主日礼拝

裏切りの予告

「裏切りの予告」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第41編1-14節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章21-30節
・ 讃美歌 : 16、300、447

裏切りの予告
 ヨハネによる福音書を読み進めていまして、第13章に入っています。ここには、主イエス・キリストが、十字架につけられる直前に、弟子たちと共に食事をしたこと、いわゆる最後の晩餐の場面が記されています。この食事の時、主イエスは、弟子たちの足をお洗いになりました。足を洗うというのは当時の奴隷の仕事です。主イエスは、自ら僕となって弟子たちに仕えるということを通して、愛をお示しになったのです。しかし、この最後の晩餐において見つめられているのは、主イエス・キリストの愛だけではありません。主イエスの愛と共に、一人の弟子の裏切りが示されています。そのことは既に、13章2節で見つめられていました。そこには次のようにあります。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。そして、本日朗読された21節以下では、主イエスがユダの裏切りを予告したこと、更には、ユダが、実際にその行動を開始するために、主イエスと弟子たちの下を去って行ったことが記されているのです。この後、ユダが登場するのは、主イエスの逮捕が記される、第18章においてです。そこでユダは、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて主イエスを捕らえに来るのです。ユダの手助けによって、主イエスは捕らえられ、十字架につけられることになったのです。
ご自身の最も傍にいる者によって裏切られると言うことは、主イエスにとって耐え難い苦痛であったはずです。21節には「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』」とあります。主イエスは、この時、心を落ち着かせていることが出来ませんでした。主イエスは、ユダがご自身を裏切ろうとしているということについて、怒りに震え、ユダに対して憎しみ抱いているのではありません。ユダをとらえ、突き動かそうとしている力と向かい合っておられるのです。それは、聖書が、悪魔、サタンとして見つめている力です。聖書において、サタンと言うのは、人間を神の愛から引き離そうとする力です。そして、それは、人間を罪に誘い死に至らせようとするのです。そのようなサタンの力と直面しつつ、心騒がせつつ、裏切りを予告しておられるのです。

弟子たちの反応
しかし、何故、主イエスは、裏切りを予告されたのでしょうか。それによってユダを責め裁こうとしていると言うのではありません。もし、そうしたいのであれば、はっきりとユダに向かって語りかけたに違い在りません。ここで、主イエスは、ユダの名を出さずに、「あなたがたのうちの一人が」とおっしゃっています。つまり、主イエスはユダだけでなく、すべての弟子たちに問いかけているのです。もちろん、実際にここで、主イエスを裏切ろうとしているのは、ユダ一人です。しかし、主イエスは敢えてその名を出さず、皆に語りかけることによって、誰であっても、サタンの力に捉えられる可能性があることを示しておられるのです。この主イエスの言葉は、弟子たちを驚かせます。「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」のです。しかし、弟子たちは、ここで、誰のことを言っているのか、検討がつかなかったのです。
ここから分かることは、ユダは、少なくとも弟子たちから、「あいつはいかにも主イエスを裏切りそうな人物だ」とは見られていなかったと言うことです。更に、このことは、ユダがこの場から離れた時、弟子たちはユダが何をしに行くのか分からず、29節にあるように、「祭に必要なものを買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思ったことにも示されています。
私たちは、ユダの裏切りに接する時、いかんともしがたい思いになります。ユダは何という愚かなことをするのかとの思いがします。「裏切り」というのは、私たちが最も非道な振る舞いの一つであると感じていることです。ですから、どこかでユダと言う名は、極悪非道な人間の代名詞のようになっているのではないかと思います。しかし、注意をしなくてはならないことは、そのように考えることによって、私たちがユダを特別な人にしてしまってはならないと言うことです。聖書がユダについて記していることについて、主イエスの弟子の中にも、ユダというけしからん奴がいたけれども、彼は特別に悪いのであって、少なくとも自分はユダ程には悪くないと考えてはならないでしょう。聖書は、ユダが、財布を預かっていながら、ごまかしていましたことを記しています。そのような意味で倫理的に問題があったことは確かです。しかし、ここで、人間の倫理に照らして悪い人物であったから、ユダが主イエスを裏切ったと言うのではないのです。
この主イエスの言葉が私たちに伝えようとしていることは何でしょうか。それは、弟子たちの群れの中、主イエス・キリストの教会の中には、必ず、普通の信徒とは異なる、特別悪い、裏切り者、不心得者がいると言うことを言おうとしているのではありません。そうではなく、主イエスに従っていく者は誰しも、このユダと成り得る。ユダを捉えているサタンの力に捉えられる者であると言うことです。主イエスを信じ、神の愛のもとを歩むことと、サタンの力に支配され、主イエスを裏切り、神の愛から離れていくことの間に立たされていると言うことです。

