夕礼拝

同じ思いとなる

「同じ思いとなる」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書第2章12ー17節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第2章1ー11節
・ 讃美歌 : 2、557

同じ思いとなる
 パウロは、フィリピ教会の人々に「同じ思いとなる」ようにと勧めています。2章の1節には次のようにあります。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。ここで「同じ愛を抱き」と言うのは、同じ神の愛を受けた者として互いに愛し合うということです。さらに、「心を合わせ、思いを一つにして」と言う言葉には、一つの心となって戦うと言うニュアンスがあります。そのような深い一致が語られているのです。私たちは、ここで語られているように同じ思いとなることができたらどんなに素晴らしいだろうかと思わされるのではないでしょうか。そのように思うのは、私たちが、同じ思いとなることの難しさを良く知っているからでしょう。私たちの人間関係は、同じ思いとなることが出来ないことによる、対立や、いざこざに満ちています。当時のフィリピ教会にも、対立がありました。パウロが手紙でこのような勧めをするのは、教会の人々が同じ思いになっていなかったからに他なりません。そして、それは、地上に建てられた全ての教会の現実でもあります。教会も又、人々が集まる場所であり、教会の交わりの中で、様々な人間関係の問題が生じるのです。そのような教会に向かって、「同じ思いとなる」ようにと語られているのです。しかし、考えて見ますと、私たちは皆、「同じ思いとなる」ために色々と努力しているようにも思えます。聖書に教えられなくても、教会とは関係の無い所でも、自然と周囲の人々と同じ思いとなることを求めていると言っても良いでしょう。この世で、私たちが人との交わりを形作ろうとして、様々な思想において同じ思いとなろうとしたり、趣味において同じ思いとなろうとします。又、平和と言うような、人類の普遍的な価値と思えるようなことで、同じ思いとなろうとしたりもするのです。しかし、パウロがここで語る「同じ思いとなる」と言うのは、そのような、何かの主張や、立場によって一致して、様々な集団が形成される時の「同じ思い」とは異なります。ここで、私たちが人間関係の中で努力して、同じ志を抱く人々と密接な関係を結んで行こうと言うことが語られているのではありません。私たちは、パウロが語ることを通して、特に2章の1~4節の御言葉を通して、教会において「同じ思いとなる」とはどのようなことなのかを見つめて行きたいと思います。

フィリピ教会の対立
先ず、対立があるフィリピ教会の状況について振り返っておきたいと思います、その対立は既にこの手紙で語られていました。1章の15節以下には次のようにあります。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らえられているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」。この時、パウロは福音を宣教する中で、牢獄に捕らえられていました。それは人間的に考えれば不幸としか言えない出来事です。人々から後ろ指を指されるような事態です。そのような中で、教会の一部の人々は、パウロの苦しみが福音の前進ための苦しみであることを知って、パウロを思いながら教会の業に励んだのです。しかし、もう一方で、パウロのことを快く思っていない人々がいて、パウロが教会にいない今がチャンスとばかりに自分たちの勢力拡大のために熱心に活動していたのです。パウロの言葉によれば、この人々は、「獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機」で宣教したのです。この人々が「ねたみと争いの念にかられて」いたこと、更に「自分の利益を求めて」いたことが記されています。つまり、パウロの賜物をねたんでいたのです。パウロの賜物が教会の働きの中で大きく用いられていた。そのことに対するねたみを抱きながから、熱心に教会の働きに励んでいたのです。つまり、ここでは、福音そのものに対立する人々との争いではなく、同じ教会の中にいる人々の、教会に仕える熱心さの背後にあった対立が見つめられているのです。ここで語られる「自分の利益を求めて」と言うのは、「利己心」と言い替えることが出来ますが、これは「党派心」とも訳することが出来る言葉です。人間が利己心や虚栄心から活動する時、そこには必ず、ねたむ思いが生じます。そして、そのようなねたみを生み出す利己心は、私たちが、グループを作ること、つまり党派心と密接に結びついています。人間が仲良しグループを作り、自ら一致しようとする時、もちろん崇高な理想が掲げらるかもしれませんが、その背後では人間の利己心や虚栄心から来るねたみ支配していることがあるのです。そこでは、自分たちが気に入らない人々と敵対すると言うことによって、党派が形作られるのです。そのような時、そのグループの中では同じ思いになっているようにも見えます。しかし、そのような人間の利己心が支配する所には、決して、聖書が語る「同じ思いとなる」と言うことが生まれることはありません。

