夕礼拝

キリストのへりくだり

「キリストのへりくだり」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書第45章20ー25節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第2章1ー11節
・ 讃美歌 : 183、513

へりくだって歩む
 先週に引き続いて、フィリピの信徒への手紙第2章1~11節に聞きたいと思います。先週は、1~4節で語られている教会の人々に対する、パウロの勧めを中心に御言葉を聞きました。そこには、同じ思いとなるようにという勧めが語られていました。さらに、同じ思いとなるために、何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって歩むようにと教えられていたのです。キリスト者が、同じ思いとなる時、何かの立場や、主義、主張によって一致するというのではありません。互いに、へりくだるということにおいて思いを一つにするのです。しかし、へりくだると言っても漠然としています。何をもってしてへりくだることになるのかが、はっきりしません。もちろん、へりくだると言うのは、私たちがしばしば振る舞う謙遜な態度とは異なります。罪深く欠けの多い自らを自己卑下して、少々、卑屈になって、奥ゆかしく振る舞うことでもありません。私たちが謙遜に振る舞う時、実にしばしば、慇懃無礼に、心から相手を敬うことをせずに、表面的には敬うそぶりを見せると言うことがあるのではないでしょうか。自分の業績を誇り、自分は敬われて当然だという態度の人がいれば、そのような人は敬遠したくなるものです。そのような人の前では、謙遜に振る舞い、拝して遠ざけると言うこともあるでしょう。ここで、語られていることは、そのようなこととは違います。3節で「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人の事にも注意を払いなさい」とある通りです。相手を自分よりも優れた者と考えることが教えられているのです。「他人の事にも注意を払う」と言うのは、他人の賜物に注目するということです。神様が自分に賜物を与えて下さっているのと同じように、他人にも賜物を与えて下さっている。そのことを通して、様々な御業を行おうとされている。だからこそ、神様が、その人に与えている賜物を見つめ、それを敬うようにと言うのです。

キリストの救いにあずかった者として
 しかし、私たちが自らを省みる時、ここで語られているようにへりくだることをなかなか実践できない自分の姿を見出すのではないでしょうか。そのような者に向かって、パウロは、5節以下で、へりくだることの根拠を語っているのです。そこには次のようにあります。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」。パウロは、教会の人々がへりくだることの根拠は、キリストのへりくだりにあると言うのです。へりくだるという時、私たちは、自分で何か努力しようとするのではなく、真っ先に、キリストのお姿を見つめなくてはならないのです。そのことぬきに、この勧めを生きようとしても、そこには、人間の謙遜しか生まれないでしょう。キリストを見つめると申しましたが、それは、単純にキリストをお手本にして、キリストが生きられた素晴らしい生き方を実践するように努力しなさいというのではありません。5節を口語訳聖書は次のように訳していました。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」。「キリスト・イエスにあって」と言われているのは、キリストの救いにあずかってと取ることができます。つまり、イエスという偉人の姿をお手本とするのではなく、キリストを自らの救い主と受け入れ、その救いにあずかる時に、抱かされる思いを、隣人との間で生かすと言うのです。ここで語られていることは、私たちが自分の力で成し遂げることではなく、キリストの救いにあずかった者が、その恵みに応答して行く時に自然と生まれていくものなのです。だからこそ、キリスト者は、キリスト・イエスの姿を繰り返し見つめ、その救いにあずかった者として歩み続けるのです。

