夕礼拝

モーセの死

「モーセの死」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第34章1-12節
・ 新約聖書:使徒言行録 第12章1-5節
・ 讃美歌:135、462

区切りの箇所  
 先月のこの夕礼拝において、申命記からの説教をこれで終える、と申しました。しかし思い直しまして、もう一回、最後の34章を今日ご一緒に読むことにしました。申命記の最後の34章は、いろいろな意味で大事な区切りの箇所です。ここにはモーセが死んだことが語られており、そのこと自体が一つの区切りですが、イスラエルの民の歩みにおいても、エジプトを出て、神の約束の地を目指して歩んできた荒れ野の旅路がいよいよ終わる、という区切りがここにあります。次のヨシュア記からは、モーセの後継者ヨシュアに率いられた民が、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入っていくのです。また、旧約聖書全体の構造においても、ここには大きな区切りがあります。旧約聖書は創世記から申命記までが一つのまとまりとされています。この五つの書物は、伝説においては全てモーセが書いたとされていて、「モーセ五書」と呼ばれています。ユダヤ人たちはこの五つを「トーラー」、即ち「律法」と呼んで、聖書の(彼らの場合は私たちの言うところの旧約聖書だけが聖書ですが)、第一の部分としています。ですからここは、旧約聖書の第一の部分、律法の部分のしめくくりでもあるのです。

モーセの死  
 この34章に語られているのは、出エジプトの指導者として神によって立てられ、これまでイスラエルの民を導いてきたモーセの死です。モーセは次第に年をとり、弱っていってついに死んだのではありません。7節には「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」とあります。モーセは、次第に弱っていって、ついに大往生を遂げたのではないのです。目はかすまず、活力もうせていない、つまり人間の目から見ればまだまだ元気で十分に働けるという状態で死んだのです。それはしかし、まだ生きられたのに突然不慮の死を遂げたということでもありません。モーセは、自分が約束の地カナンを目前にしたこのモアブの地で死ぬことを前から知っていました。再三申して来ましたが、この申命記はモーセの遺言として書かれています。モーセが自分の死を意識しつつ、後に遺していくイスラエルの民に、これから約束の地に入るに際しての心構えや、守るべき神の掟をもう一度語り聞かせているのがこの申命記なのです。ですからモーセの死は突然、予期せずに起ったことではありません。つまりそれは自然の成り行きではなくて、神のみ心によることでした。神がそのみ心によって、モーセの人生を、このモアブの地で、まだ目もかすまず、活力もうせていないままで終わらせたのです。それはどうしてだったのでしょうか。

主の怒り  
 申命記4章21節以下にこのように語られています。「主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り、わたしがヨルダン川を渡ることも、あなたの神、主からあなたに嗣業として与えられる良い土地に入ることも決してない、と誓われた。従って、わたしはヨルダン川を渡ることなくここで死ぬ。しかし、あなたたちは渡って行って、その良い土地を得る」。ここに「主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り」とあります。この主の怒りが、彼が約束の地に入ることができず、モアブの地で死ななければならない理由なのです。何故主はモーセに対して怒られたのでしょうか。それを語っているのは民数記20章の2節以下です。そこを読んでみます。「さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。民はモーセに抗弁して言った。『同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。』モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。主はモーセに仰せになった。『あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。』モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。』モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』これがメリバ(争い)の水であって、イスラエルの人々が主と争った所であり、主が御自分の聖なることを示された所である」。  
 荒れ野で水が無くなったイスラエルの民は、神とモーセたちに対して不平を言いました。「なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです」という彼らの言葉は、渇きの苦しみの中でとは言え、神による奴隷の苦しみからの救いと、モーセのこれまでの導きに対して余りにも恩知らずな言葉です。「主はあなたたちのゆえにわたしに対して怒り」と4章21節にあった、その「あなたたちのゆえに」というのは、この民の神への反逆、恩知らずの罪のことを言っているのです。しかし神はここでその民に対してではなくて、モーセに対して怒っておられます。モーセは何をしたのでしょうか。先程読んだように主はモーセに「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」とおっしゃいました。それを受けてモーセは民を集め、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と言って、杖で岩を二度打ったのです。するとそこから水が湧き出て、彼らは渇きを癒されたのです。このことに対して神はお怒りになって、「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」とおっしゃったのです。モーセがしたことはどこに問題があったのでしょうか。「わたしの聖なることを示さなかった」とはどういうことなのでしょうか。

