夕礼拝

最後に起こる一切の事

「最後に起こる一切の事」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ダニエル書 第7章11-14節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第13章14-27節
・ 讃美歌 ; 50、579

 
終末の徴
 主イエスはご自身が十字架につけられる直前、世の終わりの時にはどのようなことが起こるのか を尋ねる弟子たちの質問にお答えになりました。マルコによる福音書第13章は小黙示録と言わ れていますが、主イエスが語った終末についての教えが記されています。前回お読みした1節~ 13節で主イエスは、様々な苦難が起こるということを見つめています。6節では、キリストの 名を名乗って人々を惑わす者が現れると言われています。8節では、民や国が敵対し合ったり、 自然災害に襲われるとあります。12節には、兄弟間、親子間で殺人が起こると言われています。 しかし、主イエスは、それらは世の終わりではなく、「産みの苦しみの始まり」であるというのです。 主イエスは、ここでこれから起こることを予告しているのではありません。わたしたち人間が世を生き る時、いつの時代であっても直面する苦しみを見つめているのです。わたしたちも周りでも、民や国が 敵対し合う現実があり、自然災害があり、親子間での争いがあるのです。そのような苦難は、時に「こ れは世の終わりではないだろうか」という思いを抱かせることがあります。主イエスは、そのような人 々が終わりの徴と思いたくなるような事態を上げた上で、そのような時にこそ、自分のことに気をつけ て最後まで耐え忍ぶように、御言葉に立ち続けるようにと仰ったのです。弟子たちは終わりの時を自分 たちで把握しようとして、その徴を尋ねました。主イエスはそれに対して、忍耐して常に終わりを待ち 望むという信仰者の姿勢をお教えになるのです。

憎むべき支配者
 それに続けて、本日お読みした箇所には、14節では、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立 つのを見たら-読者は悟れ-」と言われています。様々な苦難が語られ、それらは世の終わりではない と言われた後に、更に付け加えるようにして憎むべき支配者が立ってはならない所に立つと語られるので す。そして、そのような事態でこそ悟れと言うのです。これはどのような事態なのでしょうか。この時の ことについて、旧約聖書の黙示文学であるダニエル書の、第11章31節には次のような記述があります。 「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすもの を立てる」。ここで、人間の支配者によって聖なる所、すなわち神の立つべき所が汚されると言われてい ます。人間にすぎない者が神が立つべき所に立つというのです。その支配者は、真の神を主とする信仰を 持って歩む者にとっては、「憎むべき支配者」でしかありません。そのような時には本来礼拝を捧げるべ き真の神を礼拝することも出来なくなるでしょう。そこでなされる抵抗は、すべて神に対する冒涜として、 退けられます。主イエスは様々な困難な事態をお語りになってきましたが、主なる神を信じて歩む信仰者 にとって一番の困難とは、神でないものが神の立つべき場所に立つということなのです。
 この箇所は、紀元前2世紀にイスラエルの民が置かれた具体的状況を踏まえて語られていると考えられて います。当時、ユダヤは、シリアの属国で、迫害に苦しんでいました。シリアのアンティオコス・エピファ ネスという王が、ギリシア的な宗教を強要し、エルサレム神殿にゼウスの像を立てさせていたのです。更に 律法に従った祭儀を禁止し、割礼を受けること等を許しませんでした。ユダヤ人の信仰の中心である、神殿と 律法が、異邦人達の手によって荒らされていたのです。この状況は、紀元前164年にマカバイオスのユダが率 いる軍勢が、エルサレム神殿を奪回し、神殿からギリシア的な神々の像を排除し、新しい祭壇を備えることに よって終わります。この経験は、ユダヤの人々に取って、苦い経験となったに違いありません。神の家である はずの神殿に、自分たちを支配する国の神の像が立てられるというのは、まさに、「憎むべき破壊者が立っては ならないところに立つ」という事態を象徴しています。

苦難の源泉
 主イエスは、様々な苦難を列挙して、それらはまだ終わりではないから忍耐しなさいと教えた上で、憎むべ き支配者が立った時には悟れとおっしゃいました。このことによって主イエスは、様々な苦難の根本にあるもの を見つめておられます。人間にすぎないものが神の場所に立つということで見つめられているように、信仰者が この世を歩む中で経験する様々な苦難の根本にあるのは、神が神とされなくなり、神の支配が人間の支配に取っ て代わられるということなのです。この事態は、何も、強権的な王が現れ神権政治を行って民の上に君臨すると いう事態や、軍事的に強大な国家に征服されて、その国の宗教を崇拝することを強いられるという状況の中での み問題になるのではありません。人間が神の立つべき位置に立つということは、わたしたちの信仰生活にも起こ ることです。例えば、わたしたちが、まるで自分が神になったかのように周囲の人々を裁くことに熱心になり、 そのような中で、いつの間にか、真の神の御支配に従うということから離れてしまうのであれば、わたしたち 自身が、神の立つべき場所に立ってしまうということもあるのです。それが罪に支配された人間の姿です。 そして、そのような罪にこそ、わたしたちが世で経験する苦しみの源があるのです。人間が罪に支配されて、 神を忘れ、神に成り代わるということから、信仰者にとっての様々な苦しみ、困難が生じるのです。

