夕礼拝

聖霊が降る前

「聖霊が降る前」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:創世記第28章10-16節
・ 新約聖書:使徒言行録第1章3-11節
・ 讃美歌:355、343

 本日はイエス様がご復活なさったことを祝うイースターから50日目のペンテコステ、聖霊降臨の日です。5月14日の木曜日は、イエス様が御復活なさいましてから40日目、イエス様が昇天をなさった日でありました。今夕は、その昇天のことが書いてあります使徒言行録の1章のところを共に聞きました。1章6節から11節のところに三つのことが語られています。一つは、イエス様が昇天をなさったということです。もう一つは、そのイエス様が再びおいでになる、いわゆる再臨のことが言われています。そしてもう一つは、その間クリスチャンは、どういうふうにして生きていくのか、そういう三つのことがここに書かれていました。  

 信仰生活というものは、神様の恵みの御業から始まります。旧約聖書を見ましても、神様がイスラエルの人たちをエジプトから解放して、約束の地カナンへ連れて行ってくださった、出エジプトの出来事、これは神様の救いの御業であります。これがイスラエル信仰の出発点であります。そして、その神様の恵みの御業によって始まった信仰生活が、目指していく到達点は何かというと、神様の約束の成就であります。神様は恵みの御業をなさった時に、もうそれですべてお終いということではなくて、その恵みの御業の完成を約束してくださいます。その完成の時を目指して、わたしたちは信仰生活を続けていきます。たとえばイスラエルの人々が、エジプトを出たということは、神様の大きな恵みの御業ですが、それと同時に、乳と蜜の流れるカナンの国へ入る、そういう未来に成就する約束が、与えられておりました。そしてその約束が実現するまでに、40年彼らは荒野の旅を続けなければなりませんでした。その旅の間、彼らをいつも支えていたものは何かと言うと、神様がわたしたちをエジプトから解放してくださったという、あの始まりの出来事と、そして神様はわたしたちを乳と蜜の流れるカナンの国へ入れてくださるという、あの約束の成就、この二つの間にはさまれて、彼らは荒野の苦しい生活を耐えたのです。この出エジプトの出来事は一つの形でありますが、これに限らず、信仰生活というものはいつでもそういう形を持っています。旧約聖書全体を大きく見ますと、出エジプトによってカナンに国を建てたイスラエルの人たちは、やがて救い主が与えられて、本当の幸いがくる、救いの成就がくるという、そういう約束が与えられて、その実現を長く待ち望んできた、それが旧約聖書の歴史であります。  

 彼らは千年以上の間、その約束を待ち続けてきたのです。救い主の到来という約束の成就は、主イエス・キリストの誕生ということで実現いたしました。わたしたちがクリスマスをお祝いするのは、そういう意味です。長い間、待ち続けてきた神様の約束が成就した、そういうことでイエス様の誕生をお祝いするのです。ところが、イエス様が来られてどうかというと、もう待つ必要がないのかというと、そうではありません。確かに旧約に約束された通り、神様は救い主キリストを送って、十字架と復活という救いの御業をなさってくださいました。弟子たちは、今こそ完全な救いの成就の時かと思ったのです。6節を見ますと「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と聞いています。「もうわたしたちは待つ必要ないのでしょうか。もうすでに完成の時は来たんでしょうか。」そう言って聞いています。しかし、イエス様はそこで弟子たちを残して、父なる神様のもとへ帰っていかれました、いわゆる昇天であります。そして、その天に昇って行かれるイエス様を見上げておりました弟子たちに、神様の御使いが、こういうことを言っております。11節のところですが「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」これが、キリストの再臨の約束です。昇って行かれたイエス様が、再び帰って来られる、その時こそ救いの完成の時であります。黙示録の21章に書かれてある、あの輝かしい救いの実現、それがキリストの再臨の時であります。ここを見ましても、先程申しましたように最初に神様の救いの御業があって、そしてそこから始まった信仰生活が目指していくところは、神様の約束の成就であるということが、ここでも言えるのです。形は旧約の時と同じです。救い主イエス・キリストが来られて、わたしたちの罪の贖いのために十字架にかかり、甦って天に昇られた、これは大きな神様の救いの御業であります。弟子たちは、まさにそのことを見てきたのです。しかし、同時に、イエス様の十字架と復活、昇天によって成し遂げられた人間の救いが、本当の姿を現してくるのは、今の時ではない。それは、先にある。イエス様が再びおいでになる時、完全に明らかになる、そういうことがここで言われています。ですから、ここでも神様の恵みの御業があって、そして救いの約束が与えられて、その成就を目指して信仰生活を続けて行く、そういうかたちがここにあります。今日共に聞きました使徒言行録1章6節から11節のところに、それが語られているのです。  

