主日礼拝

本国は天にあり

「本国は天にあり」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第32章15-20節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第3章17節-第4章1節
・ 讃美歌:152、528、579

<わたしに倣う者となりなさい>  
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」。   
 キリストの福音を宣べ伝えているパウロは、かつて自分が伝道したフィリピの地にある教会の人々に、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と言います。パウロに倣う。キリストの福音を宣べ伝え、迫害にも耐え忍び、牢獄に囚われている時にも「喜んでいる」と語るパウロです。   
 わたしたちは、どのようにパウロに倣えば良いのでしょうか。ここだけを読むと、とてもパウロのようにはなれない。わたしはそんなに立派な信仰者ではない。そのように思ってしまいます。   
 そしてまた一方で、「わたしに倣いなさい」などというパウロは、ちょっと自信家なんじゃないか。傲慢なんじゃないか。謙遜にへりくだりなさいと教えながら、「わたしのようになれ」というのはどういうことだろうか。そんな疑問を覚えるかも知れません。      

 しかし、ここの箇所は、以前の、3:2~16までのところと深く結びついているところです。ですから、これまでパウロが語ってきたことを受けて、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」ということを聞かなければなりません。   
 そして、わたしたちはどのようにパウロに倣うのか、一体何を見つめて、パウロのように伝道に励み、どのような時も喜び、希望を持って歩むことが出来るのかを、共に、今日の御言葉から聞いていきたいのです。      

 また、本日の礼拝は、午後から行われる教会全体修養会の開会礼拝として行われています。テーマは年間主題で、「聖霊を注がれ、新たにされて伝道する教会」であり、それと共に掲げられた年間聖句は本日読まれたイザヤ書の中の32:15です。この、今年度わたしたちの教会が目指していく伝道の歩みにも、このフィリピの箇所は深く関わってくると思いましたので、この主題も心に留めながら、本日の御言葉を味わっていきたいと思います。

<パウロの何に倣う?>   
 さて、パウロが、前回までのフィリピの信徒への手紙の中で語ってきたのは、神に義とされること、つまり、神との正しい関係を回復させられ、罪を赦され、永遠の命、復活にあずかるその救いは、自分の行いや、努力や、何らかの資格によって得るものではない、ということでした。3:9で、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と述べている通りです。救いは、ただキリストを信じる信仰によって、外から、神から、一方的に与えられるのです。      

 そして、パウロは、キリストに救われたからと言って、自分が既にすべての恵みを手にしているとか、完全な者になったのではない、ということを語りました。   
 パウロがこのように言うのは、教会の人々の中で、自分はすでにキリストの恵みの全てを得て、復活も手に入れているし、完全な者になった、と主張する人々がいたからです。   
 しかし、そうではありません。救いは終わりの日に、主イエスが再び来られる時に、神が完成させて下さるものです。そしてわたしたちの復活は、その終わりの日に約束されているものです。      

ですからパウロは、キリストを信じてスタートを切ったその信仰の歩みには、はっきりとした目標がある、と語りました。それは、将来、神が救いを完成させて下さり、キリストの復活に与らせて下さる、その確かな約束を目指して、神の国の完成を目標として歩むのです。それは、3:14にあるように「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」ということです。      

 キリストを信じる者は、キリストの十字架と復活のみ業によって、上へ、天へ召されています。そして、将来主イエスが再び来られて、神の国を完成させて下さるその時、神は賞を与えてくださるのだ、と言うのです。賞というのは、競技の勝利者が与えられる冠のことですが、ここで神が与えてくださる賞は、わたしたちが誰かと競って勝ったり、自分が優れていて良い成績を収めたからもらえる冠ではありません。   
 これは、「キリストによって上へ召して、お与えになる賞」、つまり、罪を贖い、死に打ち勝ち、復活して下さった、その主イエスの勝利の冠を、わたしたちが主イエスが再び来られる日に頂くことが出来る、ということなのです。      

 ですから、その目標を目指して、パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによってお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と語るのです。そのようにパウロが語ることが出来るのは、12節の最後にあるように「キリスト・イエスに捕えられているから」です。      