キリスト・イエスの姿を見つめて
 キリスト者が見つめるべき主イエスの姿は6節以下に記されています。その6~8節には次のようにあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。これは、当時教会で用いられていたキリスト讃歌であったと言われます。ここには、キリストがどのようなお方かが明確に示されています。教会は、ここに記されているキリストの姿にふれて、讃美を歌わずにはいられなかったのです。ここで先ず、キリストが神の身分であったとあります。キリストは神と等しい方、神ご自身であったのです。しかし、それに固執せずに、自分を無にして、人間と同じ者になったのです。つまり、キリスト・イエスとは、神でありながら人となられた方なのです。神と人というのは決して混同されることのないものです。しかし、主イエスにおいては、それが一緒になっているのです。更に、ここでは、ただ神が人間となったというだけでなく、へりくだって、十字架の死に至るまで従順だったと言うのです。主イエスが、人間となって、力強い御言葉を語り、人々を癒し、素晴らしい生き方の見本を見せたと言うのではありません。十字架の死にまで従順だったというのです。ここに「十字架の死」という言葉が出てきます。聖書は主イエスが十字架刑によって死なれたことを記しますが、聖書の中でキリストの死を「十字架の死」と言う概念をもって示すのは、この箇所だけです。十字架刑は、当時、最も思い刑罰でした。しかし、ここで「十字架の死」と言われる時、単純に当時の刑罰が見つめられているのではありません。「十字架の死」とは、神様の裁きとしての死です。私たちは、死と聞くと、私たちがいずれ迎える肉体の滅びとしての死を考えます。しかし、聖書は死にもっと深い意味を見つめているのです。人間は皆、神様から離れて、自分を人生の主人として歩んでいます。そのような罪に支配された人間が受けなくてはいけない神の裁きが「十字架の死」なのです。しかし、その十字架の死をキリストが受けて下さったというのです。本来、罪人である人間が受けなくてはならなかった神の裁きとしての死を、人間の姿をとって世に来て下さった神である主イエスが受けて下さった。その刑罰を受けることにおいて、抵抗することもなく、それが人間の救おうとする神の御心であることを受け入れつつ、「十字架の死」を死んで下さったのです。すべての人間の行き着く末、人間が罪人である以上、避けることが出来ないものを、罪の無い主イエスが受けて下さっている。それによって、人間は、罪人でありながら、罪による死を免れている。そのように考えると、十字架において主イエスは、人間以上に人間の姿をとって下さったと言っても良いでしょう。罪人が行き着く悲惨な姿が、主イエスの十字架のお姿の中にあるからです。神でありながら、人間となる。しかも、人間の本質がもたらす十字架の死を引き受けて下さることを通して、私たちの誰よりも人間として歩んで下さったのです。この出来事こそ、キリストの「へりくだり」ということなのです。ここに、私たちが見つめるべき、へりくだることの原型と言うべきものがあるのです。それは、私たち人間の謙遜などとは全く異なるものであり、キリストの救いにあずかることなしには生まれていかないものなのです。

自らに固執しない
 キリストが、へりくだりを示すにあたって、「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」と語られ、更に、「かえって自分を無にして」と言われていることに注目したいと思います。キリストが、自分が神であることに固執していたら、十字架の死を死ぬということはなかったでしょう。つまり、神が人になると言うようなへりくだりの背後には、自分に固執せず自分を無にするという姿勢があるのです。そして、私たちがへりくだる時にも同じことが起こるのです。3節で、パウロは、教会の人々にへりくだることを教える際に、その前提として、何事も「利己心や虚栄心から」しないようにと語っていました。つまり、キリストが自分に固執せずにむしろ自分を無にしたという姿勢が、私たちの中で生きられる時、「利己心」とか「虚栄心」によって振る舞わないという形を取るのです。「利己心」というのは、自分の利益のみを求めて行動することです。又、「虚栄心」とは、自分に栄光が帰されること、人から評価されることを求める思いです。これらは人間の罪によって生まれるものです。罪によるものだと言うと、それに支配されていることが特別に悪いことのように思えます。しかし、これらのことは、私たち人間の感情においては、ごく自然なものと言って良いかもしれません。利己心や虚栄心は全ての人間の本質と言っても良いでしょう。私たちは、いつも自分が高められることを求めています。周囲の人々に正当に評価されたいと思いますし、自分が見下されることは耐えられないのです。そのような中で、自らの振る舞い全てが、いつしか、自分が高められるということを求めて行われるようになってしまうのです。そこで、個人の業績だったり、学歴だったり、財産だったり自分に栄光を帰してくれるものを求め、それに依り頼んで歩むようになるのです。ここで、「固執しようとは思わず」とは直訳すれば「奪い取ろうとは思わず」となります。私たちは、本来、自分の身分を高めるために必要なものを獲得しようとします。時には奪い取るようにして獲得し、そして、そのようにして得たものにしがみつき、それを離したくないと思うのです。固執すると言うのは、しがみつき、離れないことです。私たちは自分自身が獲得しているものに固執します。自分が人々から誉められ、あがめられることを求めるようになるのです。しかし、キリストの救いにあずかる時に、そのような歩みの中に、自分に固執せず、自分を無にする歩み、言い替えるのであれば、利己心や虚栄心から解放された歩みが生まれていくのです。キリストが私たちのために、自らに固執することがなく、それによって、私たちが生かされているからです。

