主日礼拝

主の道を整える者

「主の道を整える者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書第40章1ー5節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第3章1ー14節
・ 讃美歌:237、136、519

世界の歴史の中で
 11月も半ばに入ろうとしており、めっきり寒くなってきました。今月末にはアドベント、待降節に入ります。あと1か月半でもうクリスマスです。クリスマス伝道実行委員会の活動も本格化して、いよいよクリスマスが近付いてきたことが感じられるようになりました。そんな今、主日礼拝においては、クリスマスの物語を語っているルカによる福音書第2章をようやく読み終え、本日から第3章に入ります。クリスマス物語を読み終えると共にクリスマスが近付いてきた、という感じです。本日から読んでいく第3章には、主イエス・キリストが人々の前に姿を現し、活動を始められたことが語られています。先週も申しましたが、主イエスが人々に教えを宣べ伝え始めたのはおよそ30歳の頃だったと、この3章の23節にあります。つまり第3章に語られていることは、クリスマスの出来事からは30年、先週読んだ12歳の主イエスにおける出来事からもおよそ18年の年月を経ているのです。それゆえにルカはその年代を3章の始めのところで改めて詳しく語っています。1節から2節にかけてのところに「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」とあるのがそれです。
 ここに先ず、「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」とあります。ティベリウスはローマ帝国の第二代皇帝で、第2章の主イエスの誕生の時の皇帝アウグストゥスが紀元14年に死んだ後、その後を継いだ人です。その治世の第15年というのは、紀元28から29年のことだと思われます。それだけでもはっきりと年代が特定されるわけですが、ルカはそれに加えて「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督」だった時と語っています。主イエスの誕生の時にはヘロデがユダヤの王でした。このヘロデ大王は紀元前4年に死んでその息子アルケラオがユダヤの支配を受け継いだことがマタイ福音書の1章22節にあります。しかしその支配は長く続かず、その後ユダヤはローマ帝国の直轄地となって総督が置かれていたのです。このローマ帝国ユダヤ総督ポンティオ・ピラトの下で、主イエスは十字架につけられることになるのです。その次に「ヘロデがガリラヤの領主」とあるのは、あのヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスと呼ばれる人です。このヘロデと、その兄弟フィリポと先ほどのアルケラオが父ヘロデ大王の領土を分割して受け継ぎましたが、この頃にはユダヤはローマの直轄領となり、ヘロデがガリラヤの、フィリポはイトラヤとトラコン地方の領主だったのです。次にリサニアという人がアビレネの領主として出てきますが、これはヘロデ家とは関係のない人です。イトラヤ、トラコン、アビレネがどのあたりかは、聖書の後ろの付録の地図の6「新約時代のパレスチナ」を見て下さい。いずれもパレスチナの北の方です。そして年代を語る最後に、「アンナスとカイアファとが大祭司であった」とあります。リサニアまでは政治的な支配者ですが、大祭司はユダヤ人の宗教的指導者です。ヨハネ福音書によれば、アンナスはカイアファのしゅうとであり、前の大祭司です。この人々がやはり主イエスの十字架の死に深く関わることになるのです。ルカはこのように、歴史上名の知れた人々を何人も引き合いに出して、これから語っていく出来事の年代をはっきりさせようとしています。それは年代を特定するためと言うよりも、主イエス・キリストによる救いの出来事が、架空の、空想上の事柄ではなくて、世界の歴史の中で、具体的現実的に起ったのだということを示すためです。主イエス・キリストによる救いは、この世界の歴史の中で現実に起った出来事であり、それゆえに私たちの具体的な現実と深く関わっているのです。

