夕礼拝

雲の柱、火の柱

「雲の柱、火の柱」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第13章1-22節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第5章6-8節
・ 讃美歌 : 120、467

エジプトからの解放
 イスラエルの民が、奴隷として苦しめられていたエジプトをついに脱出することができた。月に一度、旧約聖書出エジプト記からみ言葉に聞いていますが、今まさにその場面にさしかかっています。イスラエルの民の解放、脱出は、主なる神様が行なって下さった「過越」のみ業によって実現しました。先月ご一緒に読んだ第12章にそのことが語られていました。エジプト王ファラオが、イスラエルの民をなかなか去らせようとしないので、神様はエジプトに数々の災いを下されました。その十番目、最後の災いとして、エジプトの地の全ての初子を撃ち殺すという恐しいみ業が行われました。「初子」というのは、本日の箇所の2節にあるように「初めに胎を開くもの」、つまり最初に生まれた子供のことです。それらが全て殺されてしまったのです。12章29、30節にその様子がこのように語られていました。「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」。この災いによってついにファラオは屈服し、イスラエルの解放を認めたのです。この災いが行われた日、イスラエルの人々の家では、小羊が殺され、その血が家の戸口の鴨居と二本の柱に塗られました。その血が目印となって、全ての初子を撃ち殺す主の使いは、イスラエルの人々の家を通り過ぎ、何も災いを下しませんでした。イスラエルの民の初子は救われたのです。これが「過越」、つまり「通り過ぎる」という出来事です。つまり過越は、神様がエジプト人とイスラエルの民を区別して下さり、頑ななエジプト王ファラオを打ち破って、イスラエルの民に救いを、奴隷状態からの解放を与えて下さった、その救いの出来事なのです。

過越祭
 この救いの出来事が12章に語られていたわけですが、先月も指摘したように、この過越の出来事は、その出来事そのものが語られる前に、イスラエルの民において行われるべきある祭りについての命令として語られていました。つまり12章2節に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」と命じられており、そのあと、この正月の十日に家ごとに一匹の小羊を取り分け、それを十四日の夕暮れに屠り、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り、夜にはその小羊の肉を焼いて家族みんなで食べなさいという命令が語られています。それはイスラエルの民において毎年行われていくべき「過越祭」についての命令です。そこで犠牲として屠られる小羊のことを「過越の小羊」と言い、その肉を食べる食事を「過越の食事」と言います。過越祭についての規定は12章の43節以下にも語られていて、そこには、過越の小羊の骨を折ってはならないとか、割礼を受けている者しかその肉を食べてはならないなどとされています。この過越祭を行なうようにとの命令に挟まれる形で、エジプトの全ての初子が撃たれ、それによってイスラエルの解放が実現したという出来事が語られていたのです。
 このような語り方は本日の13章にも続いています。13章の1節から16節までに語られているのも、イスラエルの民が行うべき祭あるいは儀式についての規定です。1、2節には、イスラエルの民の初子をすべて神様にささげよ、という命令があり、11節以下にその儀式について詳しく語られています。また3~10節には過越祭と共に行われるもう一つの祭である除酵祭についての規定が語られています。12章に続いて13章も、イスラエルにおいて行われるべき祭について語っていると言えるのです。

除酵祭
 3節以下の除酵祭について先ず見ていきたいと思います。これについては、12章の15節以下に既に語られていました。過越の食事が行われる正月の十四日から七日間、酵母を入れないパンを食べるというのが除酵祭です。この七日間は、家から酵母を取り除くのです。それどころか、13章の7節によれば、この期間には「あなたの領土のどこにも酵母があってはならない」とすら言われています。この除酵祭の意味は、本日の3、4節の主の言葉に語られています。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。あなたたちはアビブの月のこの日に出発する」。つまりこれは、主なる神様によるエジプトからの解放、その出発を記念する祭なのです。酵母を入れないパンを食べることがなぜこの救いの記念になるのかについては、前回も申しましたが、12章の33、34節にこう語られています。「エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ」。また39節にもこうあります。「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」。主なる神様が行なって下さったあの過越の出来事によって、エジプトからの解放が突然決まり、急いで、追い出されるようにしてエジプトを出発した、そのことを覚え記念するために、除酵祭を行うのです。そして13章の5節にはこう語られています。「主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない」。つまりこの除酵祭は、イスラエルの民が、神様の約束の地、乳と蜜の流れる地カナンに入り、その地に定住するようになってからもずっと、毎年、「アビブの月」と呼ばれる正月に行なっていくべき祭なのです。