一致を形成していく喜び
パウロは、教会に利己心からの対立がある現実を前にして、教会の人々を裁く言葉を口にしませんでした。むしろ、1章18節にあるように、「だが、それがなんであろう。口実であれ真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」と語ります。伝道が進められる時、そこに用いられ、たずさわる人間の思いには、善意や悪意、様々なものがあるけれども、そこで伝道が進められているのであるのだから、それを喜ぶと言うのです。このような喜びを語ることができたのは、パウロが、徹底的に、伝道を進めるのは人間の力や、人間の善い業、善意から生じた行い等ではなく、様々な欠けがある人間を用いられる神様の御業なのだと言うことをわきまえているからなのです。だから教会の業の背後に人間の思いが生み出す対立があっても、そのことをも用いて働かれている神様の御業を覚えて喜ぶのです。このパウロの喜びの中に、信仰者の喜びが語られています。私たちは、教会の働きの背後にある人間的思いや対立を見つめて、それを裁くのではなく、むしろ喜ぶ姿勢が大切なのです。しかし、もちろん、この神様の御業に信頼する態度は、教会に生じた人間的思いによる対立状態に対して、何もせずに、ほっておいても良いと言うことではありません。むしろ、神様の働きを喜んでいるからこそ、現状に留まるのではなく、神様の働きを見つめることによって得られる喜びを教会の人々と共有しつつ、そこで真の一致を形作って行くことがなくてはならないのです。つまり、信仰者は、一方で、人間的な思いによって行われる業や、それが生み出す対立の中でも神様が働かれていることを覚えて喜びますが、もう一方で、対立関係にある人々を裁くことなく、福音の喜びを共にし、同じ思いとなることを求めて行かなくてはならないのです。だからこそ、パウロは、神様に委ねつつも、教会の人々に勧めを語っているのです。2節の終わりでパウロは、同じ思いになることによって「わたしの喜びを満たして下さい」と語っています。つまり、パウロはどんなに苦しい状態にあっても喜ぶのですが、そこで、事実、人々が同じ思いに成っていくことが、実現して行くのであれば、その喜びが益々満たされていくと言うのです。

既に与えられたものによって
では一体、ここで語られている「同じ思い」とはどのようなものなのでしょうか。それは、私たちが気の合う仲良し倶楽部を作ると言うようなことではありません。考え方が同じ、同士を集めると言うことでもありません。既に見つめましたが、そのような人間が掲げる主義、主張によって同じ思いになろうとするところには、必ず、それとは異なる思いをもっている人々との対立が生まれます。例えば「平和」と言うような、人間が普遍的に求めているようなことによって一致しようとする場合であっても、人間の主義、主張が掲げられている限り、そこで、「平和」の在り方をめぐって意見の対立が生じるでしょう。私たちが、何か特定の考え方によって一つになろうとする時、必ず、そこには異なる意見が生じるのです。そして、そこには、少なからず、人間の利己心や虚栄心も潜んでいるのです。
ここで、1節の言葉に注目したいと思います。ここには、「キリストによる励まし」、「愛の慰め」、「霊による交わり」、そして、「慈しみや憐れみの心」というものが見つめられています。それらが少しでもあるのであれば、それによって思いを一つにしなさいと言うのです。そのようなことを言われると、私たちには、「これらのものが自分にあるとは思えない」と思うかもしれません。私たちの中に実際に対立があるのは、自分の中に、ここであげられているようなものが充分にないから当たり前だ。そもそも、思いを一つにするための根拠となるものがないのだから、思いを一つにしろなどというのは無理な話だと感じるかもしれません。しかし、ここで「いくらかでも~あるなら」と言われている言葉は、「いくらかでも~与えられているのであるから」とも訳すことも出来るのです。ここでは「もし~あるなら」と条件を語っているのではなく、既に、あなたがたはこれらのものが与えられていると語られているのです。ここで「同じ思いとなる」と言うのは、既に与えられたものを根拠にして形作られるものなのです。人間が生み出すものによって同じ思いとなるのではないのです。しかも、「いくらかでも」と言う言葉を用いています。それは、パウロの教会の人々への配慮と言っても良いでしょう。本当は、それが充分に与えられているにもかかわらず、人々は、そのことに気が付かない。そんな鈍感な人々に「いくらかでも」と言うのです。あなたがたも、教会に連なっている以上、キリストの励まし、愛の慰め、霊による交わりが与えられていることをいくらかは知っているでしょうと言うのです。そして、そのことほんの少しでもを見つめるのであれば、そのことによって同じ思いを抱くことができると言うのです。
ここで既に与えられているものとして挙げられていることに目を向ける時、第二コリントの13章13節の御言葉が思い起こされます。そこには次のようにあります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。これは、礼拝の最後、祝福派遣の時の言葉です。ここでは三位一体の神の祝福が語られているのです。このフィリピの信徒への手紙も同じことが語られていると言えます。「キリストによる励まし」とは、キリストの救いの出来事による励ましです。「愛の慰め」とあるのは、「父」と言う言葉はないものの、父なる神様の愛が与える慰めと取ることができます。更には「霊による交わり」とは聖霊によって形作られる教会の交わりのことです。つまり、パウロが語る「同じ思いとなる」とは、三位一体の神さまの祝福を根拠に実現するものなのです。