 パウロはかつて教会の迫害者であり、神に従って熱心に救いのために努力しているつもりで、実は神のみ心に背き、逆らって罪を犯していた者でした。しかし、主イエスが出会って下さり、そのパウロの罪を、ご自分の十字架の死によって赦して下さったのです。パウロはキリストによって、罪から解放され、その恵みの御手に捕えられ、新しくされて、神の国、復活の約束を信じて、目指して、走る者とされました。   
 ですから、パウロが「わたしに倣うものとなりなさい」という時、そこには、「わたしのように立派に、熱心になりなさい」というような意味は一切ありません。パウロは自分の熱心さや、持っているものや、世において誇れるようなものはみな、塵あくただと言っています。   
 パウロは、むしろ、このように罪にまみれ、神に逆らい、多くの人々を苦しめたわたしが、罪と死に捕えられていたわたしが、今や、キリストに捕らえられ、罪を赦され、キリストによって立たされているのを見なさい。キリストがいなければ生きられない、弱くてキリストに頼り切っている、このようなわたしに倣いなさい、と言っているのです。ただキリストだけを頼り、キリストだけを誇りなさい、ということです。   
 そして、「皆一緒に」と、皆、このようにキリストに捕らえられ、キリストの十字架の死によって罪から解放され、新しい命を与えられ、生かされているのだから、自分の力に頼ったり、自分が完全な者だなどと誇ってはいけない。ただ、ひたすらキリストに依り頼み、キリストに支えられて、終わりの日に与えられる救いの完成、復活を待ち望んで、皆一緒に歩んでいこう、その目標を目指して、共に、ひたすら走っていこう、ということなのです。   

<十字架の敵対者>   
 そして、パウロは18節で改めて、キリストの十字架に依り頼もうとしない、自分が完全な者で、すでに復活も恵みも、全てを手に入れている、と主張する者たちのことに触れます。   
 パウロは涙ながらに語ります。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。      

 パウロが十字架に敵対していると言っている人たちは、自分たちが割礼を受けていることや、律法を守っていることも救いの要件だと主張していました。そしてそれらを満たしている自分たちは、すでに完全な者になっており、復活も既に得ていると主張していました。   
 しかし、それでは主イエスの十字架の救いは、人の業や行いがなければ、不完全なものなのでしょうか。割礼も必要、律法を守ることも必要、となるなら、主イエスの十字架だけでは、罪は贖いきれなかったのでしょうか。   
 そうではありません。パウロがずっと彼らに反対してきたのは、彼らのそのような主張は、主イエスの十字架の恵みを無にすることになるからです。罪人である人間の業は、どれだけ、何をしようとも、救いのために役立つことは出来ません。それは、神の御子が、まことの人となって、死ななければならないほどの罪なのです。そして、そのことによってのみ、人は罪を赦していただくことが出来るのです。   
 また、今既に復活を得ているという主張は、復活を何か精神的なもの、思想的なものとして捉えているのです。そのような考えは、今の肉体や、具体的な生活を蔑ろにさせていきます。しかし、主イエスは、死者の中から、体を持って甦られた。死に確かに打ち勝たれ、わたしたちにも体の甦りを約束して下さったのです。      

 彼らが腹を神としている、というのは、自分の欲望に従って、自分自身を神としていることです。十字架をひたすら見上げてキリストに従うのではなく、自分の思いに従って、主張し、歩む者です。そのような者たちは、神の前には恥ずべきものでしかないようなものを誇りとし、この世のことしか考えない、というのです。この世の豊かさや、自分の欲するものばかりを求めているのです。彼らはそのようにして、神でさえ、自分の腹と取り換えてしまいます。もはや神を、神としなくなり、他のものを拝んでしまっているのです。   
 パウロが語っているのは、キリストを信じていない人のことではありません。むしろ、教会の中に、キリストの十字架のみに依り頼むことをせず、なお自分を誇り、世のことに価値を見出し、神に敵対する道を歩もうとしている人々がいることを、涙ながらに訴え、嘆いているのです。彼らは、十字架の恵みを知らされていながら、その恵みを忘れ、捨て去ろうとしているのです。      