初子奉献
 さて次に、「初子」をささげる儀式について見ていきたいと思います。2節にその基本となる考え方が示されています。「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」。イスラエルの人々の間で生まれる初子はすべてわたしのものだ、だから、人間であれ家畜であれ、すべての初子をわたしにささげよ、と主なる神様はおっしゃっているのです。初子が全て主なる神様のものであるのは何故でしょうか。それは言うまでもなく、あの過越の出来事によることです。エジプトの全ての初子が、人間の初子も家畜の初子も撃ち殺された時、イスラエルの初子は、過越の小羊の血の印によって救われました。このことによって、イスラエルはエジプトの奴隷状態から救われ、解放されたのです。この過越の出来事は、神様がイスラエルの初子をエジプトの初子から区別して、その命を守って下さったということですが、それは、神様がイスラエルの初子をエジプトの初子から区別してご自分のものとなさった、ということでもあるのです。過越の出来事において、神様の民であるイスラエルの初子は神様のものとなったのです。他のものから区別されて神様のものとされることを「聖別される」と言います。イスラエルの初子は過越の出来事において神様によって聖別されたのです。先ほどの2節には「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」とありましたが、実は神様ご自身がイスラエルの初子を既に聖別してご自分のものとしておられるのです。ここで命じられていることは、そのことを認めて、自分たちの初子が神様のものであることを表明せよ、ということです。そしてそれは、初子だけの話ではありません。先月も申しましたが、聖書には、初子は「力の初め」であると語られています。初子が神様のものであるとは、自分たちの力の初めが神様のものであるということであり、それは、自分たちの力の全てが、つまりイスラエルの民全体が神様のものとされている、ということなのです。ですから「初子を聖別して神様にささげる」というのは、イスラエルの民全体が神様のものとされていることを表明する儀式なのです。エジプトの奴隷状態からの解放において与えられた救いの根本的な意味がここに示されています。主なる神様によって与えられる救いとは、私たちが苦しい思いをしている時に神様が助けて下さって苦しみを取り除いて下さるということが中心なのではなくて、私たちが神様のもの、神様の民とされる、ということが中心なのです。そのことは、この後、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さるということにおいてはっきりと示されていくのです。

初子を贖う
 さて11節以下には、初子を神様におささげする儀式のことが語られています。そこに先ず「主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない」とあります。つまりこれも、先ほどの除酵祭と同じく、カナンの地に入ってからもずっと続けられるべき儀式なのです。しかし、初子を神様におささげするとは具体的にはどうすることなのでしょうか。通常、神様におささげするものは、火で焼かれるのです。「焼き尽くす献げ物」という言葉が旧約聖書には繰り返し出てきます。動物などを殺して焼き尽くすことによって神様におささげするのです。家畜の初子も、そして人間の初子も、そのように殺して焼き尽くしてささげよ、と言われているのでしょうか。羊などの場合はその通りです。しかし「ろば」のような大きな家畜、そして人間の初子の場合にはそうではないということを語っているのが、ここに繰り返し出てくる「贖う」という言葉です。13節に、ろばの初子は小羊をもって贖うとあり、人間の初子のうち、男の子の場合はすべて贖わねばならない、とあります。この贖うというのは、買い戻す、という意味です。つまり神様のものとして聖別されている初子を、代償を払って買い戻すのです。具体的には、ろばの初子の代わりに小羊をささげ、人間の長男については、その子の贖いのための捧げものをするのです。そうすることによって、その子は両親のもとで、長男として育てられていくことができるのです。これが、イスラエルの民において、初子として男の子が生まれた時になされていった儀式です。ルカによる福音書第2章には、主イエスの誕生においても、母マリアの初子であったために、この贖いの儀式が行なわれたことが語られています。

