夕礼拝

福音は全世界に

「福音は全世界に」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第8章5-22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第24章1―14節  
・ 讃美歌:12、580

小黙示録
 本日は、ご一緒にマタイによる福音書第24章の最初の部分の1節から14節の御言葉をお聞きしたいと思います。この第24章には独特な記事が集まっています。24章は、福音書の中に必ず出てまいります、福音書の中の黙示録、あるいは黙示文学と呼ばれている箇所です。一般的にこの部分は「小黙示録」と呼ばれています。新約聖書の最後のところにヨハネによる黙示録がありますが、いわばその小型のものがこの箇所というわけです。「黙示」というのは、「秘密を明かす」「隠れたものが、あらわになる」ということを意味します。秘密は、誰にでも不用に明らかにするものではなく、信頼の置ける人にだけ明らかにしておくものです。黙示とは、そのように信頼できるグループの中で秘密の壷を開けてみせるというような意味を持っています。ここでは、どんな秘密かと言いますと、「世の終わり」の秘密です。また、黙示は「隠されたものが、あらわになる」という意味と申しましたが、その時になるまで隠されている秘密があらわになるとは、終末、世の終わりが明らかになるということです。終末、その秘密をあらわに、明らかにするものが「黙示」なのです。このマタイによる福音書第24章が小黙示録といわれるのは、そのような意味で、この箇所が主イエスの口を通して、私たちに隠された世の終わり、終末の出来事をあらわにする箇所であるからなのです。ヨハネの黙示録は、それを大変長く語っております。世の終わりは一体どうなるのか。戦争が起こり、地震が起こる。われわれが殺される。一体、こういうことは何を意味するのだろうか。昔の人間が、このような、私たち現代人の合理的な立場からすると、まさかこんなことと思うような荒唐無稽な物語を作っただけであって、今はそのまま通用するわけにはいかないのではないか、と思われると思います。

神殿を見てください
 もともと、なぜ主イエスがこのような、世の終わりについてお語りになったのでしょうか。そのきっかけは1節「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。」とあります。この「指さした」とは口語訳聖書では「注意を促した」となっていますが、この言葉は「ちょっと見てください」というくらいの意味の言葉です。けれども、ここでは、神殿を指さして「見てください」と言うのですから、小さなものではなく、とても大きなものを指し示しています。その大きな宮の建物をもう一度、よく見てくださいと弟子たちは主イエスに促しているのです。弟子たちはどうして、このようなことをいったのか、と言いますと第23章の終わりに記されている主イエスの御言葉が弟子たちの心を捕らえていたからです。38節に「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」とあります。この「お前たちの家」とは、当時のユダヤの人々の自分の持ち家というのではなくて、神殿を意味していました。あなたがたが自分たちの家はここにある、自分たちの魂の寄るべきところはここにあると思っていた家、それは神様の家、その神様の家が見捨てられてしまう、というのです。
 神殿は神がおられるから、神殿としての存在価値があります。神がおられない宮などというのはどういうことでしょうか。1節の「宮から出て行こうとして」というこの1節が示しているように、主イエスは神殿の中で語られたのです。この神殿はエルサレム神殿で、昔ソロモン王によって建てられ、これを第一神殿とも言いますが、王国が南と北に分裂して、それぞれがバビロニアやアッシリアによって滅ぼされ、やっとの思いでペルシアの時代に帰ってきた民の努力によって再建されました。そして、この再建された建物は第二神殿ともいわれる神殿で、廃墟の中からイスラエルの民が、自分の家を再建するよりもまず神の家を再建しなければといって、努力を傾けたものでした。その規模はかつての第一神殿とは比べ物にならないほどのものでした。この第二神殿を壮大な建築物として完成したのはヘロデ大王でした。40年以上の年月をかけたこのヘロデの神殿が、本日の箇所に登場する神殿のことです。 ヨセフスという人の「ユダヤ戦記」という書物によりますと、このヘロデの神殿に用いられた大理石は長さが45キュピト(約20メートル)、高さが5キュピト(約2.2メートル)、幅6キュピト(2.6メートル)にも及ぶものがあったそうです。円柱と美しい門で囲まれたこの神殿の大理石の美しさは数キロ離れたところからもよく見えたといわれ、この神殿を見て感心しない人はいませんでした。素晴しい建物であったのです。けれども、聖書にはそのような壮麗な神殿建築に対する主イエスのきっぱりとした御言葉でした。主イエスは「はっきり言っておく。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言われました。主イエスは実にはっきりと言われました。本日の箇所は、マルコによる福音書、ルカによる福音書にも同じ内容の箇所が記されております。この3つの福音書はすべて、この主イエスのお言葉を大切な御言葉として私たちに伝えております。今日の私たちはこの御言葉が紀元70年には文字通り実現して、エルサレムの神殿が今に至るまで廃墟となり、わずかに嘆きの壁だけを残しております。人々はこのような壮麗な神殿が、何時の日にか崩れるなどということは年頭に置いていなかったでしょう。永遠の神が住んでおられる宮は、神様と同じくらい堅固なものだと信じられ、ここにこそ自分たちの魂があると思っていました。その宮の中で主イエスは「この宮の建物は神に見捨てられる」と言われたのです。