山に逃げる
 しかし、主イエスは、ここでそのような状況に対して、立ち向かって戦えとはお語りになりません。 14節の後半以下には次のようにあります。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上に いる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、 上着を取りに帰ってはならない」。当時、どの家にも屋上があり、そこで日常の様々な作業が行われていました。 屋上には直接、外と上り下り出来る階段があったようです。ここで、主イエスは、屋上から、家の中に戻るので はなく、すぐに外に逃げろというのです。物を取るために一端部屋の中に入ってはいけないというのです。苦難 に立ち向かうというどころか、一目散に逃げるようにと教えられているのです。更に続けて、「それらの日には、 身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい」とも言われています。 「身重の女」、「乳飲み子を持つ女」、というのは、本来であれば祝福された幸せな状況です。しかし、この苦難の 時には、幸いであると言うべきことも、一緒に逃げる苦労を考えれば不幸でしかないのです。その時のために、 人間が出来ることは、少しでも逃げやすいように、冬に起こらないように祈ることでしかないのです。19節には 「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからで ある」とあります。この苦難、試練が、どれ程のものなのかは示されていません。しかし、確かなことは、 20節にあるように、「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」ということです。 ここで言われているのは、この苦しみが、ある一定の期間以上であれば人間には耐えられないけれども、 ある一定期間以内であれば耐えられるということではありません。人間が、この苦難から救われることが出来ると すれば、それは主が働いて下さることによってのみであるのです。ここでの苦難とは人間が自分の力で立ち向かう ことでは決して耐えることが出来ない苦難なのです。

忍耐しつつ逃げる
ここでは、わたしたちが立ち向かうことが出来ない、逃げるしか術がない事態が見つめられています。その上で 「山に逃げなさい」と勧められているのです。しかし、これは、直前の13節で「最後まで耐え忍ぶ者は救われ る」と語られているのとは矛盾しているように感じられます。しかし、そうではありません。人間の罪による苦難 が襲う時に、そこから逃げるということには、わたしたちが信仰者として歩む時の大切な姿勢が示されています 。信仰生活の中での困難、苦しみにおいて逃げると言われると、わたしたちはどこかで抵抗を覚えるかもしれませ ん。しかし、はっきりと、信仰者が逃げなくては成らないと言われるのです。ここで「逃げる」とは、忍耐強く歩む ことを放棄することではありません。又、信仰を捨ててしまうということでもありません。終わりの苦難を前に逃げる というのは、苦難と戦うのは自分自身ではないということを認めるということです。そこで、自分に頼るのではなく、 真の救いを与えて下さる神に委ねるのです。それは、真の苦難、人間が神の立つべき場所に立とうとする罪によって 引き起こされる苦しみの前では人間は無力なのです。

自分の業ではなく
 信仰者が特に気を付けなくてはならないのは信仰における忍耐を自分の業にしてしまうということです。わたした ちは、忍耐する中で、あたかも、自分の力で耐え忍び、苦しみと戦っていると錯覚してしまい易い者です。忍耐す る時、自分の力で踏ん張っていると感じてしまうのです。しかし、最も苦しい困難、試練は、わたしたちの力をも って戦い勝利出来るものではないのです。様々な困難の中で、常に御言葉に立つことが大切です。しかし、そのこ とは、わたしたち人間の業ではないのです。直前の箇所では、苦難の中で、信仰者たちが御言葉を証することになる と言われていました。9節では「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのため に総督や王の前に立たされて、証をすることになる。」とあります。しかし、ここで大切なのは、困難の中で御言葉を 証するのは、わたしたちの業ではないということです。11節では「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうか と取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、 聖霊なのだ」。つまり、困難の中で御言葉を証する聖霊の御業が見つめられているのです。罪による苦難の中で働くの はわたしたちではなく聖霊なのです。聖霊の働きの中で、わたしたちは罪と戦い、御言葉に立って歩むのです。 逃げるというと抵抗を感じると語りました。しかし、そのように思う思いの背後には、どこかで、信仰の忍耐を人 間の業として捉えているわたしたちの傲慢があるのです。