祭儀の意味
 このように、主なる神様の過越のみ業によってエジプトの奴隷状態からの解放が実現した、その出来事が起源となって、過越祭、除酵祭、初子の奉献という祭や儀式がイスラエルの民のその後の歩みにおいて行われるようになったのです。そして先月から見ておりますように出エジプト記は、エジプト脱出の出来事を語る時に、その出来事に合わせて、いやむしろその出来事以上に力を込めて、これらの祭や儀式のことを語っています。このあたりを読んでいると、エジプト脱出の物語と言うよりも、イスラエルにおいて行われるべき祭や儀式についての規定という感じがします。出エジプト記がこのような語り方をしていることの意味を私たちはしっかりと読み取らなければなりません。その意味が、本日のところの8節に語られています。「あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と」。これは除酵祭についてのことですが、同じことが初子の奉献についても14、15節にこのように語られています。「将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである』」。これらの箇所に、このような祭また儀式を行うことの意味が語られています。つまりそれは、主なる神様がエジプトで奴隷とされていた自分たちを、過越のみ業によって解放し、救い出して下さったこと、またこのことにおいてイスラエルの初子を全てご自分のものとして聖別して下さり、つまりイスラエルの民全体をご自分の民として下さったのだということを、親から子へと、子々孫々語り伝え、覚え続け、主なる神様の民として生きていくためなのです。そのことは、9節と16節にも、ほぼ同じ言葉で語られています。9節「あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである」。イスラエルの人々はこのようにして、主なる神様によるエジプトからの解放、救いを覚え続けたのです。今でも、エルサレムのいわゆる「嘆きの壁」の前で、ユダヤ人の中でも保守的な信仰を守り続けている人々が、この言葉を文字通り実行して、額と腕に小さな黒い箱のようなものを着けて祈っている姿を見ることができます。イスラエルの民にとって、主の過越によるエジプトからの解放の出来事は、過去の歴史上の出来事ではなくて、現在の自分たちの歩み、生活の支え、土台なのです。それゆえに、これらの祭や儀式が、出来事そのものよりもむしろ大事に語られているのです。

救いの出来事の追体験
 別の言い方をすれば、これらの祭や儀式つまり祭儀は、過去の救いの出来事をただ忘れないで覚えておくため、というよりも、イスラエルの民はこれらの祭や儀式を守ることにおいて、先祖たちの、エジプトでの奴隷状態からの解放の恵みを自分たちの事柄として追体験していったのです。それが、聖書における祭儀、私たちにおいては今まさに行われている礼拝の意味です。礼拝において聖書が読まれ、その説き明かしがなされ、聖霊のお働きによってそこに主なる神様が臨んで下さることにおいて、私たちは、過去に行なわれた神様による救いのみ業についての知識を得るだけではなくて、それを自分たちのための事柄として追体験していくのです。イスラエルの人々はこれらの祭儀によって、主の過越によるエジプトからの解放という救いのみ業を追体験していきました。私たちは、その出エジプトの出来事が予告し、指し示している救いのみ業が、主なる神様の独り子イエス・キリストにおいて実現したことを知らされています。主イエスこそ、私たちの救いのために命を捨て、犠牲となって下さった過越の小羊です。この主イエスの十字架の死と、父なる神様による死者の中からの復活によって、罪と死の奴隷となっている私たちを解放し、神様の民として下さり、新しく生かして下さる神様の救いのみ業が実現したのです。私たちは毎週の主の日の礼拝において、この主イエス・キリストによる救いのみ業を自分自身のための出来事として追体験します。そしてこの救いのみ業に支えられて一週間を歩んでいくのです。過越祭と除酵祭においては、過越の小羊と酵母を入れないパンを食べるという食事が行われます。私たちの礼拝においてそれが受け継がれているのが聖餐です。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、私たちのために主イエス・キリストが十字架にかかり、肉を裂き血を流して罪の支配からの解放を成し遂げて下さった恵みを味わうのです。また本日共に読まれた新約聖書の箇所であるコリントの信徒への手紙一の5章6節以下には、聖餐のパンと、除酵祭における酵母つまりパン種を入れないパンとが重ね合わされて、罪という古いパン種を入れない純粋で真実のパンにあずかろうと語られています。聖餐は、私たちが主イエスの十字架による罪の赦しにあずかり、罪から解放され、主なる神様の民とされて新しく生きる、その歩みを養い支える純粋で真実のパンなのです。このパンをいただくことを含む礼拝において、私たちは主イエス・キリストによる救いを体全体で体験しつつ、その恵みに導かれて信仰の旅路を歩むのです。