神の言葉が降る
 さてこのように何重にも特定されたその年に何が起ったのでしょうか。それは「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ということです。主イエス・キリストの出現がここで直ちに語られているのではありません。先ず、ザカリアの子ヨハネのことが語られていきます。私たちは既に1、2章においてこれと同じことを体験してきました。主イエスの誕生の前に先ずヨハネの誕生が、しかも織り合わされるように交互に語られていたのです。そのような語り方によってルカは、ヨハネと主イエスとが切り離すことのできない関係にあることを示し、またその中で、ヨハネの役割は「主に先立って行き」、「準備のできた民を主のために用意する」ことだと語ってきました。ヨハネは主イエスに先立って歩み、主イエスのために道を備え、整えるのです。そのヨハネの働きがこの第3章に語られているのです。
 このヨハネの活動は、「神の言葉が彼に降った」ことによって始められました。ヨハネは、ずっと学んで温めてきたことをいよいよ一念発起して語り始めたのではないのです。ヨハネの活動は、ヨハネ自身の思いや決断から始まったのではなくて、神の言葉が彼に降ったことによって、つまり神様の働きかけによって始まったのです。主イエス・キリストによる救いの出来事はこのように神様ご自身のお働きによって、人間の外からの力によって始められたのです。これはとても大事なことです。聖書が語る救いの知らせ、つまり福音は、人間の思想ではありません。人間が考えて始めたことではなくて、神様から降った知らせ、神が告げたもうたみ言葉なのです。人間がそれを聞き、受け入れ、それによって生きていくところに、信仰の出来事が起っていくのです。

荒れ野
 さてヨハネに神の言葉が降ったのは荒れ野においてでした。1章の終わりの80節に、ヨハネ誕生の物語の締めくくりとして「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」とありました。その荒れ野にいるヨハネに神の言葉が降ったわけですが、なぜ荒れ野なのでしょうか。それは、4節以下に語られている預言者イザヤの言葉がこのヨハネにおいて実現するためです。4~6節は、本日共に読まれた旧約聖書、イザヤ書第40章の3~5節の引用です。ただし私たちが読んでいる旧約聖書とはいろいろと違うところがあります。それは、ここに引用されているのは紀元前にギリシャ語に訳された旧約聖書、いわゆる七十人訳だからです。その違いによって、ここでは「荒れ野で叫ぶ者の声」とあるのが、私たちの旧約聖書では「荒れ野に道を備えよ、と呼びかける声」だったりするのです。しかしその違いは大した問題ではありません。ヨハネは、荒れ野において、この荒れ野に主の道を整えよ、と叫ぶ声として登場したのです。彼に降った神の言葉とは、荒れ野に主の道を整えよという命令だったのです。
 荒れ野に道を整えることが、5節では「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり」と言われています。つまり荒れ野とは、山や谷があり、それゆえに道は曲がりくねり、でこぼこであるような所です。その山を削り谷を埋め、曲がった道をまっすぐにし、でこぼこを平らに鋪装するのです。そのようにして整えられるのは「主の道」です。その主とは救い主イエス・キリストです。ヨハネは、主イエスの道を整えるために立てられ、遣わされたのです。このことは裏返して言えば、救い主イエス・キリストのための道がまだ整っていないということです。神様の独り子であられるイエス・キリストがお生まれになり、いよいよその活動が始まろうとしているのに、人々の間にそのための備えが出来ていない、人々の心は荒れ野のように荒廃しており、主イエスによって実現されようとしている神様の救いを受け止める準備が出来ていないのです。「荒れ野」はこの人々の心の有り様を象徴している言葉です。そしてそれは、この当時のユダヤの人々がそうだった、というだけの話ではありません。二千年後の現代を生きる私たちにおいてもそれは同じだと言わなければならないでしょう。私たちの心も、荒れ野のような状態にあるのです。そのことは、最近の世相を嘆き、世の中どこかおかしいと、自分のことを棚に上げて批判できるようなことではありません。世の中の荒廃は私たち自身の心から始まっていると言うべきです。私たち自身の中に、不安があり、つまり平安が失われており、不平不満や妬みがあり、人を恨む憎しみの心、人との関わりを恐れ自分の殻の中に閉じこもろうとする心があるのです。自分自身の心の中に、荒れ野を持っているのが私たちです。そういう人間が集まって作っている社会だから、社会全体が荒れ野のように荒廃していくのだし、その勢いが止まらないのです。神様はそのような私たちのために、その独り子イエス・キリストを、救い主として遣わして下さいました。その救いにあずかるには、私たちの心の荒れ野に、主の道が整えられなければならないのです。