 そしてその昇天と再臨の間に、わたしたちが存在しております。わたしたちは教会という形、群れで存在しています。教会の役目、それは昇天と再臨の間を、イエス様のことを証しながら生き続けていく、それが教会の役目、わたしたちの役目です。「今、救いが完成するのですか」という弟子たちの質問に対して、7節、8節のところでイエス様が答えておられる言葉があります。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」これがイエス様の約束です。イエス様が再びおいでになる時に、一切が新たにされて救いが完成するという約束と同時に、その再臨までの間、あなたがたは自分の力で、自分の考えで生きていくのではなくて、聖霊に導かれてキリストの証人として生きていくのだ、そういうことがここで言われています。これが教会の役目であります。キリストを証するということは、一番単純に考えますと、自分たちが見たイエス様の姿、イエス様がなさったこと、あるいはイエス様の言われたこと、そういうことを記憶して、それを皆に話をする。これが一番単純な意味でキリストの証人ということです。この話しに出てくる弟子たちは、皆親しくイエス様と共に生活した人々でありますから、イエス様がどういう生活をなさったか、どういうことを言われ、どういうことをなさったかということを、目で見て経験をして覚えております。そういう特別な機会を与えられた人というのは、限られています。ですから彼らはその事実について、証言をしなければならない。「こういうことがありました、イエス様はこう言われました」弟子たちが言わなければ誰も知りえないんです。わたしたちが今、イエス様のことをいろいろ知っていて、イエス様の言葉を覚えているということは、ここに集っていた弟子たちが証言をしてくれたから、知っているわけです。彼らがいなかったら、イエス様がどういう御方か全然分かりませんでした。そういう意味で彼らは、キリストの証人でありました。  

 しかし見たり聞いたりしたから証人になれるか、証言ができるかというと、必ずしもそうではありません。人は、利害関係とか恐怖心とか、そういうものに縛られています。そのような関係の中では、本当のことを言わなかったり、言うべきことを言わないで黙っていたり、ということがあります。国会の議場で、ある政治家が証言を求められても、「覚えておりません」だったり、「記憶にございません」といっていたりします。あれは自己保身のためですが、本当は自己弁護するために言わなければいけないこと、また誰かを助けるために言わなければいけないことがあっても、伝える相手が怖くて、社会が怖くて、しゃべることができなくなることはあります。わたしも小学生の時、夕飯前にあまりにお腹が空き過ぎて、こっそりお菓子の入っている棚を開け、隠れて食べたことがありました。そのお菓子を食べた容疑が、まっさきにわたしに向けられたのですが、わたしは否定しました。そうするとその容疑は弟に向けられました。もちろん、弟は「食べてない」といいました。本来ならここでわたしが自白して、「お菓子を食べました」といって、弟に対する嫌疑を晴らすべきなのですが、怒られるのが怖くて、黙っていました。最終的には、おやつをたべて夕飯が少ししか食べられなかったので、わたしが食べたということがバレてしまいました。オチはいいとして、このように、人は伝えられなくなることがあるのです。人は見たり聞いたり経験したりしたからといって、必ずその通り言うかというと、そうではありません。弟子たちだって、確かに見たり聞いたりしましたから、その通り言おうと思えば言えるわけです。けれどもこのイエス様の約束が「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という約束が実現するまでは、彼らが見たこと聞いたことを、言えなかったのです。勇気がでず、恐怖心があったのです。  

