主日礼拝

恐れることなく

「恐れることなく」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第105編1-45節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第1章57-80節
・ 讃美歌: 11、182、464

ヨハネ誕生
 本日は、ルカによる福音書第1章57節以下からみ言葉に聞きます。ここには、洗礼者ヨハネの誕生と命名の日のことが語られています。ヨハネの誕生は、57節で、「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」と簡単に語られています。しかし私たちはこれが、単に妊娠の期間が過ぎて子供が生まれた、ということではないことをこれまでに読んできました。エリサベトとその夫ザカリアには子供がなく、二人共既に年を取っていて、もはや子供が生まれることなどあり得ないと思われていたのです。ところがある日、夫ザカリアが神殿で祭司の務めに当っていた時、天使が現れ、エリサベトが男の子を生むと告げたのです。その子は母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、神様のみ心による大切な働きをする者となる、と天使は告げました。つまりエリサベトの出産は、神様がその偉大な力によって、人間の目には不可能と見える事をして下さったことによるのであり、そのことによって神様の救いのご計画が実現する、正確にはその実現へ向けての準備がなされる、そういう出来事だったのです。しかしそのお告げを受けたザカリアは、天使の言葉を素直に受け止めることが出来ませんでした。この1章には、同じ天使から聖霊によって子を宿すと告げられたマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったことが語られていますが、ザカリアは、エルサレム神殿の祭司であり神に仕える身でありながら、マリアのように神様のみ言葉を信じて受け入れることができなかったのです。そのためにザカリアは口が利けなくなりました。本日の箇所の62節に、人々がザカリアに手振りで尋ねたとありますから、口が利けなくなっただけでなく、耳も聞こえなくなったことが分かります。ザカリアは、エリサベトの妊娠の期間の間ずっと、口が利けず、耳も聞こえない状態で過ごしたのです。それは前にもお話ししたように、天使の言葉を信じなかった罰ではなくて、人間の言葉を語ることも聞くことも失うことによって、沈黙して、ひたすら神様のみ言葉に耳を傾けていく時を与えられた、ということです。本日の箇所にあるのは、その沈黙の時を経て、再びザカリアの口が開き、こわばっていた舌がほどけ、彼が言葉を語るようになったこと、そしてその時彼が歌った賛美の歌です。

ザカリアの信仰告白
 ザカリアの口が再び開いたのは、ヨハネが生まれた時ではなくて、八日目に、子供に割礼を施し、名前をつけるために近所の人々や親類が集まった、その時でした。集まった人々はその子に、父の名を取って同じザカリアと名付け、ザカリア・ジュニアにしようとしましたが、母エリサベトは、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と主張しました。それは天使がザカリアに「その子をヨハネと名付けなさい」と語った、その名です。そこで人々が耳の聞こえない父ザカリアに、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねたところ、ザカリアは字を書く板に、「この子の名はヨハネ」と書いたのです。するとその時、ザカリアの口が開き、舌がほどけ、再び語ることができるようになったのです。
 「この子の名はヨハネ」。それはザカリアが、あの天使のお告げに従ったということです。それは、言われた通りの名を付けたということに留まりません。そのことによって彼は、天使が告げた全てのことを信じて受け入れたのです。天使は、この子が、エリサベトのお腹の中にいる時から聖霊に満たされており、神様の救いのみ業の実現のための備えをする者となる、つまり神様に用いられ、神様の御用をする者となると語りました。ということは、両親はこの子を思い通りにすることはできない、例えば祭司職を継がせて家の跡取りにすることはできないのです。彼らはこの子が神様から与えられた務めに就くまで預って育て、そして神様にお返ししなければならないのです。それら全てのことを受け入れ、そのみ心に従います、ということを、ザカリアは「この子の名はヨハネ」と書くことによって言い表したのです。つまりこれはマリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と並ぶ、ザカリアにおける信仰の言葉だったのです。この信仰の告白と同時に、彼は再び言葉を語ることができるようになったのです。