世の終わり
 弟子たちは、いったいそれはどういうことですか、この建物が滅びるということですか、この建物が崩れるということですか、と主イエスに問うのです。主イエスのお言葉は「1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」というものでした。石の上に石が載っているということはなくなる、ということです。全部崩されてしまうということは、弟子たちにとっては信じることができないほどの驚くべきことでした。主イエスはそのようなことをおっしゃったのです。そして、事実として、紀元70年に、ローマ軍の手で徹底的に、この都は、そして神殿は破滅させられるのであります。人間の造ったものは、どのような素晴しい壮大なものであっても、それは廃墟と化す時があることを厳粛に思わされます。人間の全力を注ぎ込んで来たものが、神に見捨てられる時に、このような惨めな姿になるのです。この時弟子たちの中に、ただ主イエスの言葉は信じられないという思いがあったでしょう。そして、一方で明らかにこの崩壊を予感する不安が忍び込んでいたに違いないと思います。この部分は黙示、つまり、私たちの目には隠された終末、世の終わりの姿をベールをはがすようにして示している箇所です。どのような壮大な人間の業も、終わりの日には到来には耐ええないのです。弟子たちの不安、予感とは、神殿の崩壊というものがもしあれば、それは世界の崩壊でしかないというものです。
 ですので、主イエスがオリーブ山で座っておられると、もう一度問います。3節です。「おしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。」オリーブ山はこれから、まもなく主イエスがこの山の麓において、血の汗を流す祈りをなさらなければならなくなった山です。多くのユダヤ人たちはこの山にわれわれの救い主が現れると信じていた山です。このオリーブ山で座った時、オリーブ山に向かい合って、壮麗な神殿が見えるのです。そのオリーブ山に座って、壮麗な神殿を見ながら、もう一度問います。しかし、「ひそかに」問うたのです。ここでは、実に重大な秘密を証ししていただかなければならないという思いがあったからです。弟子たちは「おしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」あきらかに、ここ弟子たちは、神殿が崩壊するということはこの世の終わりだという思いを抱かずにおれなかったのです。少なくとも神殿が崩れるようであるならば、この世は確かなものではないということを、やはり認めざるを得ないのではないか。崩れたらどうするかということであります。しかし、弟子たちはただそこで、「世の終わり」についてだけ尋ねるということはしませんでした。


