夕礼拝

主にお会いした

「主にお会いした」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第32編1-11節
・ 新約聖書:使徒言行録 第21章37節-22章21節
・ 讃美歌:22、481

<これまでのいきさつ>
 主イエス・キリストの救いを宣べ伝えている伝道者パウロは、前回の聖書箇所のところで、ユダヤ人たちの中心地であるエルサレムへやってきました。エルサレムの教会に、異邦人の教会からの献金を届けるためです。この旅は命がけでした。なぜなら、主イエスを救い主と信じることが出来ないユダヤ人たちは、パウロが語っていることが気に入らず、何とかパウロを殺そうとしていたからです。

 パウロが人々に宣べ伝えていたことは、十字架に架けられて死んだナザレのイエスが、旧約聖書の時代から、ユダヤの人々、つまりイスラエルの民に、神が約束されていた救い主であるということ。そしてこの方は、神によって死者の中から復活し、天に上げられた。このイエス・キリストを信じる者は、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく、神の恵みによって救われる、ということです。
 これまで神に選ばれた民として、割礼を受け、律法を厳格に守り、誇りを持って来たユダヤ人です。彼らは、救いに与るのは選ばれた自分たちだけであり、異邦人などは救われないと考えてきました。また、いつか来られる約束の救い主は、この世において自分たちのイスラエル王国をもう一度立て直してくれる、輝かしい王様である、という風に思い描いてきました。
 それが、パウロは、みすぼらしい姿で、十字架という恥と苦しみに満ちた刑で死んだ、あのナザレのイエスが救い主である。しかもそのイエスは復活し、ユダヤ人でなくても、このイエスを信じるだけで救われる、というのです。それはとても受け入れがたいものでした。また、自分たちと同じユダヤ人なのにそんなことを述べ伝えているパウロは、彼らにとって裏切り者でしかなかったのです。

 そのような中、前回お読みした21:27以下の所では、ユダヤ人が、エルサレムの神殿にやってきたパウロを見つけて、人々を扇動して大騒動を起こしました。パウロが異邦人を神殿の中に入れたと誤解して騒ぎ立て、パウロを殺そうとしたのです。そこで、その騒ぎを知ったローマ兵が駆けつけ、パウロを捕え、鎖で縛りました。しかしあまりに人々が叫んだり、騒ぎ立てたりして、この騒ぎの真相を確かめることが出来ないので、ローマの千人隊長はパウロを兵営に連れて行こうとしたのでした。

 パウロは千人隊長に発言の許可を求め、ユダヤ人たちに対して弁明をしたいと申し出ました。それで22章からのパウロの話が始まったのです。ここでは、もはや騒ぎの発端であった「神殿に異邦人を入れたかどうか」ということは問題になっていません。ユダヤ人たちから裏切り者として敵視されているパウロは、自分がどうしてキリストを信じ、宣べ伝える者となったのかを伝えようとしているのです。
 使徒言行録9章でもパウロの回心の出来事が書かれていましたが、ここはパウロ自身がユダヤ人に対して弁明として自分のことを語っている、という点で特徴的です。

<この道>
 パウロはまず自己紹介をします。3節に「キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です」とありますが、パウロはユダヤ本国ではない、異邦の地で生まれたユダヤ人です。そこではギリシャ語が共通語でした。ですからパウロは、37節にあるように、ローマの千人隊長にはギリシャ語で話しかけることが出来ました。
 しかしまた、「この都」、つまりエルサレムで育ち、ガマリエルから厳しい律法の教育を受けたと言っています。パウロはユダヤ教の律法に関する高等教育を受けた超エリートなのです。それで、ヘブライ語にも堪能でした。だから、ユダヤ人たちにはヘブライ語で語りかけることが出来たのです。