新しい言葉
 そのようにして再び口を開かれたザカリアは、「神を賛美し始めた」と64節にあります。人間の言葉を語ることからも聞くことからも遠ざかって、沈黙の内にひたすら神様のみ言葉に耳を傾け、そして神様のなさる、人間の思いを超えたみ業を見つめ、それを受け入れる信仰の告白へと導かれたことによって、ザカリアは、それまで語っていたのとは違う、新しい言葉を語る者とされたのです。それは神様を賛美する言葉です。以前の彼は、天使の言葉を自分の常識によって判断し、そんなことがどうして分かるのか、自分には分からない、と言っていたのです。しかし今や彼は、神様のみ言葉を信じて受け入れ、恵みのみ業を行なって下さる神様を賛美する言葉を語るようになりました。これと同じことが、私たちにも起るのです。信仰者になるとは、新しい言葉を語る者とされることです。生まれつきの私たちは、人間の言葉、人間の思いや願いや常識に基づく言葉ばかりを語り、また聞いています。その私たちが、神様のみ言葉を信じて受け入れ、それに従い、神様を賛美する新しい言葉を語る者へと変えられる、そういうことが、既に信仰者となった者たち一人一人に起ったのです。今信仰を求めて、あるいは何らかの興味や関心を持って礼拝に集っておられる方々にもそれと同じことが起り、新しい言葉を語る者とされることを私たちは確信しています。その新しい言葉は、人間の言葉を語り、聞くことから離れて、神様のみ言葉に深く耳を傾けていくあの沈黙の中から生まれてくるのです。

ザカリアの賛歌
 さて67節以下は、ザカリアが口を開いて語った、神様を賛美する歌です。46節以下の「マリアの賛歌」と並んで、ルカによる福音書の第1章には二つの賛美の歌が歌われているのです。マリアの賛歌がその冒頭の「あがめ」という言葉のラテン語訳から「マグニフィカート」と呼ばれているように、このザカリアの賛歌も冒頭の「ほめたたえよ」のラテン語である「ベネディクトゥス」という呼び方で親しまれています。その内容を見ていきたいのですが、67節の前の小見出しは、「ザカリアの賛歌」ではなくて「ザカリアの預言」となっています。「マリアの賛歌」に対して、こちらは「預言」であるという理解で小見出しがつけられているのです。なぜこれが「預言」と言われるのかと考えてみると、この歌の後半、76節以下が、生まれたばかりの幼な子ヨハネが将来どのような者となり、どのような働きをしていくか、それによって神様のどのような恵みが実現していくのか、という予告を語っているからでしょう。その後半部分から先に見ていきたいと思います。

ヨハネの働き
 ザカリアは76節で、自分の子ヨハネが、「いと高き方の預言者と呼ばれる」と言っています。この文章は、天使がマリアに主イエスの母となることを告げた32節の言葉と対になっています。32節で天使は「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言いました。主イエスは「いと高き方の子と言われる」のに対して、ヨハネは「いと高き方の預言者と呼ばれる」のです。この「言われる」と「呼ばれる」は原文では同じ言葉です。ですからこの二つの文章は、「子」と「預言者」だけが違っているのです。ルカによる福音書第1章は、洗礼者ヨハネと主イエスの誕生の物語を交互に、二本の糸を撚り合わせるように語っています。そのような語り方によってルカは、洗礼者ヨハネと主イエスとは切り離すことのできない関係にあることを示そうとしているのです。そしてそこには、この二人の違いも描き出されています。それが、主イエスは「いと高き方」つまり神様の「子」であるのに対してヨハネはその方の「預言者」であるということです。この場合の預言者は、神様のみ言葉を人々に伝える人、という一般的な意味ではなくて、ザカリアが76節の後半で語っている、「主に先立って行き、その道を整え」ということを意味しています。「主」とは、いと高き方である神の子主イエスです。その「預言者」であるヨハネは、その主に先立って行き、その道を整える者、つまり救い主イエス・キリストのための道備えをする人です。ですからヨハネと主イエスの間には、露払いと横綱のような、前座と真打ちのような関係があるのです。しかしそれは、ヨハネは露払いや前座に過ぎない、大して大事な存在ではない、ということではありません。ヨハネがする道備えは、77節に語られているように、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」ということです。洗礼者ヨハネの活動はこの後第3章に語られていきますが、それは人々に悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授ける、ということでした。彼は人々の罪を厳しく断罪し、それに対する神様の怒りを語りました。それは、神様に罪を赦していただかなければ救いはない、ということを伝えるためです。神様による罪の赦しこそが救いなのであって、それがなければ、この世でどんな幸福や豊かさを得てもそこには本当の救いはないのだ、ということを彼は宣べ伝えていったのです。彼はそのことによって、その罪の赦しをご自身の十字架の死と復活によって成し遂げ、与えて下さる救い主イエス・キリストの道備えをしたのです。ヨハネの働きによって、イエス・キリストによる救いの中心は罪の赦しであることが明らかにされたのです。