罪の赦し
 ヨハネは、荒れ野にその道を整えるために何をしたのでしょうか。それは3節に語られています。「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。この「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」ことが、荒れ野に主の道を整えることだったのです。彼は人々に洗礼、バプテスマを授けました。それゆえに洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれたのです。洗礼は全身をどっぷりと水に浸すという儀式です。「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って」とあるのは、ヨルダン川でその儀式が行われたということです。彼が授けていた洗礼は、「罪の赦しを得させる悔い改め」を意味するものでした。洗礼の目的は罪の赦しを得ることです。罪の赦しこそが、荒れ野のように荒廃している私たちの心に与えられる救いなのです。つまり私たちの心が荒れ野のようになってしまっていることの原因は、私たちの罪にあるのです。その罪というのは、こんな間違いをしでかした、あんな悪いことをしてしまった、という個々の悪行のことではありません。勿論それらのことも罪ですが、ここで問題となっているのは、それら全ての根源にある事柄です。それは、私たちの心が、神様から離れ、そっぽを向いてしまっていることです。神様に背を向けて歩んでいる。それが人間の罪です。神様に背を向けている私たちは何を見つめているのか、それは自分自身です。自分の思い、願い、欲望を見つめ、それをいかに実現するかを第一に考え、そのためにあくせくしているのです。そのように自分を見つめて歩む時に、必ず視野に入ってくるのが他の人々のことです。それは愛する対象としてではなくて、あの人と自分はどちらがより幸せか、恵まれているか、と比較をするためです。そして自分の方が恵まれていると思えば安心し、優越感を覚え、その思いの中で、恵まれない人を愛するやさしい気持ちになることもできます。しかし逆にあの人の方が恵まれている、よい目にあっていると思うと妬ましくなり、そうなると愛することなどできなくなり、むしろ意地悪な思い、憎しみが生まれるのです。私たちの感情は、この両者の間をいつも行ったり来たりしているのではないでしょうか。そこに、荒れ野のように荒廃した、殺伐とした心の有り様があるのです。その根源は、神様に背を向けて自分自身のことばかりを見つめていることにあります。それが聖書の言うところの人間の罪です。その罪が赦されることこそが、荒れ野から抜け出す唯一の道なのです。

悔い改め
 その罪の赦しを得させるのは悔い改めです。悔い改めによってどのようにして罪の赦しが得られるのでしょうか。私たちは普通、悔い改めるというのは、自分の犯した罪を後悔して、再び同じ過ちを繰り返さないように決心することだと思っています。しかしそれは、先ほど申しました個々の悪行についてのことです。問題は、それらの根源にある罪、神様に背を向けていることです。悔い改めは、この根源的な罪に関わることです。それは単なる後悔ではなくて、神様の方に向き変わることです。神様に背を向けている私たちが、180度向きを変えて、神様の方を向く、神様に顔をしっかり向けることです。この方向転換こそが悔い改めなのです。あるいはそれは、神様のもとを飛び出して好き勝手な生き方をしている放蕩息子である私たちが、父である神様のもとに立ち帰ることであると言うこともできます。旧約聖書においては、悔い改めを意味する言葉は「帰る」という言葉なのです。それは勿論神様のもとに帰ることです。神様のもとに立ち帰り、神様にしっかり顔を向けて生きる者となることが悔い改めなのです。それによって罪の赦しを得ることができます。それは、私たちが悔い改めることによって罪を帳消しにできるということではありません。罪を赦して下さるのは神様です。背を向けていた私たちが向きを変えて神様の方に顔を向ける時、神様はその私たちに恵みのみ顔を向けて下さるのです。放蕩息子が帰ってきた時、父は彼を赦して愛する息子として迎え入れてくれるのです。そのように罪の赦しはあくまでも神様が恵みによって与えて下さることです。ですから悔い改めが罪の赦しを得させるのではありません。「得させる」という言葉は原文にはないのであって、直訳すれば、「罪の赦しへの悔い改め」です。「罪の赦しに至らせる悔い改め」と言ってもよいでしょう。悔い改めて神様に立ち帰る私たちに、神様の恵みによって罪の赦しが与えられるのです。ヨハネはこのことの印として洗礼を授けていたのです。