 そしてパウロは「今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」と言います。今まさに、ユダヤの人々が、キリストの福音を受け入れられずに、パウロを何とか殺そうとしているのと全く同じように、かつてのパウロも、ユダヤ人として律法を重んじ、神に熱心であるがゆえに、キリスト者を迫害していたのです。ですからパウロは、今自分を迫害しているユダヤ人の立場や思いが、痛いほどに分かります。
 4節で「わたしはこの道を迫害し…」と言っています。「この道」とは、主イエス・キリストを信じる道のことです。パウロはかつて、「この道」を歩んでいる者たちを迫害し、縛り上げ、殺すこともしました。ところが、「この道」を迫害していたパウロが、今や迫害されても「この道」を歩む者になったのです。
 その理由が、次の6節以下に語られていきます。

<主イエスとの出会い>
 パウロは、キリスト者を迫害しに向かう道の途上で、真昼ごろ、突然、天からの強い光に照らされ、地面に倒れました。そしてパウロに向かって語りかける、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。サウルとは、パウロのヘブライ語の名前です。パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と答えがありました。

 この「地面に倒れる」の「倒れる」という言葉は、「崩壊する」とか「無効になる」という意味もあります。また使徒言行録の5章で、神への献げ物をごまかしたアナニアとサフィラが「倒れて息が絶えた」とあったのと同じ、死と結びつくような「倒れる」という言葉です。ここでパウロは、天からの光に倒されて、自分自身が打ち砕かれてしまった。パウロ自身が崩壊し、倒れて息絶えるほどのことが起こったのです。

 光の中でパウロは、十字架の死から復活し、今も生きて天におられ、すべてを支配しておられる主イエスに語りかけられました。主イエスご自身が、「わたしは」「あなたが」と呼ぶような、一対一の関係で、パウロに向かって来られたのです。
 その復活の主イエスが「なぜわたしを迫害するのか」と言われます。その時パウロは、神の御子主イエスの前で、神のためにと思って熱心にしていたことが、すべて神の思いに逆らうものであったこと。罪を重ねることだったのだと知りました。パウロのこれまでの行動も、正しいと信じていたことも、考えも、誇りも、熱意も、自分自身を築き、支えていたものが、主イエスの光の中で、何もかも倒れ、崩れてしまったのです。パウロはどうしようもなく、しかし、このままではおれず、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と尋ねました。

 そのパウロに、主イエスは「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる。」と言われました。この「立ち上がって」という言葉は、他の聖書箇所においては、「復活する」と訳されることもある言葉です。
 まさに、復活の主イエスと出会うことは、罪の中にある自分が神の御前で打ち倒され、自分の罪のために死んで下さった、主イエスの十字架の死にあずかって共に死ぬこと。しかしまた、主イエスの復活の命を受けて立ち上がらされ、新しく生きはじめることなのです。
 主イエスは「立ち上がって行け」とお命じになります。わたしの十字架の死による罪の赦しを受け、罪と死の中から立ち上がり、わたしと共に歩む道を行け。「この道」を行け。主イエスは、神に逆らい続けたパウロに、そのようにお命じになって下さるのです。

<しなければならないこと>
 光の輝きのために目が見えなくなったパウロは、ダマスコという所まで手を引かれて行き、そこでアナニアという主イエスの弟子に出会いました。ここでは、アナニアは律法に従って生活する信仰深い人であり、ユダヤ人の中でも評判が良かったことが強調されています。それは、律法に熱心なユダヤ人たちに、主イエスの救いが、律法に反することではなく、むしろ彼らが信じる神の御心として受け入れられるべきことである、と訴えるためです。

 アナニアは、「兄弟サウル、元通り見えるようになりなさい」と言いました。この「見えるようになりなさい」というのは、単なる視力回復だけのことではないでしょう。もとのギリシャ語の文章には、「元通り」という意味の言葉は書かれていません。
 またこの「見える」と言う言葉は、厳密には「見上げる」「目を上げる」という意味です。ここでアナニアは「兄弟サウル、目を上げて見なさい」と言っているのです。目を上げるとは、天を仰ぐことであり、神を見つめるということです。自分の正しさや思いではなく、神の正しさ、神の御心を見るということです。その神の正しさ、神の御心とは、主イエスの十字架によってパウロの罪を赦し、また復活の主イエスの永遠の命を与え、パウロが神と共に生きる者となることです。またその主イエスの救いに、すべての民が、全世界の人々が、与るということです。そうして、主イエスが再び来られる終わりの日に、神のご支配が完成するということです。神を見上げ、その、神の御心、神のご計画を見るのです。
 パウロは見えるようになりました。視力が回復し、また、神を見上げる、信仰の目が開かれたのです。