へりくだって
そして、そのよう祝福が与えられていることを見つめつつ、同じ思いとなる時に、生まれるのが、3~4節に語られている歩みです。3節には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とあります。これが同じ思いを抱くことの帰結であり、又、このような歩みが生まれていく時に同じ思いを抱く者へとされていくのです。「利己心」や「虚栄心」と言うのは、自分の利益のみを追求する姿勢です。それは人々に党派心を生みます。そのような、私たちの中にある思いを捨て、むしろ、へりくだると言うことが見つめられているのです。そして、へりくだる姿勢こそが「同じ思い」を生んでいくのです。むしろ、私たちはへりくりにおいて一つとなると言うことが出来るでしょう。何かの主張や、信仰の信念等の中に一致を見出すのではなく、互いにへりくだると言う姿勢において同じ思いとなるのです。
「同じ思いとなり」と言う時の「思いとなる」と言う言葉は、フォロネインと言う言葉です。そして「へりくだって」と訳されている言葉は、タペイノフォロネインと言う言葉で、タペイノス「へりくだった」という言葉と、フォロネイン「思い」が結びついているのです。つまり、「同じ思いとなり」と言われている箇所と、「へりくだって」という箇所には同じ言葉を見出すことが出来るのです。更に、この手紙において、フォロネインと言う言葉は、救い主、キリストと結びつけられて用いられています。事実、この後の5節以下には、キリストのへりくだりが見つめられているのです。「同じ思いを抱く」とは、キリストが示して下さったへりくだりに生かされることに他ならないのです。神の子でありながら人間のために、世に来て下さった主イエスの姿の中に、神様が私たちに示して下さるへりくりがあります。そのキリストの姿に倣うことが求められているのです。様々な主張や人間的思いによって、人間が自分たちの力によって「同じ思い」となろうとするのではなく、それぞれが、様々な主張や、人間的な思いをもっているにせよ、キリストを示され、キリストに倣う時、そこには、へりくだると言うことにおいて「同じ思いとなる」共同体が生まれるのです。

他人の賜物を見つめる
 4節には、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とあります。ここでは、他人のことにも気を配り、自分の利益だけでなく他人の利益も考えるように努めなさいと語られているように読めます。確かに、そのようなことも無関係ではありません。しかし、更に進んで、ここでは、他人の賜物を見つめるようにと言うことができるでしょう。それ故、「自分のこと」と言うのは、自分の利益ということではなく、自分が神様から与えられている賜物のことです。自分の賜物を過大評価するのではなく、他人が神様から与えられた賜物に注目するようにというのです。そもそも、フィリピ教会に生まれた対立は、賜物をねたむ思いによって生じたのでした。つまり、宣教の熱心さ、神様に仕える働きの熱心さの背後での人間的な思いが問題なのです。そのような対立は、神様からの賜物によって教会が建てられていることを見失うことによって起こります。自分が教会の業に用いられているのは、神様からの賜物であり、周囲の人々も又、同じ、キリストの賜物によって御業のために用いられている。そのことを見つめる時に、本当の意味で、ねたむ思いから解放されていくのです。そして、自分に与えられている賜物も他人に与えられている賜物も共に神様から与えられたものとして喜びつつ、教会の業のために用いる者とされるのです。つまり、同じ思いになって、互いにへりくだると言うのは、自分と他人に与えられたキリストの賜物を見つめ、それが用いられて神様が讃えられていることを喜びとして歩むことに他なりません。自分の利益のための自分の業に励んでいる時、そこには必ずねたむ思いやひがむ思いが生まれます。しかし、へりくだるということにおいて同じ思いになる時、聖霊によって与えられる賜物に目を向けつつ、お互いを評価する者とされていくのです。

聖餐の食卓から
私たちは、なかなか、同じ思いになることができません。それは、なかなかへりくだることが出来ないということでもあります。高ぶる思いに支配されてしまうのです。自分がどんなに、同じ思いになろうと努めていても、周囲の人々が賜物を利己心に支配されている姿に直面する時に、それを裁いて、対立を生み出してしまうことがあるでしょう。そして、他者を批判する姿勢の背後に、自分自身の利己心や虚栄心が潜んでいることもあるでしょう。そこでは互いに対立していることのために、神様の働きに対する喜びが失われています。私たちは、全てが、神様の働きとして用いられていることを喜びつつ、尚、同じ思いとなるために努めて行くことが大切なのです。そのためには、自らを省みて、自分自身の中にある虚栄心を悔い改めて行かなくてはなりません。本日、共にあずかる聖餐は、利己心や虚栄心から自由ではない私たちのためにキリストがなさって下さったへりくだりである十字架の死を示すものです。この聖餐にあずかることによっても、私たちは自らのために、主イエスが死んで下さったこと、更には、一つのキリストの賜物が分け与えられていることを示されます。その恵みに生かされつるとき、私たちも、互いにへりくだることによって、同じ思いとなって行くのです。そのような中で、欠けの多い私たちを通して、キリストが豊に証しされていくのです。

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