夕礼拝

神の祝福を求めて

「神の祝福を求めて」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第32章1-33節
・ 新約聖書; ガラテヤの信徒への手紙 第3章7-14節
・ 讃美歌 ; 16、453
 

イスラエル
 聖書において、そして聖書に基づく教会の信仰において、「イスラエル」という名は特別な意味を持っています。イスラエルとは、神様に選ばれて祝福を受け、その祝福が全ての人々に及ぶために用いられた一つの民族の名です。「イスラエルの民」という一つの具体的な民族が、神様の祝福、救いの担い手として選ばれ、この世界の歴史を歩んだのです。それは神様の祝福、救いが、この世界の歴史を超越した、抽象的普遍的な理念のようなものではなくて、世界の歴史の中に、言わば肉体となり、具体化するものであることを示しています。旧約聖書は、このイスラエルの民の歴史と、この民が歴史の中を祝福の担い手として歩む信仰の戦いの中で生み出された様々な文書を集めたものです。そして新約聖書は、イスラエルの民が担ってきた神様の祝福、救いが、イエス・キリストという一人のお方において文字通り肉体となってこの世に来られ、実現したことを語っています。主イエス・キリストは、パウロがローマの信徒への手紙の第1章3節で「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と言っているように、イスラエルの民の一人としてイスラエルの歴史の中に生まれ、その後の4節で言っているように、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」方なのです。イスラエルの民の一人としてお生まれになった主イエスが、神様の独り子、まことの神として、十字架の死と復活によって全ての人々の救い主となられたのです。この主イエス・キリストによる救いと祝福を担う群れとして、聖霊によって誕生したのが、キリストの体である教会です。今や教会が、神様の祝福、救いを担う新しいイスラエルなのです。イスラエル民族とは血のつながりが全くない私たちも、教会に連なることによって、イスラエルの民に与えられた神様の祝福、救いにあずかるのです。つまりイスラエルの名の本当の意味を今日受け継いでいるのは、イスラエル共和国ではなくて私たちキリスト教会なのです。私たちは今、この世界において、神様の祝福、救いを担う新しいイスラエルの民として立てられ、歩んでいるのです。
 この「イスラエル」という名が聖書の中で最初に出てくるのが、本日ご一緒に読む創世記第32章です。イスラエルという名が何を意味しているのか、イスラエルの名を受け継ぐとはどういうことかを、ここからご一緒に聞き取っていきたいのです。