裏切りの理由
ユダを通して行われた、主イエスに対する裏切りは何故起こったのかについて考えたいと思います。そもそも、何故、ユダは主イエスを裏切ったのでしょうか。その理由について聖書は何も記していません。一つの想像ですが、主イエスの姿が、ユダが思っていた救い主の姿とは異なっていたのだと考えることが出来ます。ユダは、主イエスが力強く教えを語り御業を行っている姿を見て、主イエスこそ自分たちを救う救い主だと思ったのです。ユダの心の中には、この方こそ、自分たちを支配し苦しめているローマ帝国からの解放を実現してくれる力強い指導者に違いないという期待が芽生えたことでしょう。しかし、主イエスは今、ユダヤの指導者である祭司長や律法学者から命をつけねらわれているのです。そこには、自分の望んでいた力強い救い主の面影はありません。ユダは、徐々に主イエスのお姿に違和感を覚えていたのかもしれません。更に、直前の箇所に記されていた、マリアが高価なナルドの香油を主イエスに注いだ時のことを思い起こしたいと思います。その時、ユダは憤慨し、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と主張したのです。しかし、主イエスは、憤るユダに対して、「この人のするままにさせておきなさい」とおっしゃったのです。この出来事によって、主イエスの御意志と自分の思いの間に大きな溝があることを感じたことでしょう。自分が是とすべきこと、自分がなすべきだ、こうしたいと思うことを否定され、まるで自分自身が否定されたかのような思いになったかも知れません。今まで、何もかも捨てて、この方についてきたのは何だったのだろうか、もうこの人について行っても無駄だという思いになり、破れかぶれになって憎しみすら抱きながら祭司長の下に出かけて行ったのでしょう。自分の方が主イエスに裏切られたのだと思っていたかもしれません。

愛を受け取らない
しかし、これはあくまで想像であって、聖書は、その理由に注目していません。裏切りについての理由を具体的に記す必要はなかったのでしょう。何故裏切ったのかということを記す代わりに、主イエスに対する裏切りとはどのようなことなのかを記しているのです。
 主イエスの予告に、顔を見合わせながら当惑した弟子たちですが、とっさに「イエスの愛しておられた者」と言われている一人の弟子が、ペトロから合図を受けて、主イエスに「主よ、それはだれのことですか」と聞きます。それに対して、主イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と語り、パン切れを浸して、それをユダに渡したのです。27節には次のようにあります。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた」。そもそも、ユダは、主イエスを裏切る考えを起こしていました。しかし、ここで、主イエスがパン切れを渡した時、サタンの支配が確定的になったと言うのです。主イエスが差し出したパンに、呪いの力が働いていて、その力によって、サタンに支配されるようになったと言うのではありません。パン切れを手で渡すという行為は、客を家に招いた主人が、その客をもてなす行為です。更に、この仕草から、私たちは聖餐を思い起こすことも出来ます。実際、他の福音書が記している記事によれば、この最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちに、パンとぶどう酒を、ご自身の体と血としてお配りになったのです。それによって、主イエスが弟子たちの罪を贖うために、十字架で肉を裂き、血を流されるということ、つまり主イエスがご自身を、弟子たちに与えて下さるということをお示しになったのです。いずれにしても、主イエスはパン切れをわたすことによって愛をお示しになったと言うことが出来るでしょう。しかし、そのような主イエスの愛が示された時、ユダは、サタンに支配され、裏切るために行動し始めたのです。この箇所は、ユダが、主イエスによって示された愛を受け入れることが出来なかったと言うことを示しているのです。サタンの力に翻弄され、裏切りの考えを抱いている自分自身を尚、愛し、ご自身を差し出して下さるという程の主イエスの愛が示されているのにもかかわらず、そこで自らを悔い改めつつ、その愛を素直に受けとめなかったのです。そのことによって、ユダはサタンの力に捉えられ、主イエスを裏切る者となるのです。つまり、ユダは、愛を受け取らないということにおいて、自らをサタンに明け渡し主イエスを裏切るのです。