十字架の二つの意味
 私たちにとって、へりくだることの根拠となるキリストのへりくだり、十字架の死に至るまでの従順を見つめて来ました。ここで、何よりも覚えなくてはならないことは、キリストのへりくだり、従順の極みである十字架の死は、ただ、模範を示すためのものではないということです。確かに、ここでは模範という側面が強調されています。しかし、十字架は、何よりも先ず、人間の罪を贖う贖罪であったのです。十字架は、キリスト者のへりくだりの模範となるものですが、それ以前に、人間の救いの出来事なのです。このことが忘れられると、キリストの十字架を模範とすることが、ただ、私たちの行動を規定するものとなります。例えば、主イエスの姿から、道徳の規範のみを聞こうとすることが起こります。偉大な教えを説き、人々に良い行いの教師となって下さった主イエスに倣うと言うことのみが強調されるのです。主イエスに倣って、少しでも清く正しい歩みをして行こうとするのです。そこでは、周囲の人々を見つめて、その振る舞いを裁き出すということも起こります。又、主イエスを偉大な革命家のように捉え、主イエスの姿に倣って、その意志を実現するための活動に奔走すると言うこともあるでしょう。そこで、自分の身近にある社会問題に取り組むことが、即、キリストにしたがうことになってしまいます。しかし、主イエスを、道徳の教師や、政治的な指導者のようなものとして考えてしまうとするならば、それは誤りです。そのような時、キリストを語ることを通して、人間の主義や主張が語られ、それぞれの倫理観が説かれたりするのです。そして、いつしか、それを行い、あるいは、その価値に従うことがキリスト者の務めであるかのように捉えられ、周囲の人々を自分が行っている特定の活動や、特定の価値観に巻き込んでいくことになるでしょう。そこには、本当に、へりくだり、他人を敬い、その賜物を尊重する歩みは生まれて行かないでしょう。キリストのへりくだりの中にある、罪の赦しに生かされることが見失われているからです。主イエスは、そのような教師として振る舞うために十字架に赴かれたのではなく、何よりも救い主として、十字架の死を死んで下さったのです。もちろん、一方で、主イエスの姿を、罪を贖う者としてのみ捉え、そこに、私たちの生きるべき信仰の姿勢を見出さないのであれば、それも不十分と言わざるを得ないでしょう。主イエスの救いにあずかる時、そこには必ず、キリストの十字架に生かされる歩みが生まれていくのです。つまり、この二つのことが一つのこととして受け入れられることが大切なのです。罪の贖い主なるキリストの救いにあずかる中で、自らもその恵みに生かされる。そのような中で、罪打ち砕かれつつ、へりくだることの中で、様々な世に仕える歩みが生まれていくのです。

キリストの高挙
 ここで、聖書がキリストのへりくだりのみを見つめているのではないことに注目したいと思います。9節には次のようにあります。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。キリストが十字架に至るまでの従順を貫いたが故に天におられる神様のもとに高く挙げられたと言うのです。このことの意味を見つめていきたいと思います。キリスト者のへりくだりの原型となるキリストのへりくだりが語られ、それに続けて、キリストの高挙が語られている。そのように考えると、キリストのようにへりくだる歩みをした者は、キリストのように高く挙げられるのだと語っているようにも思えます。しかし、ここでは、この世で従順を貫くことができた者は、そのご褒美としてキリストのように天に挙げてもらえると言うことが語られているのではありません。この世で、自分に固執することなく、従順に歩めた人は、その見返りとして神が栄光を与えてくれますというのではないのです。そのことが10~11節ではっきりとします。「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストが主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。「天上」、「地上」、「地下」、と言われ、全ての被造物を含めた、あらゆるものが見つめられています。主イエスは、あらゆるものが、イエスを主として、真に神を讃えるようになるために高く挙げられたと言うのです。神がキリストに全世界を支配する主権者としての地位を与えたのです。それは、私たちが「イエス・キリストは主である」と宣べて、神をたたえつつ歩むことのみが、本当にへりくだった者とされることにつながるからに他なりません。

神をたたえつつ
 私たちは、この世にある限り、自分に固執し続ける者です。何事も利己心や虚栄心から行ってしまう者です。他人のために振る舞おうとする時、又、様々な奉仕に携わる背後にも、利己心や虚栄心が潜んでいるということもあるのです。キリストに従っていく歩みも又、自分の思いに縛られたまま行われるのであれば、そこで、どんなに良い業が行われようとも、本当に福音が証しされることはないでしょう。困難な中にある人のための活動も、社会の中で虐げられている人々のための奉仕も、人間の業を讃美することのためにのみ行われるのであれば、それは、私たちの為すべきことではありません。私たちは、先ず、イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べ伝えて、神を讃えなくてはならないのです。この方こそが、私たちのためにへりくだって十字架の死を死んで下さったからです。ただ、この方のへりくだりに示された救いにあずかることを通してのみ、私たちは、自分に固執せずに、利己心や虚栄心からではなく、キリストを証しするための、愛の業に励むことが出来るのです。今週も、神を讃美しつつ、新しい歩みを始めたいと思います。

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