ヤコブの恐れ
 イスラエルは一つの民族の名であると申しましたが、それはもともとは一人の人の名前でした。しかも、生まれつきの名前ではなくて、神様から与えられた名前だったのです。その人の元の名前はヤコブです。ヤコブが、神様からイスラエルという新しい名前を与えられたのです。彼はどのようにしてこの新しい名前を与えられたのでしょうか。
 ヤコブはイサクとリベカの間に生まれた双子の次男で、兄はエサウでした。双子とは言え、エサウが長男、ヤコブは次男でした。ところがヤコブは、兄エサウがどちらかと言うと考えなしの単純な人だったのにつけ込んで、一皿の煮物と引き換えに、長男としての権利を買い取ってしまいました。さらに、老い先短いことを悟った父イサクが、自分の父アブラハムから受け継いだ神様の祝福を長男であるエサウに与えようとした時、父の目がかすんでよく見えないのをいいことに、エサウに変装して祝福を騙し取ってしまったのです。そのために彼は、兄エサウに命を狙われるようになり、母の故郷であるハランという町に亡命せざるを得なくなりました。ヤコブは故郷を失い、他国で寄留者として生きることになったのです。
 ヤコブはこのハランで20年間、叔父であるラバンの家に留まりました。そしてラバンの二人の娘、レアとラケルを妻にし、十一人の息子たちと多くの家畜を持つ者となりました。そのいきさつが29章から31章にかけて語られています。本日のところの11節で彼はこう言っています。「かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました」。このようにヤコブは寄留の地ハランで豊かになりました。しかし豊かになったことで満たされ、もうこれでよい、と思うことはありませんでした。なぜなら彼は、神様の祝福をこそ求めていたからです。彼が兄エサウから長男の権利を奪ったのも、神様の祝福を求めてのことです。父イサクを騙して祝福を受けたのも、父の祝福が欲しかったと言うよりも、アブラハムからイサクに受け継がれた神様の祝福を得るためだったのです。彼は、ずるがしこく不正な手段を用いてでも、神様の祝福を得ようとしたのです。そのために故郷を追われ、外国で寄留の生活をしなければならなくなったのです。しかし神様は、故郷を追われて逃げていく旅の途上でヤコブに現れ、祝福の約束を与えて下さいました。28章13~15節です。そこを読んでみます。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』」。このみ言葉から分かるように、神様の祝福は、ヤコブが今逃げ出そうとしている故郷の地に帰り、そこでアブラハム、イサクの跡継ぎとなることによって実現するのです。寄留している外国でどんなに豊かになっても、それで神様の祝福が実現するわけではないのです。神様が約束して下さった祝福を受けるためには、彼は故郷に帰らなければならないのです。ハランでの20年の生活を経て今ヤコブは、その故郷に帰る旅の途上にあります。本日の箇所の2節に「ヤコブが旅を続けていると」とあるその「旅」とは、先ほどの28章の逃亡の旅とは反対の、寄留の地ハランから故郷に帰る旅なのです。しかしそこで当然問題になるのは兄エサウとの関係です。あれから20年の歳月が経っているわけですが、エサウは今ヤコブに対してどのような思いを抱いているのでしょうか。長男に与えられるはずの祝福を奪ったヤコブの罪を、20年の歳月によって忘れてくれているのでしょうか。ヤコブはそのことを確かめるために、4節でエサウのもとに使いの者を遣わしました。4~6節「ヤコブは、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わすことにし、お前たちはわたしの主人エサウにこう言いなさいと命じた。『あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。』」。しかし使いの者が帰って来てもたらした知らせはヤコブにとって最悪なものでした。7節「使いの者はヤコブのところに帰って来て、『兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます』と報告した」。エサウは四百人の供を連れてヤコブを迎えようとこちらへ向かっている。この「迎える」は「歓迎する」という意味ではなくて、むしろ「迎え撃つ」という意味です。エサウのヤコブに対する憎しみは、20年経った今も少しも和らいではいないのです。ヤコブは8節にあるように、非常に恐れ、思い悩みました。これが、この32章においてヤコブが置かれている状況です。ヤコブは今、人生の大きな転機にさしかかっています。神様の祝福を求めて、亡命していた外国からいよいよ故郷へ帰ろうとしているのです。しかし行く手には、怒りをもってそれを阻もうとする敵が立ち現れ、向かって来ています。神様の祝福の約束が実現するか、それとも潰えてしまうかの瀬戸際にさしかかってきているのです。その転機においてヤコブは、非常に恐れ、思い悩んでいるのです。  この恐れと不安は、自分が引き起こしたものです。彼は確かに兄エサウに対してひどいことをしたのです。神様の祝福を求めてのことだとは言え、彼がしたことはやはり人を騙し、裏切る罪です。その罪の結果、彼は兄に憎まれるようになり、故郷を追われたのです。20年経った今もなお、兄エサウの怒りが和らいでいないのは全て自分の犯した罪の結果です。つまり彼が今味わっている恐れと不安は、理由なく降って湧いたものではなくて、自分自身に責任がある、自業自得なのです。人生の転機において、自分の罪によって生じた苦しみに直面している、それがヤコブの今の姿なのです。

ヤボクの渡し
 このような恐れと不安の中でヤコブは、23節にあるように、ヤボクの渡しを渡りました。聖書の後ろの付録の地図の3「カナンへの定住」を見ていただくと、ヨルダン川の支流で、東から西へと流れているヤボク川というのがあります。そこに「ペヌエル」という地名があるのが、本日の箇所の舞台である「ヤボクの渡し」です。ヤコブはこの川を北から南へと渡ったのです。これはヤコブの人生において、後にユリウス・カエサルが「賽は投げられた」と言ってルビコン川を渡ったのに匹敵するような重大なことでした。これによっていよいよ、兄エサウのもとへ、つまり敵地に乗り込むことになるのです。あのルビコン川もそうですが、このヤボクの渡しも、恐れと不安の中で、しかしどうしても渡らなければならない、苦しくても避けることのできない人生の大きな転機を象徴しているのです。私たちの人生にもこのヤボクの渡しがあります。どうしても渡らなければならない、通過しなければならない転機があるのです。その時私たちは恐れと不安に苦しみます。そしてヤコブがそうだったように、その恐れや不安は自分自身の罪の結果である、ということがしばしばあるのです。そういう恐れや不安の中で、しかし私たちは、自分にとってのヤボクの渡しを渡っていかなければならないのです。