聖霊に委ねて
 憎むべき支配者が神の立つべき場所に立ち、真の神の御支配が見失われるという中で歩むのは困難なことです。 そのような中では、信仰者が迫害されるということもあるでしょう。歴史を振り返れば、キリスト者であるために殉 教した人々も大勢います。わたしたちは、現在、そのようなあからさまな迫害の中にはありません。時に、わたした ちは信仰をもって歩む時、そのような事態になった場合に自分だったらどうするだろうかと考えることがあります。苦 難に直面して、自分は耐えるだろうか、逃げるだろうかということを考えることがあります。しかし、大切なのは、苦 難の中で、どのように歩むかは、その苦難の中で祈り求めることであり、その苦難の中で示されることなのです。もし、 わたしたちが、苦難の状況を想定して、その前では当然最後まで忍耐して苦難に耐えるものだと決めつけるのであれば、 どこかで、主に従っていることを自分の業にしようとしていると言わなければならないでしょう。わたしたちはどのよ うな時にも、今自分が置かれた状況の中で、本当に苦難を担って下さっているのは主であることを覚え、その主に委ねつつ歩むのです。

その期間を縮めて下さった
 主イエスは、20節で「しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」 と仰っています。「主が期間を縮めて下さった」「主が救いを与えて下さった」ということが見つめられているのです。 「御自分のものとして選んだ人たちのために」とあります。わたしたちが救いに与るのは、わたしたちが神さまを選び、 愛し、忍耐して従うからではなく、神様が恵によってわたしたちを選び信仰を与えて救いに与らせて下さるからなのです。 そのような恵による救いが示されているのです。そしてここで、主が縮めて下さらなければ救われないと語られた後、 すぐに、主はその期間を縮めて下さったと言われているように、このことが既に起こったこととして見つめられています。 この救いはわたしたちには、主イエス・キリストを通して示されています。第13章で世の終わりについて語り終えた後、 主イエスは、十字架に付けられる歩みが始まります。神の子として、エルサレムにやって来た主イエスを人々は十字架に付 けたのです。そこで、人々は、まるで自分たちが神にでもなったかのように、「神を冒涜した」と言う理由によって神の子 である主イエスを裁いたのです。それは「憎むべき支配者が立つべきでない所に立った」ということに他ならないでしょう。 神の立つべきところに立とうとする人間の罪が明らかになったのです。その時、主イエスの弟子たちは、その場を逃げていて、 誰一人主イエスと共にいませんでした。主イエスに従い続けることが出来なかったのです。しかし、主イエスは、そのような弟 子たちのためにも十字架に付けられたのです。主イエスは、お一人で、わたしたち人間が耐えることの出来ない苦難に耐えて 下さったのです。この主イエス・キリストの十字架と復活によって、わたしたちは、主がわたしたちの救いのために苦難にあっ て下さったのであり、わたしたちはそれに与って救いを与えられていると知らされるのです。わたしたちが、どうすることも 出来ないところで主イエスが苦難を耐えて下さっている。それ故に、わたしたちは終わりの日の救いを確かなものとされているのです。

選ばれた人たちを呼び集める
最後に起こることについて、わたしたちにはっきりとは示されていません。しかし、十字架で罪の苦しみを引き受けて下さっ た主イエス・キリストの救いの故に確かに示されていることが、26節以下に記されています。「そのとき、人の子が大いな る力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、 彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。ここで先ず覚えなくてはならないことは、キリストが再び来られるのを、 人々は見るということです。その時どのようなことが起こるか聖書は記していません。しかし、それは誰にでも分かる仕方で はっきりと見て分かるような形で起こるというのです。そのため、21節では、世の終わりと思えるような事態の中で、 「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや預言者が 現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」と言われているのです。 その時は、主の救いの完成が誰からも教えられることなく、はっきりと示されるのです。そして、更に、その時には、 選ばれた者たち、つまり、神様の恵によって救われた者たちが集められると言われています。選ばれた者を主が集めて 下さるのです。
 十字架を前に弟子たちは逃げてしまいました。しかし、苦難と戦い勝利して下さった主イエスが再び復活して弟子たち の前に現れて下さった時、主イエスのもとを逃げ去って、バラバラに散って行ってしまった弟子たちが再び主イエスのも とに集められたのです。そこから、弟子たちは御言葉に立つ歩みを新たに始めました。それと同じように真の救い主である キリストの下に集め、真の救いへと至らせて下さるのです。救いはわたしたちが獲得するものではありません。キリストに よって救いに与るものとされるのです。教会の礼拝も又、主が選び集めて下さった群れです。終わりの日にすべて選ばれた 民が集められ、共にキリストを讃える時の喜びを、わたしたちは、この礼拝で経験するのです。苦難の中にあっても、確か に主が選ばれた者たちを集めて下さる。そこから示される救いの恵に信頼し委ねる中で、わたしたちは忍耐強く待ち続けるのです。

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