モーセの罪とは  
 神がお命じになったのは、杖を取り、岩に向かって「水を出せ」と命じることでした。ところがモーセは、杖で岩を二度打ったのです。神の命令とモーセのしたことのこの微妙な違いが問題だったのです。岩に向かって命令するというのは滑稽なことです。岩が人間の言葉を聞いて何かをするわけはありません。主はモーセにそういう滑稽なことを命じておられるのです。それは、このことによってこそ、主の与えて下さるみ言葉の力が示されるからです。ところがモーセは杖で岩を打ちました。岩を打って水が出るというのもあり得ない奇跡です。しかし岩に向かってただ命じることに比べてそこには、岩を打つというモーセの行為が加わります。モーセ自身の特別な力によって、あるいは彼の杖に宿っている不思議な力によって岩から水が出た、という印象を与えるのです。彼が「この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と言ったのも、その主語は「私が」ですから、私があなたがたのために水を出さなければならないのか、ということになります。このことを主は「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と言っておられるのです。「わたしを信じることをせず」とは、主のみ言葉のみに信頼してその通りにしなかった、ということであり、「わたしの聖なることを示さなかった」というのは、これは主なる神がして下さるみ業だということを明確にせず、私が自分の力であなたがたのためにしてやるんだ、という思いがどこかにあったということです。主はそのことに対してお怒りになり、モーセは約束の地に入ることはできない、と宣言なさったのです。  
 モーセはこのように、主なる神のみ言葉の通りにしなかったという罪、過ちのために、約束の地カナンを目前にしながら、そこに入ることはできず、モアブの地で死んだのです。私たちはこれを読むと、主なる神はなんて厳しいんだろう、と思います。神様、それはないですよ。たった一度の、しかも小さな過ちではないですか。イスラエルの人々が水がないと不平を言って、エジプトにいた方がマシだった、などと言ったことに比べれば、モーセのこの罪など罪とも言えないようなものではないですか。これくらいのことで、約束の地に入ることができないなんて、あまりにひど過ぎます。これではモーセが可哀想です、と私たちは思うのです。

成功体験に捕われたモーセ  
 しかし、これは決してささいな、どうでもよい過ちではありません。岩に命じるのと、杖で岩を打つのでは、それが誰の力による業かにおいて大きな違いがあります。しかもそこで、「私があなたがたのために水を出さなければならないのか」と言ったことによって、この奇跡はモーセが自分の力でしたことになってしまうのです。それは、主なる神の恵みのみ業のために自分が用いられるというのではなくて、自分の力で民のための業を行う、という感覚に陥ってしまったということであって、それは神の栄光を自分のものにしてしまうという重大な罪なのです。モーセがそのような罪に陥ったのは、一つには、過去の体験に捕われていたからだと言えるでしょう。出エジプト記の17章に、同じような出来事が語られています。荒れ野を旅していた民の飲み水が無くなった時、主がモーセに、杖で岩を打て、とお命じになったのです。するとそこから水が出ました。つまりモーセは以前に、神の命令によって杖で岩を打って水が出たことを体験していたのです。だから民数記の出来事の方でも、前と同じように杖で岩を打ったのでしょう。でもこのたびの主のご命令は、岩に命じることだったのです。この失敗は彼が単に不注意だったということではなくて、モーセは過去の成功体験に捕われていたということです。以前このようにしてうまくいった、だから今回も同じようにすればいいだろう、と思ったのです。そういうことは私たちの歩みにしばしば起ります。個人の人生においても、社会全体の歩みにおいても、昔成功した体験があると、人はどうしてもそれと同じことをしようとするのです。それに固執してしまうのです。でも時代も状況も違う中では、昔と同じようにうまくいくことはありません。かえって不適切な歩みになってしまうことが多いのです。神との関わり、信仰においては、このことはとても大事なことです。私たちは、常に新しく、神のみ言葉を聞き、その導きを受けなければなりません。神のみ心に従って歩むことにおいて、以前こうだったからみ心はこうだ、と私たちが決めつけてしまってはならないのです。それは神のみ心を人間が自分の思いによって決めてしまうことになります。モーセの陥った罪とはそういうことだったのです。