 しかし、パウロは、そのように十字架に敵対する者が行き着くところは、滅びであると言います。厳しい言葉です。しかし、キリストの十字架に頼らないなら、世のことに頼り、腹を神とするなら、いずれ絶望し、滅びるしかないのです。      

 彼らが誇り、頼りにしたような、目に見える世のものは、確かさや安心ばかりを与えるのではありません。わたしたちもしばしば、具体的なものを欲しがったり、安心したがったりするでしょう。しかしまた反対に、この世のものや、地上の出来事に、目を覆われてしまうことがあります。苦しみや悲しみ、受け入れられない出来事、思い通りにならないこと。わたしたちを取り巻く現実が、すべて自分に敵対しているのではないか、八方を塞がれて動けなくなってしまうのではないか、そのように感じることがあります。地上のものは、わたしたちに確かさや手ごたえを感じさせ、満たされた思いを与えることもありますが、反対に、その具体的な喪失や破綻は、強烈な力でわたしたちを圧倒してくるのです。   
 もし、この地上が、目に見える現実がわたしたちの全てであったなら、自分を誇り、世のことに全面に頼っているのなら、それが崩れ去ったり、失われた時には、わたしたちは耐え切れず、そこで圧し潰されてしまうでしょう。

<本国は天に>   
 しかし、パウロは教会の人々に、言うのです。「わたしたちの本国は天にあります」。これは、口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていました。キリストの十字架と復活を信じ、キリストと結ばれた者たちは、世ではなく、天に属している者なのだ、というのです。これは私たちの目を天に向けさせ、信仰の目を開かせ、地上の目に見える現実がわたしたちを支配しているのではなく、見えない神の恵みの現実が、わたしたちを支配しているということを教えます。      

 キリストはわたしたちの罪のために十字架に架かって死なれ、神によって復活させられ、天にあげられました。ですから、キリストは今、生きておられます。この方は天に、神の栄光が満ちているところにおられます。主イエス・キリストの救いを信じ、洗礼を受け、聖霊によって天におられるキリストと一つに結ばれたなら、わたしたちの国籍は、キリストと共に天にあります。わたしたちは神の民となり、神のご支配の中に生きる者とされるのです。      

 わたしたちが目を上げ、心を向けるべきところは、天です。今地上を歩んでいても、見つめるべきは、神の栄光であり、神のご支配であり、神の勝利です。わたしたちは、この地上を歩みながら、神が導いておられる救いのご計画があり、それは神ご自身によって、神のご支配の完成に向かって前進していることを知らされます。そして、パウロが語るとおり、天から「主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待って」いるのです。      

 ですから、地上の苦しみや悲しみや困難は、わたしたちを支配したり、目を塞いだりすることは出来ません。それは絶対的な力を誇るように思われる、「死」ということさえも、神のご支配の下にあると知ることです。わたしたちは、死にも勝利され、復活されたキリストの体と一つに結ばれているからです。

<栄光の体>   
 そして、主が再び来られる日、わたしたちもキリストと同じ、復活の体を与えられる希望の約束を与えられています。パウロは、21節で、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださるのです」と言います。   
 この方は、神の御子でありながら、わたしたちの救いのために、まことの人となって地上を歩まれました。わたしたちと同じ肉の体を持ち、苦しみ、悩み、悲しみ、弱さをすべてご存知でいて下さる方です。そして、わたしたちの罪を全て担って下さり、苦しみを受け、十字架で死なれました。そして、この方を、神が復活させて下さったのです。それは、朽ちる肉の体を持つわたしたちも、キリストに結ばれて、永遠の命にあずかり、復活してキリストの栄光の体に変えられるためです。わたしたちの救いは、魂や、心の安らぎ、というような抽象的なものではありません。神は、わたしたちの心も、体も、魂も、わたしの存在の全てを憐れんで救って下さり、地上から天へ至る道をキリストの十字架によって拓いて下さり、栄光の体を与えることを約束して下さったのです。     