平和の道
 そこには神様の大きな恵みの働きがあったことを、ザカリアは78、79節でこう歌っています。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」。「暗闇と死の陰に座している者たち」、それは特別な苦しみや不幸の中にいる人々のことではなくて、神様に背き逆らう罪のとりことなり、神様の怒りを受けて滅びるしかない私たち一人一人の生まれつきの姿です。その私たちの上に、神様の憐れみによって、あけぼのの光が訪れ、私たちを照らして下さるのです。そのあけぼのの光こそが主イエス・キリストです。主イエス・キリストによる罪の赦しという救いにあずかった私たちは、この光に照らされて、「平和の道」へと導かれるのです。「平和の道」は、「平和への道」ではありません。「平和への道」は、この道を歩めば平和を実現することができる、という道ですが、ここで語られているのはそういう道のことではないのです。「平和の道」、それはその道そのものが平和であるような道、平和の内に歩むことができる道です。つまり平和は、この道を歩んでいくはるか先に目標としてあるのではなくて、今ここに、私たちの歩みの一歩一歩に、現実としてあるのです。主イエス・キリストによる罪の赦しという救いにあずかることによって、私たちはそういう「平和の道」へと導かれます。目に見える現実においては、様々な争いがあり対立があり、傷つけ合い殺し合うような事態があり、平和などどこにあるのかと感じるこの世、この世界ですが、その現実の中を歩みつつ、私たちは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという神様の救いを信じて受け入れることによって、人間の罪の現実の背後に、それを背負い、十字架の苦しみと死によってそれを赦して下さっている神様の憐れみの現実を見ることができるのです。この神様の憐れみと赦しという目に見えない現実を見つめて生きることこそが信仰であり、そこにこそ、あの新しい言葉、神様を賛美する言葉が与えられていくのです。

主の訪れ
 さて、ヨハネがどのような人となり、どのような働きをしていくのかを語っているザカリアの賛歌の後半を先に読みましたが、その前半はまさしく神様への賛美の歌です。「ほめたたえよ」という言葉でこの歌は歌い出されています。「ほめたたえよ」というのは、誰かに「ほめたたえなさい」と命令しているのではありません。前の口語訳聖書ではここは、「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな」となっていました。主なる神様はほめたたえられるべき方である、ということです。それはなぜか。その理由が68節から69節にかけての、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」というところに語られています。「救いの角がダビデの家から起こされた」、それは、ダビデ王の子孫として救い主が生まれ、遣わされる、という旧約聖書の預言の成就を語っています。ダビデの子孫として生まれる救い主とは主イエス・キリストのことです。ですからここでは、実際にはまだ生まれていないイエス・キリストが既に到来したものとして語られています。それは、主イエスの道備えをする者であるヨハネが誕生したことによって、この預言の成就が既に始まっている、ということでしょう。ヨハネと主イエスは先程申しましたように切り離すことができない絆で結ばれているのです。ですからヨハネの出来事が始まったからには、主イエスによる救いが既に到来したも同じなのです。
 この救いが、「主はその民を訪れて解放し」と言い表されていることにも注目したいと思います。「訪れ」という言葉は、先程の78節の「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」というところにも使われていました。主なる神様が、その救いが、私たちを訪れて下さるのです。それが、ヨハネの誕生であり、この後の主イエスの誕生なのです。私たちが、神様のもとへ、救い主のもとへと訪れ、救いを求めるのではありません。救いは、私たちが探し求めていってついに見つけ出すものではなくて、神様の方から私たちを訪れて、与えて下さるものなのです。ザカリアとエリサベトの夫婦が、子供が与えられることなどもはや全く期待していなかったのに、マリアが子供を身ごもることなどまだあり得ないと思っていたのに、神様の力、聖霊の思いがけない訪れによってヨハネが、そして主イエスが誕生したように、神様による救いは思いがけない仕方で、唐突に、私たちを訪れるのです。