愛に対する裏切り
このユダの姿の中に、私たち人間の罪が示されていると言っても良いのではないでしょうか。愛が示されているにも関わらず、その愛を受けとめることが出来ない。愛されているのにも関わらず、その愛に応えることをせず、差し伸べられた手を振り払って、その下を離れて行ってしまう。それは、神様との関係においてのみ起こることではありません。友人同士の関係、夫婦の関係や、親子の関係等、あらゆる人間の関係の中でしばしば起こるのです。時に、その関係が重荷になり、又、それに躓くのです。「裏切る」と言うのは、信頼をもって「愛する」ということと密接な関係があると言って良いでしょう。そもそも「愛する」と言うことがなければ「裏切る」と言うことも無いのです。自分に危害を加え敵対して来る人に酷い仕打ちをしたとしても、それは裏切りとは言えません。自分に愛を示してくれる人の愛を受け取らず、その愛に応答しない時に、裏切るということが起こるのです。ですから、示されている愛が大きければ大きいほど、裏切りのひどさも大きくなるのです。その最たるものが、神の愛を振り払い、神様との関係を絶とうとすると言うことに他なりません。主イエス・キリストを通してあまりにも大きな神の愛が示されていながら、そのことを受け入れられずに、そこから離れていくのです。
この裏切りは、私たちが明らかに悪いと感じるようなこととして行われるのではありません。主イエスは、ユダに対して「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とおっしゃいました。自分の「しようとしていること」、をする、つまり、主イエスに応えて歩むということに、自分がしたいと思うことを優先させようとするのが、サタンの働きです。つまり、サタンは、人間に、自分の主体性に従って、自分のしたいことをしようとさせる形で、主イエスを裏切り、神の愛の下を離れさせようとするのです。

光は暗闇の中で輝いている
 パン切れを受け取ったユダは、すぐにその場を去り、出て行きます。30節には、その時が「夜であった」と記されています。「夜」と言うのは、サタンに支配された闇を象徴的に示しています。主イエスを裏切り、神の愛を振り払うようにして、主イエスの下を離れていく時、そこには、まさに闇が支配します。闇の力とは、私たち人間の罪、そして、神との愛の関係から切り離された死の力を意味します。マタイによる福音書の記述によれば、主イエスを裏切ったユダは、その後、自分がしたことに後悔して自ら命を絶ってしまうのです。ユダは、主イエスによって示された愛の下から離れることによって、死の力の中に捉えられて行ったのです。
ヨハネによる福音書は、闇と光を対照させつつ、繰り返し、闇ではなく、光の中を歩むようにと語って来ました。8章の12節で、主イエスは「わたしは世の光りである。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とお語りになっています。光の中を歩むとは、主イエスの下に留まって歩むことです。主イエスの下を離れ、サタンの下で、自分の思いに従って歩もうとする時、真の光の下を離れて闇の中へと歩み出すのです。
ユダは、主イエスを裏切り、闇の中に歩み出しました。しかし、この「裏切る」と言う言葉は「引き渡す」と言う意味の言葉であることに注目したいと思います。つまり、ユダが、主イエスの愛を受け取らずに、主イエスの下を去った時、主イエスを十字架に「引き渡す」者となったのです。人間が、神の愛から離れ、したいと思うことをする時、その結果として、主イエスを十字架に引き渡すと言うことが起こったのです。この事実は、罪に支配された人間にとって、大きな恵となることです。罪の中で、主の愛から離れて行く時、サタンの力が世を覆い人間がその力に捉えられて行きます。しかし、その中で、主イエスは十字架につけられます。その十字架こそが、人間を罪から救う救いの出来事なのです。つまり、人間の裏切りという罪の現実を通して、その中で主イエスが十字架につくことを通して、真の闇の力と戦って下さったのです。そこで主イエスは人間の罪のために、ご自身を差し出して下さり、更に、十字架の死を克服し復活なさることによって、罪と死の力に勝利して下さっているのです。 ヨハネによる福音書は、その1章5節で「光りは暗闇の中で輝いている」と記しました。世に来た、光である主イエスは闇の中でこそ輝いているのです。そのような意味で、主なる神は、人間の罪、闇の力をも用いつつ、真の救いを成し遂げて下さっているのです。神の愛が示されれば示される程、そこから離れていってしまうのが、罪に支配されている人間の現実です。しかし、そこで、主イエスから離れていく者の裏切りを通して、人間の救いが成し遂げられているのです。その恵を知らされる中で、私たちは、真の光の下に留まる者とされるのです。