蝮の子らよ
 7節以下には、その洗礼を授けてもらおうとして来た人々に対してヨハネが語った大変厳しい言葉が記されています。彼は人々に、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と語ったのです。罪の赦しに至らせる洗礼を授けているのに、このようにお前たちは神の怒りを免れることができないと言うのはおかしなことのように思われます。ここでヨハネが言っているのは一つには、洗礼という儀式を受けさえすればそれで罪が赦され、神の怒りを免れることができる、という安易な考えを抱くな、ということでしょう。もう一つは、8節にあるように、「我々の父はアブラハムだ」と思っているユダヤ人に対する警告です。自分たちはアブラハムの子孫であるイスラエルの民、神の民なのだから神の怒りを受けることはない、と高をくくり、悔い改めようとしない人々がいたのです。しかしそれは全く逆です。神様の民であるからこそ、その神様に背を向け、立ち帰ろうとしないなら、神はその人々を斧で切り倒し、火に投げ込むのです。このようにこの7節以下には、悔い改めの必要を認めず、神様の方に向き変わろうとしない人々、自分の罪の問題を真剣に受け止めようとしない人々に対する警告が語られています。この警告は、私たちに、神様に背を向けて自分自身のことばかりを見つめて生きていることが罪であり、その罪によって、自分の心の中にも、また周囲にも、荒れ野が生じていることを深刻な問題として受け止めさせ、心の向きを、人生の方向性を変えて神様のもとに立ち帰るべきことを強く勧めるために語られています。この勧めこそ、ヨハネが主イエス・キリストのために整えようとしている主の道なのです。この勧めが、つまり悔い改めへの促しの声が、荒れ野のようなこの世に、また荒れ野のような私たちの心に響くことによって、荒れ野に主の道が整えられていくのです。その道が整えられるところに、主イエス・キリストによる救いのみ業が、具体的には十字架の死による罪の赦しの恵みが、実現していくのです。
 ヨハネの教えは私たちに、主イエス・キリストの救いの恵みにあずかるためには悔い改めが必要であることを教えています。それは言い換えれば、自分の罪を見つめ、認めることが必要だということです。私たちは、自分の心に荒れ野があることは意識しています。平安を失い、愛を失い、妬みや憎しみに捕えられ、人との良い関係を築いていくことができず、むしろそれを破壊してしまうことが多いことを嘆いています。しかしその根源に、神様に背き逆らっている罪があることにはなかなか気付きません。神様から離れていることがそれらの苦しみの原因であり、本当の解決は、神様のもとに立ち帰り、罪の赦しをいただくことであることがなかなか分からないのです。しかし、私たちが抱えている問題、荒れ野を歩む苦しみの源は私たちの罪です。私たちはそのことを、神様から降るみ言葉によってはっきりと指摘されなければならないのです。「蝮の子らよ」と呼ばれなければならないのです。それに対して、「蝮の子とは何だ」と反発している間は、「我々の父はアブラハムだ」と言っているユダヤ人たちと同じように、イエス・キリストによる救いにあずかることはできません。しかし、この厳しい言葉を受けて、10節で群衆が語ったように、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と問うていくならば、そこに、罪の赦しへと至らせる悔い改めの道が開かれていくのです。主イエス・キリストによる救いにあずかる主の道が、私たちの荒れ野に切り開かれていくのです。

悔い改めの道
 「わたしたちはどうすればよいのですか」という人々の問いに対してヨハネが語った教えが11節以下に語られています。罪の赦しへと至らせる悔い改めの道を歩むとはどういうことかがそこに示されているのです。その教えについては次回に見ていきたいと思いますが、少しだけ先に述べておきますと、ここに語られていくのは非常に身近な、具体的なことです。罪の赦しへと至らせる悔い改めの道を歩むとは、現実離れした理想を掲げて生きることではなくて、私たちの身近な、具体的な生活から始まるのです。日々の生活において、自分のことばかりを見つめていた目を神様の方に向け直して、神様を見つめながら歩むところに、罪の赦しへと至らせる悔い改めの道があるのです。  しかもこの道は私たちが何もない所に切り開いていくのではありません。神様ご自身が、独り子イエス・キリストによって、既に山を崩し、谷を埋め、曲がった道をまっすぐにし、でこぼこを平らにして下さったのです。主イエスが歩まれたご生涯、十字架の苦しみと死に至る歩みは、主イエスご自身が、私たちの罪の荒れ野に、主の道を、救いの道を切り開いて下さった歩みです。その道は父なる神様が主イエスを復活させて下さったことによって、罪と死に対する勝利、永遠の命へとつながっています。私たちは、主イエスが切り開いて下さったこの道を通って、悔い改めることができるのです。私たちはなお荒れ野のような者であり、私たちが歩んでいくこの世界も荒れ野ですが、その荒れ野に、主イエス・キリストの十字架と復活とによって、一筋のまっすぐな道が既に開かれています。私たちは主イエスによる神様の救いの恵みにささえられ、導かれて、罪の赦しへと至らせる悔い改めの道を歩んでいくことができるのです。

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