 それは、たとえばヨハネによる福音書の終わりの方を見ますと、弟子たちがどんな様子をいたかということが書いてあります。彼らは、彼らは家の戸の鍵をかけて閉じこもっていたんです。あまり人目につかないように。それでは証言も何もできません。ところが、今度は使徒言行録の2章を見ますと、弟子たちの様子がまるで変わっています。今までは人に見つからないように、戸を閉めて隠れていた弟子たちが、公然と公の場に出てきて証言をしています。何千という人が集まったその前で「あなたがたがは律法をしらない者たちの手を借りて、イエス様を十字架につけて殺した。神様はこのイエス様を死の苦しみから解き放って、甦らせたのである」大きな声で説教しています。こんなことをすれば、権力を持っている人のやったことを、正面から非難するわけですから、どんな目に会うか分からない。捕らえられて、牢に入れられ、殺されるかもしれない。今までの弟子たちでしたら、そういう恐怖心があって、見たこと聞いたことを、言わなかった、いや言えなかった。しかし今、それを恐れること無く公言をしています。証しして歩む旅路で、彼らは何度か捕えられたりします。「お前らは、とんでもないことを語っている」というので捕らわれました。そして「二度とこんなことを言うな、また言ったら命も危ないぞ」と脅かされたりもしました。その時彼らは「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」そう言っています。  

 ここからも、見聞きした、事実を単に知っているということと、それをはっきりと証言をするということとは、また別のことだということがわかります。そういう証言をすることができる。本当のことを言うことができる力が与えられる、それは人間の頑張りとか、腹をくくった人間とかいうことではなくて、聖霊があなたがたに臨むからだと、イエス様は言われています。聖霊というのは神様御自身であります。天の御使いでもなければ、得体の知れないもやもやっとしたものではなくて、神様御自身が人間の中に臨んでくださって、そして人間の中で神様御自身が働きをなさる。それが聖霊の働きであります。  

 イエス様は昇天をなさいました。昇天をするということは、もう目に見えなくなる、交わることができなくなる、直接イエス様がここにおられるということを確かめることができません。弟子たちが「どうしたらいいんでしょう」と言っても今までのようにイエス様が答えてくれるわけではない。そういう今までのイエス様と弟子たちとの交わりはここで終わった。そして、弟子たちはこの地上に残されました。ある意味から言えば、大変心細い状態です。しかし「あなたがたは恐れることはない、わたしが一緒にいる。目に見えないけれども一緒にいる」。それが聖霊があなたがたに臨むという約束の内実です。ヨハネによる福音書14章18節以下を見ますと、イエス様はこういうことを言われています。これはまだ十字架におかかりになる前ですけれど「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。?しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」そういうことを言われました。「世はわたしを見ない」というのは、もう昇天をしてしまったのですから、人間の目、人間の能力ではイエス様を知ることはできない、けれども「あなたがたはわたしを見る」信仰を通してイエス様はわたしたちに、その御臨在を現してくださる、そういう約束です。これが「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」というイエス様の御言葉の意味です。  