平安の内に死んだモーセ  
 しかしこの34章を読んでいく上で注目すべき大事なことは、ここには、モーセがそのような罪に陥ったために約束の地に入ることが出来なかったことを、モーセの不幸として嘆くような感覚は全くない、ということです。そのことが最もはっきりと表されているのが10節以下のところです。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣及び全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった」。ここには、モーセが神によって選ばれ、立てられた比類なき預言者であり、出エジプトにおいてすばらしい働きをしたことが語られています。彼の過ちや罪、そのために約束の地に入れなかったことには全く触れられていないし、これほどの働きをした彼が約束の地に入れなかったのは残念だった、とも語られてはいません。そしてモーセ自身も、そのことを無念に思っており、自分が志半ばにして死ななければならないと嘆いていたとも考えられていません。彼が「目もかすまず、活力もうせてはいなかった」というのも、単にまだ体力があったということではなくて、彼が無念の思いを抱いて失意の内に死んだのではない、ということを言っているのです。つまりモーセは平安の内に、満足して死んだのです。申命記はモーセの死をそのように語っているのです。

人生の価値  
 この申命記のしめくくりが私たちに教えていることは何でしょうか。それは、私たちの人生において本当に大切なのは、どのような成果や業績を生んだか、目指していた目標に到達することができたかではなくて、神が自分を選んで下さり、見出して下さり、神と共に歩む者として下さり、そして神のみ業のために用いられたという事実なのだ、ということでしょう。モーセは、主なる神によって選ばれ、遣わされ、み業のために用いられたという一事において、満足して、平安の内に人生を終えることができたのです。その人生において彼は、神が恵みによって用いて下さっているのに、あたかも自分の力で何かをしているかのように錯覚し、神のみ言葉に信頼し従うのでなく自分の過去の成功体験に従って歩んでしまうような罪に陥りました。その結果彼は約束の地に入ることができませんでした。目指していた所に到達することはできなかったのです。しかしだからといって彼の人生が意味のないものになったとか、失敗だったわけではありません。彼は平安の内に、満足して、後のことは次の世代に任せて、死ぬことができたのです。主なる神によって選ばれ、神と共に歩み、神によって用いられた信仰者は、そのように生き、そのように死ぬことができる、そのことをこのモーセの死は語っているのです。私たちもこのモーセと同じように歩み、そして死ぬことができます。主が自分を選んで下さり、信仰を与えて下さり、主と共に生きる人生を与えて下さり、その中で何らかの働きを与えて下さったなら、私たちの人生はまことに価値ある人生なのです。その歩みにおいて私たちは不信仰に陥ったり、罪を犯します。その結果として挫折を味わうことがあります。目指していたことが達成できない、ということもあります。しかしそうだったとしても、私たちの人生が無駄になり、失意の内に、無念の思いを抱いて死ななければならないということはないのです。人生の価値は、何を成し遂げたか、どこに到達できたかによるのではなくて、神に選ばれ、見出され、神と共に歩むことを赦され、そして多少なりとも用いられた、ということにこそあるのです。人に誇り得るような立派な成果をあげなくてもよいのです。一人の信仰者として、神のもとで、神と共に、神に少しでも用いられて歩むことができれば、それは喜ばしい人生であり、私たちは満足して平安の内に人生を終えることができるのです。