 ここで「また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」と問います。23章の最後の主イエスのお言葉は、「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」つまり、神殿が捨てられるということだけを語られたのではなかったのです。39節にありますように「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」と主イエスは言われました。つまり、これは主イエスご自身が「もう一度来る」と言われたということです。既に主イエスはエルサレムへ入城されました。エルサレムへお入りになった時に、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って人々は歓呼の声を挙げました。それをも一度、人々がわたしに対して言う時が来る。それを弟子たちは忘れることができなかったのです。主イエスは、神殿が神様に捨てられるとおっしゃりながら、「もう一度来る」と言われます。主イエスが「来る」とおっしゃるのです。その時、それは、いったいどのような前兆をもたらしながら来るのでしょう。少し細かいことになりますが、この3節の原文は「あなたがまた」というのではありません。この「あなたがまたおいでになる」という言葉が示す事柄は、「主の再臨」と申します。教会の信仰は、この主イエスが再び来られることを確信する「再臨の信仰」です。この原文は、「再び来る」とは言わず、ただ単純に「あなたが来る」というのです。全く新しく来られるということです。この主イエス・キリストが「来られること」を、同時に弟子たちは「世の終わり」と申しました。ここに「世の終わり」と訳している言葉は「完成」という意味を持っています。弟子たちは崩れの予感を覚えつつ、主イエスに対して、あなたが来られ、この世が完成されるのは、いったい徴の下で起こるのか、と尋ねています。「世の終わり」は崩れることではなく、破滅ではなく、完成なのです。それが私たちの将来への望み、希望であります。世の終わりは、世が全うされる、完成されるということで、そのために主イエスは来て下さるのです。

産みの苦しみ
 しかもそれに対して、主イエスはこうおっしゃいました。まず、第一に「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」世の終わりについてあなたがた間違った考え方に誘われる、誘惑される、どのような点で間違いを犯し、誘惑されやすいのか。6節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」戦争に続く、戦争の噂を聞くと、もう終わりだと思う。現代において大きな戦争が始まったら、一体何人の人が生きていられるか分からないようなことになります。7節には「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」とあります。この御言葉によって、私たちは心配させ、不安になります。それが私たちの姿です。その時に主イエスは「惑わされるな」と言われます。それは終わりではない、そこで終わったということにはならないからです。主イエスは言われます。「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」主イエスがもう一度来られ、その救いが完成する世の終わりの徴として、先ほどから見ているような様々な苦難が起ると言われています。崩壊と滅びとかいえないような苦しみ、悲惨なことがこの世に、この社会に、そして私たちの人生にも起ってくるのです。9節には「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される」とあります。苦しみを受けるだけではない、実際に、殺されてしまう、命を奪われてしまうということも起るのです。その「あなたがた」とは弟子たちのことを指しています。主イエスを信じ、主イエスに従っている信仰者のことです。神様を信じている者であっても、これらの苦しみと無縁ではないし、その中で殺されてしまうことだって起るのです。9節の後半には、「また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」とあります。主イエスの名のために、つまり主イエスを信じているという信仰のゆえに、憎まれ、迫害を受けるのです。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」。(10節)信仰者どうし、それは教会の兄弟姉妹どうしの間に起ることです。苦しみの中で、多くの者がつまずいていく、つまり信仰を捨ててしまう人が出るのです。また、教会の中にも、互いに裏切り、憎み合うという、罪が犯されていくのです。それらのことが、世の終わりの、即ち主イエス・キリストの再臨の、前兆だと言われています。けれども主イエスは「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われました。これらの苦しみが世の終わりの、主イエスの再臨の、即ち私たちの救いの完成の前兆だということの意味は、その苦しみが「産みの苦しみ」だということです。産みの苦しみとは、意味のない苦しみではない、将来に希望と喜びの約束されている苦しみです。つまり私たちが受ける様々な、そして半端でない、深い苦しみは、それが世の終わりの前兆、主イエスの再臨の徴として受け止められる時、無意味な、私たちを滅ぼしていく苦しみではなくなり、意味のある、希望のある、産みの苦しみとなるのです。たとえ私たちがその苦しみの中で殺されてしまうことがあっても、私たちの救い主、復活された主イエスがもう一度来られ、この世が終わるその時に、私たちは、新しい、復活の体を与えられて、主イエスの恵みのご支配の下に永遠に生きる者とされるのです。世の終わりに備えるとは、このことを覚えて、この世の全ての苦しみが「産みの苦しみ」であることを信じて生きることです。それゆえに13節では「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われているのです。様々な苦しみや悲しみ、営々と築き上げてきたものが音をたてて崩壊していくような、命さえも奪い取られていくような、そういう苦しみが私たちを襲います。私たちは、主イエス・キリストにおける神様の救いの御業を信じ続け、その主イエスの恵みのご支配が終わりの日に完成し、顕わになることを忍耐して待ち望み続けることを信じます。それが私たちの信仰なのです。そしてその忍耐が可能になるのは、キリストの再臨によるこの世の終わりを信じ、この世の苦しみがそこへ向けての産みの苦しみであると信じる信仰においてなのです。