 アナニアは、言いました。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。」
 パウロがユダヤ人として信じ、仕えてきた、先祖の神、イスラエルの神、この方が、パウロを選び、また「あの正しい方」つまり、主イエス・キリストに会わせて下さったのです。主イエス・キリストは、突然パッと出てきた救い主ではありません。天の父なる神が、イスラエルの民を選び、そのユダヤ人の長い歴史に働きかけて来られ、民を導き、約束し、計画し、その救いの成就として、約束の実現として、主イエスが来られたのです。
 ですから、主イエスを、神が遣わされた救い主と信じること、また、すべての民にその救いが与えられるということは、決してユダヤ人が信じてきたことを裏切る教えなのではありません。むしろユダヤ人が、すべての民を救う、神のご計画のために選ばれ、用いられてきたということであり、いよいよそのご計画が実現した、ということなのです。

 パウロは、アナニアを通してこの神の御心を教えられ、また同時に使命を与えられました。それは、この神の救いの出来事の証人となることです。パウロ自身が出会った、罪を赦し、新しい命に生かして下さる復活の主イエスを、証言することです。
 そして、パウロはアナニアに「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」と言われ、主イエスの名によって洗礼を受け、復活の主イエスと一つに結ばれ、罪の赦しと、永遠の命に与ったのです。主イエスと共に生きる「この道」を行く者となったのです。

<最も良い道>
 さて17節で、パウロはそのようにしてキリスト者になった後にも、エルサレムの神殿で祈っていた、と言います。パウロは、他のユダヤ人たちが思っているように、これまでユダヤ人が大切にしてきたことを、決して冒涜したり、蔑ろにしたのではないのです。
 キリストを信じるということは、これまでのユダヤ教の教え、旧約聖書を、否定するとか、捨て去るということではありません。先ほどアナニアが教えたように、むしろ、その旧約聖書における神と神の民との約束の土台の上に、その約束の実現として、御子である主イエスが、救い主として遣わされました。
 その神の新しい約束を受け止めるなら、キリストを信じる者は、これまでのユダヤ人の習慣や、律法にもはや縛られる必要はないと同時に、律法を禁止したり蔑ろにすることもありません。

 さて、パウロは祈りの中で、再び主イエスにお会いし、話しかけられました。
 主イエスは「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々は受け入れないからである」と言われました。
 パウロは、このことに反論します。「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」
 すると、主イエスは「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」と言われました。

 この会話は、一見かみ合っていないように思えます。主イエスは、「パウロが語る主イエスの証しをユダヤ人たちは受け入れないから、エルサレムから出て行きなさい」と仰っています。これに対し、パウロは「自分がキリストの迫害者であった」ということを言うのです。
 これはおそらく、熱心にキリストを迫害していたパウロのことをユダヤ人たちは皆知っている。そのパウロが、今やキリストを信じる者となったのだから、仲間のユダヤ人たちに対して説得力があるはずだ、ということでしょう。パウロは、自分は仲間のユダヤ人に対してキリストを証しする方が向いている、効果がある、と考えたのだと思うのです。
 しかし、主イエスはパウロを「異邦人のために遣わす」と仰いました。主の思いは、パウロの思いとは異なったのです。しかし、パウロは、以前のように、自分の正しさや自分の思い、自分の熱心さに従って歩もうとはしませんでした。パウロは主イエスに従って、異邦人のところへ行くのです。
 パウロは、「この道」、つまり主イエスと共に歩む道を歩き始めています。パウロは自分の思いや、考えではなく、神の思いを見つめ、主イエスの声に聞き従っていく者となったのです。