約束の地を見渡しつつ  
 モーセはその人生の最後に、ピスガとも呼ばれるネボ山の山頂に登り、そこから約束の地を見渡しました。1節には「主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた」とあります。4節においても主はモーセに「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」とおっしゃいました。主はこのようにモーセに、自分が入ることのできない約束の地を見させて、無念の思いをかき立てようとしておられるのでしょうか。ご馳走を見せるだけで、食べさせてやらないよ、という意地悪をしておられるのでしょうか。そうではないでしょう。主がモーセに約束の地のすべてをお見せになったのは、彼の人生がここで終わるとしても、彼が神に選ばれ、遣わされ、用いられたその働きは無に帰してしまうことなく続いていく、ということを示すためです。彼自身は、自分の罪のゆえにそれを体験することはもはやできない。けれども、だからといって彼の人生が失敗であり、失意の内に無念の思いで死ななければならないことはないのです。罪や過ちがあり、その結果を背負っている私たちの歩みの全体が、主なる神の恵みの内に置かれており、そういうまことに不完全な私たちの歩みを通して、神はその救いのみ業を前進させて下さっているのです。主ご自身が、自分の業を引き継ぐ後継者を備えて下さり、その人を用いてみ業を継続していって下さるのです。だから、自分の人生はここで終わるとしても、それでよいのだ、モーセはそういう平安、満足の内に、あるいは希望の内に、自分の人生を神にお返ししたのです。

松下由美子さんを偲んで  
 私たちはそのような姿を、先日67歳で天に召された松下由美子前長老に見出します。松下さんは、自分が末期の癌であり、積極的治療はもはや不可能であり、自分に残された時間がわずかであることを知っておられました。苦しみ、悲しみ、無念の思いがなかったはずはありません。しかしその中で松下さんは、希望を失わず、常に前向きに歩んでおられました。そしてモーセと同じように、目はかすまず、活力もうせないままで、平安の内に亡くなったのです。それは松下さんが、主に選ばれ、見出され、信仰を与えられ、み業のために用いられた自分の人生を喜んでおられたからです。弱さや罪や欠けを沢山かかえている自分の人生の全てが、神の恵みの内に置かれていることを信じていたからです。「教会のことは心配していない」とおっしゃっていたそうです。それは松下さんが、自分がその一端を担わせていただいた教会の歩みを、主がこれからも継続して下さり、そのために新たな人々を選び、立て、遣わし、用いて下さることを信じていたということです。信仰によって私たちも、このように生き、そしてこのように死ぬことができます。私たちの人生の全てが、罪や弱さや失敗を沢山かかえている私たちの歩みの全体が、神の恵みの内に置かれているからです。そのことを私たちは、神の独り子イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによってはっきりと信じることができます。私たちの人生の全ては、キリストの十字架による罪の赦しの恵みの中にあるのです。その恵みがあるなら、私たちの人生は、立派な業績があろうとなかろうと、目指しているものを得ることができようとできまいと、長かろうと短かろうと、問題ではないのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所は、初代の教会において、主イエスの弟子だったヨハネの兄弟ヤコブ、つまりゼベダイの子ヤコブが、ヘロデ王によって剣で殺されたことを語っています。このヤコブが教会においてどのような働きをし、どんな成果、業績をあげたかは聖書には全く書かれていません。つまり彼はただ殺されたということしか分からないのです。でもそれでよいのだ、ということでしょう。大事なことは、彼が主イエスによって見出され、選ばれて弟子となり、主に遣わされ、み業のために用いられたということです。それだけで、彼の人生には十分意味があるのです。そしてその歩みは決して無駄にならず、主のみ業の継続の中で次の人々へと受け継がれ、受け継がれ、今日の私たちにまで及んでいるのです。私たちも、この主の恵みによって選ばれ、主と共に生きる者とされ、そしてみ業のために用いられています。そこに、私たちの人生の最も大事な意味と価値があるのです。

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