 「わたしたちの本国は天にある」ということで示されていることは、一つは、将来の希望です。わたしたちは地上の歩みを終えて、肉体が朽ちて、無に帰すのではありません。わたしたちはやがて、本国の天に、神の栄光の許に受け入れられる。神のご支配の完成の時、復活にあずかり、キリストと合い見える時が来る。同じお一人のキリストと結ばれた兄弟姉妹たちと共に、先の、そして後の、世々のキリスト者たちと共に、栄光の体に変えられて、神の御前に立つという約束が与えられているということです。同じ天を本国とし、同じ主イエスの命に結ばれた新しい神の民は、共に終わりの日に主の食卓に招かれ、その祝宴にあずかることが出来るでしょう。   
 しかし、洗礼を受けた者は、今、地上においても、主イエスが定めて下さった聖餐を通して、天に属する者として、神の民として、主の食卓に招かれ、神の国を垣間見ることを許されているのです。  
 つまり、「本国は天にある」ということでもう一つ言われているのは、これは将来だけのことではなく、キリストに結ばれているのなら、わたしたちはこの地上にいながら、すでに今、天の国籍を持っている、今この時も、神の国に属する者であるということです。わたしたちは、洗礼を受けた時、聖霊によってキリストと結ばれ、キリストと共に死に、キリストの命に与り、新しく生きる者とされます。永遠の命を生き始めます。   
 神の国に属しながら、地上を歩むということは、何か空想の憧れを抱いて、浮世離れした生活をすることではありません。神に生かされている地上で、神の恵みの現実の中を歩んでいくということです。   
 未だ、地上を歩む間は、卑しい、弱い体を持ちながらも、聖霊が宿って下さり、神の国の国籍をいただき、神の民として歩み始めます。日々の生活の一つ一つを、神の栄光を現す者として、神を礼拝しつつ、地上を歩む者となるのです。神の子として、具体的に世に出て、地上で生活し、神に仕え、隣人に仕えて歩んでいくのです。光の子はむしろ、照らす必要がある闇の中に、平和を必要とする争いの中に、遣わされるかも知れません。キリストに従うゆえに、苦しい歩みをするかも知れません。しかし、まだ罪に捕らえられ、キリストの福音を知らない者に、主イエスを証しし、福音を宣べ伝える務めを与えられているのです。     

 ですからわたしたちは、本国を天にもつ神の民として、いつも目をキリストに向け、心を天に高くあげて歩みます。一人で歩むのではありません。私たちは神の群れ、神の民。共に救われ、共に歩むのです。共に伝道に励みながら、祈りあい、執り成し合い、支え合いながら、将来の目標に向かって、この地上の人生を共に、ひたすら走っていくのです。救いの完成を待ち望み、その確かな約束をいつも喜んでいるのです。それが、パウロが皆一緒にわたしに倣う者となりなさい、と述べていることなのです。

<聖霊の働き>   
 そのように、わたしたちにキリストを信じる信仰を与え、キリストと結び合わせて下さり、新しくして、天を見上げさせて下さるのは、聖霊なる神様です。   
 本日お読みしたイザヤ書は、わたしたちが待ち望んでいる、終末の日の預言が語られているところです。   
 「ついに、我々の上に 霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり 園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り 園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり 正義が生み出すものは とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿 憂いなき休息の場所に住まう。しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。すべての水のほとりに種を蒔き 牛やろばを自由に放つあなたたちは なんと幸いなことか。」      

 わたしたちは終わりの日、ついに、霊が高い天から注がれ、聖霊が注がれ、神の救いが完成する日を待ち望んでいるのです。神の救いの完成は、わたしたちが完成させたり、実現させたりすることではありません。これは神が実現して下さることです。キリストが再び来られ、神の霊が注がれる時、わたしたちはこの目で主と見え、愛する兄弟姉妹たちと共に、栄光の体に変えられて、とこしえに安らかな信頼を得る、その確かに与えられている神の約束の実現を待ちわびているのです。   
 ですからわたしたちは、主イエスを証させ、救いを与えて下さる聖霊を祈り求め、神の国の完成を目指して、神のみ業に、伝道に仕えていくのです。   

 「わたしたちの本国は天にあります」。だから、とパウロは言います。   
 4:1「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」。   
 このようにわたしたちは、主によって、天におられるキリストと結ばれて、キリストに依り頼んで、キリストを待ち望んで、地上の喜びの時も、苦しみ、悲しみの時も、本国が天にある者として、神の恵みにしっかりと立っていることが出来るのです。

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