハネは教えたのです。彼が授けていた洗礼は、この悔い改めの印でした。洗礼は、水の中に全身が浸され、そこから出てくることによって、古い自分が死んで、新しい者へと生まれ変わることを象徴しています。その新しさとは、悔い改めて、神様の方に心を向けて生きるという新しさです。それゆえに彼は、洗礼を授けてもらおうとしてやって来た人々に、悔い改めにふさわしい実を結べ、と語ったのです。洗礼を受けて新しく生きるならば、そこには、神様の方にしっかり顔を向けて生きる新しい生き方が始まるはずだ、その新しい生活を具体的に生きていくことと、洗礼を受けることは切り離すことができないのです。

聖霊と火による洗礼
 ヨハネはこのような悔い改めの印としての洗礼を授けていました。しかしそれはあくまでも救い主の到来への備えです。いよいよ救い主が来られたなら、彼が語り行なっていることよりもはるかに優れた新しい救いのみ業が行われるのです。ヨハネは、救い主がなすであろうみ業を、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言い表しました。ヨハネが授けている水による洗礼は、メシアが来て授ける聖霊と火による洗礼への備えに過ぎないのです。
 ヨハネが待ち望んでいた「わたしよりも優れた方」である救い主メシアとは、言うまでもなく主イエス・キリストです。クリスマスにお生まれになった主イエスこそ、聖霊と火で洗礼をお授けになる方なのです。しかしこの後福音書をずっと読んでいっても、主イエスが人々に洗礼を授けたということは書かれていません。主イエスの伝道は、洗礼を授けるという活動ではなかったのです。ですからヨハネの洗礼に対して主イエスの洗礼というのがあったわけではありません。主イエスが聖霊と火で洗礼を授けるというのは、儀式としての洗礼を授けるということではないのです。それではこの聖霊と火による洗礼が意味していることは何なのでしょうか。

聖霊のみ業を受ける
 ヨハネは水で洗礼を授けたが、来るべきメシアは聖霊と火で洗礼をお授けになる、ということから、水による洗礼だけでは不十分で、聖霊による洗礼を受けてこそ本当に救いにあずかることができるのだ、と主張する人々がいます。その場合の聖霊による洗礼というのは、儀式として授けられるものではなくて、聖霊を受けるという信仰的な特別な体験をすること、聖霊が自分に与えられたという自覚を持つことです。水による儀式としての洗礼は形式だけのことであって、聖霊による洗礼において聖霊を直接体験することによってこそ救いが与えられるのだ、というのです。しかしここはそういうことを語っているのではありません。聖霊体験の有無が問題とされているのではないのです。ここに語られているのは、私たちがどういう体験をするかではなくて、来るべき救い主が何をして下さるかです。メシア、救い主であられる主イエスは、聖霊と火で洗礼をお授けになるのです。ルカはこのことの実現を、この福音書の続編である使徒言行録の第2章で語っています。それはつまりペンテコステ、聖霊降臨日の出来事です。使徒言行録の第2章2~4節にこのように語られています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。この日弟子たち一同が聖霊に満たされたのです。その時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。聖霊が降った時、一人一人の上に炎、火がとどまったのです。ここに、聖霊と火との結びつきが示されています。ヨハネが予告した聖霊と火による洗礼は、このペンテコステの出来事において実現したと言えるでしょう。この時に実現したのは、主イエスの弟子たちが聖霊の力を受けて、主イエスこそ救い主メシアであると力強く語り始め、それによって教会が誕生したということです。弟子たちは、聖霊を受けることによって、十字架にかかって死に、三日目に復活し、そして天に昇られた主イエス・キリストこそ神様の独り子、救い主であられることをはっきりと信じる信仰を与えられ、そのキリストによる救いの確信に満たされ、伝道を始めたのです。それが、聖霊と火とによる主イエスの洗礼の内容です。このことによってこの世にキリストの教会が生まれ、およそ二千年後の今日まで、全世界にキリストの福音が宣べ伝えられてきたのです。今私たちは、このペンテコステに誕生した教会の礼拝に招かれ、キリストによる救いの知らせ、福音を聞いています。聖霊と火とによる主イエスの洗礼のみ業が、私たちにまで及んできているのです。私たちは洗礼を受けてキリストの教会の一員とされます。その洗礼は、水を用いてなされるものですが、しかしその水による洗礼を受けることによって、私たちも、この聖霊と火とによる主イエスの洗礼にあずかり、主イエス・キリストによる救いの恵みをいただくのです。ですから私たちの受ける洗礼において、水による洗礼と聖霊による洗礼とを区別する必要はありません。目に見える儀式としての洗礼は水による洗礼です。それを受けることにおいて私たちは、主イエス・キリストによる救いにあずからせて下さる聖霊のみ業を受けるのです。