何者かとの格闘
 23節以下には、このヤボクの渡しにおいてヤコブが真夜中に何者かと格闘したという不思議な物語が語られています。読み進んでいくと、この「何者か」は神様ご自身だったことが分かります。ヤコブが神様と格闘して勝ったのです。これはいったいどういう話なのでしょうか。学者の研究によれば、この物語の背後には、このヤボクの渡しにまつわる古くからの伝説があるようです。この渡し場に住む魔物の伝説です。夜、渡ろうとする旅人を川にひきずり込む魔物です。ある人は、これは日本で言えばカッパ伝説のようなものだと言います。夜に川を渡る時、何かのはずみで流されてしまうことへの恐怖から生まれた伝説でしょう。この伝説が、ヤコブの物語と結びつけられたのです。それはヤコブが、恐れと不安の中でヤボクの渡しを渡ったことを思えばうなずけることです。そしてこの伝説には、ある時一人の豪傑がやって来てこの魔物と格闘し、これを打ち負かした、というエピソードもあったようです。そこから、ヤコブが何者かと格闘して勝った、という話が生まれたのです。これも、ヤコブのこの時の状況と結びつきます。人生の転機であるヤボクの渡しを渡る時に、誰もが、ある魔物と戦わなければならないのです。それは「恐れ、不安」という魔物です。あるいは、過去へのこだわり、未練や後悔という魔物でもあります。人生の転機において私たちは、私たちを深い淵へと引きずり込もうとする魔物と戦わなければならないのです。そういう戦いなしに、新しい道は開けないのです。
 洗礼を受けて信仰者となる、というのも、そういう人生の転機の一つです。そこにはやはり戦いが伴います。自分の過去と決別し、新しい道を歩むという決断のための戦いです。そういう格闘を経て、私たちは洗礼というヤボクの渡しを渡るのです。

神の祝福を求めて
 しかし本日のこの物語が私たちに示そうとしている最も大事なことは、この人生の転機における格闘において、私たちが戦う相手は誰なのか、ということです。この話は、今申しましたように、川の魔物の伝説、それと格闘して勝った豪傑の伝説が元になっていますが、その伝説が決定的に変えられている所があるのです。それは、ヤコブがここで格闘した相手は、魔物や悪魔ではなくて、神様ご自身だ、という所です。人生の様々な転機、その一つが洗礼を受けて信仰者になるという決断ですが、そこにおいて私たちが本当に格闘する相手は、魔物ではないのです。自分自身の弱い心や罪と格闘するのでもありません。格闘の相手は神様ご自身なのだとこの話は教えているのです。神様ご自身と格闘するとはどういうことでしょうか。しかもヤコブは、神様と格闘して勝ったというのです。それはどういうことなのでしょうか。
 ヤコブはここで、何のために格闘しているのでしょうか。神様である相手を打ち破り滅ぼすためでしょうか。そうではないことが27節から分かります。「『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』」。ヤコブが求めているのはここでも神様の祝福なのです。神様との格闘というのは、神様の祝福をひたすら求める格闘です。私たちが、ヤボクの渡し、人生の転機においてしなければならない戦いは、この格闘、ひたすら神様の祝福を求める格闘なのです。この格闘を、ヤコブは10~13節においてもしました。「ヤコブは祈った。『わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。』」。これはヤコブの必死の祈りです。彼は、大きな恐れと不安の中で、しかもその原因は自分自身の罪であるという現実の中で、神様の約束のみ言葉を頼りに、祝福を必死に祈り求めたのです。彼は自分がその祝福を受けるに足りない、相応しくない者であることをはっきりと知っています。そのことを告白しつつ、なお神様の祝福をひたすら祈り求めているのです。彼はこのように祈りつつヤボクの渡しを渡ったのです。「祝福してくださるまでは離しません」というヤコブの格闘は、自分が相応しくない者であることをはっきりと認めつつ、しかしその自分の姿を見つめるのではなく、神様の約束のみ言葉のみを見つめ、それにより頼んで祝福を求めていくという、祈りにおける格闘だったのです。