主イエスの再臨
 このように見てくると、主イエスがここで語っておられる、世の終わりのしるし、世の終わりが来る前にこのようなことが起るということはことごとく、今の私たちの社会に当てはまっていると思います。「主イエスが来られてこの世が終わる」、本当の世の終わり、終わりの終わりです。この世は、戦争や災害その他の破局、崩壊によって終わるのではありません。主イエス・キリストがもう一度来られる、そのことによって終わるのです。そして主イエス・キリストがもう一度来られるとは、私たちの救い主が来られるということです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して天に昇られた、その主イエスが、神の子、救い主としての栄光と力をもってもう一度来られ、その恵みのご支配が完成するのです。その時私たちの救いが完成するのです。そのことによってこの世は終わるのです。この世の終わりは、破局、崩壊ではなくて、神様の独り子、イエス・キリストによる救いの完成であり、その主イエスのご支配の完成なのです。だから、世の終わりに備えるとは、破局、滅びに備えることではなくて、この救いの完成、神様のご支配の完成に備えること、つまり、それを待ち望むことなのです。そのことを主イエスはここで語っておられるのです。
 人間の業、この地上のものはエルサレム神殿と同じく、崩壊していくもの、滅び去っていくものです。私たちたちが本当に依り頼むに足る、滅びてしまわない、この世の全てが滅び去ってもなくなってしまわないものとは、主イエス・キリストへの望み、希望です。主イエス・キリストが、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死なれ、復活して、父なる神様の下で生きる新しい命の初穂となって下さったことこそが私たちの希望です。
 私たちの地上の歩みは、苦しみに満ちた、破局へと向う怒涛のような力に翻弄されているように見えるものでしょう。私たちに示されていることは、この世界において、耐え忍びつつ、主イエス・キリストによる御国の福音を指し示し続けるのです。

福音は全世界へ
 私たち一人ひとりを通して、主イエス・キリストの御国の福音は、あらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられていきます。神様は私たちを、その働きの一端を担う者として、この世に遣わして下さっています。主イエス・キリストにこそ、本当の希望があります。この福音こそ、たとえこの世の全てのものが崩れ去っていってもなお失われないまことの希望の源なのです。私たちはこのことを指し示し続けていくならば、私たちは苦しみに満ちた社会、破局と崩壊と全てを押し流していこうとする力を押し止める力となります。神様は私たちにそのような働きを期待しておられるのです。そのようにして御国の福音が全世界に宣べ伝えられる、そして、それから、終わりが来るのです。それは、神様が、御国の福音が全世界に宣べ伝えられる、伝道の業を待っていて下さり、それまで、この世界が終わることを先延ばしにして下さっていると言ってもよいでしょう。この世界がこうして存続しているのは、全ての者たちを御国の福音にあずからせて下さろうとしておられる神様の愛によることです。そのために私たちは立てられています。だから、私たちは忍耐して福音を証しし続けるのです。神様は私たちの歩みを辛抱強く、忍耐強く待って下さいます。その愛に支えられ、私たちの歩み、教会の歩みを私たちの救い主イエス・キリストがもう一度来て下さるという救いの完成への希望を持って歩みたいと思います。

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