主イエスによる裁き
 17節には、「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とあります。これも、救い主メシアが来て行うであろうことです。ここは当時の麦の脱穀の作業を背景として語られています。「脱穀場」は前の口語訳聖書では「打ち場」と訳されていました。そこでは、収穫された麦のもみを打って、もみ殻と麦粒とを分離させる作業が行われます。そのように打った麦を箕に入れて空中に投げ上げると、風によってもみ殻は飛ばされて、麦粒だけが下に落ちるのです。そのようにして麦ともみ殻とを分けるのが当時の脱穀作業でした。そして分けられた麦は倉に納められ、殻は火で焼かれるのです。つまりこの作業の目的は、収穫すべき麦と、不要なものである殻とを分けることです。このことが、神様による裁きのたとえとして用いられてきました。神様の裁きとは、救われる人と滅びる人とをはっきりと分けることです。つまりヨハネはここで、救い主メシアが来られるなら、その方によって裁きが行われ、救われる者と滅びる者とがはっきりと分けられるのだ、と言っているのです。
 この救い主メシアによる裁きは、主イエス・キリストにおいてどのように実現するのでしょうか。私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって罪の赦しの恵みを与えて下さるという主イエス・キリストによる救いと、このような裁きとは矛盾するものであるような印象を持つかもしれません。けれども私たちはここで、主イエスによる救いを、聖書に即して受け止めなければなりません。主イエスの十字架の死による罪の赦しという救いは、主イエスが、私たちのために人間となり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったまことの神であられると信じる信仰によって与えられるものです。神様に対してそっぽを向いている生まれつきの私たちが、心の向きを変えて神様の方に向き変わり、独り子イエス・キリストによる救いの恵みを信じることによってこそ、この救いは私たちのものとなるのです。それゆえにヨハネは、救い主を迎える備えとして悔い改めが必要だと教えたのです。それは言い換えれば、悔い改めないならば、つまり独り子イエス・キリストによって救いの恵みを与えて下さる神様に心を向け、神様を信じて生きることなしには、私たちは自分の罪によって滅びるしかないということです。主イエス・キリストの到来によって、このように、信じて救われる者と信じることなく滅びる者とが分けられていくのです。その裁きが最終的に行われるのは、この世の終わりに主イエスがもう一度来られる時です。17節はその終わりの日の裁きを語っていると言えるでしょう。救い主の到来は、この終わりの日の裁きの始まりでもあるのです。それゆえに、悔い改めて神様に心を向けることが、救い主の到来に備えるアドベントの信仰なのです。

主イエスの洗礼
 さて、来るべき救い主メシアが何をなさるのかを予告したヨハネの言葉から、聖霊によって主イエスの救いにあずかる者とされる洗礼、そして世の終わりにもう一度来られる主イエスによる裁きのことまでも見つめてきました。しかしまだ私たちはこの福音書において、主イエスが登場する前の所を読んでいます。主イエスによる救いのみ業はこれから始まるのです。そういう意味ではずいぶん先回りしたお話をしてしまったことになります。話をもう一度、この第3章の時点に戻しましょう。21節において、ようやく主イエスが登場します。ヨハネによる道備えが完了して、いよいよ真打ちである主イエス・キリストが登場するのです。
 マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書はどれも、成人した主イエスが最初に登場する場面として、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになったことを語っています。主イエスの活動は、ヨハネから洗礼を受けることによって始まったのです。このことにはどんな意味があるのでしょうか。そもそも、どうして主イエスは洗礼を受ける必要があったのでしょうか。ヨハネの洗礼は、悔い改めの印です。神様に対する罪を認め、神様の方に向き変わることの印として洗礼を受けるのです。けれども主イエスは神様の独り子です。ご自分でもその自覚をはっきり持っておられたことが、2章の終わりの、12歳の時のエピソードによっても示されていました。神の子であられる主イエスはただ一人、悔い改める必要のない、罪のない方であられたのです。その主イエスがどうして洗礼を受けるのか、ということは大きな疑問です。それゆえにマタイによる福音書におけるこの箇所では、ヨハネが、「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って、主イエスに洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたことが語られています。そのような思いが起ってくるのは当然のことです。しかしルカによる福音書においてはそういうことは少しも語られていません。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」とあるのみです。民衆の一人として主イエスも当然のことのように洗礼をお受けになったのです。ここから感じられるのは、洗礼を授けたヨハネ自身、この方こそ自分が備えをしている救い主であられる、ということを知らずに主イエスに洗礼を授けたのではないか、ということです。それを裏付けるのは、この福音書の7章18節以下で、獄中のヨハネが主イエスのもとに人をやって、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたことです。つまりヨハネは、誰が来るべき救い主かを知らなかったのです。マタイとルカではそこが違っています。ルカにおいては、主イエスは何の変哲もない民衆の一人として洗礼をお受けになったのです。