名前を知る
 この格闘の結果何が起ったのでしょうか。28~30節「『お前の名は何というのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』『どうか、あなたのお名前を教えてください』とヤコブが尋ねると、『どうして、わたしの名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した。」。ヤコブは、願い求めていた神様の祝福を勝ち取ったのです。しかしそこには、名前についての一連の問答が語られています。神様は彼に、「お前の名は何というのか」とお問いになり、彼は「ヤコブです」と答えたのです。名前というのは、古代の人々にとって、その人の全存在を代表するものでした。ですから相手に自分の名前を告げるというのは、自分を相手にさらけ出し、委ねるという意味を持っていたのです。ですからヤコブがここで自分の名前を神様に告げたのは、神様に自分の全てをさらけ出し、委ねたということです。そして30節では逆に、ヤコブが神様に「どうか、あなたのお名前を教えてください」と尋ねています。神様の名前を知るというのは、今申しましたことからすれば、神様を自分のものにする、自分の支配下に置いて、いつでも好きな時に呼び出して利用できるようにする、ということです。ヤコブの問いにはそういう意味があります。しかし神様は、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、お名前をお示しにはならないのです。ヤコブは神様の名を知ることは出来なかったのです。ここに、この格闘の結果起ったことは何だったのかが示されています。ヤコブは自分の全てをさらけ出し、委ねて、神様の祝福を求めたのです。それに対して神様は、ヤコブに支配されたり、ヤコブのものになってしまってはいないのです。神様とヤコブとのそういう関係が明らかにされ、その上で神様が彼を祝福して下さったのです。ヤコブが神様を打ち負かして祝福を勝ち取ったように見えますけれども、本当は、自分の全てをさらけ出し、委ねて、祝福を求めたヤコブを、神様が恵みによって受け入れ、祝福して下さったのです。

イスラエルという名
 そしてその祝福において、神様は彼に新しい名前、イスラエルという名前を与えて下さいました。新しい名前を与えるというのは、先ほどのことから言えば、その人の全体を新しくするということです。ヤコブはここで神様によって新しくされたのです。彼はそれまではヤコブでした。ヤコブという名は、彼が誕生の時兄エサウのかかとをつかんでいたことからつけられたと25章にありました。彼はその名の通り兄の足を引っ張り、父をも騙して祝福を奪いました。そのために兄の憎しみを受け、亡命の生活を余儀なくされたのです。そして再び故郷に帰ろうとする今も、恐れと不安の中にいます。それがヤコブの過去と現在です。その恐れと不安の中で彼は、自分が恵みに相応しくない罪人であることをはっきりと告白しつつ、それでもなお神様の祝福を求めて、神様と格闘するように祈りつつ、ヤボクの渡しを渡ったのです。そのヤコブを神様は祝福して下さり、イスラエルという新しい名前を与えて下さったのです。イスラエルという名前は「神と人と闘って勝った」という意味だとここには語られていますが、本来の意味は「神は支配される」ということです。人のかかとをつかんで引きずり下ろし、自分が人を支配する者になろうとしていたヤコブが、神様こそ支配者であられることを認め、そのご支配に従って歩むことを意味するイスラエルという名をもって生きる者とされたのです。ヤコブがイスラエルへと変えられる、そこに、神様の祝福があるのです。イスラエルの民とは、ヤコブが神様によって与えられたこの新しい名のもとに、神様のご支配を信じ、それに従って生きる民なのです。そのことによってこそ、この民は神様の祝福を担い、人々に伝えていくことができるのです。

キリストによる祝福を求めて
 アブラハムに与えられ、イスラエルの民によって受け継がれてきた神様の祝福は、正確に言えば祝福の約束です。イスラエルの民は、神様の祝福の約束を担い、その希望を受け継いできたのです。その約束を実現して下さったのが、神様の独り子イエス・キリストです。主イエスの十字架と復活によって、神様の祝福の約束は成就し、今やその祝福が主イエスを信じる全ての者たちに及んでいます。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ガラテヤの信徒への手紙第3章の14節に、そのことがこのように語られています。「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」。主イエス・キリストによって、神様の祝福は私たちにも及んでいるのです。私たちは、その祝福を信仰によっていただくために格闘するのです。その格闘は、敵との戦いでもなければ、自分自身の弱い心や罪との戦いでもありません。私たちが格闘する相手は、主イエス・キリストの父であられる神様です。神様を相手に、「祝福してくださるまでは離しません」とひたすら祈り求めていく祈りの格闘です。この祈りの格闘を通して、私たちは新しいイスラエルである教会の一員とされ、主イエス・キリストの体の部分とされ、神様の祝福にあずかる者とされるのです。そのことを信じて、それぞれの前にあるヤボクの渡しを、神様の祝福を祈り求めつつ渡っていきたいのです。

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