主イエスの愛弟子
 ここで、ユダと対象的な位置にいる弟子について目を留めたいと思います。それは、23節で「弟子の一人で、イエスの愛しておられた者」と言われている弟子のことです。この弟子は、ヨハネによる福音書だけに描かれる弟子で、「イエスの愛弟子」と言われています。ヨハネによる福音書は、最後の晩餐から、この弟子について言及します。ここではっきりすることは、この時、この愛弟子が主イエスに最も近い所にいたと言うことです。この弟子は、ペトロに合図をされて、「イエスの胸もとに寄りかかったまま」、主イエスに質問しました。「胸もとに寄りかかったまま」と言うのは面白い表現です。何と大胆なことをするのか、とても恐れ多くてそんなことは出来ないと思うかもしれません。当時は、横になって寝そべるようにして、食卓を囲んだと言われています。この弟子は、主イエスのすぐ脇にいたのでしょう。ヨハネ以外の福音書において、主イエスの最も傍にいた弟子はペトロです。しかし、ヨハネにおいては、この愛弟子が、ペトロよりも主イエスの傍にいるのです。この後も、ずっと主イエスの傍を歩みます。主イエスが大祭司の下に連れて行かれる時、この弟子の手引きでペトロは中庭に入ったのです。又、主イエスが十字架につけられる時、主イエスの弟子たちは皆逃げ去ってしまいました。ユダのように直接裏切ることはなくても、主イエスの下から離れてしまったのです。十字架の下には婦人たちだけが残ったことが記されています。しかし、ヨハネにおいては、婦人たちと、この弟子が十字架の下に留まったことを記します。更に、この弟子は、主イエスがいなくなった空の墓にも、真っ先に駆けつけるのです。ヨハネは、主イエスの愛に応え、主イエスの御旨に抱かれつつ歩む、本来の主イエスの弟子の姿を、主イエスを裏切り、闇の中に歩んでいくユダの姿と対照させて描いているのです。ユダだけではありません。主イエスの下を逃げ去ってしまう弟子たち、更には、罪の中にある、私たち、すべての人間とも対照させていると言って良いのです。そして、まさに、この弟子のように歩むことこそ、自らを捧げて下さる主イエスに大胆に信頼仕切って、その愛の中に留まることこそ主が求めておられることなのです。

主イエスの下に留まる
 世を歩む中で、私たちは、神の愛と、世の闇との間に立たされています。そこで、私たちは一人のユダとして、主イエスを裏切ってしまう者です。常に、サタンの力に翻弄され、神様の愛を受けとめることなく、自分の道を歩み出してしまうことがあります。それが闇の中へ踏み出すことであるとは気づかずに、真の光を見失ってしまうのです。しかし、そのような私たちの闇の中で、真の光が示されているのです。私たちの裏切りを通して、その裏切りの中で、真の光である主イエスが輝いて下さっているのです。私たちは、世の力との戦いの中で、本当に、罪の戦いを戦って下さり勝利して、確かに、自分が裏切る一人の弟子であることを示されつつ、そのような私たちをとらえる闇の力に主イエスが勝利して下さっていることに信頼して、主イエスの十字架の下で、自らを悔い改めて、主イエスの下に留まる者でありたいと思います。そのようにする時に、主イエスの愛弟子がそうであったように、主イエスの御胸に抱かれつつ、光の中を歩むものとされるのです。

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