 救われるのは選ばれた神の民だけではなく、すべての民に救いが及ぶのだ、という神の御心が、旧約聖書に預言されています。また、復活の主イエスご自身が「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じておられます。そして、使徒言行録の15:8では、ペトロが「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです」と報告しました。ペンテコステの時に約束の聖霊が弟子たちに降ったのと同じように、主イエスの福音を受け入れた異邦人にも聖霊が降ったのです。それが、神が異邦人をも受け入れられた証しです。律法を守ることで救われるのではなく、ユダヤ人とか、異邦人とかの分け隔てなく、主イエスを救い主と信じる信仰によって、救われるのです。

 その神の御心に従い、パウロが異邦人のために遣わされた結果、どうなったでしょうか。ヘブライ語もギリシャ語も堪能で、異邦人の国で生まれながら、しかしユダヤの律法や旧約聖書にも通じているパウロは、主イエス・キリストの救いの実現によって、ユダヤ人が歩んで来た神の民の歴史に、異邦人が加えられていく、新しい神の民が世界中から集められていく、その神のご計画のために、豊かに用いられていきました。また、パウロだからこそ、エルサレム教会と異邦人の教会を、キリストにあって一つに結ぼうとする、その働きを担うことが出来ました。さらにこの後、ローマ帝国が支配するキリキア州で生まれ、生まれつきローマ市民権を持っているパウロだからこそ、ローマで伝道する道が開けていくのです。
 一方で、パウロが始めに考えたユダヤ人への伝道は、現状が示しているように、同胞から反発を受け、困難を極め、決してパウロの思い通りに行くものではなかったことが分かります。
 神のご計画は、いつも人の思いを大きく超えています。パウロが自分自身を知っている以上に、神は、ご自身がパウロにお与えになった賜物をよくご存知なのです。

 そのようにして、主イエスが出会って下さり、共に歩んで下さる道は、神が備えて下さる最も祝福された良い道です。
 それは、パウロにとって、この世での幸せだとか、不自由がないとか、安定しているとか、そのような意味ではありません。パウロはむしろ、キリストと共に歩む「この道」で、多くの迫害を受け、悩みを抱え、人の目から見れば以前よりも困難で不幸な歩みをしているようにしか見えません。
 しかし、これは神が喜ばれる道、神の愛と慈しみに満ちた、救いのご計画に従う道です。それはパウロにとっても、主イエスに人生の根底を、自分の存在の全てを支えられ、この世の何からも得ることができない、まことの喜びと平安に満たされている道なのです。罪を赦され、新しくされ、天におられる復活の主イエスが、いつも共に歩んで下さる道。そして、神の御心を悟り、神の国の完成という恵みのご計画を、神と共に見つめて歩む道です。
 それが、主イエスと出会うということであり、「この道」を歩むということです。パウロは、この道に、あなたたちも招かれているのだと、この道こそが、神の御心に従う道なのだと、ユダヤ人の同胞たちに証しをしたのです。

<わたしたちもこの道を歩む>
 本日の詩編32:8に「わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」とあり、10節以下に「神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、主によって喜び踊れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」とあります。
 わたしたちがまことに行くべき道、歩むべき道は、神と共に歩む道です。主イエスの救いにあずかり、神に信頼し、慈しみに囲まれて歩む道。神が見つめておられるご計画、神の国の完成を、わたしもたちも目を上げて神と共に見つめ、従い、用いられていく道です。

 主イエスは、わたしたち一人一人を選び、一人一人のところに来て下さり、出会い、「わたし」「あなた」と呼びかける関係を持って下さいます。神に逆らい、自分の思いに捕らわれて、神の御顔を見ることが出来なくなっている者を、福音の光で照らし、打ち倒されます。そして、ご自分の十字架の死によって罪を赦して下さり、「立ち上がり、目を上げて見なさい」と言って下さいます。新しい命を与え、神を見上げ、神の御心を見つめて生きる道、神の慈しみに囲まれ、主イエスと共に歩む、「この道」を歩ませて下さるのです。
 今も、主イエスはわたしたちと出会って下さり、語りかけておられます。立ち上がり、目を上げて、この道を歩みましょう。そして、わたしたちも「主にお会いしたのです」と、証しする者として、遣わされていくのです。

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