契約の恵み
 主なる神様による救いは私たちが思ってもいない仕方で与えられます。しかし神様のみ心においてはそれは思いがけないことではありません。それは神様のご計画によることであり、約束の実現に他ならないのです。そのことが70節に語られています。「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに」。ダビデの家から救いの角を起して下さることは、旧約聖書の昔から預言者たちが繰り返し語ってきたことでした。つまり神様がそのことを既に約束して下さっていたのです。主イエス・キリストによる救いは、神様の約束の実現なのです。このことは何を意味しているのでしょうか。それは、キリストによる救いは旧約聖書に既に預言されていたのだ、すごいだろう、という話ではありません。このことの持つ意味をザカリアは72節でこう語っています。「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」。主なる神様は、イスラエルの先祖たちとの間に、聖なる契約を結んで下さったのです。神様が民と契約を結んで下さる、このことこそ、聖書が語る神様の最大の特徴であり、旧約聖書と新約聖書を貫く一本の筋です。旧約とは「旧い契約」、新約とは「新しい契約」のことなのです。旧い契約も新しい契約も、その内容は、神様がある人々に特別な恵みを与えて下さることによってその人々をご自分の民として下さり、その人々の神となって下さる、そういう特別な関係に入って下さる、ということです。つまり契約によって「神様の民」が生まれるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編105編は、そのことを語っています。そしてその最後の所に、「それゆえ彼らは主の掟を守り、主の教えに従わなければならない」とあるように、神様の民とされた人間は、救いのみ業に感謝し、神様のみ言葉に聞き従わなければなりません。けれども旧約聖書に描かれているイスラエルの民の歴史は、このことにおける失敗の繰り返しであり、神様が与えて下さった契約を無視する罪の繰り返しでした。しかし契約の相手である主なる神様は、ご自分が結んだ契約を決して忘れてしまうことはありません。契約を結び、ご自分の民とした人々のことを常に覚えていて、救いの約束を必ず果して下さるのです。イスラエルの民が神様との契約を忘れ、神様からそっぽを向く罪に陥っていても、その人々の心をご自分の方に向き変わらせるために洗礼者ヨハネを遣わし、そして人々に罪の赦しによる救いを与えるために独り子イエス・キリストを遣わして下さるのです。洗礼者ヨハネと、ヨハネが道備えをする主イエス・キリストによって実現する救いは、この神様の契約の恵みに基づくことであり、旧約の預言者たちが語っていたのも、この契約の恵みに基づく救いの約束だったのです。つまりザカリアがここで見つめているのは、父なる神様が主イエスによって実現し、ヨハネをそのための道備えとして用いて下さる救いの恵みの根底には、ご自分の結んだ契約にどこまでも忠実であって下さる神様の憐れみのみ心がある、ということです。「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」という72節の言葉は、契約を守ることができずに罪に陥っている民に対してすら、神様は常にご自分の契約に忠実であって下さる、それこそが神様の憐れみなのだ、ということを言い表しているのです。

恐れることなく
 この契約に忠実であって下さる神様の憐れみによって、私たちはこのように歩むことができる、ということが73節の後半から75節にかけて語られています。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」。ヨハネが道備えをし、主イエスによって実現した罪の赦しによる救いにあずかることによって私たちは、神様がご自分の契約にどこまでも忠実であって下さり、約束して下さった救いを必ず実現して下さる方であることを示されます。その信頼によって、私たちを神様の恵みから引き離そうとする敵から救われ、恐れなく主に仕える者となることができるのです。「恐れなく仕える」。それは、自分が正しくきちんと神様に仕えているだろうか、何か間違ったことをしてしまってはいないだろうか、神様への奉仕において何点取れているだろうか、などということを全く考えることなく神様に仕える者となることです。そういうことを少しでも考え始めたら、私たちの神様への奉仕は恐れに満たされていきます。そしてそこでは、人と自分を見比べて人を裁き批判したり、逆にいじけて卑屈になったりすることが起るのです。そのようにして、私たちを神様の恵みから引き離そうとする敵の思う壷にはまっていくのです。「生涯、主の御前に清く正しく」というのも、私たちが自分の清さ正しさを自己採点するという話ではありません。ヨハネが告げ知らせ、主イエスによって実現した罪の赦しによる救いの恵みを信じて生きる時に、私たちの生涯の歩みは、神様のみ前に清く正しいものとなっていくのです。私たちが自分のことをそのように感じることができるかどうかが問題なのではありません。神様が、恵みに満ちたまなざしで、私たちの日々の歩みを見つめていて下さることが分かるようになるのです。その時私たちは、恐れることなく神様のみ前で生きることができるようになるのです。

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