雲の柱、火の柱
 出エジプト記13章17節以下には、エジプトを出たイスラエルの民の旅路を主なる神様が導き、その道を定められたことが語られています。エジプトから約束の地カナンに向かうためには、ペリシテ街道、つまり地中海沿岸の道が近道なのです。しかしその道を行くと、そこに住むペリシテ人との戦いがすぐに起ります。そうなるとイスラエルの民は、戦いを恐れて後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと神様は思われ、彼らを葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられたのです。このことは、神様がイスラエルの民の状況をよくわきまえて、彼らを相応しい道へと導いて下さったことを意味しています。イスラエルの民はこれまで何百年間、エジプトで奴隷として生きてきました。奴隷としての生活とは、命令されてそれに従うだけの生活です。自分で決断して行動し、結果の責任を自分で負うということを彼らはしてこなかったし、自分たちを脅かす敵と戦って自分たちの国を守るということもしてきませんでした。いわゆる奴隷根性がしみついてしまっているのです。そのような民がいきなり敵を目の前にしても、勇気をもって戦えるはずはありません。民のそういう弱さを主は配慮して下さって、敵に出会うことのない道へと導いて下さったのです。そしてその道において、彼らを神様の民として鍛え、整えていって下さるのです。そのことがこの後語られていくのです。本日の箇所においては、主がそのようにイスラエルの民の歩むべき道を示し、導いて下さったことが語られています。最後の21、22節もそのことを示しているのです。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」。昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、主が民を導いて下さったのです。この雲の柱、火の柱によって、イスラエルの民は進むべき方向を示されたのです。しかしこの雲の柱、火の柱は、単に進むべき方向を教える方向指示器ではありません。「主が彼らに先立って進み」とあります。つまりこの雲の柱、火の柱は、主なる神様がイスラエルの民と共にいて下さり、その先頭に立って導いて下さることの印なのです。イスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱を見つめることによって、主なる神様が共にいて下さることを体験し、それに支えられつつ歩んだのです。ということは、雲の柱、火の柱によって導かれたのはエジプトから脱出した人々だけではありません。後の時代のイスラエルの民も、祭や儀式を行うことによって主なる神様によるエジプトからの救いのみ業を自分のこととして追体験し、主なる神様が自分たちと共にいて下さることを体験し、それに支えられて歩んだのです。彼らもまた、雲の柱、火の柱による導きを体験していったと言うことができます。神様の民は、祭儀、礼拝において、神様が共にいて下さり、導いて下さることを体験しつつ歩むのです。私たちの礼拝においてもそれと同じ恵みが与えられます。私たちはこの礼拝において、主イエス・キリストの十字架と復活による神様の救いのみ業を自分自身のための出来事として追体験し、その主イエスが共にいて下さり、先頭に立って導いて下さることを体験していくのです。つまり私たちはこの礼拝において、昼は雲の柱によって導かれ、夜は火の柱によって照らされて、先頭に立って下さる主イエスに従って、信仰の旅路を歩んでいくのです。

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