 そしてイエス様を証しするということは、今までに申しましたように一番単純な意味では、イエス様の言われたこと、なさったことを、見聞きし経験したことを、口に出して言うことですけど、それだけではありません。そのイエス様が言われたこと、なさったことの本当の意味は何であるか。これは人に言う、言わないにかかわらず、弟子たちがイエス様と一緒にいた時には、よく分からないことでした。イエス様はなぜこういうことを言われるのか、どうしてそういうことをなさるのか、その本当の意味がなかなか分からなかった。ですからイエス様は最後の晩餐の席で弟子たちに「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。?しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」と、こう言われました。見たり聞いたりしているというそのイエス様の言動を覚えているというだけでなくて、その言葉や示されたことがどういう意味を持っているかということを、聖霊がわたしたちに教えてくださり、悟らせてくださる。そのことについて大変深い教えを語っているパウロが書いた手紙には、イエス様の十字架というものがどういう意味であったか、復活がどういう意味であったかということが事細かに説明され、証しされています。これは、パウロが考えだしたというのではなく、聖霊に導かれて彼が聖霊に教えられたことです。聖書は、どの書も、聖霊に導かれて書かれています。  

 そしてもう一つのことは、直接イエス様がこういうことを言われたのはこういう意味だ、十字架はこういう意味だ。そういう根本的な教えとともに、わたしたちが日常生活の中で出会う、いろんな出来事、たとえば人から悪口を言われる、誤解されるとか、迫害されるとか、この時の弟子たちもこれからそういうものにぶつかりながら生きていくわけですけれども、そういう時に、その一つ一つが福音に立ってどう受け取られていくか。信仰者が長く聖書を読んで、言わばキリスト教の教えの内容というものを、おおよそ知って、「基本的なことはわかっている、重要な事は一おさえている」、そうであれば生きていくのに迷いはないかと言うと、そんなことはありません、毎日毎日迷っている。不安になったり、どうしたらいいかなあと困ったり、その時に「それはこう言われてるじゃないか」と、聖書の言葉、さらにはそれが語られる説教とわたしの現在の問題とピタッと結びつけられて、神様の恵みと神様の御心を知ることが起きます。そのように知らせて下さり、理解するために目と心を開いてくださる方がおります。それが聖霊なる神様です。それが聖霊なる神様の働きです。それも神様の御業なのです。  

 今日共に聞きました創世記の28章には、ヤコブが荒野で野宿をしていて神様の御言葉を聞いたという話があります。あの時に、ヤコブは自分がこれから本当にどうなるか分からないような時、流浪の旅を始める時、たった一人で野宿をしてそこでのたれ死にするかもしれないような、そのような状況の中にいる。彼は不安と苦しみのただ中にありました。ところが、そこに神様がおられる「わたしはどんなことがあってもあなたを捨てない」と言われる神様の御言葉を聞いた。彼はそこで「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」という告白をしています。わたしたちは自分の置かれている現実の、深い問題の中で、神様を見失っています。「主が共におられる」ということを、そのことの本当の意味を見失っています。そしてハッと気が付くと「まことに主がこの場所におられる」そのことに目を開かれることが、信仰に生きている証拠です。そういうふうに、天へ昇ってしまって、もうキリストはどこか遠くへ行ってしまわれたと思っているわたしたちに向かって「そうではない。主はここにおられる、あなたと共におられる」ということを知らせてくれる、それが聖霊なる神様の働きであります。  

 キリストの証人というのは「ほら、キリストはそこにおられるじゃないか」と言って、証をしてくれる。そういう働きをこの世に向かってしていくもの、つまり教会です。教会は福音を宣べ伝えることによって、神様から見捨てられていると思っている人に「そうではない。主があなたと共におられるのだ」そういうことを知らせていく、そういう役目を負っている。そして「キリストの再臨の日まで、教会は存在し続けてゆく、そういう役目をあなたがたは負っているのだ」ということをイエス様は昇天にする前に言われました。わたしたちは、その時からずいぶん、時が経っています。2000年も経っています。けれども、イエス様が教会に負わせられたこの役目は、ずうっと続いています。そしてわたしは口下手だから、そんなしり込みをすることが多いのですけれども、そうではない。わたしたち自身が、この信仰に生きていく、それが証であります。そうすることによって、わたしたちは「主が共にいてくださる」ということを、証し続けているのです。どうかわたしたちの教会も、そのようにして日毎に見えざる主を証する群れ、教会でありたいと思います。

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