聖霊が降る
 洗礼を受けた主イエスに、天から聖霊が鳩のような姿で降って来たこと、そして天からの声が聞こえたことも三つの福音書が共通して記しています。洗礼を受けた主イエスに、聖霊が降り、主イエスは聖霊で満たされたのです。そしてそこに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様からの語りかけが与えられたのです。これらのことにはどんな意味があるのでしょうか。主イエスが民衆の一人として洗礼をお受けになったことは、神様の独り子であられる主イエスが、悔い改めて罪の赦しをいただかなければならない私たち罪ある人間と同じところにまで降りてきて下さったことを意味しています。ご自身は本来悔い改める必要のない主イエスが、悔い改めの印である洗礼を受けることによって、私たちの罪を引き受けて下さる方となられたのです。そこに聖霊が降ったのは、神様がこの主イエスの歩みを良しとし、この主イエスによって救いのみ業を成し遂げて下さるご意志を示して下さったということです。主イエスに降ったこの聖霊が、ペンテコステの出来事においては弟子たちにも降り、教会を誕生させ、そして今、私たちにも洗礼において降り、私たちをキリストの救いにあずかる者として下さるのです。

わたしの心に適う者
 そしてこの聖霊と共に与えられた天からの声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という語りかけは、これから主イエスによって成し遂げられる救いのみ業の内容を示していると言うことができます。「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、詩編の第2編7節から来ています。父なる神様が、ご自分と主イエスとの間に父と子という深い愛の関係があることを明らかに示して下さることによって、これから主イエスが歩もうとしている苦しみに満ちた救い主としての働きを励まし、支えて下さる、その思いがここに現れていると言えるでしょう。そしてその次の「わたしの心に適う者」という言葉、これこそが、主イエスによって成し遂げられる救いのみ業の内容を示しています。この言葉は、本日共に読まれたイザヤ書第42章の1節からのものです。そこに、「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」とあります。ここの「わたしが支える者、選び、喜び迎える者」というところのギリシャ語訳聖書からこの言葉は取られています。ここには、主なる神様のみ心に適う僕が選ばれ、立てられ、遣わされることが語られています。その僕は何をするのでしょうか。2~4節には「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」とあります。この僕は、裁きを行うのです。つまり先ほど見たように、救われる者と滅びる者とが、この僕の働きを通して分けられていくのです。しかしその裁きは、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」仕方で、つまり大声をあげて力づくで人々を支配し、裁くというのではない仕方で行われるのです。そしてその裁きを彼は、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」成し遂げるのです。傷ついている者、弱っている者が、この裁きにおいて断罪され、滅ぼされてしまうのではなく、むしろ赦され、救われていくのです。どうしてそのような裁きが可能なのでしょうか。イザヤ書はこの後、この「主の僕」についていくつかの箇所で語っていきます。そのクライマックスが53章です。そこには、自らは何の罪もないのに、人々の罪を背負って苦しみを受け、死ぬことによって人々を救う主の僕の姿が語られています。主の僕は、このように自らが罪人のために身代わりになって死ぬことによって罪の赦しを人々にもたらすのです。それゆえに、この僕による裁きは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すこと」のない、罪人に滅びではなく救いをもたらす裁きなのです。「わたしの心に適う者」という天からの声は、主イエスがこのイザヤの預言した「主の僕」として救いの業を行うことを告げています。それはつまり、主イエスが十字架の死への道を歩むということです。ヨハネから洗礼をお受けになったのも、私たちの罪をご自分の身に背負って十字架への道を歩んで下さるためです。そのように歩む主イエスこそ、父なる神様のみ心に適う者であり、またその主イエスを、父は「愛する子」と呼んでおられるのです。

祈る主イエス
 聖霊が鳩のような姿で降ったのも、この天からの声も、主イエスが洗礼を受けて祈っておられる中で与えられたと書かれていることに注目したいと思います。ルカによる福音書は、主イエスが初めて登場するこの場面において既に、祈っておられる主イエスのお姿を示しています。そしてこの後も、この福音書は、祈っておられる主イエスの姿を繰り返し語っていくのです。その祈りの中で、主イエスは常に繰り返し聖霊の力を受け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神様からの語りかけを聞いていったのでしょう。そのようにして、聖霊の働きと父なる神様の愛に支えられながら、私たちの罪を背負って、自らの命を罪人の救いのために犠牲にする主の僕としての生涯を歩み通して下さったのです。

アドベントの信仰
 ヨハネが、「わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と語った救い主、メシアとは、この主イエス・キリストです。私たちは、水による洗礼において、聖霊のお働きを受け、主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかります。そして、復活して天に昇られた主イエスは、世の終わりにもう一度来て、全ての者をお裁きになります。主イエスを信じて罪を赦され救いにあずかる者と、信じないゆえに赦されることなく滅びに至る者とがそこではっきりと分けられるのです。私たちはその裁きを恐れる必要はありません。なぜなら、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことによって赦しを打ち立てて下さった主イエスが、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」その裁きを成し遂げて下さるからです。世の終わりにおけるこの主イエスの第二の到来によって、私たちの救いが完成します。クリスマスを待ち望むアドベントは、同時に、主イエス・キリストの再臨による世の終わりと裁き、それによる救いの完成を待ち望む時でもあります。主イエスのご降誕を祝うクリスマスに備えつつ、主イエスの再臨において与えられる救いの完成を待ち望むアドベントの信仰を養われつつこの時を歩みたいのです。

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